「教師は愛せない」
学校は、人生の大切なポイントです。
学校をないがしろにして、良い大人にはなれない!
そして、教師は、子どもを愛する聖職だ!
と、言われています。
本当でしょうか?
教師や学校は、子どもを愛することになっています。
確かに、一生懸命そう努力しています。
しかし、実は、主要任務は別にあるわけです。
国や社会から、
「こういう子どもに育てるように」
という使命をいただいて、お金をいただいているわけです。
もし、一人一人の生徒に「真剣に」向き合っていたら、
とても使命は達成されません。
それこそ、職務怠慢になってしまいます。
私、個人も、私塾として、親御さんから
一定の期待の裏付けとして、月謝をいただいています。
ある子にどうしても、学習成果が表れないとします。
私の力不足です。
誠実な教師なら、親御さんに、うちで学ぶことをやめた方が良いと
言わなければなりません。
それが、いかに、その子の精神に打撃であろうと、
成績アップのために、貴重なお金をいただいているのですから。
ヘレンケラーとサリバン先生のことを考えてみましょう。
もちろん、サリバン先生は、並々ならぬ愛情を注ぎました。
深い愛情なくしてあのような成果はあり得ません。
しかし、もし、不幸にもあのままヘレンに成果が表れなかったら
どうなったでしょうか?
サリバン先生は去らなければならないのです。
ヘレンは、愛を失ってしまうのでしょうか?
それとも、愛される価値の無い人間なんでしょうか?
まさか、ですよね。
それにしても、人を愛するとは、どういうことでしょうか?
そもそも人の価値とは、相対的なモノサシで計れません。
どこかに基準点があり、そこから、あの子はいくらプラスだ、
あの子は、マイナスだ、というものではないのです。
人は存在しているだけで、無限大の価値があります。
知能指数がどうの、シツケがどうの、なんてのも、
その子の価値に影響を与えるものではありません。
愛とは突き詰めると、その人に要求しないことではないかと思います。
ありのままを認め、喜び、抱きしめることが、すべての原点だと思います。
成績が上がったから、愛したり、
言うことを聞いたから、抱きしめたり、
悪いことをしたから、嫌いになったり、という世界ではありません。
かえって、愛だと勘違いさせるようなことが、
学校で行われる方が、弊害が大きいと思います。
本当の愛は、家庭で親御さんから無条件に与えられなければ
どうしようもありません。
または、宗教施設でしょう。
または、愛を目的としたNPOでしょうか。
ある意味、教師は、学校と離れた立場でなければ、
本当の意味で愛せないんじゃないかって、思います。
教師の立場が、逆に、愛を制限させてしまっているのです。
もちろん、ほとんどの教師が、子どもを愛しています。
真剣に心配しています。
しかし、冷厳な事実として、教師はお金で雇われた集団であり、
その雇用の目的が、愛情第一でない限り、
「愛」を最優先にすることはできないのです。
それにそもそも、
お金をもらって、「人を愛する」というのも、
矛盾そのものです。
もちろん、私は、お金をもらって、
その子のことを専門に「心配」するのも、「アリ」だと思います。
が、「愛」とは、それをはるかに超えているものです。
ここで、ハタと考えてみましょう。
もし、「愛」こそがこの世で一番大事なことだとしたら、
(私はそう思います。)
学校は、どうでも良い、大したことじゃないことを
教えている、とも言えるわけです。
だから、学校の評価が悪かったからと言って、
人生の希望が消えるわけでは、全然ないのです。
「教師は遊びの専門家」 (ホントはネ)
どうでも良い殿堂が学校だ、ということは、
私は、決して悪いことではないと思います。
どうでも良いことだから、成績が「評価」できるのです。
もし、本当に大切なことだったら、「評価」などできないじゃないですか。
人間の価値を評価するようなもんですもん。
所詮、学校は、「クイズ」を真面目に習うところなのです。
ゲームを競って楽しむところなのです。
ですから、安心して競争していいのです。
学校の本質は、遊びの殿堂だと思います。
だから、真剣になれるのです。
これが、愛の殿堂だったら、
怖くて怖くて。
そして、本来、教師は、その道の遊びの専門家なのです。
そう考えると、気が楽になりませんか?
そう思ってれば行き詰まらないんじゃないでしょうか?
学校で生きる力を養うなんて、
軽々しく言って欲しくないと思います。
学力などの技術は、あくまで道具なのです。
道具が主人公になっては、本末転倒です。
道具はご主人様が、主人のために使ってこそ、意味があるのです。
今は、道具がご主人になってしまっているのです。
そんな社会は、どこでも、悲惨な最期が待っています。
生きるという全体は、
技術の総和の何倍も何十倍も、大きく偉大なのです。
1+1=2では、到底達成できないのです。
あえて、生きる力につながる教材と言えば
教師の人間性そのものだと思います。
親父の背中ならぬ、教師の背中です。
教師がいかに人生を楽しんでいるかを
背中で見せることです。
最近の公開授業を拝見すると、どの教室でも、
とても良く、教えるポイントを絞り、
伝達技術も磨いてあります。
全く敬意を表したいと思います。
しかし、私にはどうしても物足りなく感じました。
それは、「感動」が無いからです。
偶然無かったのではなく、
最初から、感動という要素を考慮に入れていないとしか思えないのです。
それくらい「感動」の存在感が薄かったと思います。
もちろん、「計算ができるようになった」、
「先生の言っている意味がわかった」、などの喜びはあるでしょう。
教科が好きになったということもあるでしょう。
しかし、感動とは、大どんでん返しであり、
涙腺に働きかけることであり、
精神の解放であります。突然広がる世界です。
先生方は、感動の威力を軽視していると思います。
一つの感動は、10回分の授業以上の効果をもたらします。
いや、人生そのものを左右します。
これを目指さないで、何で教師を目指したと言えるでしょうか?
と私は思ってしまいます。
確かに、感動を生むことは難しいです。
しかし、真剣に取り組めば、年間で1回か2回は、感動的な授業ができるはずです。
感動のポイントは、どんでん返しです。
期待を大きく裏切ることです。
ですから、生徒に予行演習をいっぱいさせている学級では、
感動しようがありません。
子どもの学力の中で、感情力の占める重要さを
忘れないで欲しい。
特に小学時代は、客観的論理力よりも、
感情を豊かに育てることが、人生の中でキーポイントとなるステージであって、
教科の知識も感情の海の中でこそ、その位置づけがある年齢なのですから。
どんな感情と一緒に、知識をプレゼントするのかを、
もっともっと気にとめて授業計画を練って欲しいと思います。
PR
Freepage List
Category
Comments