昔は、何のためのトレーニングかわからないような
シゴキが運動部にありました。
あえて言えば、根性を鍛えるためでしょうか?
もう、はやんないですよね。
選手が、その練習の目的を納得して
主体的に取り組んでいるところには、敵わない。
しかし、学習面では、まだまだ
子どもにとっての目的が、血肉化されていないんじゃないでしょうか?
「教師にとっての目的」で終わっているんじゃないでしょうか?
いくら、子どものため、と言っても、
子どもが納得していなければ、目的化されていると言えませんよね。
せいぜい、「受験のため」「テストに出るから」です。
ナント、情けないことでしょう!
算数や数学の問題なんか、典型的じゃないかと思います。
特別な数学マニアは別にして、
ふつうの子は、何でこんな問題を解かなくちゃならないのか
納得している場合は、とっても少ないんじゃないでしょうか?
もちろん、社会や理科だってそうですが、
特に数学は、ヒドイ。
文章題を見ても、まともに考えて、
「こんな設定状況なんてあるの?」
「こんなアホなことするの?」
という内容だと思いませんか?
素直な子なら、問題の設定自体に、文句をつけるはずです。
私だったら、こんなことをしないで、こうします、って。
ところが、そういう文句を言う元気さえ、
子どもから奪っています。
つまらないものでも、こなしています。
つまらないものは、つまらない、と言う能力が
これからの社会で、とっても大事だと思います。
発言できなくとも、心の中では、認識して、
これの面白い切り口を探そうとする力。
さらには、誰も気づかなかった、ワクワクする問題を
みんなに伝える力。
これこそ、21世紀の人間像だと思うのです。
数学は、頭の訓練だと言っても、
その考えや方程式が生まれた背景には、
切実な必要性があったからです。
あの虚数だって、必要があったから、考えられたんです。
もっと、子どもがやる気になる、問題設定を考えられないもんでしょうか?
そして、ああ、なるほど、この考えで、
世界が広くなった!
という感激を味合わせてやりたいものです。
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