民俗研究家の結城登美雄さんの話、パート2です。
直接、結城さんが話されたことではないんですが、
科学寅さんが、なあるほど、と気づかされたことです。
どうしても、これを忘れずに書いておきたい!
日本人は、ながーい歴史のほとんどを
自分の村、集落を世界として、生きてきました。
それが「おらほ」です。
日本国という意識は、まず無かったのです。
その共同体で、大切なことは、
金儲けでもありません。
労働でもありません。
一番大切なことは、もちろん、食べることですが、
働くことだけが、大切だとは、考えられていませんでした。
何が、大切かと言えば、それは「楽しむ」ことです。
そうです。楽しむために、生きていたのです。
楽しく場を盛り上げていくことが、大切な能力だったのです。
昔でも、もちろん、計算する能力、
字を読む能力、作戦を考える能力、
職人としての能力など、
いろんな能力が評価されていたでしょう。
しかし、
基本的に人々は、共同体に依存して、
そこに安心感を置いて生きてきたのです。
老後も、子育ても、介護も、すべて、共同体です。
ですから、共同体の親睦に、プラスとなる方向かどうか、
これが、特に重要だったんだよなあ、って気づかされました。
そこでの「楽しみごと」、から、文化が生まれてきたわけです。
つまり、遊びこそが、太古より、重要なファクターだったのです。
もし、昔、共同体の教育機関があったなら、
(藩とか、お侍の学校ではなく、集落の)
そこでは、遊びの免許皆伝が、卒業には、必須条件だったことでしょう。
たかが遊び、されど遊びなのです。
遊びこそ人類の糧、歴史の根源、
文化そのものなのです。
遊びは人間にとって最も本質的なもので、
あらゆる文化は遊びの中で、
遊びとして(「遊びから」ではなく)生まれるものであることを、
膨大な歴史上の事象を例に取り、ズバズバと論証したのが
「ホモルーデンス」(ホイジンガ)です。
ふつうは、遊びは非日常の例外的なものであり、
文化の幼稚な段階にあるものと考えられていますが、
そうではなく、
遊びは文化よりも古く根源的なものであり、
遊びとは最も広く深い概念であることが論証されています。
遊びを見極めた果てに、ホイジンガはついに言い放ちます。
「すべて遊びなり!!!」
私が、食育とか、命の教育に感じる、
暖かさ、なつかしさ、素朴さは、
「おばあ」や「おじい」の屈託のない笑顔と、すっとんきょうな 踊りに
つながっているからなんだなあ、って思います。
芸能界でも、オバカトリオや、オバカ娘が人気ですが、
昔は、偏差値なんてありませんから、
彼らは、昔の社会の基準でも、やっぱりスターなのでしょう。
そして、実は、現代でも、
難しいことを言う人よりも、
場を楽しませてくれる、楽しいことを考えてくれる人が、
結局、求められているのです。
もちろん、すべてではないですよ。
社会には、いろんな能力、いろんなタイプが必要です。
でも、学校教育で、常識としているのとは
比べものにならない大きさで、
現実、
遊びは、人間の根本的なものであって、
また、遊びに支配されてもいるとすれば
私たちは、大いなる、「的外れ」をしているんじゃないでしょうか?
本当は、子どもたちの幸せを考えれば、
遊びの天才をこそ、目指させるべきであって、
人の心をないがしろにする、「秀才育成」は、
不幸への道案内なんじゃないでしょうか?
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