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大きく目を見開かされる記事をよみました。畑野そらまめさんの「九九がなんだ」と、その中の関連ブログです。以前から、そらまめさんの日記で、読んでいたはずですが、心にストンと落ちなかったのですが、なぜか、一気に目が覚めました。 私の目指している科学実験教室の理念と、ピッタリだということに、気づいたからかな?(今さらながら、すみません) 本当の算数の楽しみは、科学の冒険と似たところがあるなあ。いろんな考え方があるなあ。っていう楽しみ。考えることで苦労する楽しみ。あと、この算数だと、みんなでいろんな意見を出し合う楽しみがあります。 絵を描くのは、とっても素晴らしい発想です。 算数にとどまりません。すべての学習に言えることです。人間の認識の落とし穴に気づかせてくれます。 昨日も、正しい幼児教育の大切さについて、素晴らしい先生からお話を伺うことができました。 ひとつにつながっている!! つまり、人間の脳ミソは怠慢なんだ。常に、楽な方、楽な方へと回路を作ってしまいます。 その楽な回路づくりを学習だと勘違いしている大人社会があります。 電化製品で、楽な家事ばかりのお家を理想としているようなものです。 しかし、人間が生きるというのは、苦労することに楽しみをみつける快感です。脳みそを使う楽しみとは、新しい回路をどんどん作っていることです。その世界は無限です。 生きる意志もそこから培われます。回路を作るとは、まず実体験がなければ、作れないのです。決してパソコンからは、培われません。 人間は、決して、自分の目で見ているようで、見ていません。頭の中だけで、認識しています。自分の頭の中の観念を、常に疑って、殻を破り続けること。殻を破る快感。パラダイム転換。ゲシュタルト変換。 まとまりません。時間です。
2007.12.20
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森の声さんからのご指摘にもあるように、客観的な事実が理論を作っていくというよりも、「理論」が「事実」を作っているというのが、科学を含めた学問の実体です。私たちの日常の認識もそうです。 理論の網の目にかからないものは、「見れども見えず」なのです。 私たちが、見ているこの「子どもたち」も大人やこの時代の先入観念によって、でっちあげられているってことを忘れてはいけません。 ということで、ふりかえってみると、私たちの子ども像というのは、ずいぶん長い間、変化していないことすなわち、新しい子ども像が立ち上げられていないことに気づきます。 これも森の声さんから、たびたびご指摘のとおり、学問の概念とか、科学の理論も、地域的、時代的な文化の底流と密接にかかわっています。 今、使われている考え方の基礎が、特に教育現場においてずいぶん昔にできたものを、いまだに使っていることに現代の社会実態とのズレを生じさせているのではないか?と疑問が生まれます。 たとえば、日常的に教師も保護者も使っている概念「個人」や「自由主義」、「民主主義」は16世紀から17世紀にかけてのヨーロッパ社会がもっていた社会的必要性が、底流にあります。 そして、その「個人主義」が「原子論」と、密接に関わっています。原子論自体は、古代ギリシャからあったのですが、17世紀に入って、もっとも鮮やかな形で原子論的な考え方が展開されます。 「個人」に相当する英語 individual は、私が解説するのも、おこがましいですが、divide つまり「分ける」という動詞と関連があり、それに、否定の意味を表す接頭語 in がついているのですから、「分けることができないもの」というイメージをもっています。 「原子」を意味する atom もギリシア語で、「分割する」の tom に、否定の接頭語 a がついたもので、同様に、「分けることのできないもの」です。 この時代の考えが、近代科学の基礎になっているわけですがその底流には、人もモノも divide する、分断してみる思想があるわけです。 それに対して、現代、科学の分野でも認識されだしていることは、すべてのものは、密接な関連があって、どれも単独では成り立っていないということです。この意味は、単に、原子の粒が、ビリヤードの玉突きのように次々とはじきとばさるという関連ではなくて、一瞬で、本質的に影響を及ぼすというものです。時空をこえてしまっているのです。 まだ、確定した段階ではありませんが、大きな流れとしては、「唯物論」から「唯心論」的な変化が起きています。これも、21世紀の社会的な要請と無縁ではありません。 しかし、これに対応する、子ども観、そして教育論がまだまだ成長していません。教育現場では文科省も含めて、そういう問題意識すら感じられません。 それに対し、子どもたちは、時代の流れに本能的に敏感です。新しい枠組みで、行動しているのです。無意識ですが。そこに大きなズレが生じているのではないでしょうか?教育の行き詰まりを感じさせているのではないでしょうか? 教科の分類も、本当に今の5教科でよいのでしょうか?理科も、物理や生物、地学の分類で良いのでしょうか? 成績評価もこれで良いのでしょうか? 教師の評価は、教える技術でしょうか?教師の感情や心理が、いかに生徒に影響を与えるか、その要素に、ほとんど目を閉ざした今のままで良いのでしょうか? 保護者や地域とのつながりの大切さは、今は、「オマケ」として位置づけられていますが、本質的なものではないでしょうか? 教えるということは、分断された情報をインプットすることではないということは、科学的にもう、はっきりしているのに、100マス計算の方が、本質だと勘違いしているのではないでしょうか? 校長や理事長の人間性そのものが、教育の本質だとすれば、学校の説明で最も要すべき説明責任は、トップの人となり、精神性ではないでしょうか?そして、それをどう担保するのか。 今の学校を改革しようにも、手がつけられないというのが、正直なところでしょう。 でも、どんな真理も、発見されてから常識になるまでは、何十年とかかっています。あきらめず、自暴自棄にならず、かつ、妥協もせず、着々と、人の輪を増やし、外堀を埋め、いつの間にか、多数派となるように、賛同者を増やしていけば、必ず勝利すると、歴史は教えてくれています。
2007.12.12
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学校に元気を感じられません。どこのと言うわけでなく、寅さんの知っている学校全般にです。あえて言えば、公立学校でしょうか。 もちろん、頑張っている先生方はいっぱいいます。しかし、学校全体として、燃えるオーラが見えないのです。 これは、なぜだろう?明治大正と、学校は未来を創るシンボルでした。終戦後もそうでしょう。 しばらくすると、学歴社会のランキング登竜門になりました。 しかし、今は、善し悪しは別として、燃える使命が感じられません。 新しく、パラダイム転換を起こさない限り、学校が再生することはないのではないかな? それは、きっと、新しいことを開発したり、取り寄せたりするんじゃなくて、今まで、つまらないこと、と思われてきたことの中に、面白さを発見することによって、見いだされるような気がします。 きっと、日本の教育が一定段階に成熟したのです。それで、踊り場に来ているのです。これからは、一段高い次元を目指さないと、シビレル学校には、なりません。 受験技術や、授業技術の問題ではありません。哲学の問題だと思います。学校の多様化は、哲学の多様化で競争してもらいたいものです。 星野ジャパンおめでとう。選手のみなさん、ありがとうございます。
2007.12.03
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私は、教育の自由主義者です。いろんな学校・教育があって当然だと思います。公立学校と言っても、全国一律なのは異常であり、最低限の保障があれば、いろんな公立学校があっていいと思ってます。ですから、教育のバウチャー制度にも、長期的には賛成です。 しかし、現状では、いろんな教育の保障がなく、研究もされておらず、地域で独自の学校経営のノウハウも意識付けもありません。評価の尺度が、進学率だけ。 こんな状態で、自由化になれば、学校間・地域間格差が広がるばかりです。田舎でも、公立離れが加速度的に進んでいます。結局、お金持ちの子どもしか、豊かな教育環境を得られません。この現状を為政者は、公立学校を競争の嵐の中にたたき込むことによって、対私立への復活としたいようです。 競争の原理で、少々の犠牲には目をつむって、屍の上に、新しい世の中を造っていこうという意図なのか? 日本は敗戦したからこそ、民主主義国家になった。だから、何百万人の犠牲もムダではない、という理屈なんだろうか? つぶれる学校が出るから、良い学校が生まれるのか?百歩譲って、その中で、何人の子どもが犠牲になるのか? もう一度、原点に戻る必要があると思う。一人の子どもの大切さ。一つの授業の大切さを。 先日も、原油高のために、給食を間引きする学校の話。その日は、午前授業になるんだって。この地域の人は、はっきり言って、恥ずかしくないのだろうか?これは、地域の恥以外の何物でもないだろう!と寅さんは思う。私なら、すぐにも、募金活動を始めます。 米百俵の精神こそ、日本の土台であるはずです。未来を託す、子どものためには、大人は自分の昼飯を抜いても、子どもたちのために用意するべきです。そして、1時間の授業を大切にするべきです。「この1時間の授業は、地域の人のお陰で実現できてるんだよ。」と語りかけたいものです。 国や世界のせいにして、自分の地域の子どもを見捨てることができましょうか?もう、国や県もあてにならないんだから、地域で守らなければならないことをもっと大人は自覚すべきでしょう。 どんなに財政が貧しくても、いや貧しいからこそ、削ってはならない予算が教育費です。いや、増額すべきです。自由化をする前に、安全保障をいっぱい用意すべきだと思います。ここで、寅さんが吠えたって、何も変わらないと思うでしょう。でも、私の科学論からすると、宇宙への問いかけは、時空を越えて必ず影響を及ぼし、跳ね返ってくるはずです。てな、理屈をつけて、いつも思ってることを、吐き出しました。
