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子どもの脳は、不思議なコンピューター。ソフトウェアが、ハードをつくっていく。情報によって、脳ミソの在り方が変わっていくんだ。 ドンドン変わる可塑性とともに、非可逆な運命ももっている。これは、恐ろしいことです。 だから、幼い時に、どんな情報やソフトに触れるかどの部分を刺激するか、これは、とってもとっても重要なんだ。だから、教育の緊張感はここにある。 バーチャルな刺激に慣れると、脳ミソは、バーチャルに適応した脳ミソになる。当然です。バーチャルに対応した身体感覚をもちます。リアルとバーチャルで、バーチャルが心地よければ、当然、そこに入りこむ。そして、出てこれなくなる。 知識は感情と一緒になって、はじめて理解されると言う。しかし、感情は、脳ミソでは、「理解」されるが、「感じる」ことはできないそうだ。感情を「感じる」のは、身体のリアルな働きなのだそうな。 リアルな身体感覚を失うと感情を頭では理解しても、感じることはできなくなる。それは、知識の本当の理解への大きな障害だ。 子どもとIT環境との接し方は、食品添加物への注意以上の警戒が必要のようです。、
2010.05.31
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問題のある子と接していて、心がけているのは、どんなにその子がひどい状態にあろうとも、「より良く生きたい」と希望の炎を、かすかにでも、必ずもっているということです。 そして、その炎を大事に大事に、守り育てなければならないということです。 今にも、くすぶって消えかけている火をどうやって再び勢いのある炎に戻すことができるのでしょう? 昨日、大人は、見本を見せなければと書きましたが、それより前に、緊急事態のときに心がけなければならないことは、子どもの気持ち(たいてい、スゴイ・ネガティブです)を受け止めることです。 ネガティブで、問題いっぱいでいいですから、まずは、共感することだと思います。共感しなければ、炎が消えてしまうのです。ここでは、私の人生論や、励ましは必要ありません。子どもの心に寄り添い、子どもを支持するのです。 問題生徒は、ともすると、学校の中で誰も支持してくれない、心に寄り添ってくれていないのです。だから、逆に誰でもいいから、寄り添ってくれるとんでもない人間についていってしまうのです。 子どもの心が十分に回復してきたら、はじめてプラスの言葉が効果をもってきます。 子どもも、何が問題かはわかっているのです。そこをズケズケ指摘されても、逆効果というもんです。 共感した上で、子どもの方を向かないで、つまり「あなたメッセージ」にしないで、一緒に、面白い方向を見て、指導者が「私メッセージ」で活き活きと生きてみせればいいのです。 この共感する力と言えば、麻生総理のこの度の発言「元気な高齢者をいかに使うか。この人たちは皆さん(青年会議所のメンバー)と違って、働くことしか才能がないと思ってください。働くということに絶対の能力がある。80過ぎて遊びを覚えても遅い。遊びを覚えるなら青年会議所の間くらいだ。そのころから訓練しておかないと、60過ぎ、80過ぎて手習いなんて遅い」という言葉。 二重三重の意味で、KYだと言えますし、共感する能力の無い人が政治家になる悲劇をここに見ます。 でも、麻生さんだけを揶揄してられません。学校の朝礼や式辞のとき語られる言葉子どもたちにとって、いかにKYか、共感できてますか? あえて、意識的に共感していないとしか、思えないことばかりです。こちらは、子どもたちに共感しないで、子どもたちが、大人の論理に共感するべきだ、というのが教育のあるべき姿だ、と思っているのでしょう。 どんなに素晴らしい理屈や倫理でも、相手に受け入れてもらえなくては、門前払いで意味がないのです。それでいて、子どもは生もので、待ったなしなのです。
2009.07.27
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ネット環境が復活しました。ご迷惑をおかけしました。これから、リカバリーをしますよ。 図書館で、ふと、ゲームの理論に目を通しました。そこで、有名な「囚人のジレンマ」の「必勝法」なるものに、心がひっかかっりました。 囚人のジレンマとは、共犯者二人が、別々の牢屋に入れられて、自白をするか、黙秘を続けるか、で得られる利益(損失)が決まるゲームです。 二人とも、相手を裏切らないで、黙秘を続ければいいのですが、自分だけ、自白をしてしまうと、自分は有利になります。自分は、黙秘をして、相手に裏切られれば、最悪です。 この状況で、コンピュータープログラムでの意思決定で無数のシミュレーションが行われました。その結果、どのプログラムが長期的に、最も有利だったと思いますか? 実は、どのプログラム相手にも、勝てないプログラムだったのです。つまり、誰にも勝たない人が、最終的に、最も得点が高かったのです。 具体的には、いたってシンプルなプログラムです。ものすごい、高度なプログラムがいっぱいの中で、小馬鹿にしたような単純さです。 最初は、どんな時も、誠実、つまり黙秘です。次は、相手の前に出した手をまねるだけです。信頼には、信頼で応え、裏切りには裏切りで応えるのです。 結局これが、大負けしないで、総合得点で一位になるのです。 この社会にも、囚人のジレンマは多いですね。そんな中で、まず、誠実を打ち出す。しかし、でくの棒のように、どんな時でも、誠実一辺倒では、あっという間に、最下位です。だから裏切りには、裏切りで返す。 こうしていくと、相手に勝つことはできないけれど、結局、一番、生き残れるのかもしれません。 ただ、これは、コンピューター実験であって、感情は伴いません。人間にやらせた実験結果もあって、人間の場合、コンピューターよりも、裏切りが多かったそうです。しかも、後半になると、裏切りが増える傾向があるのです。 さらに、一般人よりも、経済学の学生の方が裏切り率が高かったそうです。この学生たちは、このゲームの趣旨もわかっていたのですが、だからこそ、裏切りたくなるのでしょうか。どれが、得かよりも、裏切りたい欲望に負けてしまうのでしょうか。これこそ、人間のジレンマですね。
2009.07.10
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子どもに教えようとすると、防衛体制に入ります。そのバリアを取り除かなくては、話になりません。 でも、どうやって? 最近気づいたのです。相手に不足を見ているうちは、ダメだって。 この子は、ここが欠けている、ここが、ダメだ。だから、これを教え込まなくては…。 これは、あり地獄の道なのです。 子どもの内に、満載の知恵と光を見るべきです。 そうすると、子どもに教えることは、何も無いことに気づきます。 そして、教えるんじゃなくて、一緒に学ぶんです。一緒に遊ぶんです。 子どもに私の背中を見せる、って姿勢さえ、押しつけです。 こちらは、ただ純粋に、面白がって「これ、知ってるかい?」「イッヒッヒッヒ」としてればいいのです。 相手に迫ろうなんて、これっぽっちも思わなくていいのです。 要は、こちらがどれだけ、楽しんでいるかどうかなのです。もう、夢中になっていればいいのです。 子どもの内に、欠けた点を見つけて、気になって仕方がないというのは、実は、教師が自分の内に、満たされないものを持っているからなのです。 まずは、教師が満たされることです。幸せいっぱいになること。 以上が、最近、子どもたちに教えられたことです。
2009.01.16
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教育って、子どもに何かするもののように思われていますが、もしかしたら、子どもを通して、自分を耕すことに本筋があるように思えるこの頃です。 「そんなこと、分かり切っている!」「今頃、気づいたか」、ってお叱りを受けそうですが、私も、もちろん、自己教育の側面は、十分に認識してきたつもりです。 でも、あくまで、それは、オマケの効果だと思っていたのです。 ところが、実は、オマケなんかじゃなくて、それこそが、メインディッシュなんじゃないか、って気づいたのです。 教育の最大の目的は教師や親が、自分を耕す、自分の傷ついた部分を癒す自分の中のポッカリ空いた穴を埋めることであり、子どもたちは、それを応援してくれる、ありがたい素材なんだと。 さらに、別の角度から見れば自分の前に、問題をかかえた子どもが現れるというのは、私に、何かを気づかせて、何かを修復しろ!と迫ってきている証拠なのであって、そこを解決しないと、いくら、子どもにあれこれ言っても、子どもの問題も好転しないのです。 何か、「鏡の法則」に似てきましたね。でも、本当にそうなんだよな、って思うようになっちゃいました。だって、認識論から言っても、量子物理学の論理から言っても、この宇宙は、「私」が造っているんですから。 森羅万象、すべて、私の身の回りのことは、あえて言えば、中東の戦争も、私のために起こっていることなのです。私の宇宙は、あなたとは、違います。人それぞれが、宇宙をもっています。それは、それぞれ、あなたのためのメッセージなのです。 だから、あくまで、敵は本能寺なのです。今、多くの受験生とご縁をもたせてもらっています。一人一人の顔が浮かびます。 この歳になって、はじめて、生徒のために祈ることができるようになりました。私の陰での思いや、自己改革が、確実に生徒に伝わっているのです。生徒の何倍も勉強すべきこと。生活をビシバシすること。 また、子どもの頃からの癒されていない、私の圧迫され続けた部分押し殺していた部分に、光を当ててそれを愛してやること。 本当にありがたいことです。生徒ひとりひとり、うちの子どもたち一人ひとりが神様の使いです。
2009.01.05
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フィルターをかけ直すと、世界が違って見えます。現代の物理学が明らかにしたフィルターをかけますと、私たちの世界は、物体というものは、それぞれ、分離独立しているように見えるのですが、実は、そうではない!ということが見えてきます。 これは、とんでもないフィルターです。 物質をとことん掘り下げていくと、分離独立の性格が消えてしまうのです。 ただ、時間と空間に広がった、奇妙な関係性だけが残るのです。 アインシュタインによって、「風変わりな遠隔作用」と呼ばれシュレディンガー(量子論の草分け)は、この特殊な作用を「からみあい(エンタグルメント)」と名付け、「これこそが量子力学の特徴だ」と断言しました。 遠く離れた粒子同士にも、生じるこの「からみあい」。この作用は、通常の時間経過を超えてすみやかに働きます、 普段、私たちが物体を分離独立して見えているのは、私たちの知覚に限界があるからなのです。つまり、分離して見えるのは、ある種の幻覚なのです。 物理学者たちは、からみあいが宇宙全体に広がっているのではないかとも想像しています。つまり、宇宙のものは、ことごとくからみあっているのです。 常識的なフィルターの反し、私たちは、全体として、ホールとして、深く相互に結びつけられた世界にいると推測されているのです。 あなたと、この科学寅さんとも、「からみあって」いるのです。それが嫌悪を催すか、どうかは別としてね。 そこから、すごい世界観が広がってきます。(続く)
2008.11.28
