この時期、中学校では、校内合唱コンクールの練習が
始まっている頃だと思います。
どちらの音楽の先生も、まず、生徒に声を出させること、
いや、歌わせること、いや、授業に参加させることに、
大変苦労されてるんじゃないでしょうか?
でも、考えてみれば、中学生の時期、
先生の指導で、一糸乱れず、声を張り上げるっていうのも、
かえって、どこか、異常かもしれませんね。
声を出すのが、道徳的ならば、
歌わないのは、確かに、不道徳で、怠慢です。
少なくとも、教師の指導に従っていませんから。
しかし、こと、「芸術」を授業していると捉えると、
私は、 芸術を、
「心の表現」、
「自分の深いところへの探検」
だと思ってますんで
人それぞれ違って当たり前でいいと考えます。
そこには「歌いたくない自分」というのが、
厳然と存在しているのですから、
その「歌いたくない理由」に、真っ正面から向き合うのも
とっても大切な芸術教育だと思うのです。
いや、厳然と存在していないかもしれない。
子どもたちは、自分を自分でつかめているはずがないから、
絶えず変動しています。
自分で自分がわからない。
だから、今日、歌えたとしても、
明日は、また別な歌えない自分に出会ってしまう。
そこに、素直に向き合うことが、芸術であり、生きることじゃないでしょうか。
私たちは、芸術とか表現とかいうものを
前向きの、プラス思考の、民主的な、道徳的に正しいことと
当然のように、捉えてしまってはいないでしょうか?
特に、学校では。
しかし、真に感動的な芸術表現をふり返れば気づくように
芸術は、時には、反社会的であり、
ネガティブであり、ある時は、背徳的でさえあります。
芸術が、人間存在にかかわるものだとすれば、
人間は、無菌培養されているわけではないのですから、
多くの矛盾、葛藤の緊張状態の中からこそ、
芸術作品が生まれてくるのが、当然なのです。
むしろ、ニヒルな問題生徒や、絶望して、荒れるしかない生徒の中に、
芸術へのパワーが秘められているはずです。
一人の子どもがうつむいて、無言でいるとき、
その内部に、歌にならない、歌になれない、本当の歌が
流れているのではないでしょうか?
そういう無言の歌も、「表現」として捉えられる芸術教育って、
欲しいなあって思います。
もちろん、どうすれば、より良い合唱になるか、
技術指導することは、大切なことです。
文科省の指導要領も
「自らすすんで表現する工夫」などと、指標を出しています。
しかし、こと、「教育」としてするならば、
外に現れた形や結果よりも
「なぜ」が大切なんじゃないかな?
絵を描きたいという心、
歌いたいという気持ち。
その縦糸、横糸で、授業をしていくと
芸術鑑賞も、主体的な 表現であり、創造的なものだ気づき
その感動も、別の次元のものになると思います。
私は、科学教育をしていますが、
科学的な知識や技術の詰め込みによって、
科学するマインドを殺してしまうことを、最も恐れています。
同様に、芸術の科目で、高い成果を目指すことによって
「芸術する」という生き方に、触れないで終わってしまうんじゃないか
って心配をしてしまうのです。
寅さんの「ヒネクレモノ・バンザイ」でした。
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