2007.11.24
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中学校では、もちろん、問題の子もいっぱいいます。ある意味、すべての子が、問題児だとも言えます。アタマに来たり、ワナワナ震えることもあります。 でもね、ふと、思うんですよ。もともと「外部のおじさん」としては、子どもたちと、ふれあうチャンスってのは、普通、なかなか得られないじゃないですか。へんなおじさんとは、口も聞くなっていうんですから。それを、黙ってても、毎日、多くの子と違和感なく得られてるというのは、すごい幸せなことです。 小学生とは、また違った、相互作用です。ただ、廊下をすれ違っただけにしろ、そのすれ違いの一瞬に永遠が潜んでいます。 特に、特別支援教室の子ども達との触れ合いは、一種、この世のものと思えない、天国でさえあります。浮世離れしてるだけに。 これを感謝せずに、何を感謝できるというのでしょう。ありがたいことです。 とにかく、今の中学生は、体格の割に精神年齢は低いので、外見に惑わされずに、その精神年齢をみつめて、おつきあいをしなければなりませんね。
2007.11.10
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1年生は、可愛かった!俺って、ロリコン?あの小さなオツムが、フル回転してくれた。目一杯、目を見開いてくれた。 人生の中の、ほんの一瞬だけの話だが、でも、でも、これが記憶に残るんだよな。隠し金庫にへそくりをしまっておくより、確実に残るんだよな。 寅さんは、またまた、この世に生きたという証を刻むことができた。 ところで、話は別だが、「整列!」って、本当に必要なんだろうか?寅さんは、この年になっても、まだ、みんなで冗談を言ってるようにしか感じないことがあります。みんなが、共謀して、寅さんを笑わせようと、芝居をしてるんか???? ねえ、皆さんは、「整列!」って、やってるの見て、吹き出したくならない? 学生時代から、寅さんは何度怒られたか。何度、先輩から目をつけられたか? 神妙な顔をすればするほど、おかしくなります。 どうして、真面目な顔して、緊張感をもった恐い顔をしてなければならないんだろう?笑って歯を見せていてはいけないんだろう? よっぽど、ニコニコ笑っている子の方が、素敵だと思う。いや、エライ!とさえ思うんだが。 でも、世の中は、苦しそうな顔して、額にシワを寄せている子の方をエライと言うんだな。 「そこの子、よそ見するな!」と叱るより、「そこの子、よく、こっちを見てるね。」と褒めればいいのだ。 注目!と言うよりも、面白い話をどんどんしちゃって、聞き損なうのが、もったいないようにしちゃえばいいのだ。 どこの学校とは言いませんが、 (いろんな学校を歩いてます)職員室に謝りに来た子を、叱ったり、邪魔者扱いにするなんて、寅さんには、信じられません!脳みそのどこのボタンを押したら、「邪魔だ、返れ!」なんて言えるんだろう?寅さんには、宇宙人に見えてしまいます。 職員室まで来たことを、どうして褒めてやらないんだろう?ホメルことは、無数にあるのに。 子ども本来の姿を矯正するの? それより、何十倍も、何百倍も大切なことは、子ども本来の姿を、讃美してやること。素晴らしさを唄ってやることだ。ありのままの子どもを肯定してやることだ。良いことも、悪いことも、肯定して、丸ごと讃美することだ。欠点があるところに、お宝があるのだから。それぞれ違うお宝を、教師は、一日中、讃美してればいいのだ。 寅さんって、相当高慢な人間なんだと思います。中学生時代から気づいていました。世の中をバカにして生きてきたんだもんなあ。 「整列!」 「ぷぷぷ、ブハッハッハッハ」寅さんって、、イヤな子だったろうね。特に、真面目な先生には。
2007.10.23
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伝え聞きなんで、最終確認は取れてませんが、ある小学校で、PTAの活動予算を、学校運営費の方に取ってしまいPTA活動を大幅に縮小させる計画が練られているそうです。 緊縮財政だということは、わかります。そして、その窮状をPTAに伝えるのも、とっても良いことです。しかし、それの解決手段に、対外的(市P連向け)に必要なところだけを残して、あとは、要らない、というのは、・・・・・・コメントするまでもなく、アホです。正真正銘のアホ。アホの純正部品です。 PTA不要論なのでしょう。 これは、図々しいこととは、全く反対です。本当の図々しさとは、PTAに窮状を訴えて、募金をつのることです。地域に献金をつのることです。金銭でなくても、労力でも技術でもいいでしょう。そのためにこそ、PTAは強くなくてはならないのです。 その援助する母体をつぶして、学校だけ助かろうなんてできるわけがない!どっちみち、さらに市や国の財政は逼迫するのです。そんな時、最終的に頼れるのは、当たり前ですが、保護者と地域社会しかありません。だって、学校は、国のものではありません!!地域社会のものです。法律上は、どのようになっていようとも、本質は、地域住民が地域の子のために、米百俵の精神で創ったものです。これが昔からの伝統です。 この情報、誤報であって欲しいと思います。しかし、こういう情報が出回ること自体、学校の政策の大失敗です。こういう時こそ、保護者ガンバレ! 役員ガンバレ!決して、サジを投げてはいけない。だって、学校は誰のものかを、よ~く考えてみましょう。みすみす教育環境悪化していくのを見過ごすことなんて、親ならできるわけがない。教職員も自分のアタマで考えましょうね。校長のアタマで考える脳みそしかないなら、先生の資格は無いと思います。 社会の流れは、ときどき本流と反対の方向に渦を巻くこともあります。どれが本流かを見間違えると、校長先生、晩節を汚しますよ。
2007.10.20
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今年は、中学校の特殊学級を補助している科学寅さんですが、特殊学級っていうのは、ある意味、理想の教育ではないか、って思うことがあります。 だって、もともと、一人一人が違うんです。どんな生徒も、「特殊」なんです。 カリキュラム優先ではなく、生徒が優先。これって、あったりまえのことなのに、普通学級では、そうなってない。 特に、今年の学級は、あっかるーい!元気がいい!! 職員のチームも面白く、それぞれ、障害が違う7人が元気に歌をうたっている姿は、理想とする学級そのものではないか、って感慨に浸っています。
2007.04.26
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先日、小牛田農林高等学校で講演をさせていただきました。総合学科の1年生向けです。テーマは「まちづくり」ということで、醸室のことを、市民活動の面から紹介して欲しいということで、寅さんの科学実験も交えて良いというので、(あ、そう!!)なら、高校生に寅さん流、科学体験もさせてみたい、どんな反応をするだろう?ということで引き受けてしまいました。そしたら、そしたら、小牛田農林の生徒のオーラの良いこと、あいさつが、自然なんですが、とっても素敵なのです。体育会系も優秀で、有望なごっつい生徒がいっぱいいるんですが、彼らも、とっても気持ちの良い、明るい挨拶をしてくれます。そして、集中して聞いてくれます。強制されてというのではなく。最近、評判が急上昇、そして、倍率も高くなっているというのもうなづけます。職員の方々の、長年の積み重ねに他ならないのですが、ターニングポイントは、男女共学だったようです。いち早く、共学化に踏み切ったことで、想像以上に変わっていったのだそうです。それにしても、共学の県立高校は、いっぱいあるので、農林高校の姿には、敬意を表さざるをえません。進学を目指すんじゃなければ、うちの子たちにも、お奨めしたい学校でした。寅さんが、何を話したか?もちろん、ブログキャンペーンも紹介してあります。でも、メインは、「未来を切り開く力」とは何か、ということでした。そして、失敗をいっぱいすることこそが、務めであること。で、その失敗にどう対処すれば良いのか、その受け方を間違うと、何度も自殺を繰り返さなければならないことなどです。正に、自分自身に語っているのでした。同じ流れで、ののだけ小学校の科学クラブの最終回にも語って来ました。この話、というか、私の考えのまとめについては、別にあらためて書こうと思います。