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今の教育環境で、子どもたちが、悪いストレスを完全に避けて暮らすのはほとんど不可能と言えるでしょう。だったら、悪い環境を回避することも大切ですが、それ以上に、多少のストレスを受けても、それを不快と感じないような体質につまり免疫力を養わせることが、最重要課題なのではないでしょうか?大人も子どもも、ものの考え方、感じ方を少し変えただけで、「どうして今まで、こんなことにこだわっていたのだろう」と不思議な気分を味わうものです。これが、フィルターの修正です。問題に行き詰まっている子には、まず、自分のフィルターのクセがストレスを生み出していることを自覚させたいものです。自分の考え方の癖を自覚すれば、見方、感じ方をコントロールしやすくなります。フィルターのついたメガネを取り替えやすくなります。問題の渦中に、身を放りだしてしまうのではなく、一つ高いところから、自分を見ることができるようになります。たとえば、最近中学生にも多いうつ病の患者さんには考え方の癖があると言われています。うつ病の患者さんが陥りやすい考え方のパターンは・白か黒か、100か0かどちらかしかない・1つの出来事をすべての物事にあてはめる・良い出来事を否定してしまう・とんでもなく飛躍した結論を出してしまう・自分の感情で状況を決めつける・~すべきだ と考える・自分を否定する・すべて自分が悪いと考える また、誰でも、ストレスがたまると、私たちは次の3つの面において悲観的な感情を抱くようになると言われています。パターン1・自分に対して悲観的 「こんなに簡単なこともうまくできない自分は、ダメな人間だ」などと、頭から自分を否定するようになる。パターン2・周囲に対して悲観的 「周りの連中も自分のような人間と付き合うのは嫌に決まっている」と思い込み、引っ込み思案になったり、逆に他人を恨んだりする。パターン3・将来に対して悲観的 「これから先もいいことなんてひとつもないだろう」と考え、不安感にとらわれる。それが昂じると、自分で自分の命を絶ってしまうことも...。 このような偏った考え方や感情は、心身や行動に重大な悪影響を及ぼします。これから逃れるには、まず、自分がどんな考え方の癖を持っているか、冷静に上から眺めてみることが大切です。私も、ときどき、得も言われぬ憂鬱に陥ることがあります。そんな時、何が、自分をそういう感情に導いているかを、冷静に矢印を書いて分析していくと、周囲の理解を疑って、悲観的になっていることに気づきます。「どうせ、みんなわかっちゃくれないんだ。」って勝手に思考が流れているのです。(自動思考)これは、私の小さいときからの疎外感の積み重ねが原因のようです。もちろん、これらの考えは、ほとんど客観的な根拠がなく、実際は、周囲の暖かい支えで、現在があるわけで、もっともっと感謝をしなければならないのに、フト、気を許すと、孤独に陥っています。 問題解決を早めるためには、偏った考え方をやめ、柔軟で現実的な思考に変えることが重要です。 以下の項目を紙に書き出してみることをお薦めします。 1.その場の状況 2.そのとき感じた気分や感情 3.その瞬間、浮かんでいた考え(自動思考) 4.自動思考を裏づけ、根拠となるような事実 5.自動思考をくつがえすような事実 6.上の項目から考えられる、より視野を広げた、バランスのよい考え方(適応思考) 7.考えを変えた結果、気分がどのように変化したか この作業をおこなうことによって、次第に自分の考え方の癖に気づくようになります。代表的な癖は、「自分はダメな人間だ」「すべての人に愛されなくてはならない」「他人はみんな自分を利用しようとしている」などのようです。自動思考は、この癖から生まれてくるようです。 これらは、心の奥底に眠っている思い込みです。この癖を認められたら、こっちのものです、自分の心について客観的に知ることができたら、フィルターを取り替えることによって、実際に直面している問題や、人間関係のこじれを解決することも可能になります。最終的には、癖そのものも克服することができるでしょう。問題は、癖をもつ「あなた」にあるのではなく、「あなたの考え方の癖」、フィルターにあるのです。これで、また、自分を責めないようにね。人は人を変えることはできないですが、自分で気づくと、考え方を変えることはできます。 不登校の子を中心に、こんなことを試しているところです。
2008.11.25
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私は、子どもに優しすぎる甘やかしている、と指摘されることが多いです。 でも、子どもの欠点って、叱って直せるものでしょうか?もちろん、叱らなければいけない場面はあります。 しかし、私は叱って、直るものだとは、とうてい思えません。自分の身に置き換えてみると、つくづく思います。小さいときから、いろんな人に注意をされてきました。説教されてきましたが、それで良くなったり、改心したことは、ほとんど記憶にありません。 もともと、超マイペースの私ですから、そうなのかもしれません。私の「マイペースが当たり前」というフィルターがヒトを見る眼にも反映されているのだと思います。 他人のある事が気になる、ということは、自分の内に、それに反応するフィルターがあるということであり、そういうフィルターがあるということは、自分のうちに、そういう克服したい気になる欠点があるということです。 ヒトに良いところが見えるというのも、逆に同じ良い点が、自分の内にある現れです。 それは、置いといても、子どもは、長所を褒められて伸びるのであり、欠点を指摘されて、伸びていくのではありません。欠点は、長所を伸ばすなかで、自然に消えていくように導けばいいのです。 いや、それ以外に、欠点を克服する道を私は知りません。 子どもを見る眼というのは、子どもの良い点に着目する眼のことだと思っています。もちろん、すべてのことは、プラスとマイナスがありますから、長所の裏側のことも、指導者は、心にとめておく必要はあります。しかし、光を当てるのは、長所だけでいいのです。 それは、客観的な長所でなくてもいいのです。主観的に、子どもの魂が、揺さぶられる部分なら、バッチリその良い面にスポットライトをあて続けましょう。 実社会では、ヒトと違うことが、とても良いことです。マーケティングは、いかに違いを出すか、で日夜苦労しているとも言えます。 良い点をバンバン輝かせてやること。それが、最も良い就職活動だし、その子の、何より、幸せな道だと思います。
2008.11.25
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今の受験体制の教育では、今の自分には、好きなことをする力がないということが前提になっています。幸せになるためには人の指示に従わなければならない。我慢しなめればならない、と。本当の自分の幸せの創造に意識は働いていません。 その証拠に、ワクワクしながら、受験勉強をしている子がどれくらいいるでしょう? そもそも 「働かざる者喰うべからず」という常識が世の中を覆っています。「人に負けずに働かないと生きていけない」と教え込まれています。しかし、決してそういうわけではないのが現実です。 たとえ、そのように見えたとしても、本当にスゴイ人は、仕事を遊んでいます。 世の中はキビシイところだ、と、そう信じているからそんな現実社会を見ているだけです。 教育のポイントは、自分で選択できる力を気づかせることだと思います。人間は、流されるだけでなく、好きな状況を選択できるのです。そして、その選択できる道は無数にあるのです。それは、独りでは、気づけないものです。いろんな考え方がありえる、それを体験するのが、人が集まる学校の良いところのはずです。 しかし、学校は、自分に素直でいられなくするマシーンになっています。道はこれしかない、と洗脳してしまいます。 私は、これまでのいろんな子の受験指導や、自分の人生の岐路においての経験から、その局面に「真面目」になったら、負けだ、という確信をもっています。 誤解を招く言葉かもしれませんが、目の前の課題に、重要性を与えすぎないことです。あり地獄に入ってしまうのです。 そうじゃなく、全然、別の局面もあり得て、そっちも選べるのだ、その余裕の中で、現在の課題を選んで、「遊ぶ」のです。 人間には、無限の力があると言われています。しかし、単なる「努力」では、限界があると思います。のめり込む努力ではなく、超越する遊び心にこそ、無限の可能性とパワーが秘められています。奇跡の源泉です。 これから、奇跡を起こさなければならない諸君、受験を遊んでみましょう。ワクワクするものに、変えてみましょう。簡単です。メガネを変えればいいのです。スポットライトの光の色を変えればいいのです。そして、視野を広げるのです。そして、胸を張ることです。ニコっと笑いながら、勉強しましょう。
2008.11.19
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「将来のいつかのために、今は我慢して勉強を」と大人は言ってしまいます。一見、もっともな言葉のようです。「もっと勉強しないと立派な人になれませんよ」と。子どもも、大人もみんな夢はもっています。それなのに、ありたい自分でい続けようと思考を働かせられません。ありたい自分の状態に向かって、歩み続けられません。ありたい自分でいることに時間を惜しみなく割き続けている人はどれだけいるでしょう。その事に意識を向け続けている人は、どれだけいるでしょう。人から指をさされないためにどれだけ大切な時間と労力を注ぎ込んでいるでしょう。非難されなくなったら夢は実現するのでしょうか?人生の大切な時間を、苦しみの原因退治に費やしてしまっていいのでしょうか?喜びを産み出すことは、永遠にできないのではないでしょうか?子どもには、どの瞬間も、どんな瞬間も、ただただありたい自分に向かって進むバイタリティーを届けたい。そんな大人もいるというサンプルを見せたい。
2008.11.18
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地域ぐるみで楽しく子育て、をモットーにフリーペーパー発行等の活動をしてきた、NPO 古川mama'sネットが、新しい船出をしました。古川中心、子育て中心から、大崎近郊までを視野にいれた「女性の元気な街」をイメージした地域コミュニティ誌へと飛躍したのです。 「ここで暮らす ここを楽しむ」というコンセプトのもとで自分が今住んでいる土地の良さを再確認し、喜びをもって一緒に暮らしていこう良いところを探していこう、という編集方針です。 印刷も格段にレベルアップし、全15ページ。値段を入れてもいいくらいのフリーペーパーです。 もちろん、まだまだ、内容の検討は必要ですが、市民として、こういうものが、市民活動から育ってきたことに誇りをもち、そして、拍手を惜しまないものです。 初代代表の寅さんとしても、本当にうれしくて仕方がありません。 スタッフの方々の手弁当は、相変わらずで本当にアタマが下がります。ただ、楽しく続いていること自体が、方向性は、あっちむいてホイではないことの証明だと思います。 全国には、すばらしいフリーペーパーがいっぱいありますが、もし、参考に、ご希望の方は、私の手持ちから送らせていただきます。お気軽にどうぞ。(送料だけはお願いネ)
2008.08.02
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グチばかり言って、すみません。 子ども嫌いの大人に、ここ数日、連続して会ってしまいました。 ま、いろんな感性をもつのは、自由ですし、みんながみんな、子どもが好きじゃなくちゃいけないわけでもありません。 しかし、気になるのは、子育て最中のお母さんで子ども嫌いな人に、連続して会ってしまったのです。 もちろん、お母さんだからって、みんな好きになる必要もないし、そうじゃなくちゃ、子どもをもつ資格はないとも言えません。 でも、その嫌いの理由が、ほとんど、自分のコントロール通りに動かないからなのです。特に、他人の子どもとは、関係を持とうとは、サラサラしません。 その人の人間観、世界観を思って、ため息をついてしまいます。 さらに、がっかりしたのは、駄菓子を売っているおっさんが、子どもを包み込む力をもっていないことです。これには、失望と言うしかありませんでした。 商売人は、人の心をつかむの仕事のはずです。 だったら、生の心をさらけだしている子どもへの対応がうまい人ほど、商売人としても、成功すると思うのです。そこは、大人向けの商売もしていますが、先が知れているな、と思いました。 とにかく、社会全体に、子どもを抱擁する力も気力も失せているように思います。子どもたちは、本当に行き場がありません。こんな田舎でもそうなんです。都会ではなおさら、コントロールされた環境でしか、そして、それに順応した子しか、生きていけないんでしょう。 人は、自分の癒しとか、成功とかを、必死で求めていますが、まず身近な、子どもたちと楽しい関係を作れるかどうかをリトマス試験紙にしてみてはどうでしょう?
2008.07.31
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先日、森の声さんが、ブログで私達がもっている、すばらしいセンサーについて教えてくれました。正しい道を歩いている時、人は元気になり、笑顔に溢れ、みんなと仲良くすることが出来るということです。反対に、間違った道を歩いている時には、怒りや悲しみといった負の感情ばかりが増え、元気がなくなり、笑顔がなくなり、周りの人とケンカを始めます。この世は、ポイントを押さえることが大切だと思うのですが、それが一つは、ニコニコできることだとこれまでのことを考えても、納得がいきました。それと同時に、どうしても、アタマでっかちになりがちな私のクセを直せないものか、と思っていたのですが、また、肩に力が入るクセを直したいと思っていたのですが、実は、今日、(間もなく、昨日になるなあ)中学校の校内合唱コンクールがあったのです。発表の直前の生徒たちに、ヘソの下に、意識をもっていくようにポンポンとお腹をたたくように指導しました。ウン、そうだ! 丹田だ!日本古来の丹田力!丹田に意識をもっていくと、自然に上半身から余分な力が抜け、頭が平静となり心身が安定し、上虚下実の構えとなります。すると日常生活において、脳の働きと丹田力が調和した動きとなり、能率的に動きやすく 疲れが少なくなるということが、書いてあるではありませんか!剣豪・山岡鉄舟が「およそ撃剣は敵の身構えに、心を置いてはならない。ただ心を常に丹田に置いて斬ろうとも思わず、斬られるとも思わず、思案分別を棄て果てて、敵が太刀を振り上げるのを見るや否や、そのまま直ちに入らなければならない。」と言葉を残しています。丹田に力が満ち、ニコニコ光線が溢れているイメージ。この丹田からの、ニコニコ・エネルギーに勝手に仕事をしてもらうのだ!ウン、これでいいんじゃないだろうか?
