8年前、はてなランドを開いた時、
実験の余った時間に、子どもたちに
宿題をすることを奨めたことがあります。
学校から渡された、漢字ドリルや、計算ドリルが、ランドセルにあったからです。
ところが、ある子どもたちは、さっぱりやろうとしない。
なぜ、しないのか?
ドリルが嫌いなのか、聞くと
「なぜ、わかっていることを、何度もしなくちゃいけないのか?」
って、逆に聞くんですね。
私は、練習することの大切さ、
スポーツと同じで、素振りを繰り返すことの大切さを話しました。
しかし、なかなか納得してもらえません。
「電卓を使えばいいじゃないか、」
「ワープロを使えばいいじゃないか、」
と言うんです。
その時は、嘆いただけだったのですが、
今、どんぐり倶楽部さんの考え方などで、
私の視野が広まった後から、考えますと
彼らは、相当鋭いところを突いていたと思います。
ドリルをやる弊害自体がまずありますが、
それを置いといても、
子どもたちが、無味乾燥な繰り返しの努力に
意義を認めなくなってきたということです。
いや、昔から、心の底では思っていたんだろうけど、
「常識」が抑えていた。
または、空気が怖くて、口に出せなかった。
しかし、周りの大人たちの生活を見て、
連立方程式を解いたり、
辞書をマメに引いて、手紙を書いているモデルが見えない。
お母さんたちは、すぐ電卓やワープロを使っちゃう。
僕たちのやらせられてることは、
あまり意義のあることじゃないんじゃないか、って直感するんじゃないでしょうか?
一生懸命に繰り返すことの大切さを強調するだけでは、
子どもを引っ張られなくなったのです。
教育の主役は、子どもです。
教育内容は、大人が提案するわけですが、
それを子どもが納得しなければ、やっぱり成り立たないのです。
当の子どもたちは、深い哲学的な考えはなく言ってるんだろうけど、
実は、日本の教育の歴史が変わる象徴だったりして・・・・・・。
これからの教育は、子どもや親が、本音で納得しないものは
成り立たなくなっていくんだ。
これは、素晴らしいことじゃないでしょうか?
今までは、お上である文科省が、
こういう学力が必要で、こういう学習方法をすれば良い、と
下々に代わりに考えてくれていたのですが、
それに異を唱えだして、自分で考え出した。
これは、すごいことです。
まだまだ、受験のための動機が、圧倒的に幅を利かせていますが、
それもずいぶん崩れています。
「勉強する気がない」と言えるのも、
こりゃ、すごいことです。
お仕着せの動機をぬぎすててはじめて、
ボクの、私の、本当の学習動機が見つかるからです。
これからの先生は、
きれいごとではなく、
ズバリ直球で勝負しなけりゃ、浮いてしまう運命なんでしょう。
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