2007.02.04
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こちらの中学校で、ケンカにより、ケガをさせる事件が起きました。でも、これを一概に、イジメとして処理をしてはいけないと思います。 もしかすると、ケンカをしなくなったから、陰湿なイジメが横行しているのではないか、という仮説を私はもっています。 ケンカは、卑怯なことに対する反撃でもあります。人間社会では、ケンカは必要悪だと思います。避けて通れません。企業競争も、試験も、就職活動も、スポーツでさえ、ある意味ケンカです。ケンカの仕方を学ぶかどうか、が大切であると思うのです。 問題は、ケンカの仕方を知らない、負けることも、その痛さもわからずに大きくなってしまうことです。今日の朝日新聞(だっけかな?)に、平田オリザさんが投稿されていたように、「負けること、痛みを感じる、負の体験」を意識的にセッティングしてやらなければ人間は成長できないと思います。 ホントの強さとは、何なのか?それを伝えたいものです。(共感いただけました方は、クリックをお願いします。)
2006.12.03
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現在、進められている教育改革?において大きく欠落していると思うのが、個の確立についての考え方です。今、進めようとしている方向は、どちらかと言えば、集団主義の方向のように受け取れます。 我を主張する自由主義が問題だという認識から、行き過ぎた自由を矯正する「シツケ」が大事だという荒っぽい論理が、実質的な思考停止状態で論議されています。 問題となっているイジメも根本的には、昔ながらの村八分意識を引きずっているからではないでしょうか。やはり自律的人間像よりも、他律的受動的な人間を良しとするのは、日本人全体の潜在的な合意なのではないでしょうか。自己主張よりも、集団第一主義が本音のように思われます。 だとすれば、集団の規律からはみ出した者が、お仕置きを加えられるのは本音の部分で、仕方がない、と思っているのでは? そんなお上が、上の方からの指導として 「イジメてはいけない」「こうしてはいけない」と全国一律に懲罰を加えるのは本質の解決に向かっているとは思えません。 日本人の伝統的な集団意識がすべて悪いとは思えません。なら、どこは活かして、どこを矯正し、個の確立は、どのように進めるのか?今まで、教育現場で、本当の個人主義が教えられたことは無いと思われます。 ゆとり教育が間違いだと言いますが、本当のゆとり教育が実行されたところは、ホンノ一部でしかなかったのに、その考え自体が間違いだとは言えないはずです。 明かに、これからの日本人が直面する問題や子どもたちが乗り越えていくべき問題を考えると伝統的な集団主義では、行き詰まると予想されます。 異質な人間を受容する風土、多角的な考え方ができる思考能力自分のアタマで考え、行動する勇気こちらの方こそ、バランス的に見ても日本の教育が重点をおくべきだと思うんだけどなあ。 (共感いただけました方は、クリックをお願いします。)
2006.12.03
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寅さんの身近な学校でも、イジメ等の問題が起きています。(全国津々浦々です)近々、PTAでも検討会が行われます。問題は、休み時間、教師の目の届かないところで行われています。当たり前と言えば、当たり前です。教師の目の前で公然と為されたら、もう末期症状ですもんね。 で、常々、疑問だったのですが、休み時間に、どうして先生は教室にいないのでしょうか?もちろん、次の授業の準備はあるでしょう。しかし、一々職員室に戻らなくても教室で準備ができるようにもできるはずです。何か、休み時間には、職員室でお茶を飲むのが暗黙の約束事になっている気がします。 労働者には、休み時間、昼休みも含めて、休む権利があります。寅さんも、だからこそ、休み時間に子どもたちと接しているボランティアを学校に導入したいものだと運動しています。 しかし、ちょっと待て、という意見もいただきました。実は、教師は、地方公務員として、休み時間にも働かなければならない義務があるというのです。学校での「休み時間」は、教師にとっては休息の時間ではなく、立派な勤務時間なのです。昼休み時間もそうです。朝八時から午後四時までは、全力をあげて、子どもを守るために、全霊を尽くさなければならないのです。 ですから、教師の目の届かない、休み時間に行われたイジメだ、という言い訳は根本的に通用しないのです。私は、現実的に、先生方に超人的な仕事をしてください、とは言いたくありません。しかし、責任はあるわけです。だったら、ボランティアを導入したらどうでしょうか?って言いたいのです。 そして、それにしても、もっと子どもと接してください。子どもと遊んでください。子どもと遊ぶことを、子どもに媚びを売っているように考える「プロの先生」もいます。そういう先生は、生徒とは、教科の授業でしか、接点を持たないでよいと考えているわけで、明らかに、職務怠慢を行っているのです。 教師は、学力向上させて、なんぼ、ではなくて、子どもと接して、なんぼ、のはずです。 でも実は、これは、「義務」でも何でもなく、教師の資質をもつ人は、黙ってても、子どもと接してしまうはずです。だからこそ教師になったはずです。もし、子どもと接することが負担なら、資質が無いと去っていただいた方がお互いのためです。ぜひ、予備校の講師か、ビデオ講師、本の執筆でもしていただきたいものです。教育問題解決は、シンプルに考えたいものです。子どもが好きかどうか、です。(共感いただけました方は、クリックをお願いします。)
2006.11.24
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またまた、3年の男の子からです。 きのうの科学のあそびはとてもおもしろかったです。遊びと言うよりも、勉強になりました。一番びっくりしたのは、レンジの中に電球を入れて電気を入れると光る科学です。科学のおもしろさや、ぜんぜん理科と違うというのもわかりました。ぼくも相澤先生みたいにおもしろ科学をつくってみたいです。 理科との違いに気づいてくれて、こちらこそ、うれしいです。(共感いただけました方は、クリックをお願いします。)
2006.11.23
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寅さんは、いろんな学校・学級を回っています。それぞれ、風土というか、空気が違います。実験授業をする前に、「今度はどんな学級だろう、」って、予想を立てます。 学校の風土のリトマス試験紙は、寅さんはこう見ています。 別の時間に、授業参観させてもらいます。で、授業を見ます。子どもたちが、自発的に、ドンドン意見を言えているかどうか、です。質問をしているかどうかです。 子どもたちは、最初から、学習に消極的だったなんてことはありません。本来の子どもは、とっても、活発に質問をします。 よく言われますが、日本の教育は、欧米の教育から見ると、とても奇妙であることが多いようです。 日本には、口に出して言ってはいけない「お約束」があって、先生も生徒も、暗黙の内にそれを守っていると言うのです。 例えば、授業時間には質問をしてはいけないとか、友達にも本心を言ってはいけないとかです。 教育とは生徒に質問をさせて、考えさせることだとも言えます。自分で考えるように育てないと、社会に出てから自分で自分の人生を構築できなくなる可能性があるからです。しかし、日本では、質問をさせると授業が遅れるとか、上手に答えられないと先生が恥をかくとか、そんな理由から敬遠されることもあるようです。 このような教育をしていたら、将来日本を背負わなければならない子ども達を、健全に育てることはできません。 子どもは 自分が、一生懸命に考えて、どう考えても正しいと思うことが、認められなかったとき、そう言う話をしてはいけないのだと、自分を抑えることを学びます。 日本人が、論理的にものを考えることが苦手だと言われます。しかしそれは、先天的な性質などではなくて、学校教育が、そうさせているのかもしれません。 最近文部科学省からの発表で、学校の問題児は、家庭に原因がある場合が多いと言っていました。それはそうかもしれません。しかし、家庭に原因があって生まれた問題児でも、学校の先生がしっかりしていれば立派に教育できることも事実なのです。 最近、学校の先生を非難するマスコミが多いので、先生を大事にすべきだ、と主張しましたが、その反面、確かに、先生次第で、学校は変わるのです。 ある中学は、3年前には窓ガラスがなかったと言います。それが、今、日本にこんなに素晴らしい教育の場があるのかというほど、生き生きとした学校になっています。生徒がはつらつとしていて、先生に盛んに質問をして、自主的に考えて、活動しています。実は、3年前から教師を殆ど入れ替えたそうです。教師は、特に小学校や中学校では、本当に子どもの人生に決定的な影響を与える存在です。本当に適性のある人だけになってほしいものです。 しかし、本来、適性をもった人が、病んでしまうのが今の学校かもしれません。 もともと、先生は、精神的に悩みやすい職業です。先生のための心理カウンセラーを置くべきです。先生をもっともっと大事にすべきです。地域の愛情で丸ごと包み込んでしまいましょう。物心ともに、サポートしましょう。「投資効果」は、必ずあります。そんなことをじっくりと考え、子ども達に質の高い教育を受けさせるためには、地域の父兄が、もっと教育に関心を持って団結する必要があります。PTA活動が、日本は活発だと言えるのでしょうか?閉鎖社会に力を貸しているだけだとしたら、本末転倒の努力です。 私は、オープンシステムこそが、組織も個人も健康を守る、キーポイントだと思います。つながり、形の上でのつながりではなく、意識の中でのつながりを網の目のように張ること。これこそ、先生の意識を健全にする防御ネットだと思います。これについては、次のページで。(共感いただけました方は、クリックをお願いします。)