2008.07.02
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本日の講座で、全く不十分ですが、仮説実験授業をご紹介しました。 しかし、これを、くどいようですが、今までの常識的な、勉強の手段としてとらえたり、ただの、実験レシピだと、思われちゃ、効果半減どころか、子どもたちに申し訳ないものなのです。 なぜなら、勉強は、楽しくて素晴らしいモノだからです! だから、板倉聖宣さんは、次のように言っています。「勉強したくないことを勉強する子は悪い子です。」 勉強に対して、申し訳ないというか、無理に勉強しなければ、いつかは、勉強というものが素晴らしいものであることを発見するのに、それを潰してしまうのです。 だから、私は、勉強したくない子に、実験させるのも、悪い事だと思います。 実験が大切だ、というと、無理矢理、実験に引きづり込むのも、同罪です。また、先生自身が、いかに楽しいと思っても、押しつけてはいけません。 さらに、館長先生が、良いと思っても、職員の先生に、実験を押しつけてもいけません。同様に、学校でも、上の人が「これは素晴らしい」と思っても、先生方に、実験を押しつけるのも、本末転倒です。 仮説実験授業は、徹底的に、押しつけを排除する思想でできているのです。
2008.06.27
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昨日の森の声さんの日記、「感情を取り戻す」を読んで私が、一昨日書いた、「Be」が、「感情労働者」を作ることにつながってしまうんではないか、って、考え込んでしまいました。 教師だけでなく、営業職、接客業など、感情を売り物にしている職業があります。 マクドナルドのように、スマイル「~円」としちゃっていいのでしょうか? もちろん、おかしいですよね。生徒が欲しているのは、生身の人間であって、感情人形ではないのです。 Beは、一定の周波数だけを出すべきだ、ということじゃない。もっと、もっと、ダイナミックな、大局的なとらえ方なんだろう。 だいたい、振動と言えば、音楽もそうですが、良い音楽は、高音だけでできているはずもない。低音もあるし、強い音、弱い音、さらには、少々、不協和音もあるから味わいがある。感動もある。 本当の生きた音色になっているか、どうか、ということだと思う。 そうすると、学校という組織をひとつの音楽だとすると、ある程度、ヘンテコな先生、不適格な先生がいるから、良い先生が、引き立つ。子どもたちも、感動する、ってのも、やっぱり事実として認めなければならないと思う。 私の実験教室が、まがりなりにも、喜んでもらっているってのもこれまでの理科教育が、面白くなかったからこそであって、子どもの考えを大切にする教育が、常識だったら、私の活動の意味も、なくなっちゃうわけです。 私も、よく、ネガティブな感情をもってしまうことに、恐れてしまったり、自己嫌悪をしてしまったりしますが怒りも悲しみも、人生の味付けとして、絶対に必要なものでしょう。コクのある料理は出せません。 かえって、マイナス感情をたくさん蓄えている人こそ天使の音楽を奏でられるのかもしれません。 この意味でも、人生の挫折を経験した人こそ、教師に採用すべきだと思います。 でも、これも程度問題で、チャランポラン教師もいるからその先生の渋さが光るわけです。 ということで、人生を楽しむコツは、「結果」ではないことがつくづく気づくところです。一生涯、築きあげてきたものが、地震で葬り去られる。結果だけを見れば、むなしいかもしれません。 そうじゃない、人生はプロセスなんです。プロセスこそが、楽しいのです。そこに、山あり、谷ありの障害物があってこそ、ゲームは楽しいのです。 話は、全く別ですが、初めて、ヤフオクに出品しました。幸せ地蔵です。醸室の骨董屋のばあちゃんのお手伝いです。好きな方には、たまらないものだと思いますよ。
2008.06.23
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子どもに良い教育を「したい」というとき、イメージとしては、何をDoするか、ということに焦点が合っていると思います。 しかし、宮沢賢治の教育や、シュタイナー教育を学ぶといや、そういうものから学ばなくても、その人の在り方が、現実を引き寄せるということを考えると まずは、教師の在り方、Beこそが、最も重要な基礎であることに気づかされます。 何を教えるか、何をしてあげるか、よりもどんな感情で、子どもと接するか、の方が、数倍重要です。 それ次第では、同じことを語っても、全く正反対の効果を子どもたちに与えてしまいます。 現代は、入試も含めて、ほとんどが、Doの評価を気にして生きています。しかし、そのDoの性格を決めるのは、その人の存在そのものなのです。 私たちは、当然のように、愛「する」と言いますが、愛とは、本当に、Doなのでしょうか?「~~をする」ことが、愛だという、狭い考えから、条件つきの愛という、自己矛盾が生まれてくるんじゃないでしょうか?家族の人間関係の歪みも、ここが原点なんじゃないでしょうか? 愛するとは、その人の存在の状態を言うのではないでしょうか?まさにBeなのではないでしょうか?もし、そうなら、特定に人のみ愛する愛というのは、ありえない! だって、世界を愛する状態 Beを愛というのだから、人によって分け隔てすることができないのです。この宇宙丸ごと、愛する状態、在り方が愛ということです。 とすると、愛というより、「慈しむ」という言葉の方がふさわしいかな? そう考えると、私の場合、とっても肩の力が抜けることに気がつきます。自分の状態に焦点を合わせると、姿勢が良くなります。イライラしなくなります。 物理的に表現すると、物質の波動状態がBeかな?そして、粒子として、力学的な影響に焦点を当てるのがDoでしょうか? 波動の振動数が、ちょうど良いと、共振して、すばらしい音色を奏でるのです。また、電子レンジのように、モノの中から、熱くすることができます。 教師の務めは、まずは、良い振動数を教室に、学校に発信することなんじゃないだろうか?そういう発信体に、自分がなること、そういう存在であり続けること、そこが命なんじゃないだろうか?
2008.06.21
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「賢治の学校」(鳥山敏子)を読み出しています。宮沢賢治は、どんな先生だったんだろう?興味が尽きません。 教え子たちの思い出には、自然とたわいなく戯れ、喜んでいる姿が、焼き付けられているようです。 「まあ、ちょうど静かな水面にねえ、日が照ってるでしょ。そうして先生も、とっても気持ちよかったんでしょう。川の真ん中あたりに行ったときにね、どこにしまってあったんだか、リンゴを出して水のなかに入れたんだね。そうしたところがねえ、トボンとリンゴが落ちるでしょう。日が照るでしょう。水のなかに入ったときのリンゴの輝きがね、ちょうとプリズムで見るように、色が分かれる感じでね。それを何回も繰り返すんですよ。上げたり下げたり。上げてー、「はあっ、きれいだ!」という、その声がね、全部同じ声じゃないんだ、喜び方がね。」(照井謹二郎さんの回想) この何気ない姿に、照井さんは、大きな衝撃を受けます。世間一般の常識の大人の姿とは違う、もっと本質的な「生命」を先生の姿に見いだすのです。 「真っ青な空に、白い雲がただ流れていくのを見て、先生は、こころから喜ばれるのです。雲に声をかけられるのです。「おおい」と。・・・・・・「いいなあ、根子君」。・・・・・・損得勘定のまったくない先生なんです。白い雲が流れていく・・・・・・もうこれ以上のものはないのです。これで十分なのです。」(根子吉盛さん) 「いいなあ、根子君」と語りかけた賢治先生の言葉たったこれだけのことが、生涯の思い出となって焼き付いていくのです。 教師の何気ない言動、意外にも、それこそが、いや、だからこそ生徒の心に影響を与えるのですね。 もちろん、授業も真剣そのものの中に、楽しさいっぱいだったようです。「宮沢先生の授業だと、いつも遅刻するやつが遅刻しなかったんですよ、」常に、全存在をかけて、生命をかけて、生徒たちに向き合っていたことが読み取れる授業です。これじゃ、授業をサボるなんて、もったいなくってできやしません。
2008.06.20
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先日お世話になったPTAの皆さま、実験教室のセッティング、本当にありがとうございました。素敵な感想をいただき、またまた、やる気の炎が燃え上がっています。 現代の子に「魔法学校」ということで科学の楽しい側面を、魔法と結びつけて教えるという科学的でないエンタメ授業だったわけですが、 「私は、相澤先生が、『まほう』と言われた時、とてもびっくりしました。なぜかと言うと、前までちょっと信じていたけど、だいたい魔法はないんじゃないか、と思っていました。とても楽しかったです。今は、魔法信じています。」というコメントもいただきました。 「私は、まほうがほんとうにあると思っていませんでした。」というのもあります。 ほんのポロっとしゃべったことをよくも、まあ、拾ってくれていた子もいます。「相澤先生に、本当の魔法や科学に一番近いのがイタズラというのが、びっくりしたし、ドライアイスの冷たさが、マイナス78度というので何でずっとさわっていると熱いのか、やっとわかりました。それに、相澤先生の着ていた黒いロープは、黒魔導師みたいでかっこいいと思いました。これからもがんばってください。」 「いままでで一番楽しかったです。先生が言ったことを忘れないで、イタズラをして実験をしていきたいです。また来てください。」 「科学大好き」 ありがとうございます。
2008.06.14
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「教師は愛せない」学校は、人生の大切なポイントです。学校をないがしろにして、良い大人にはなれない!そして、教師は、子どもを愛する聖職だ!と、言われています。本当でしょうか?教師や学校は、子どもを愛することになっています。確かに、一生懸命そう努力しています。しかし、実は、主要任務は別にあるわけです。国や社会から、「こういう子どもに育てるように」という使命をいただいて、お金をいただいているわけです。もし、一人一人の生徒に「真剣に」向き合っていたら、とても使命は達成されません。それこそ、職務怠慢になってしまいます。私、個人も、私塾として、親御さんから一定の期待の裏付けとして、月謝をいただいています。ある子にどうしても、学習成果が表れないとします。私の力不足です。誠実な教師なら、親御さんに、うちで学ぶことをやめた方が良いと言わなければなりません。それが、いかに、その子の精神に打撃であろうと、成績アップのために、貴重なお金をいただいているのですから。ヘレンケラーとサリバン先生のことを考えてみましょう。もちろん、サリバン先生は、並々ならぬ愛情を注ぎました。深い愛情なくしてあのような成果はあり得ません。しかし、もし、不幸にもあのままヘレンに成果が表れなかったらどうなったでしょうか?サリバン先生は去らなければならないのです。ヘレンは、愛を失ってしまうのでしょうか?それとも、愛される価値の無い人間なんでしょうか?まさか、ですよね。それにしても、人を愛するとは、どういうことでしょうか?そもそも人の価値とは、相対的なモノサシで計れません。どこかに基準点があり、そこから、あの子はいくらプラスだ、あの子は、マイナスだ、というものではないのです。人は存在しているだけで、無限大の価値があります。知能指数がどうの、シツケがどうの、なんてのも、その子の価値に影響を与えるものではありません。愛とは突き詰めると、その人に要求しないことではないかと思います。ありのままを認め、喜び、抱きしめることが、すべての原点だと思います。成績が上がったから、愛したり、言うことを聞いたから、抱きしめたり、悪いことをしたから、嫌いになったり、という世界ではありません。かえって、愛だと勘違いさせるようなことが、学校で行われる方が、弊害が大きいと思います。本当の愛は、家庭で親御さんから無条件に与えられなければどうしようもありません。または、宗教施設でしょう。または、愛を目的としたNPOでしょうか。ある意味、教師は、学校と離れた立場でなければ、本当の意味で愛せないんじゃないかって、思います。教師の立場が、逆に、愛を制限させてしまっているのです。もちろん、ほとんどの教師が、子どもを愛しています。真剣に心配しています。しかし、冷厳な事実として、教師はお金で雇われた集団であり、その雇用の目的が、愛情第一でない限り、「愛」を最優先にすることはできないのです。それにそもそも、お金をもらって、「人を愛する」というのも、矛盾そのものです。もちろん、私は、お金をもらって、その子のことを専門に「心配」するのも、「アリ」だと思います。が、「愛」とは、それをはるかに超えているものです。ここで、ハタと考えてみましょう。もし、「愛」こそがこの世で一番大事なことだとしたら、(私はそう思います。)学校は、どうでも良い、大したことじゃないことを教えている、とも言えるわけです。だから、学校の評価が悪かったからと言って、人生の希望が消えるわけでは、全然ないのです。「教師は遊びの専門家」(ホントはネ)どうでも良い殿堂が学校だ、ということは、私は、決して悪いことではないと思います。どうでも良いことだから、成績が「評価」できるのです。もし、本当に大切なことだったら、「評価」などできないじゃないですか。人間の価値を評価するようなもんですもん。所詮、学校は、「クイズ」を真面目に習うところなのです。ゲームを競って楽しむところなのです。ですから、安心して競争していいのです。学校の本質は、遊びの殿堂だと思います。だから、真剣になれるのです。これが、愛の殿堂だったら、怖くて怖くて。そして、本来、教師は、その道の遊びの専門家なのです。そう考えると、気が楽になりませんか?そう思ってれば行き詰まらないんじゃないでしょうか?学校で生きる力を養うなんて、軽々しく言って欲しくないと思います。学力などの技術は、あくまで道具なのです。道具が主人公になっては、本末転倒です。道具はご主人様が、主人のために使ってこそ、意味があるのです。今は、道具がご主人になってしまっているのです。そんな社会は、どこでも、悲惨な最期が待っています。生きるという全体は、技術の総和の何倍も何十倍も、大きく偉大なのです。1+1=2では、到底達成できないのです。あえて、生きる力につながる教材と言えば教師の人間性そのものだと思います。親父の背中ならぬ、教師の背中です。教師がいかに人生を楽しんでいるかを背中で見せることです。最近の公開授業を拝見すると、どの教室でも、とても良く、教えるポイントを絞り、伝達技術も磨いてあります。全く敬意を表したいと思います。しかし、私にはどうしても物足りなく感じました。それは、「感動」が無いからです。偶然無かったのではなく、最初から、感動という要素を考慮に入れていないとしか思えないのです。それくらい「感動」の存在感が薄かったと思います。もちろん、「計算ができるようになった」、「先生の言っている意味がわかった」、などの喜びはあるでしょう。教科が好きになったということもあるでしょう。しかし、感動とは、大どんでん返しであり、涙腺に働きかけることであり、精神の解放であります。突然広がる世界です。先生方は、感動の威力を軽視していると思います。一つの感動は、10回分の授業以上の効果をもたらします。いや、人生そのものを左右します。これを目指さないで、何で教師を目指したと言えるでしょうか?と私は思ってしまいます。確かに、感動を生むことは難しいです。しかし、真剣に取り組めば、年間で1回か2回は、感動的な授業ができるはずです。 感動のポイントは、どんでん返しです。期待を大きく裏切ることです。ですから、生徒に予行演習をいっぱいさせている学級では、感動しようがありません。子どもの学力の中で、感情力の占める重要さを忘れないで欲しい。特に小学時代は、客観的論理力よりも、感情を豊かに育てることが、人生の中でキーポイントとなるステージであって、教科の知識も感情の海の中でこそ、その位置づけがある年齢なのですから。どんな感情と一緒に、知識をプレゼントするのかを、もっともっと気にとめて授業計画を練って欲しいと思います。好奇心魔法学校を のぞいてみる?
2008.05.15
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昨日、ちょっと、面白くないことがありまして、ふくれっ面のまま、学校に登校してしまいました。このままじゃ、生徒に合わせる顔がない。こういう時、私は、ステージに立ったイメージを作ります。ふつう、先生は、あんまり見てくれに注意をしないようです。せいぜい、ファッションや髪形、マナーには注意しても、表情にまで気を配る先生は少ないようです。しかし、豊かな表情は子どもたちに計り知れない好印象を与え、指導する上での強力な武器になるのです。豊かな表情づくりを研究してみてはいかがでしょうか?世には、いろんな笑顔教室があります。実際、笑顔研修を行った会社の中には、売り上げが半年で2.5倍に急増した店や、クレームが3分の1に減った企業などズバ抜けた成功事例が多いのです。笑顔になるだけで、驚くべき成果が上がっているんです。何と費用対効果の高いこと。しかし、「笑顔になるだけで、そんなに大きな成果が出るわけはない」と反発する人も多いものです。でも、笑顔をしても、成果が現れないのは、笑顔のつくり方が間違っている場合が多いようです。真剣勝負のビジネスでは、笑顔のわずかな巧拙が、成果を大きく分けるのですから、真剣です。「薄笑い」のような低レベルの笑顔では、成功はおぼつかないのです。「ヨン様スマイル」は、やはり一つの理想のようです。ヨン様のこぼれるような笑顔は、非常によく研究された、笑顔の理想形なんだそうです。口角(唇の端)が上がり上の歯が10から12本見えています。こんな笑顔が習慣になれば、教育でも、ビジネスでも、もちろん恋愛でも、きっとうまくいくはずです。笑顔教室の先生は、笑顔に影響力を持つのは、「口→眉→目元」の順番だと言います。口角をしっかりと上げ、上の歯をできるだけ見せることが、最も分かりやすい笑顔の「サイン」となるんだそうです。口角を上げるだけで、人間関係が良くなったり、売り上げが上がったりするんですから、恐るべしです。そして、これは、訓練が必要なようです。口角を可能な限り上げる訓練です。上の12本の歯を見せて自然に笑えるようになれば達人になれます。初心者が口角を上げるイメージをつかむには、「ラッキー」など、語尾が「イー」の言葉を探して、明るく発音することがよいそうですよ。さらに日ごろから小さな「幸運」にも大きく喜び、口角を上げながら「ラッキー」と言うクセをつける。それを繰り返せば、ラッキーと言うことで条件反射的に自然な笑顔をつくれるようになるそうです。次に、眉は時折少し上下させた方が楽しさやうれしい感情を伝えやすいものです。例えば「ありがとうございました」と挨拶するときには、口角を上げると同時に、眉をほんの少し上げ気味にして言った方が効果的です。ビジネスの商談をしている最中も、目や眉が動いて、表情の変化があった方が笑顔のパワーは向上し、相手から好感を持たれやすいと言われています。学校の先生は、教壇で、どのくらい表情を変えているでしょうか?一定というより、無表情じゃないでしょうか?え?私は、笑っている?売れない営業担当者は、自分は笑顔のつもりでも、上の歯を全く見せていないことが多いし、しかも、それに気づいてもいません。もし、頑張っているのに業績の上がらないと思う人は、仕事中の表情をビデオ撮影してもらい第三者になった気分でチェックするか、職場に鏡を置いて1日に何度もチェックしてみてはどうでしょう。自分の笑顔の長所と短所が分かってきます。表情力向上のヒントは、「いつも見られている意識を持ち、テンションを上げること」だといいます。日ごろ見られていることを意識していない人はテンションが低く、無防備に不機嫌な顔を見せます。先生という職業は、本来、見られる仕事なんですが、子どもたち相手だと、その意識がいつの間にか、消えてしまっているようです。毎日、授業参観の気持ちでできればいいんですねえ。仕上げは、「アイコンタクト」。相手の目を優しく見つめながら笑顔で話さなければ、相手の心に伝わりません。伝わらない笑顔は単なる笑いです。ヨン様の眼差しを思い出しましょう。日本人は、一般に恥ずかしがり屋です。ですから、笑顔もアイコンタクトも、もともと苦手です。でも、笑顔がつくれないと、絶対に損をします。今や笑顔の良し悪しで給料が変わる時代です。「良い笑顔は一日にしてならず」。じっくり、焦らず、チャレンジしてみましょう。特に顔の筋肉が硬くなっている人は、マッサージです。ほおや口元の筋肉をほぐしておいた方が、自然な笑顔をつくりやすいものです。さらに、笑顔をつくれば、気持ちもそれにつられて楽しくなっきます。顔の表情筋や目の周辺の筋肉(眼輪筋)を意識的に動かすと、楽しい感情をわき起こす神経が活発化するそうです。つまり、楽しいから笑顔になるのではなく、笑顔になれば楽しくなる。自然に笑顔がこぼれ、さらに成果も上がる。笑顔がプラスの連鎖となって、どんどん素敵なクラス、素敵な学校ができていきますように。
2008.05.07
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namiママ先生が、私の最近の問題意識を、すっかりまとめたメッセージを出してくださいました。全国で、頑張っておられる熱血先生! そして、保護者の皆さん、ちょっと一休みして、のんびりと、四季の彩りを楽しんでみませんか?すばらしい大人に成長するのは、問題なく育つ子であるわけがありません。また、かえって、立派な親の下に、引きこもりの子が多いと指摘する人もいます。教育は思うようにいかないものです。何せ、相手は「生もの」ですから、オートメーションでこの装置に入れたら、こういう完成品ができあがってくる、のではないのです。けれども、親や教師というものは、子どもに対してこうしないと気がすまない、こうさせないと気がすまないと考える場合が多いのではないでしょうか。このようにするのが、私の責務だ、と考えたときから教育はどんどん曲がっていくのです。いわゆる、人間の成長をコントロールできるのではないか、という傲慢な妄想に囚われてしまうのです。このことに意外と謙虚なのは、病院の先生だそうです。医者がこの患者さんの病気を治したいと思っても、治らない人は治らないですもんね。ですから、どうにもならないことがある、ということに慣れているといえば、慣れてているかもしれません。ですから、最近、話題にしている穂波の郷クリニックの先生もですがその人の生を全うさせることに、最善をつくせばいいのだと、考えています。そのためには、その人が何を本当に望んでいるのかを聴きとろうという思想が、教育や保育関係者よりも医療にたずさわる人には、割合あると思われます。大人は、子どもに対して、最善を尽くすしかないのですけれども、親や教師は、最善をつくして思うような結果がでないと、すべてを否定したり、あげくは、子どもに腹を立てる人がいます。医療従事者には良くならない患者に、腹を立てている人というのは、あまりいないでしょう。最善をつくすことに意味があって、いい成果が生れなくてもいいのだ、とは言わないけれども、最善をつくせば、それなりに成果はでてくれるわけです。問題は、その「最善を尽くす」ということですが、それは、「今を受け入れ、楽しむこと。」「最高に、今を楽しむこと」だと寅さんは思っています。確かに、努力のわりにはよくならない、あるいはどんなにがんばってみたところで、三か月ほど先に命がのびる程度ということもあるわけです。けれども、もうどうせだめだからと、投げだすのではなくて、その三か月の命を楽しみ、その延命努力も楽しむのです。これが、最善をつくすということだと思います。その三ヶ月間を、どう生きるのがその人にとって幸せなのかを、一緒に寄り添いながら、人生を讃美するのです。私は、教育の現場も、成果にばかり目を向けないで、今を楽しむことに、喜びを、生きがいを感じていく思想がだいじなのではないかと思います。もっと親がこうすればとか、自分以外のだれかがどうすればとか、まして、子どもがこうなってくれればと、という視点ではなく、今、一緒にこうあれる幸せを、何度も何度も噛みしめることです。最近、「立派な」親にひきこもりの子が多い、という論旨の本を読みました。もう少し、自分の中で咀嚼したいと思いますが、私がこれまでおつきあいをしてきた、8人ばかりの不登校の子は、お世辞なしに、「立派」な考えをもつ、マジメな子です。当然、立派な教育をされてきたことが、瞬時にわかります。(ただ、寛容さに欠ける嫌いがあります)そんな子に対して、「こんな寅さんが、いい加減な大人が、何ができると言うんだ!」 とその皮肉に笑ってしまいます。お説教になったり、コントロールしようとしないで、「こうあらねばならない」ではなく、弱さをさらけ出せる「安心感」「受容感」を大切にしていきたいと思います。今、あるお母さんと電話で話していたのですが、ある集団行動が苦手なお子さんが、とっても見違えるように、リーダーシップを発揮するようになってきた背景には、担任の先生の受容とさらに、研究主任の先生が、たっぷり話を聞いてくれるという裏のご苦労があったようです。その先生ともよく、お話をするんですが、とっても謙虚で、できるだけのことは、最善を尽くして、あとは、見守るというスタイルを感じます。この子をこうしなければ、という固い殻が二枚も三枚も取れている気がします。その自分の手にしっかり握ってしまわないところが、お互い、良い関係が長続きする秘訣かな?と 思った次第です。こう、あらねば、というものには、欲がからんでいます。欲自体は悪いものではありませんが、幸せはブロックするようです。私は、宝彩有菜さんの自愛文言(その16)が好きです。 【笑い】 私には「何」もありません。笑えます。 私には、「頑張り」がありません。笑えます。 私には、「おきて」がありません。笑えます。 私には、「思いこみ」がありません。笑えます。 私には、「深刻さ」がありません。笑えます。 私には、「まじめさ」がありません。笑えます。 私には、「欲」がありません。笑えます。「笑い」は、脳内に新しい思考経路が通じたときに起こります。ブロックが少なければ少ないほど、何に対してもすぐに笑えます。 笑えると、幸福になれます。幸せというのは、つまり、ブロックの少ないことです。ブロックというのは、「欲」でできています。それが無ければつまり、いつも笑えて、いつも幸せです。 「あはっ、笑ってる自分も、笑える」「頑張らない」ことにこだわることも、「こだわり」ですね。(むずかしい!)私は目いっぱい熱血・火の玉小僧?でありたい人間です。いや、人間というものは、もともと、「燃える男」であるようです。しかし、パッと手放すこともできる人間でありたいです。ちょうど、第2ブログ「好奇心魔法学校」で、マインドコントロールについて書きだしています。ゴールにたどりつけるか、わかりませんが、現代の自己防衛として、知っておきたいと思っています。
2008.05.05
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プロ教師としての大きな資質の1つが、あらゆるものに対する旺盛な好奇心であることは、間違いないことでしょう。「なぜこうなんだろう」という疑問を抱く能力です。それが、現場の問題を解決する際の大きな推進力にきっとなります。私たちが情報に囲まれた暮らしを送っている以上、教育は人の営みのほぼすべてに深く関わっています。いま世の中で起きているありとあらゆることもすべて、教育の視点で見ることができます。次から次へと興味は尽きないものです。(私には、すべてが実験材料に見えます。)理科に生徒が意欲が湧かないのは、なぜなんだろう?その理由をじっと考えながら言葉に置き換えていくと、まず理科のことを自分は何も知らないということに気がつきます。 理科教育の問題点を少し知ると、次々に色んなことを知りたくなります。そして、実際に科学者に会い、科学の歴史に詳しい人に会い、今その科学教育をとりまく環境がどういう状態にあるかということを自分の中に取り込み、咀嚼する。この作業はとても面白く、興味深いものです。 こうして様々な情報を取り込むと、顕在化していなかったその教科の大きな可能性が見えてきます。あとは、余計なことをせずにいかにその可能性を子どもたちに伝えていくかということだけです。 自分から何も付け加えてやる必要はないのです。常に、世の中には、すごいポテンシャルが潜んでいるんだという前提で関わってみたらどうでしょう。そのとき、何よりも、自分の状態が大事です。何に対しても興味を持てる状態におくことです。 話は飛びますが、世の中には面白く無いものなんて1つもないのです。面白いということは「えっ、何これ」と思うことです。分からないから面白いのです。ただ、全く分からないものは、疑問にもなりません。つまり、分かる部分と分からない部分が同居していること。ビミョーにわからないのが最高です。 だから、分からせる授業は、良くないと思います。だって、本当は、誰も分かってないんですから!『分かった』と言う時の実体は、分からない部分がまだあるにもかかわらず、自分にとってそれは関係ないものとして距離を置くこと。だから、「もう分かった」と言う人は、、ある意味、「その分野に、私は力が無いんだ」と宣言しているようなものなのです。 ところで、このブログよりちょっとだけマジメな弟分好奇心魔法学校を編集中です。過去の記事の整理と、「好奇心」に的を絞った教育技術の提言にしていこうと思っています。長い目で、ときどき遊びにいらしていただければ幸せです。