2006.11.05
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打ち合わせで、小学校と中学校の職員室に行きました。あらためて、職員室の空気を吸うと、先生方の心臓の音が聞こえてきます。活き活きとして、全力を注ぎ込んで、立ち向かっている姿が感じられます。 考えてみれば、うちの女房みたいな、普通の勤め人に、こんな激務ができるわけがない、と思います。どうひいき目に見ても、普通の仕事より、エネルギーレベルが高いです。 こういう仕事をしてくれる人たちが、これだけいるということは、日本の本当に宝だと思います。教育改革は、「このお宝をどう活かすのか」という視点ですすめていかなくてはとんでもないことになると、心配です。(共感いただけました方は、クリックをお願いします。)そう言えば、学校には「ゴミ投げ当番」があります。東北人には、何の違和感もありません。
2006.10.18
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学校の先生は、頑張っているのだけれど、年々、パワーアップはしているのだけれど、社会が求めているスピードに全然ついていっていないのです。 経営分析は、よく分数で表されます。生徒募集や売上高は、前年比で表されますが、少子高齢化が進む中、前年比は意味をなさなくなってきています。量的拡大を前提とした分母ではなく、目標とする質を分母に置かなくてはなりません。 同じように、学校の常識を分母に置いていると、よく頑張っているな。年々良くなっているな、という感想になります。しかし、社会の要請している量と質を分母におくと、年々、学校は期待から遠ざかっているということになります。そのうち、破局がやってきます。 このギャップを埋めるのは、組織変革、ガラガラポンしかないと思います。(共感いただけました方は、クリックをお願いします。)ワープロで教頭先生と打とうとしたら、共闘先生と出ました。ウン、いい言葉だ。
2006.10.18
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産業労働者は、自分の「労働」を商品化しています。と同じように、販売員も含めて、サービス員は、「感情」を商品化しているとも言えます。職場で、人と向き合ったとき、常に一定の理想とすべき「表情と身体による表現を作り出すために感情を管理する」必要に迫られるのです。買い手の支払う購入代金には、販売員の付加価値が含まれており、それが販売員の賃金になるのです。購入代金の一部には、相応のサービスとして、「しかるべき表情と身体による表現」も、当然のこととして含まれているのです。この論理からは、顧客のわがままな態度や、横柄な要求への反発も上司への反発も、顧客の前では、表現する権利をサービス員はもっていないのです。 これは、教師には、当てはまるのか?当てはまらないのか?あなたは、どう思いますか????(共感いただけました方は、クリックをお願いします。) ここで、自己レスです。こちらの日記にヒントがあることに気づきました。森へいこうへジャン プ明日、歯医者に行って、歯を抜く運命にある寅さんです。来客が、何の脈絡もなく、「総入れ歯」と言ったので、「総入れ歯?」って聞き返したら、「そう言えば」の間違いでした。
2006.10.17
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文科省やPTA、教育委員会を、学校や先生方は意識していると思います。しかし、本当に意識してライバルとしなければならないのは、実は、セブンイレブンやディズニーだと、寅さんは思います。 日本の先生は、世界一だと寅さんは、心底思っています。しかし所詮、教育は、社会の海に浮かんでいる船だとすれば、日本という社会の海は、世界一難しい波なのです。 良い悪いではなく、国民は、セブンイレブンのサービスやディズニーのサービスを経験してしまっています。あれが、サービスというものの、スタンダードになってしまっているのです。 この意識は、深層心理にへばりついてしまっています。 そして、日本の消費者は、超むずかしい!!多様化していると言われていますが、常にたくさんの価値観が同居しているのではなく、実は、超画一社会で、右と言えば、みんな右でありながら、超短期に、需要というか方向がコロコロ変わる世界一難しい消費動向の国なのです。 日本の消費者の最大の特徴は、「わがまま」で「矛盾」しているところにあります。とにかく、理屈通りにはいかないのです。 スーパーでは、新鮮さにこだわる一方で、カット野菜も買うのです。 ファッションのブランド品は、いかに安く買ったかを自慢するのに、低価格の衣料量販店の洋服は、いかに品質が良くても、量販店で買ったのがわかるのを嫌がります。 とにかく、一筋縄ではいかないのです。 社会は、学校に対してもっともらしいことを言ってきますが、実は、矛盾だらけ、わがまま放題なのです。 これを否定すべきことだと見るか、乗りこなすべき波だと捉えるか、すべての分かれ道だと思います。 ここで、ポイントとなるのは、「子どものため」「親のため」という専門家としての見方ではなく、「子どもの立場で」「親の立場で」考えられるか、ということです。 「子どものために」と考えるときは、どうしても自分の過去の経験がもとになってしまいます。子どもに対する決めつけや思い込みが、入ってしまいます。それに対して、「子どもの立場で」考えると自分の経験をいったん否定しなければなりません。どちらも子どものことを考えているように見えて、決定的な違いがここにあります。 わかったようなことを、プロの先生方に言ってしまい、すいません。しかし、流通業や消費者を相手に、真剣勝負をしているところでは、これが、生死を日々分けているのです。教育界が今後、自由競争の世界に突入するとすれば、いや、制度的に変化しなくても、世間は、すべてこの常識で動いているということを前提として判断しなくては、コミュニケーションの断絶が起こってしまうのです。 これは、良い悪いの基準とは別の問題だと思います。同じ真理を伝えるにも、相手によって、話し方を変えなければなりませんが、それと同じだと思います。 とにかく、何を言いたいかと言いますと、日々、過去の経験を捨てなければならないということです。その代わりに、大胆な仮説を立てて、それを検証するという科学の姿勢に向かうべきだといういことです。 長くなりまして、すみません。 (共感いただけました方は、クリックをお願いします。)
2006.10.15
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学校の中の立場と、外の立場を行ったり来たりした寅さんは、どうして、内と外で、こうも見方が変わるのだろうと、思っちゃいます。さらには、優秀な先生が、どうして世間の見方に気づかないのだろうって。 なあるほど、と気づいたことがありますので、書いちゃいます。セブン&アイ・ホールディング会長の鈴木敏文さんが、よく挙げる例ですが、車を運転するとき、一年中、車内温度を25度に設定するとします。春先に外気温が25度に上がったら、ものすごく暑く感じます。しかし、車内では、同じ温度なのに、セーターを着てもさほど暑く感じません。逆に夏は、気温が25度まで下がったら肌寒いのですが、車内ではTシャツ1枚で大丈夫なのです。 つまり、車内という閉ざされた空間での感じ方は、車外という開かれた環境についてはまったく通じないということです。これは、学校という閉ざされた空間と社会の感じ方の違いにも言えることではないでしょうか。学校は、何も変化をしていなくても、何も悪いことをしていなくても、社会の環境が変化していると、外からは、全く違った印象で捉えられるのです。同じイメージを維持するためには、逆に常に変化し続けなければならないのです。で、実社会は、この変転極まりない皮膚感覚で動いているのです。 「だから、社会が悪い、保護者が悪い、生徒が悪い」と言えるのかどうか、ということです。 よく、先生方は、自分たちは教育のプロであると、おっしゃいます。確かに、大切なことです。でも、それが、この通り教えれば、指導すれば間違いがない。これが最善だ、となってしまっては、本来の意図するようには、受け取ってもらえなくなるのです。しばしば、プロ意識は、素人の感覚を捨て去ってしまう傾向があります。 専門家になればなるほど、素人の一般社会の皮膚感覚を忘れないように、意識的に努力しなければならないと思います。ということは、どちらかと言うと、プロになど、なろうとせずに、偉大な素人でい続けようとすることこそ、大切で難しいことと言えるのではないでしょうか? そう言う「ド素人」の科学寅さんも、小さな成功に、ウハウハしてしまい、科学教育のプロだなんて、思ってしまったら、その瞬間から、浮いてしまう危険性があります。注意しよう、注意しよう。(共感いただけました方は、クリックをお願いします。)