2008.04.30
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よくほめる人ほどよくほめられている。これは、本当のようです。 さらに、「ほめ」は伝染もするようです。 全国のビジネスパーソンを対象に「アソシエ」が実施したアンケートによると、よくほめる人ほどよくほめられているという結果。 自分が、人をほめる方だと思っているのは、何と、52.9%人をよくほめる方だと思うが、13.3%合わせて66.2%の人が、人をほめるタイプだということです。 (本当かなああ?ちょっとしたことでも、自分はほめてやってる気分なんでしょう。) どれぐらいの頻度でほめていますか?、では「1日に1~2回」が37.1%「1日に3~4回」「1日に5回以上10回未満」という人を含めると、1日に1回以上ほめる人の割合は62.9%になります。 また、ほめるタイプの人に「あなたは人からほめられる方ですか?」と聞くと、約6割が「人からほめられる方だと思う」と答えた。 一方、「人をあまりほめない方だと思う」「全くほめない方だと思う」という、ほめないタイプの人に同じ質問を投げかけると、逆に6割以上の人が「ほめられない方だと思う」という答え。 ほめる人は他人からほめられ、ほめない人は他人からもほめられない。「ほめ」と「ほめられ」の間には強い"引力"が働いているようです。 ほめるという行為は、自分のためにもなれば、相手のためにもなる、しかも、自然とそうしたくなるという性格を持つようです。 さらに、ほめられれば大抵の人はうれしいと感じます。とすると、ある集団の中で誰かが誰かをほめ始めれば、それが次々と感染していくのはとても自然なことですね。 学校の教室にも、これは言えるのではないでしょうか?クラスの中で、ほめ合う姿が、広まると、こりゃいいですね。 最後に自分自身をほめることがあるかどうかも聞いています。結果は、ほめる人とほめない人が半々だったのですが、男女別で見ると、女性の方が自分をほめる傾向が強いようです。 男性は、謙虚なんですね? もっと褒めてやりましょう。自分を。
2008.04.29
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一昨日、アメリカの底力のことを書きました。しかし、日本人も底力をもっているという文章に出会いました。ご紹介。 マーティ・フリードマン氏(元メガデス・ギタリスト)マーティ・フリードマン知ってます?インタビューで「日本の底力は『おもしろければなんでもあり』にあり」 と話していました。「J-POPは若い人向けで、つまらない」とか、「パクリだろ」とか、「洋楽のマネ」だとか悪口を言われるけど、どんな音楽でも、ミュージシャン同士、いろいろ影響しあってる。ビートルズだって、プレスリーから影響受けてるじゃん。プレスリーも、チャック・ベリーも、影響しあってるじゃん。どんなミュージシャンも、100%、誰かの影響を受けてるから、パクリとかそんなことは考えない方がいいんですよって。ジャンルがユルイから楽しい融合がいっぱい。アメリカでは確かにジャンルがしっかりしているんだけど、結果的にその枠に縛られている。ところが日本では、ジャンル関係なしに好きだったらパクる(笑)。ほかのジャンルからパクっちゃダメ、みたいなルールがないから、結果的にはすごく冒険的に、面白いものが生まれてくる。たぶん失敗作も出るかもしれないけど、冒険する時って、そういうものでしょ。おかげで、メチャメチャ面白い、オリジナルな融合が生まれてくる。J-POPの魅力は、ジャンルや単なる上手さに縛られない「面白かったらなんでもあり」の姿勢。とにかく、面白さをどんどん「プラス」していくのが、J-POPのすごいところです。これらは、先人の古来からの融合性のおかげです。そして、繊細で柔軟な感性、言葉では表わしつくせない感覚、そして目に見えないものを目に見えないまま受け入れる情緒豊かな感受性。日本神道は、「神は全てに内在する」。だから世界最先端の電気製品や自動車やロボットを無限に発明している。目に見えるものだけがすべてではないのだということを、知っていたのです。これからの地球は、我々日本人が貢献するんだろうな。日本人のお宝は、真に豊かで「人間らしい」文化なのではないだろうか。本質を観る目。目に見えないところに、本質を観る。それが、 まれに見る文化の柔軟性を生んできたように思う。by TORA
2008.04.24
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「絶対に負けられない闘いがある」というフレーズが日本を覆うとき、そういう時ほど、よく負ける日本ですね。学校の部活にも「必勝」という言葉が踊っています。教育現場では、この「必ず」や、「絶対に」という単語は、頻繁に使われています。受験生には、「絶対合格」というハチマキまで用意されます。 しかし、ここに大きな落とし穴があります。「必ず、こうなっている」と言った瞬間に「こうなっていない」将来への連想が「必ず」生まれてしまうのです。 すると、「こうなっていない」将来、悲観的な結果への不安が浮かび上がってくるのです。 有名なエミール・クーエの「努力逆転の法則」です。 頑張れば頑張るほど、その努力とは反対になるという法則です。 1.意志力と想像力(イメージ)が相反した場合は想像力(イメージ)が勝つ。 2.意志の力で「努力すればするほど」想像力(イメージ)は強力となり、その意志の努力とは反対の結果なる。 3.意志力と想像力が相反した場合は想像力の強さは意志力の二乗に正比例する。 想像力と意志力が衝突し、対立する場合、勝利をおさめるのは常に想像力の方なのです。そして、このことにいかなる例外もない。 エミール・クーエの言葉によりますと、この法則は重力の法則と同じほど不変なものです。 このことから、学校教育を中心とした「お勉強」の問題点は、すぐに導き出されるでしょう。子どもたちに、勉強を将来を左右する重大なもの、と意識させるとは、たとえば、こういうことです。 60cm幅の一枚の木の板を地面に置いて歩いて渡ることは、たやすいのに、同じ板を、二つのビルディングの谷間の空中10mの高さに吊り下げて、「さあ、渡れ! 君ならできる!君の運命はこれにかかっている!」何て言われたら、なにかが起こるかおよそ見当がつきますね。あなたは、板の端でふらつきながら体を後ろへそっくり返らせ、歩道上に散った、とても無気味な赤い斑点のことを頭に描くことでしょう。 板の端で震えながらおそらく「風が吹いたらどうしょう!」と思うことでしょう。板が床の上にある場合は、確かな足どりで威勢よく渡れます。しかし10mの高さになると、足が震えるのです。 想像力と意志力との間に衝突が生じるからです。意志力のすべてを動員しても板を渡ることはできません。 クーエの法則のために、想像力の方が勝利をおさめるからです。 本来の単なる学習は、ただの遊びにしか過ぎません。ですから、抵抗なくできるのです。しかし、大事な大事な「お勉強」となると、10Mの高さになってしまうのです。そもそも、「勉めて強いる」という言葉からして、プレッシャーです。 必死にがんばればがんばるほど、「こんなにがんばっているということは、達成が困難な証拠だ。達成はたぶん無理だろう」と潜在意識に判断させてしまいわざわざ目標を達成できなくさせているのです。 だから、寅さんは、勉強という言葉は、極力使いません。「学問」そして、「遊び」です。これだけで、どれくらい学習効果が違うかは、驚くほどですよ。これは、勉強の世界だけじゃないですね。
2008.04.11
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ちがったもの同士の「つながり」やコミュニケーションが教育の本質だ、って最近思っている寅さんです。 しかし、その前に、押さえておかなければならないことがあります。それは、独立の気概、いわゆる主体性をもった人のみがつながることができるってことです。 単純に共感が大切だ、みんな同じ気持ちをもつことが大切だみんなに良く思われることをしよう、みんなから喜ばれる存在になろう、ていう意識だけを育てては、たいへんな片手落ちです。 哲学者の永井均さんは、「子どものための哲学対話」で 少年である「ぼく」と猫の「ぺネトレ」の対話を通してこんなことを語っています。(要約してます) ぺネトレ「友だちって、必要だと思うかい?」 ぼく「そりゃあ、必要だよ」 ぺネトレ「ぼくは友だちなんかいなくても、平気だよ」 ぼく「ぺネトレは、猫だからさ」 ぺネトレ「人間だって、ほんとうは、おんなじだよ。今の人間は、なにか間違ったことを、みんなで、信じこみあっているような気がするよ。それが、今の世の中を、成り立たせる為に必要な、公式の答えなんだろうけどね。でも、その公式を答えは受け入れない事もできるものだってことを、わすれちゃいけないよ」 ぼく「猫のことは知らないけど、人間は、自分のことを本当に分ってくれる人がいなくては、生きていけないものなんだよ」 ぺネトレ「そんなことはないさ。そんな人はいなくたって生きていけるさ。それが人間が本来持っていた強さじゃないかな。」 「ひとから理解されたり、認められたり、必要とされたりすることが、いちばんたいせつなことだっていうのは、今の人間達が共通に信じこまされているまちがった信仰なんだ」 「人間は自分のことをわかってくれる人なんかいなくても生きていけるってことこそが、人間が学ぶべき、なによりたいせつなことなんだ」 どうでしょう。寅さんは、この独立の側面とつながりの側面、プラスとマイナス、陰と陽、どちらも必要であり、その正反合のアウフヘーベンされたものが目指すものじゃないかと思います。 一人でも生きられるんだ。でも、やっぱり、人と苦楽を分かち合うのは、いいもんだ。
2008.03.01
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今日、保育士に採用されることになった娘を連れてシュタイナー教育の伝道者であり、小学校の非常勤講師の福島玲子先生の講演会に参加させてもらいました。大崎市の敷玉地区に新しくできた、ほなみの杜保育園の保護者会での一コマです。そこの保母さん方とは、寅さんは、ご縁が深く、今回も、福島先生をご紹介するご縁を得ました。 先生の話をお聴きするたびに、寅さんは、心身ともにリフレッシュをするのでまるで「おっかけ」をしているようなものです。今回は、娘にも聴かせられたことは、感無量です。 いつもながら、感じるのは、福島先生が、マイクを使わないで話されること。そして、原稿ももたず、まるで一流の役者が一人芝居をしているように身体全体を使って、流れるようにすすんでいきます。 こういう先生に、物語をされたら、子どもたちは、イチコロだろうなあ。(言葉がおかしい。「とってもいい影響をうけるだろうなあ」)(イチコロなのは、寅さんでした)シュタイナー教育では、物語をとっても大事にしています。特に、神話の世界みたいなもの。ファンタジーですね。 また、シュタイナー教育では、教師の権威を大事にします。だから、先生が、原稿や本を参考にしながら話すのも、避けるべきもののようです。 また、今回のテーマも、偶然の出来事のウラの必然というか、深い意味を味わうというものでした。 こういうファンタジーのような教育と寅さんの言う、ガサツな科学教育とどう結びつくんだ?ってお思いかもしれません。 私もわかりません。でも、強く惹かれます。きっと、想像力を大事にしているところじゃないかなあ。これは、「森の声さん」のお話の太い柱でもありますが、子どもは、物語として世界を理解するのです。(本当は、大人もね)つまり、意味のつながりです。実は、これが生きる力を生むのです。生きる力の源なのです。 科学も実は、物語です。どういう解釈をつけるか、想像力の勝負なのです。 算数も理科も、想像力(別名 思考力、また、さらに視考力)の世界なんです。だから、想像力の無い人は、科学者にはなれません。 たとえば、量子力学において色々な解釈が立てられています。コペンハーゲン解釈、パイロット解釈、多世界解釈 など注目して欲しいのは、すべて「○○解釈」であることです。「コペンハーゲン理論」「パイロット理論」ではなく、「コペンハーゲン解釈」「パイロット解釈」と呼ばれていることです。なぜ、これらは「理論」ではなく、「解釈」と呼ばれているのでしょう? 古い時代における科学観では、ある「現象」に対して、それを説明できる「正しい理論」というのは「ひとつだけである」と考えられてきました。ところが、現代の科学は、ある現象の説明として、ツジツマの合う理論はひとつだけではないことをいっぱい知って、納得してしまったのです。たとえば、コペンハーゲン解釈、多世界解釈、パイロット解釈。どれもすべて、ツジツマは合っているんです。なぜか?ツジツマが合うように考え出された仮説(物語)なのだから、ツジツマがあうのは当然でなのです。 結局、理論としてツジツマが合っているかどうかは正しいかどうかの基準にならないし、どんなに議論を重ねたって無駄なんです。だいたい、観測して確かめられないんですから。どんなに実験をやっても無駄なんです。 だとしたら、極端な話、小人さんが、電子を動かしていて、あんなふうに干渉縞を作ってるでもOKなのです。ツジツマが合っていれば。小人さんは、残念ながら、観測できない、と言えばいいのです。実際、こんなことだって、決して「ありえないとは言い切れない」のです。 もし、あなたが想像豊かなら、いくらでもツジツマの合った新しい「解釈(物語)」を作り出すことができるです。何て楽しいところでしょう。科学って。 蛇足ですが、科学は、世界について、ホントウのことを知ることはできないのです。(ということが証明されてしまってるんです。)科学は、「より便利なものを」という基準でしか理論や解釈を選ぶしかないのです。 話が、すっかり飛んでしまいましたが、福島先生、そして、保育園の職員の皆さま、ありがとうございました。
2008.02.27
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(本日、怒濤の3本目) 人に笑われるのが好きな先生と笑われるのが嫌いな先生がいます。どちらが良い悪いじゃなくて、そのお二人の言っている「笑い」の意味が違うと思うのです。 笑われるのが好きな先生の場合、(寅さんも、もちろんそうですが)笑うことでリラックスし、快を創り出す効果を意識しています。関西の社会は、この文化が浸透しているんだろうなあって、テレビで拝見しています。 それに対し、笑われたくない人は、軽蔑の笑い、優越感を創る笑いを意識してるのではないかと思います。 笑いが好きな人の笑いは、副交感神経を刺激するのに対し嫌いな人は、交感神経を刺激され、緊張が走るのですね。二つは、別物と言っていいでしょう。 これから、話す「笑い」は、もちろん、副交感神経刺激の笑いについてです。 笑いは、どういう時に起きるでしょう?寅さんの理解では、予期したことが、はずれた時です。それも、緊張状態が走るように、はずれた時ではなく、「なああんだ」っていうように、レベルダウンというか、安心感があるように、はずれる場合です。 だから、笑いをとるためには、一瞬、緊張状態を予想させた方がいいでしょう。 授業で教えることも、仮説に過ぎません。 (何度も言いますが)いろんな仮説を授業中に闘わせ、緊張状態をつくってやる。そして、「なあんだ、こんなことになるんだ」、ってゆるめてやる。はっきりとした笑いではないにしろ、心の快状態であることは間違いなく、この心理が、その授業や学問を好きにさせるんだと思います。 エライ先生や、大人がこれまた、難しい現実の話をする。しかし、エ?先生も、そんなアホなこと考えてるの?そんな、おもろい見方もあるの?俺たちの、アホな考えと違わないじゃないか?って安心する。笑いますね。 これは、決して、先生を軽蔑する笑いじゃないわけです。先生も俺たちと一緒だ。俺たちは俺たちのままでいいんだ、って自己肯定感をもちます。この場合の先生を笑うっていう姿勢は、実は、生徒が自分を笑っているのです。人と優劣をつけるために笑うのは、笑いながら、交感神経を刺激します。しかし、自分を笑い飛ばすのは、副交感神経を刺激し、とっても健全で、人とのつながりを作り、人をやさしくします。 だって、人はみんな不完全で、おっちょこちょいなんですから。それをお互いに笑いあえるというのは、安心感のつながりですよ。 それに、もっと大きなことは、その笑いを得るということは、先生と生徒が一体化するってことです。するとどういうことになるか?少々下手な授業をしても、生徒は好意的にとってくれるんです。かえって、ドジなほど、かわいがってくれます。 たとえば、幼稚園の劇を考えてみましょう。だれも、名演技を期待してませんね。ヨシ、ヨシっていうもんです。それでいて、ちょっとでも、キラっと光ることをしようものなら感激の涙です。これを演劇コンクールの審査員のつもりで見たらどうでしょうか? 笑いは、先生と生徒を身内にしてくれるんです。 マジメな話、この世は、難しいことがいっぱいあるようですが、実は、単純で、なあんだ、っていうことばかりじゃないでしょうか?世の中の複雑さをにらみながらも、単純化することは、とっても頭脳にも良いような気がします。そして、生きる力を沸きたたせます。 この緊張と弛緩をうまく波打たせることは、授業の大切な技だと思います。だから、授業中に笑いがあるかどうかっていうのは、子どもたちのアタマが活性化しているかどうかのバロメーターだと思って間違いないと思うのです。 指導主事の先生が各教室をチェックする場合、ぜひ、笑いの数をチェックすればいいのに。そうすれば、学校の雰囲気はガラっと変わるのに、ね!。
2008.02.21
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僕たちは、毎日ガンバッテイル。子どもに少しでも、イイ影響を与えよう、学力をつけさせよう、考える力を、生きる力を、生きる喜びを、愛を伝えよう、・・・・・・と。 しかし、教育現場は矛盾だらけ。現実社会もキビシイ。生きるだけで、とってもキビシイ。 私たちは、もっと頑張らなくちゃ!もっと、もっと! 愛する子どもたちのために。愛する家族のために! でもね、ふと、気づきます。このように、子どもと接する仕事、そして、子どもの笑顔を増やす仕事ができるって、めちゃくちゃ贅沢なことです。求めても、環境が許さない人がいかに多いか。親になることだって、求めて叶うことでありません。 以前の寅さんの環境も、正にそうでした。我が子の学校にさえ、一度も顔を出せないくらいに。 大人同士の、欲得のドロドロとした駆け引きの世界に身を置いた者として 今の、子どもに夢と希望を与える仕事が、どんなに、どんなに、素敵なことか。 それを忘れたら、過去の踏み台にしてきた人達から呪われても仕方がないでしょう。まさに、地獄行きです。 今の今の仕事がどんなに、生きる意味に直結した、素晴らしいことか。 20年以上の、ドロドロ稼業は、いかに大きな資金を動かそうといかに立派な背広を着て、車に乗っていたにしろ、今のたった一回の科学実験授業の足元にも及ばない。 子どもたちの笑顔を見ると、「もう、死んでもいい」と本当にその都度思います。一回で十分過ぎるほど、幸せなのに、8年以上も、させてもらっている。何百回とさせていただいている。 すべては、すべては、神様からのプレゼントじゃあないか? 「私が」努力しているように、自分では思っちゃうけど、 たとえば、新幹線に乗って、窓の景色が動き出すと、自分が走っているように思うけど、もしかすると、「景色の方が動いている」とも、解釈できるじゃないですか。 この世の出会いは、あまりにも複雑で、一個人が設計なんぞ、できる代物じゃありません。 「私の周囲が動いている。」 それを私は、観光させてもらっているだけ。 私の努力も、「努力」じゃない。努力できる環境を与えてもらっているだけだ。だいたい、私の思考や、能力も自分のものとは言えまい。子どもが成長する姿を見させてもらっているのだ。そのドラマの登場人物に、寅さんも、キャストとして参加させてもらっている。 ただ、注意すべきは、脚本は変えられるということだ。今渡されている脚本を鵜呑みにするんじゃなくて、もっともっと素敵な脚本に書き直すことができるんだ。そうすると、その新しいストーリーの中で、「観光」ができるのだ。決して、力んだ「努力」じゃないよ。 私たちにできることは、ただ、喜んで観光することだけ。ただ、バスの行き先を間違わないように注意するだけ。 教師なんて、学校なんて、大したもんじゃない。子どもは一人で大きくなる。「私が育てた」、なんて、おこがましい! でも、人生を観光する姿勢だけは、子どもたちに見せることができる。それで、十分だ。十分過ぎることだ。 (追伸)当たり前のことですが、教育以外の仕事が意義が無いなんて微塵も思っていません。どんな仕事も崇高なものです。ただ、それをする人の姿勢が決めるものです。ですから、以前の仕事の問題は、寅さんの姿勢の問題です。 以前の仕事は、寅さんを鍛えてはくれましたが、意に沿わない考えを、意に沿わないやり方で実現する役割でした。世の中には、こういう巡り合わせの方々が大勢います。それはそれで、本当に敬意を表します。地味で、時には、世間から非難もされることさえあり、さらには、家族や子どもから軽蔑されることもあるかもしれません。でも、そういう方がいなくては、社会は成り立たないのです。 でも、そうだからこそ、その人達の分も、自由な立場の人間は、ストレートに主張すべきだと思いますし、大いに立場を感謝し、喜び踊るべきだと思います。 さらに追伸、大雪でとっても良い、雪かきトレーニングをさせてもらっています。寅さんの家の前の道路は長いです。それに、バス停でもあります。隣りの潰れたホテルの前も当然、だれもする人がいません。その隣りは、お年寄りが一人だけ、反対側の家は、雪かきをするような家柄ではありません。全部終了いたしました。南の地方の人は、お金を払ってまで、地吹雪体験ツァーをするようです。雪かきをするのも、本当は面白いことなんでしょうね。
2008.02.13
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あなたは、あなたの力について、教えられましたか?教えられなくても、気づいていますか? 洪水のように氾濫する情報。毎日、新しいマニュアルや技術が発表されます。一年前の「絶対的」「画期的」と言われた方法が、簡単に否定されます。「あれを勉強しろ」「これを読め」と追い立てられます。 しかし、あなた自身がすでに持っている力、もともと持っている力を忘れていませんか? 人から教えてもらわなくても、あなたの中には、すでに自分を成長させる力があるのです! 周りの情報にまどわされることなく、本来もっているあなたの力を信じてみましょう。どうせ、周りの情報も、「いい加減」なんです。だったら、人に勝手に鍛えられるより、自分で自分を成長させる力を呼び覚ましませんか? 信用できる教師がいない?います。あなたです。あなたに必要な哲学から、スキルまで、あしたの行動までを選んでくれる、あなた専用の個人コーチ、トレーナーです。あなたの中のトレーナーの存在に気がつけばどんな劣悪な環境に置かれようと、そこを自分だけの道場に変えていくことができます。先生を恨みません。学校を恨みません。日本国を恨みません。宇宙を恨みません。 そのコーチに従えば、自分が本当に求めていることが見えてきます。 さあ、自分の中からわき上がる力を信じましょう。 世のエライ先生たちも、本当は、何もわかっちゃいないんです。だったら、自分で決めていこうじゃありませんか。それでこそ、あなたは、大人の階段を一歩上ったのです。 本当は、この力を発見させることこそ、教育の務めなんです。