2006.10.15
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日本・中国・英国の小中学校の先生を比較調査した国際基督教大の藤田教授によると生徒指導や教科指導、教科の知識、学級づくり、部活動指導の5項目について生徒指導では「自信がある」と言い切った先生が日本では6%だったが、英国は47%、中国は73%。「やや自信がある」を加えても日本は55%。英国は92%、中国は98%。 このほかの項目でも、「自信がある」と答えたのは中国が53~80%、英国が33~78%に対し、日本は8~11%で、どの項目も際だって低かったようです。 この数字を見て、日本の先生は、ダメだと思いますか?私は、逆に、日本の先生の質の高さに、誇らしさを感じます。だって、外国では、3時には、「はい、サヨナラ」と帰っちゃうんですよ。そういうのが、当然の中で、「自信がある」のです。日本ほど、生徒に心配りをしているはずがないと思います。 質が高いからこそ、自分の自己評価が低いのです。満足していない証拠です。ただ、いずれにしろ、自己肯定感が低いのは、大問題です。日常の行動すべてが、それに引きずられるからです。 我々、国民は、先生の自己評価を高める支援をしてあげることこそ、最も費用対効果の高い、教育再生の特効薬であることを知るべきです!ってなこと、寅さん以外、誰か言っていないかなあ。 うぬぼれでいいのです。いや、本当に、先生はアタマがいいし、人もいい。そして、超マジメです。こういう人がうぬぼれないで、誰が、うぬぼれることができるでしょう。 もちろん、これは、心の中の秘密としてもっていることです。外に言いふらしたら、日本では、コテンコテンです。でも、心の内に、自己満足をしっかりもっていてこそ、生徒にも余裕をもって接しられるし、思いやりも持てるのです。リラックスもできます。そして、 リラックスは、万病に効く薬です。 残念ながら、日本の社会では、先生は、ほめられることは期待薄ですから、自分で自分をほめるしかないでしょう。唯我独尊、ジコチュウ・バンザイこれも、子どものためです!(共感いただけました方は、クリックをお願いします。)
2006.10.13
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教師をバッシングする風潮がありますが、科学寅さんが肌で感じる先生の問題は、「いい人」であるから生まれてくる問題であって、ある意味、チョイワル人間であったなら、解決できそうなことが多いと思います。 たとえば、イジメの問題にしても、「イジメの存在を隠そうとしている」なんて、指摘されてますがあれは、問題を起こす子の更正を考えているから、ああいう態度になってしまうのです。 ワル教師なら、問題児は、即、警察です。学校の中であろうと、社会で起きたことは、「犯罪」なのだ。と突き放してしまうべきです。 しかし、悪人をも愛す「いい先生」は、曖昧な態度を取らざるをえない。 おかしな主張の保護者に対しても、ズケズケとモノを言う。一部から猛反発を食らうでしょうが、本当は、全体としてそれが効果がある。そういう「ワル教師」が、必要です。と言うか、実は、当たり前の人間の姿なのですが。 しかし、「いい人」に対して、あなたは、いい人だから、だめだ。もっとワルになれ! とは言えないでしょう。(本当は、そう言ってあげればいいのです。)「もっと楽にして、言いたいことを言っていいよ」と圧力を減らす方向でしか、解決は無いと思います。 それを、社会は、よってたかって、先生への圧力を高める方向で、解決しようとしている。これは、悲劇であり、なぜ、もっと先生たちが怒らないのか、と不思議です。でも、そこを、じっと堪え、内に耐えてしまうところが、「いい人」なのです。 今、日本社会の良識が問われていると思います。モノ言わぬ「いい人」たちに、社会のヒズミの責任を全部負わせてしまっていいのか。せめて、先生たちの苦労を認めよう。認めるとはどういうことか。大人の認めとは、給与を上げることです。それを給与を引き下げるとは、何たることだろう。 これで、教育再生とは、人間の言う言葉だろうかと思います。 先生は、利を求めてはいけない、なんて、非人間的なことを土台にするからすべてゆがんでくるのです。善意は、利益の上に咲く花です。せめて、頑張れば頑張っただけのものがなければ。日本は、少なくとも、資本主義社会でしょう。 非人間的な教育者モデルに押し込められた教師が、ゆがんだ子どもや、親を皮肉なことに作ってしまうのだと思います。 少なくとも、少なくとも、こういう議論を堂々とできるくらい言論の自由が教育界や学校になきゃいけない。科学の進歩の必要条件でもあります。なぜ、再生論議に現場の意見を聞かないんだろう。現場への不信感が出発なら、末期症状としか言いようがないと思います。 (共感いただけました方は、クリックをお願いします。)
2006.10.13
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ゆとり教育の見直しがなされていますが、先生たちには、逆に、ゆとりこそが必要だと、科学寅さんは主張します。批判されるべき先生も確かにいますが、大多数の先生は、世間の想像以上に頑張っています。毎朝6時半には家を出て、帰宅は夜の9時近くという先生方がたくさん居ます。補習、生徒指導、教材研究、そして部活など、先生は本当に多忙です。しかも、企業では考えられないようなアナログな環境です。例えば、パソコンがないので個人持ちです。教科指導以外の事務処理がたくさんあります。同じ公務員でも役所などの一般公務員と教育公務員とでは全く違います。だいたい、役人のような態度や言動をしたら、すぐに問題になってしまいます。 科学寅さんにとっての活動の生命線は、自主研究の時間です。図書館に行き、イベントに行き、実験に明け暮れます。教える仕事というものは、その何倍も学習する必要があるのです。良い教師を育てたければ、自由時間を与えなければなりません。 これを、遊びに使うんじゃないか、なあんて、疑いの目で見る世間が嘆かわしいのです。遊んだっていいじゃないですか?今こそ、先生も人間に帰るべきです。遊びを知らない先生こそ、問題だと、指摘されてるじゃないですか。 それに、先生方の研修は、ほとんど自由の無い強制研修です。押しつけです。「勉強しろ」と言われてやる気が出なくなるのは、子どもも大人も同じです。 研修は、すべて、自主研修にすべきです。世界では、ほとんどがそうです。 そもそも教師が、自主的に学問する姿勢が無かったら、子どもに学問の楽しさを教えられるわけがないじゃないですか。 日本の企業の復活は、厳しいリストラの成果ですが、教育界のリストラは、先生に、さらにプラス何をさせるか、ではなく何をさせないか、という引き算の発想が必要です。 まず、中学教師の部活の指導は、やめさせるべきです。授業に専念させるべきです。教師は、生徒の小間使いではありません。 ちょっと方向転換してしまいました。でも、先生に注文つけるよりも、先に重要なことに気づいちゃったのです。 (共感いただけました方は、クリックをお願いします。)
2006.10.12
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先生の研究授業には、お偉い大学の先生が来ます。接待されて、授業を見た講評をし、講話を話されて高い講師料をもらって帰ります。 え~、寅さんは、自分の守備範囲から、はみ出すことは、できるだけ謙虚に?、発言しないようにと思うのですが、(これまで、これで、手を広げすぎて、痛い目にあってきた)先の投稿への自己レスだけ許してもらいます。(さっきの投稿も、逸脱だったよな) 教育学者は、自分で授業のシナリオを書いているのだろうか?先生方が、忙しい中、四苦八苦して授業を作ったものを批評するわけですが、学者は、自分の理論に基づいた授業シナリオを作って、それを先生方に試してもらうのが、本筋です。 で、研究授業は、本来、大学教授の理論の検討会になるべきです。あの先生のシナリオは、ここがおかしい。こういう問題点が出てきたと。 先生方は、特別、学者の研究に協力してやるのです。それで、有効が実証されれば、みんなで使いましょうということになります。授業のシナリオは、現場の先生しか、書けないというのは、幻想です。逆に、現場の先生は、毎日、毎授業、別のことをしなければならないので、一つの授業を、追い続けることは、不可能です。一つの授業を完成させるのは、学者の仕事です。その実証を先生に依頼するわけです。 先生方は、俳優なのです。俳優としての、技術は試されます。しかし、シナリオの欠点は、シナリオ・ライターの非なのです。 これは、一つのシナリオを多くの先生に試してもらうことで実証できます。8割方の授業で、成果を上げれば、有効としていいとか、2割で成果を上げなければ、それは「役者の問題」だとか特殊事情があるんじゃないかとか、分析できるわけです。 でも、もう、こんな寅さんに関係ないことを書くことはやめよう。もっと、自分の実になることを書くことにします。 (共感いただけました方は、クリックをお願いします。)
2006.09.30
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寅さんの実験教室は、どこにどのように座ろうとも、どんなスタイルでいようとも、一切OKです。たとえ寝転がってもいいのです。逃げ出しても構いません。(危険なポジションや行動だけは、避けさせますが)でも、95%の子は、目を輝かせて注目してくれています。後の5%の子も、「遠くで聞いていないのかな?」と思うと、山場になると、近寄ってきたり、後で、思わぬ鋭い感想を述べてくれたりします。その子なりに、ちゃんと聞いているのです。発言も強制はしませんから、全然話さない子もいます。しかし、そういう子も、感想文にすごいことを書いてくれるのです。子どもこそ、好奇心をくすぐることには、敏感な生き物なのです。ところで、学校と言うと、皆さんはどんな連想をするでしょう?「起立・礼」「右向け・右。前へ進め」「お話をしない。前を向く」などの一斉行動でないでしょうか?寅さんは、何も一斉行動自体を批判しているのではありません。寅さんの教室でも、結果として一斉行動になっている場合がほとんどです。しかし、学校では、一斉行動を基本原則として、すべてが成り立っています。一斉行動とは、集合や行進のように、命令によって身体を動かすだけではないですよね。 じっと座って動かず、長時間耐えるというのも、学校が子どもに要求する重要な一斉行動です。授業時間中、動かずに集中する子ども集団を統率することが指導力のある教師と呼ばれる条件みたいなものです。しかし、育ち盛りの活力にあふれた年代の子どもたちにとって、じっと動かずに長時間耐えよ、という命令は、かなりの苦行です。大人だって、改めて1時間座って前を向けと言われれば、耐えられるものでしょうか?それが、子どもたちですよ。授業の効率を上げるために、また安全を図るために、一斉行動が必要なことは、言うまでもありません。しかし、それは、結果として表れるものであって、最初から、一斉行動が自己目的化する必要は無いように思います。問題は、一斉行動からはずれた場合、命令に従わない子どもが悪いことになることです。本当は、黙っていても、意図した方向に誘導できる引きつける力を教師が持つべきで、その足り無さとして、認識すべきなのに、その教師の問題が、子どもに転換させられてしまっているのです。世間のお店で、お客が店主の意図した通り動かないからと言って、お客を叱りますか?店側が反省して、環境や対応を改めるでしょう。そういうと、決まって、服従を学ぶことが大切だ、という反論があります。それは、目的が違うのです。目的が違えば、手段も違います。服従を学ばせたければ、それ専門のカリキュラムにすればいいのです。学問をさせたければ、その目的に添った手段を取るべきです。で、実は、学問は服従の世界では、育たないのです。自由こそが、植物にとっての水と太陽のように、必須条件なのです。では、これをどうやって、学校に根付かせるか?おっと、時間がなくなりました。
2005.10.10
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担任の先生が替わった、例の1年生のクラスで、先生が泣く事件が、また起きました。と言っても、生徒が先生を騒いで困らせたわけではありません。生徒の一人が、休み時間に、校庭のコンクリートにアタマをぶつけて、病院に連れていかれたのです。後頭部をしたたか、ぶってしまい、意識はあるのですが、実際どのくらいのダメージだったのか、よくわかりません。寅さんも、現場にいなかったし、そのドタバタが聞こえないところにいたので、生徒の様子もわかりませんでした。担任の先生方が、いろんな手配をしている間、寅さんは、また、例によって、実験クイズで、教室に残された生徒の、時間をつぶしてあげていました。(今日は、何をやったかは、後でお知らせします)しかし、その途中で、一旦クラスに戻ってきた先生の姿、その落ち込みようと、涙は、数ヶ月前の前担任の先生をありありと思い浮かばせるものでした。寅さんの心をス~っと青いものが通りすぎていきました。病院へ送りだし、戻ってきた先生の姿。まだ、検査の結果はわかりません。給食の時間、やはり、前担任と同様、一つも箸をつけません。私は、さらに、冷たいものが心を通過し、大食いの寅さんも、よく味わえないで食べています。一人の生徒が、みんなを笑わせようと、ギャグを連発しています。そんな時、保健室の先生が、検査の結果、すべて大丈夫だったことを伝えに来ました。廊下に飛び出す先生。保健室の先生と抱き合う先生。先生はようやく、自分の皿に食事を盛りました。さらに、おかわりを薦めに、バケツをもって、まだ、食べられそうな子の皿に、おかずを盛ってまわっています。私にも、ドサっと二人前、盛っていかれました。その時の先生の目にあった涙を、私は決して忘れないでしょう。自分の責任になるから、心配なのだ、という見方もあるでしょう。また、学校の管理責任を追及する見方もあるでしょう。いずれも、正しいと思います。しかし、それらを踏まえても、なお、私は、先生に手を合わせずにはいられませんでした。たかが人気投票、されど人気投票。皆様の暖かいお心を、プチっと一発。 寅さんの、目からウロコのメルマガをどうぞその1.「子どもの学校を365倍楽しもう」学校を遊んじゃおう!その2.「幸せ上手は子育て上手」人生を遊んじゃおう!よろしくお願いします
2005.01.26
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別のテーマで書き出していたのですが、紙面変更!ある方に、緊急に送ったメールを転載します。ある中学校で、教師の不祥事が発覚して、それについての、学校説明会が行われるということです。その教師の態度は、2年前から、異常だったのに、管理職が注意をするどころか、助長していた節もあります。ある保護者が、この際、学校(特に校長)を追求するにはどうしたら良いか、というご相談を下さったものですから、それに、緊急にお応えしました。私は、事情をしっかりつかんでいるわけでもないので、全面的に正解ではないと思いますが、考えの整理に使っていただけたら幸いです。:*.;".*・;・^;・:\(*^▽^*)/:・;*.;".*・;・^;・:\(*^▽^*)/:・;^・;・*.";.*: ところで、ヒドイ話ですね。根本的にヒドイですね。私は、この場合、本気でケンカしないことをお薦めします。お子さん本人が被害を受けたわけでもなく、校長が、本当にそう言ったのか、証拠があるわけでもないからです。ほとんどの場合、先生の不手際を指摘し、怒りにまかせて責任追及しても子どものためにはなりません。先生の態度は硬化して、ご心配の通りに、お子さんを見る目もおかしくなり、人の意見を聞く耳もなくなってしまいます。心もアタマも固まってしまうのです。どちらにしても、良い結果は出ません。いろんな問題を校長が協力して解決してくれないときは、教育委員会の助力を仰ぐしかありません。教育委員会の敷居はそんなに高いところではありません。手順に沿って、要望書や申立書などを出しておけば、その問題に対する担当者が決まって、いつでも相談に行けます。むしろ、どうしようもない校長を相手にしているより、結果はすぐに出ます。担任や校長を怒らすと直接子どもに仕返しされる心配がありますが、教育委員会は直接子どもに手出しできない分、モノが言いやすいと考えて、気楽に訪問しましょう。教育委員会の指導課の人たちは、現場の先生を経験していますので、あなたの言葉を学校の先生に分かる言葉に翻訳して校長先生たちにあたってくれます。先生に対してどう言えば分からないときなども、うまい言い方を教えてくれます。校長とケンカになれば、取りなしてもくれます。ただ、その場合でも原則として、担任→校長→教育委員会という順番は守らなければ 話を聞いてもらえません。上にお願いするときは、どうしても感情的になって担任や校長をこき下ろしがちです。しかし、「辞めさせろ」「責任をとれ」「指導しろ」などとは言わないことです。それらは、事実が明らかになれば、教育委員会がせざるをえなくなります。あなたが矢面に立つと、かえって物事はすすまなくなります。その上で、1.校長先生や担任と、あなたのやりとりを、忠実に再現した会話内容を、 マメにその都度、メモし、FAXや届け出文書で報告する。2.学校にも、届け出文書を、出し、頻繁に会う3.学校に出したものと同じものを教育委員会にも添付し、学校と交渉した内容を 報告、FAXする。これらをマメにこなす覚悟が必要です。そこで、明日の作戦ですが、こういう保護者会は、全くの不毛です。絶対に収穫はありません。保証します。せいぜい、どんな言い訳を学校がするのか、聞いて、メモをとっておきましょう。そして、どうしても腹に据えかねるときはユーモアの振りかけを、いっぱいかけて、事実確認だけをしましょう。相手が笑いながら、ポロっと、口をすべらせたらこっちのもんです。すべて、その後で、事実をまとめて、届け出文書で質問してから始まります。くれぐれも、明日は、突出しないようにすることをお薦めします。ではでは。:*.;".*・;・^;・:\(*^▽^*)/:・;*.;".*・;・^;・:\(*^▽^*)/:・;^・;・*.";.*: ご相談いただいたこと、うれしかったです。皆様、ぜひ、お気軽に、グチをこぼしに来てください。ただ、昨日の日記でも書きましたように、私の考えも、一つの参考でしかありません。ご自分が主人公ですよ。たかが人気投票、されど人気投票。皆様の暖かいお心を、プチっと一発。 寅さんの、目からウロコのメルマガをどうぞその1.「子どもの学校を365倍楽しもう」学校を遊んじゃおう!その2.「幸せ上手は子育て上手」人生を遊んじゃおう!よろしくお願いします