2008.02.08
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子どもの能力開発に最も重要なのは、子どもへの「信頼」です。親や教師がその子を信頼し、その姿勢を示せば、子どもにやる気が湧きます。「君たちならやれる」と、本気で信頼することから、教育環境は変わり始めるのです。 逆に「力を抜いているのではないか」「サボっているのではないか」という大人の疑いの姿勢を子どもが感じると、本当にサボリはじめます。授業内容や、教育環境がいくら整っていても、その根本的な子どもを信じる目がなければすべて意味がありません。 これは、大人にも言えることです。どうか、奥さん、ご主人を信じてあげてくださいね。どんなに、だらしがなく、グータラに見えても、(実際、そうであっても)その奥に、信じるものを見いだしてやるのです。人間は、尻を叩かれて動くような生き物ではありませんって。 小言やグチを言うなら、純粋にお願いしましょう。決して、皮肉にならずに。信じる心で。 また、科学教室のモットーでもありますが、 学習や仕事は、一人ひとりの力より、集団の力、仲間の大切さを確認したいものです。人は何でも言い合える仲間と活動することで互いに刺激し合い、結果として新しい気付きや発見・発明があり、同時に個人としても成長していきます。さらに互いの存在を意識し、協調し、力を合わせれば大きな仕事もこなせるのだということも実感できます。能力は個人だけでなく、集団にも宿っています。そのために、必要なのが、切り口・テーマです。刺激的なテーマこそが、集団の力を一つにして、切磋琢磨させます。親や教師は、良い切り口を提示することに、命をかけて欲しいと思います。 教育は、人に何かを「教える」とか人を「育てる」とかいう押しつけるものと考えている人の多いこと。「押しつけ」は不毛です。人は「自分で育つ」という自動詞で考えましょう。 最近はじまった、NHKドラマの「フルスイング」でも主人公の元プロ野球の名打撃コーチは、若い女性教師に、コーチとしての信念は、「教えないこと」だと説いています。選手が自分から教えてと言い出すのをひたすら待つのだそうです。手取り足取り教えるより、待つことの方がずっと難しいことです。これを信じて待てるか。どうか。がポイント「大きな耳、小さな口、優しい目で待つんですわ」、人は教えずとも育てずとも、自然に育っていきます。大事なのは、相手を心から信じ切ることです。
2008.01.28
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古川mama'sネット、これは、子育て情報発信NPOです。 小さい子どもを抱えた若いお母さんは、地域が守ってあげるべき弱者に違いありません。 ところが、その当事者が自ら手をとりあって立ち上がったのです。これは実はスゴイことで、大崎の歴史に刻まれることです。 いろんな子育てサークルリーダーをしていた普通の若いお母さんたちが、行政に依存ばかりしないで、自分たちの力で地域に発信しようと設立趣意書にサインをした瞬間。あの時、古川に希望と誇りの聖火が点ったのを私はこの目で見させていただきました。 ほんの小さな火でしたが、この火を育てようと、お母さん方が注ぎ込んだ「思い」は、世の「おやじの会」が到底及ばない、全く頭の下がる大きさであり、また内容でした。 だからこそ、多くの方々が賛同し、行政も企業も支援の手を差し伸べて下さったのです。 私も、立場上、初代代表を務めさせていただきましたが、目を開かされることばかりでした。 5年目に入り、第一ステージを終了するとのこと。スタッフの皆様、本当にご苦労さまです。この地を既に離れたメンバーも、ご支援をいただいた様々な立場の方も、間違いなく拍手をしていると思います。 この普通の主婦のパワーと「思い」を地域がどう受け止めて活かしていくかに、大崎の「器」が試されていると思いますよ。本当に。 今後の期待を込めながら、「ありがとうございます!」
2008.01.26
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昨日、うつ病で不登校になった中学生のお母さんとお話をしました。 中学生に、うつ病は本当に大きなリスクとして襲いかかっています。あるデータでは、4人に一人がリスクをかかえているそうです。そして、発症率は、大人と同じ。 うつは、生物学的には、心身の疲労だそうで、いかに、今の子どもたちが疲れているか。 おかしいですね。 で、うつになる子、不登校になる子のほとんどが、「良い子」ばかりです。お父さん、お母さんも素晴らしい人の場合が多い。よく、教師の家庭に、問題をかかえた子が多いといいますが、これは、教師という仕事が問題というより、立派なご家庭、素晴らしい教育が、よい子を育てたからで、私は、決して非難されるものではないと思います。 「よい子」が、おかしくなるメカニズム。それが、本当にわからない限り、ご両親を責めるということは、(自他ともに)これまでの教育の根本を否定するようなものです。 もちろん、人間は、大いなる勘違いを教育の世界で展開してきた可能性は、否定できません。 でも、だからって、今さらどうだっていうのでしょう。やはり教育は続けなければならない。 ところで、子どものうつは、直りが早いです。しかし、家庭で普通の生活ができたからといって、早急に学校にやるのは、失敗の元です。「あせらず、あわてず、あきらめず」がうつのモットーだそうです。 時間を早めて失敗することは多いのですが、時間をかけすぎて、失敗することは無いということです。 学校関係者も、急いで結果を求めないように、気をつけてくださいね。 とにかく休養です。 ここからは、私の独断の仮説です。(用語が不適切だと思うのですが)「子どもに意識を向けてはいけないんじゃないか?」愛情は注いでも、通常の教育的な意識は不要ではないだろうか?じゃ、どうするんだ?「親が自分の生を楽しむのです。」「親や教師が自分の人生に夢中になってしまっちゃうのです。」 子どもに対し、「あなたは、こうすべきだ」という文脈で接しないということです。「私は、こんなに楽しんでいますよ」というメッセージを流すのです。 一番いいのは、お父さん、お母さんが、仲がよいことです。アツアツでいることです。 考えてもみてください。周りが、自分勝手なことでウキウキ・ワクワクしててそれも、アホみたいなことに、目を輝かせている連中の中で自殺したいなんて思いますか? そう!アホ家族になればいいんです。自他ともに認める、アホ家族になれば、ウツにはなれませんって。 失礼、今、悩んでいる方には、申し訳ないです。これは、フーテンの科学寅さんの妄想仮説だとお許しください。 最後に別の言葉が浮かんできました。学校の価値観と違う価値観を家庭では持ちましょう。 学校と家庭が一体になってしまったのが、子どもの逃げ場所がなくなった原因じゃないでしょうか? 学校の社会というものを相対化して、小さくしてしまえばいいのです。
2008.01.13
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今日は、出初め式。いつもなら、消防団の体質がどうの、と文句をダラダラ書くのですが、今年は、書きませんよ。 一つは、ラッキーにも、ぬくぬくとできたから。もう一つは、途中、抜け出すことができたから。 それは、教え子が、挨拶に来てくれたのです。就職が決まったそうです。大企業で、競争率も高いところです。(抜け出させてくれた班長さん、恩に着ます。) 母子家庭で、母親が、悲惨な環境の中、昼夜をいとわず、働いていました。そのお母さんと、あるアルバイト先のご縁で、出会い(寅さんもアルバイトしてました)娘さんの話になり、ムリだと言われた高校受験のお手伝いをさせていただいたのです。 途中、もう一人の、お母さんからも、心に傷をもった中学生を預かり、その中でドラマが展開していったのです。 お母さんが、苦しい中、快活に笑い飛ばして生活しているのを娘は、マイペースな性格ながら、プラスに受け止め、強運を身につけながら、成長してくれました。 お母さんも、いかほど、うれしかったでしょう。そして、寅さんなんかに、わざわざ、挨拶に親子で来てくれる。私こそ、襟を正さなければ、と背筋がシャンとした思いでした。そして、私がお手伝いしたことなんて、小さいことなんですが、それでも、少しでもお役に立ったとしたら、こんなにうれしいことはありません。 ざまあみろ、政治家が、出初め式の講壇で、立派なことをしゃべってもこれほどの充実感、幸せを感じることはできないだろう。あっかんべー。
2008.01.05
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「今年は、頑張らない」と宣言しましたが、これは、寅さんに、欲がついに無くなったわけではありません。今まで以上に、もっともっと、「欲のかたまり」になっておりますです。欲の権化です。 では、なぜ、頑張らないのか?寅さんの理解では、普通の意味の「ガンバリ」は、ありゃ、不安に支えられた「マイナスのエネルギー」だと思えるからです。 じゃ、プラスのエネルギーは、どんなものか?それは、「感謝の波長です。」思考は、波動ですが、波動の周波数が、ガンバリと感謝では、違うのです。感謝の周波数に載せて、モノゴトを思うとき、それは、プラスの方向に実現されるようです。 しかし、ガンバリの波長に載せて、モノゴトを考えると一瞬、前に進むんですが、必ず壁にぶち当たります。そして、悲惨なことになるのです。で、ガンバリをあきらめて、ふっと力を抜いたとき、壁に穴があくのです。 かの有名な「引き寄せの法則」は、この落とし穴を注意しなければいけないと思います。 「これが絶対欲しい!!」、という立場ではなく、「こんな私がいただくのは、あまりにも、もったいなく、図々しいんですがえ?、くれちゃうの? もらっちゃっていいの?え?、こんなものまで、おまけをつけてくれるの?わああ。せっかくですから、ありがたくいただいちゃいます。すみませ~ん。がんばっている人に悪いなあ。(アタマ、ぼりぼり)」という立場です。感謝、感謝です。 今、見ている常識の方程式にこだわらないことです。感謝の気持ちをもって様々な「常識」というページをペラペラと高速でめくってみるのです。そして、自分にとって、ものすごく都合の良い方程式がある「常識」のページを開くのです。常に、常識のワクを破った、良いことに思いをめぐらすことです。そして、このムシのいいことに対し、申し訳ないと思いましょう。そして、感謝しましょう。 願望の実現法で、誰でも言っている注意事項それは、心配するとそれが実現しちゃう、ってことですね。 へっへっへ。だったら、それを逆手に使いましょう。幸運を心配しちゃいましょう。これで、間違いなく、「心配な良いこと」が実現しちゃいます。 これは、あきらかに、「ガンバリ」とは違いますね。そして、すごく謙虚になれます。(あたりまえのことですけどね)それでいて、常識的な勝利以上のものを得られます。 ね、すごい欲深でしょ。 今、必要なのは、いつも使っている方程式のXに、より大きい数字を入れることではないのです。方程式自体を変えることなのです。 こんな風に、遊び人の寅さんは、ムシのいい考えをもっています。申し訳ない。
2008.01.04
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昨日の最後の記事は、違うと自分で気づきました。「好き」という感情は、副次的なものだと思います。それより、子どもへの「尊敬」と「感謝」こそ本質的なものじゃないかと。 子どもに好きになってもらうには、その土台に、子どもに感謝されなければ。さらに、こちらが感謝される存在になるには、周囲を感謝の念でいっぱいにしなくちゃ。だって、認識は、すべて鏡なんですから。 周囲を感謝しただけ、感謝される存在になるのです。さらに、子どもも含めて、感謝するには、相手を尊敬しなければ。 「好き」は意識的にはできませんが、「尊敬」と「感謝」は、何とか意識的なコントロールが効きます。 常に、極端な場合を考えて、自分のスタンスを見つめる寅さんでした。