2005.01.24
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私は、努力するのは、エラくないと思います。辛いことをガマンする意味で使われるとき、そう思います。 こう言うと、「ガマンを覚えさせるのは大切だ」、といわれます。ガマンは大切です。が、ガマンにも二つあります。自分を生かす楽しいガマンと、自分を傷つけるツラいガマンです。 精神論で教育は、しばしば語られますね。「学校の先生は、もっと情熱をもって、教育するべし!」と。 文部科学省も、PTAのエライ人も、先生がたるんでいるから、問題が起きるんだ、と。 本当でしょうか? ひねくれものの寅さんは、この精神論こそ、学校をおかしくし、子どもたちを苦しめる犯人だと思っています。先生への、間違った「努力のすすめ」が、子どもたちを虐待し、さらには、先生を傷つけています。 きのうの日記で、「好奇心」と「学び続けること」を書いたので、もしかすると、もっと、気合いを入れろ!というメッセージって誤解された方もいるかもしれません。 逆なのです!「力を入れましょう、」ではないのです。「力を抜きましょう」って言いたかったのです。 好奇心をもって、学ぶということは、(昨日の引用) 『ハタから見ると、難しいことをしているようだけれど、本人は、全然苦しくも何ともないこと。』です。 もし、あなたが「努力しているな~、」「私ってエライ」って思ったら、もう、その時点で、アウト!ですよ。 むずかしいようで、カンタンです。「好奇心がいきいき」とは、「遊び」そのものなんです。中には、「遊び」をマジメにして、苦しんでいるトンチンカンな人もいるでしょうが…。 たとえ苦しいことがあっても、とても、「苦労している、」な~んて、おこがましくて言えないというより、そんな単語を忘れてしまいます。 そういう状態に学校がなって欲しい!なるべきだ!なれる!と思うのです。寅さんは、大まじめに、日本の学校のマチガイのそもそもの始まりがここにあると思うのです。 学校で、好奇心が養われていないということは、とってもとっても深刻なことです。 「ゆとりだ!」「学力だ!」とさわいでいますが、どっちも、あっち向いてホイです。 子どもの目を輝かす授業を開発することです。 目がキラキラしているとき、頭脳は全開状態なのです。エンジン快調です。 ところが、授業中のあのドンヨリした目は、なんでしょう?あれは、ただ、わからない、とか、やる気がない、という問題ではありません。 子どもの健康な精神を、腐らせる恐るべき虐待です。耐えることを学ぶため?ガマンすることを学ぶため?もし、そんな言葉で、今の学習を認めているのなら、それは、学問をとても侮辱しています。いや、人生そのものを、汚しています。先生には、もっと人生に、まっすぐに取り組んで欲しい。青空、ブルースカイへの道先案内人であってほしいです。子どもたちが、あこがれる大人が、身近にゴロゴロしていたら教育問題なんて、とってもカンタンなはずです。大人の心に、好奇心への、雲ひとつない空を作ってほしいものです。 精神の問題は、何かを付け加えるのではなく、ゴミみたいな人生観を捨てることが、解決するのです。 そうして、はじめて、、技術の問題にチャレンジできます。みんなで技術開発に熱中しましょう。教え込むための技術ではなく、ワクワク・ドキドキをひきだす技術を。目を輝かせる技術を。人間解放の技術を。遊び心でね。∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵ 先生は、どんどんSOSを出して! ∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴ マジメな先生のお顔は、いつ見ても、かたいです。学校は、気を使えば使うほど、ストレス製造工場になってしまいます。「この先生は、ストレスいっぱいだな~」「無理をしてるんだろうな~」っていう先生がウヨウヨいます。 私たちの心は、無理が重なると、必ず何らかのSOSを発信するそうです。 臨床心理学の先生が言っておられました。 自分でも、それと気づかないうちに「何とか助けてほしい~」ってメッセージを出しているのです。 私には、学校でその声が、ビンビン聞こえます。ノーノー。私、霊能力は無いですよ。私がお気楽な立場だからでしょう。見えちゃうのです。 ところが、歯を食いしばって頑張っている人。弱音をはいてはいけない、と思っている人。負けてなるものか、と思っている人。「教育はこうあらねばならない!」って思っている人。「先生は、こうあらねばならない!」って思っている人。 こういうマジメな人は、自分の心の状態について、とっても「鈍感」になってるんですね。 自分の苦しみに気づかないだけなら、まだ良いのですが、もっと重大な問題は、他人の痛みにも、鈍感になってしまうことです。 そうでしょう。自分のさえ、わからないんですから、他人の微妙な心のヒダに、反応できません。そして、大切な子どもの心にも……。 この日記のテーマから、はずれますが、学校の先生、マジメにならないでください。うまいこと言えませんが、肩の力をすっかり抜いて、ボヨンボヨンになったときそういう時こそ、インパクトのあるパンチが出せるのだと、そう、ボクシングを大学で習ったときも、教えられました。 私は、学校で、人気があると思っていますが、生徒にサンドバッグにされることを、モットーとしています。物理的にも、叩かれますが、それだとタダ痛いので、生徒が発信した、メッセージに、確実にダメージを受けましたよ~、というメッセージを返してやります。たとえば、生徒が手で、ピストルを撃つマネをします。「ドキューン」と。そうすると、わたしは、確実に死ぬのです。あのジーパン刑事のように。ピストルじゃなくても、子どもが、「メっ」てにらんできたら、ハートがグサッとなったジェスチャーを返します。生徒は、自分の発信するものが、ちゃんと受けとめられると精神的にとっても安定します。これって、うるさい子をこっちのペースに引き込むコツです。おっと、もっと書きたいのですが、今日は、消防の出初め式。なんと、寅さんは、老骨にムチ打って?昨年から消防団なんですね。でも、何も、ハシゴの上で、「ハイ!」はしません。この町内会でも、団員は、70以上のじいちゃんと若手??が私を含め2人だけ。これで、どうしろと言うのだ!宮沢賢治じゃないけれど、ただオロオロするばかりかも。で、とりあえず、行ってきます。オーさむ。:*.;".*・;・^;・:\(*^▽^*)/:・;^・;・*.";.*: で、帰ってきました。昨年も、日記に書きましたが、どうしても、寅さんは、消防団の軍隊式は、ついていけません。地域を守りたいと思いますが、もっと良い方法がい~っぱいあるのに、あの、十年一日の「伝統的な」スタイルは、なんなんだ!!あれは、指示がないと、な~んにもできないロボット人間を高いお金で作っているんですよ。現代の災害では、現場で、一人ひとりが自主的にどう判断してピンチを切り抜けていくかが、問われているのです。判断力の訓練をしないで、何の役にたつのでしょう。日本の教育のエッセンスを詰め込むとこういうものができる、という見本ですね。あれで、本当に大切な人々を守ろうというのでしょうか?神戸でも、新潟でも、ボランティア・NPOが活躍してますが、お役人は、役に立たないとつくづく思います。市民の皆さん、たいへんですよ!市民は、市民の力で守らなければ、誰も助けに来てくれませんよ。子どもたちも、市民の力で育てましょう。子どもたちが、学校行政のおかげでおかしくなっても、誰も助けてくれません。学校も市民の力で、自前の学校を作りましょう。話がそれました。明日の日記で、軌道修正をはかります。わぁ━━━ヽ(○゚ー゚ヽ(○゚ー゚○)ノ゚ー゚○)ノ━━━ぃ♪かめおかゆみこさんのメルマガで紹介してもらっちゃいました。ありがとうございます。ビシバシご指導お願いします。ぜひ、実験材料に私を使ってください。子育て・教育メルマガの先輩の皆様、ご指導をお願いいたします。ご意見お待ちしています。 寅さんの、目からウロコのメルマガをどうぞその1.「子どもの学校を365倍楽しもう」学校を遊んじゃおう!その2.「幸せ上手は子育て上手」人生を遊んじゃおう!よろしくお願いします 皆様の助け合い運動をお願いします。プチっと一発。
2005.01.08
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学校は、教科書を勉強するところだと思っていませんか?学校を見るキーポイントの一つは、「教科書に頼った授業をしているか」です。その前に、…X君のものがたりの続きを∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵ はじめて虐待現場を見た∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴大晦日に、約束もなく来られた、お母さんと小さな男の子。それと、忘れていました、妹が抱かれていました。 男の子はお母さんと手をつなぎながら、こちらを見上げています。 この時、小学2年生でした。 私は、きっと早めのあいさつなのかと思い、ドキマギしながらニコっと迎えました。 ところが、次に聞いた言葉に耳を疑いました。「お正月この子を預かって欲しいんです。」「は?」「預かっていただけると聞いたものですから」「は?」「この子と一緒では、私、お正月耐えられないのです。」そして、話しはじめた、子どもに対するグチ。グチ。この子のために、私がどんなに苦労しているか、を延々と、涙ながらに話はじめたのです。お母さんが、この子のために苦労してると、泣くんですよ!<それも、わが子の前でですよ!!>私は、それまで、虐待ということを知識では知っていましたが、目の前で見たのは、初めてでした。これは、あまりにもムゴイ虐待です。手こそ出しませんが、言葉の虐待が、子どもの魂をズタズタにしているのです。私は、怒りが100%いや、200%に達しました。(でも、あとから聞くと、お母さんも精神科に通院していたのです)(つづく 書きながら、また興奮してきちゃいます)∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵ 生徒指導が学校の本業ではない、∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴ 先生に対して、もっと情熱をもってくれ、と言っても、先生も何に対して情熱をもち、どのようにすればよいのかわからない、というのが正直なところでしょう。 と言うのも、先生の仕事と言われるものは無数なのです。限度も無いのです。 ヘタに、ガンバレと応援しますと、生徒指導に情熱を注ぎ、生徒の取り締まりの鬼となったりします。 私の知る範囲では、学校には事実上勤務評定がありません。そりゃ、目標と結果の反省はなされています。最近、動きもあるようですが、まだ本格的ではないと思います。少なくとも、社会一般で言うところの勤務評定は無いと思います。 もし、ありましたら、どなたかお教えください。 「そんなバカな」、ですよね。これでは、頑張っている先生が可哀想です。何より、何が大切な仕事なのか、わからなくなります。先生の仕事の本末転倒を生みます。 あるところで登校拒否した子専門の高校がオープンしました。「排除しないこと」をキャッチフレーズに全国から生徒を集めました。全寮制です。先生も、全国から熱心な人が自主的に集まりました。 ところが、一学期が終わる前に、生徒たちの半分近くが授業に出なくなってしまったのです。寮ではいじめが起こってしまうし、いじめられた生徒は家に帰ってしまうし、いじめた生徒は停学処分にせざるをえなくなっちゃったんです。 なんでこうなっちゃったんだろうと、熱心な先生たちですから、夏休みの間、真剣に反省をしたようです。 その中でわかったことの一つは「授業が決定的におもしろくない」ということだったのです。実際に自分たちで模擬授業をしてみたところ、「これじゃ、生徒たちも来たくなくなる」という授業でした。 先生たちは、すぐに授業改善に取り組んで成果を出しているそうです。 熱心は熱心でも、生徒指導に熱心だけでは、問題行動は改善できません。 授業こそが、先生の仕事の本分であり、命のはずです。∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵ 教科書にたよっていないか?∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴ 学校の問題のほとんどは、授業のつまらなさから起きています。小学校・中学校・高校であれ、大学であれです。退屈だと思いませんか? 単純すぎるし、自分の生活との関係もわかりません。 先生は、みんな、「良い授業をしている」と思っています。しかし、 良い授業かどうかは、生徒の反応で決まります。 世のメーカーは、良い商品を作って売ろうとしています。しかし、そう簡単には売れません。そんなとき、「この商品の良さをわからない消費者がバカだ」と言うでしょうか?生徒の評価を授業づくりに生かさないで、良い授業やカリキュラムができるわけがありません。現場の先生が、生徒と対話をしながら作るしかありません。(最近の授業研究では、生徒の評価をしっかりとっています)少なくとも、現場にいない教科書の執筆者に、カリキュラムのほとんどを頼っていいものでしょうか?教科書づくりには、現場の先生がほとんどタッチしていません。目の前の生徒が活き活きと好奇心を満たしながら、自分の問題として智恵を獲得していくプロセスは現場の先生しか作れませんよね。 教育のシロウトは勘違いしてしまいがちですが、学校は教科書を教えるところではありません。学習指導要領の目指すところを教えればいいのです。教科書は一つの道具に過ぎないのです。 ですから、良い授業を作っているかどうかの目安の一つに教科書に頼った指導をしているかどうか、があると思います。 授業がつまらないのは、教科書のせいでは決してありません。先生の能力のせいです。そして、良い授業かどうかは、生徒が判断する事です。決して、わからない生徒が悪いのではありません。 ここのところが、根本的に学校では、ひっくり返っています。∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵ 子どもが変わったから?∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴学級崩壊や問題児が増えますと、決まって、「子どもが変わってきた」「子育てが変わってきた」と嘆きの言葉が、学校では聞かれます。私は、思わず、ちょっと待って!と言いたくなります。一般の会社で、「消費者が変わったのが売れない原因です」と言い訳するでしょうか?そんな発言をする社員は、すぐ飛ばされます。お客は変わるのが、当たり前なのです。お客の変化についていけないのを、怠慢経営と言うのです。変化をつかむために営業マンはいるのです。どんどん変わっている子どもや家庭環境に合わせて学校のシステムや教え方もどんどん変えるのが、全く自然です。塾や予備校で、学級崩壊なんて聞きませんよね。「授業のベルがなっても、席につかないんです」「授業中におしゃべりをして困るんです」とっても厳しいかもしれませんが、この言葉を先生は、少なくとも父兄には言うべきではないと思います。フーテンの寅さんは、「これを言っちゃあ、おしめえよお。」っです。 子どもは立って歩くのが当たり前です。それを授業に集中させるのが、プロの仕事なのです。そのために税金から高い給料と身分の保証をもらっているのです。 先生としての最低限のプライドだと思います。現に、崩壊したクラスを、魅力ある授業と指導力でもって、あっという間に立て直せる先生が存在するんですから。(今日は、ここまでです。また長くなってしまいました。年末のお忙しいところありがとうございます。明日は、もっと希望のもてるお話を) 皆様のおかげで、な、なんと25位に入ってきました。思わず飛び上がってしまいました。引き続き、よかったら、ブチっとお願いします。人気blogランキング
2004.12.30
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これからは、「良い学校」を見極める目が大切です。 私立に限らず、公立学校も、校長先生の考え方で、ガラっと変わった学校になる時代です。 学校の選択制の幅も広がってきています。 たとえ、選べなかったにしても、その学校の特徴をつかんでおくことは、「敵を知る」意味で、戦いを有利に運ぶ秘訣です。 しかし、教育にシロウトの私たちが、学校を評価しようとしても、何を基準に善し悪しを言えば良いのか、分かりませんよね。学校のどこを注目したら良いのかさえ、わかりません。 だいたいにおいて、「良い学校」という意味も、普通は、先生にとって都合の良い「良さ」」になっています。または、親のエゴにとっての「良い学校」であることがあります。そうではなく、「子どもたちのとって良い学校」が大切です。 さらには、子どもは一人ひとりニーズが違うのですから、どの子でもなく、「わが子個人にとって良い学校か」どうかが最も大事であるはずです。 この意味で、一般的な学校案内を鵜呑みにしてはいけません。 もちろん、完璧な学校はどこにもありません。ですから、今後、よりわが子に合った学校の生活を学校側と協力して創り上げられる可能性のあるところ、を探し出したり、働きかけたりすることが現実的な作業となります。 週二回のペースで、私が多くの学校を訪問して身につけた、学校や先生を見るポイントを独断と偏見でお伝えしちゃいます。 「校長先生には、何を質問すれば良いのか?」 「何をほめれば喜ぶのか?」これも知っていると、何かととても有利ですよ。 映画の予告編みたいですが、お楽しみに!よかったら、ブチっとお願いします。人気blogランキング
2004.12.20
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