2007.12.27
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親や教師が、子どものために、尽くすって、どんなことでしょう?一生懸命、教えることでしょうか? 実は、寅さんは、子どもの頃、模範的な優等生だったように見られる向きもありますが、自分としては、親や教師の言葉に、真面目に従った覚えはありません。どんなに素晴らしい教えでも、意地でも、逆の方向を探ってきました。それで、失敗もいっぱいしてきました。でも、それでいいのだと思っています。 強く、自立した人間に育つためには、失敗する自由を保証しなければなりません。 じゃ、親や教師が子どもにできることがあるとすれば、一体、何でしょう?私は、「親や教師が人間的に成長すること、または、成長しようとする姿勢を見せること」、それしか、ないんじゃないかって、思います。 子どもは、大人の言葉には従いませんが、確実に、親や教師の影響を受けて暮らしています。唯心論的物理学から言っても、人それぞれ宇宙をもっており、相手の世界に直接的な影響を狙うことは、できないのですが、こちらの世界が変化すれば、確実に、相手の世界に影響を与えるのです。 そうすると、親子一緒に、成長していくのです。 問題は、大人が、何を目指して、成長しようとしているかです。競争社会を前提にした、物質的な豊かさや、様々な欲望を象徴したもの。これらは、実は、不安感を裏返しにしたものなのですが、これらを目標にアクセクしている姿を見せるのでは、逆効果です。 この意識で、お金や贅沢な環境を用意してやるのが、子どもの幸せにつながるなんて考え、これは、全く逆です。 学校などの設備などもそうです。お金のかかった、素晴らしい教育施設。一見、子どもを幸せにしているように見えます。しかし、それには、大人の浅ましい欲望が染みこんでいます。親の期待するような子どもになれよ、という。ですから、子どもは苦しくて仕方がないのです。子どもが暴れたり、イジメたりするようになるのです。 大人が、「勝ち組」「負け組」の思考から、自由になっていなければ、子どもの幸せを奪ってしまいます。本当に、大人は、教師は、「物質主義的な幸福」追求から、自由になっているでしょうか?これらは、、自分にとって、好都合なことばかり望む教えです。 表面的な華やかさや豊かさにだまされない、人生の深部を見つめる「生きる姿勢」こそ、子どもにとっての栄養です。「幸せとは何か」という最も本質的で、大切なことを学校は、大人も子どもも共に、追い求める場にならなければいけません。 社会の競争エネルギーに追い立てられ、断片的な知識を教え込まれ、「負けるな」「落ちこぼれるな」と励ましてきたのが、残念ながら、学校です。こんなところに、本当の生の躍動があるはずがありません。活き活きとした生徒が、存在するはずがないのです。 誤解を恐れずに言えば、大人は、子どもと向き合ってはいけません。子どもに教えこもうとしてはいけないのです。大人と子どもは、同じ人間として、目指すべき星に向かって、共に駈けてていく同志にならなければいけないのです。 ですから、授業は、本質的に、教師の自分自身への独り言なのです。自分自身を叱咤激励する、魂の叫びなのです。自然や宇宙の偉大さ、無条件の愛を讃美する歌なのです。そして、それに共感するかどうかは、生徒の自由なのです。 そこにあるのは、深い信頼だけです。 生徒の教師への信頼じゃないですよ。教師の生徒への一方的な、無条件な信頼です。それがあれば、確実に、影響力をもつことができます。 教師が向き合うべきなのは、生徒の魂ではありません。自分自身の魂なのです。 森の声さんの日記がとっても参考になりました。ありがとうございます。
2007.12.04
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先日の感想が、またまた届きました。抜粋ですが、とってもうれしい文章をご紹介します。ありがとうございます。 科学と実験がこんなにおもしろいなんて、あらためて知りました。この事でぼくは、何事も楽しくすることを学びました。あきらめたり、やる気をなくしたら、それで終わってします、ということを学びました。経営の話しの中であった、「命のこと」についての話は、興味深かったです。何をするにも楽しむことが一番ということを学びました。次は、どんな実験かなぁ、と楽しみに見ていました。へぇ、こうすると、こうなるんだぁって、色々学べました。勉強も、いやだと思わないで、遊びのようにやればいいということを話していただいて、だいたいわかりました。一番心に残ったのは、相澤先生が、酒屋で働いていたとき、いつも手助けしてくれた先生から、「恩返しは、私にではなく、他の人にするんだよ。」と言われたことです。本当にすばらしい人だと思いました。相澤先生の話を二日も聞いてくれた人は、すごい、いい人だと思いました。相澤さんは、ニコニコしながら実験していたので、ほんとうに科学が好きなんだなぁ~と思いました。その後、どうなるかのクイズで、本当のクイズみたいで、ハラハラドキドキして楽しかったです。相澤先生が、「将来、楽しい学校だらけにしたい」と言っていたのに、とても感動しました。ぼくが心に残ったのは、子どものために、米を食べないで学校を作ったことです。食べ物よりも、子どもの未来のために学校を作ったことが心にのこりました。もうひとつは、子どもが勉強を好きになって、という言葉です。勉強をきらいになると、伸びないけれど、好きと思えば、勉強もはかどるんだなと思いました。一番感動したのは、イヤだと思ったら、前へは進めないということでした。それから、勉強は、遊びかんかくでやることが大事ということを教えてくれました。びんをシュポシュポで千回くらいしたらどうなるんだろうと思いました。ストローでジュースを飲むとき、あの実験と同じことがおきているんだなあと、なっとくしました。私が4年生のとき、相澤先生と「ドライアイス」を使った「アイス」を作りました。その時もすごく楽しくていい思い出になりました。相澤さんの夢はみんながべんきょうがすきになるというので、ぼくはすきになるようにがんばります。相澤先生の科学実験を見たのは、今回で三回目です。相澤先生の科学実験は、何回見てもおもしろいです。ぼくが、心に残ったのは、楽しむのが一番という言葉です。学問についてのお話や、「米百俵」の話は、とてもためになりました。わたしは、「わからなくても、楽しければいい。楽しければ、わからなかった事を、自分で勉強することができる。」と聞いて、まったくその通りだと思いました。相澤正宏さんは、明るいけど、たいへんなことがあったとは思いませんでした。友達と言い合いながら、考えるのが、とても楽しかったです。こんなに考えるのがおもしろい事だとは、思いませんでした。その他にも、相澤さんがお酒屋さんだった時の出来事を聞いて、私も自分の事よりも、人のために何かをできる大人になりたいです。今度の実験は、先生が一番イイ授業だって、言っていたような「楽しいけれど、わからない」ではなくて、楽しくてタメになった実験だったので、今度は、楽しいけれど、子どもには、まだ少しむずかしい実験をお願いします。学校で勉強するのが←→だとしたら、社会で勉強するのが←ーーーーーー→だと知って、ぼくは、大人になって、社会で勉強しなきゃいけないということがわかりました。このことをお母さんに話しをしたら、「すごい人だね」と言われました。ぼくも思いました。光の実験は、本当に魔法みたいでした。やっぱり科学はすごいなあ。今まで、授業が楽しいなんて思ったことはなかったけど、さいきんは、相澤さんの話を聞いて、授業は楽しいと思うようになりました。相澤さんのおかげです。「勉強」はイヤイヤするものじゃなくて、積極的に「したい」と思うものだということで、「勉強」への見方が変わりました。ただ、実験や予想、議論だけでできる勉強でなくなった今が残念です。社会に出てどんな人と出会うかで志が変わるということがわかりました。自分で興味を持つことは、大切なことなんだなぁと思いました。実は、夏休みにあった「はてなランド」に行ったことがあります。その時は、レンジで実験しました。あの時も、とてもおもしろかったです。また、ぜひ行きたいと思います。ぼくは、楽しくなくても、タメになった方がいいと思っていたけど、楽しくてわかんない方がいいって、初めて知りました。商売は、むずかしいなと思うことばかりでした。お話は、長かったけど、たのしかったです。「弟子にしてください」という手紙がきた話が、面白くて、心に残っています。私は、もともと理科の実験とか、あまり好きじゃありません。でも、相澤さんが楽しそうにやっているのをみると、実験がキライだなんて、バカな話だなと思えてきます。相澤さんが、指導してもらった先生のために、何もできませんでした、と先生に言ったら、先生が「その分を他の人に教えなさい!」と言った言葉が心に残りました。今回の相澤さんの実験は、二分の一成人式よりも何百倍も楽しかったです、私も相澤さんの弟子になりたいなぁ、と思いました。相澤さんは、すごく前向きで明るい人だと思いました。私も相澤さんのような人になりたいです。クイズ全問正解でした。「勉強は楽しいのが一番」というお話でした。どんな勉強にも楽しく取り組んでいくつもりです。実験の方は、全部楽しかったです。私も「のべさん」みたいな人になりたいと思いました。これからば、困っている人や考え事をしている人がいたら、できるかぎりの事はやってあげたいです。 ※ ※ ※ ※ ※ コメントする言葉が無いくらい、うれしいお言葉です。少しは、先生の指導もあったのでしょうが、そうだとしても、いくらかでも心に影響を与えてくれていると思うと、もう本望です。
2007.12.02
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今日は、松島第五小学校のPTA行事にお招きいただきました。本当に熱い期待をかけていただき、ありがとうございます。自分としては、頑張ったつもりですが、ポイントがズレていたかもしれません。お許しください。また、また、反省点。 それは、後ほど、まとめることにして、今日感じたのは、地域で、あえて手間暇をかけて苦労することの意義です。 この地区では、PTAを中心に、地域の方々を巻き込んで、あえて、ゆっくり、じっくりの手間暇をかけて、イベントの準備をされています。 素晴らしいことです。特に、最近、学校関連の行事のリストラが盛んです。それは、確かに必要なことではあります。 忙しい現代、結果だけを求めるなら、もっと効率的な方法は、いっぱいあると思われます。 しかし、それを追求すると、子育てをする意義そのものが、音を立てて崩れてしまうと思うのです。子育ては、決して報いを求めてするものではありません。報いを求めたら、必ず失望に終わります。 無償の愛を実践させていただく、ありがたい修行の場です。その意味で、楽しいのです。 ジグソーパズルは、難しいから楽しいのです。苦しい勝利こそが、感激をもたらすのです。奇跡の逆転優勝だから、アントラーズファンは、うれしさ倍増でしょう。 苦労かける子ほど、可愛いものです。 私の実験教室でも、苦労しないで、高い評価をいただくと、とっても「イズイ」ものです。(むずがゆい、落ち着かない、心苦しい意)たとえ評価を得なくとも、試行錯誤したものこそ、得るものがあります。 そういう意味では、今日の科学教室は、どうだったのかな?あとでまとめます。PTAの皆様、教職員の皆様、ありがとうございました。おいしいお餅、ありがとうございました。もう、お正月が来たみたいです。
2007.12.01
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昨日の夢先案内人では、あまり、私の物語は伝わらなかったようですが、その物語の背景があったからこそ、実験が生きていたとも言えるかもしれません。 最後の、質問タイムのとき、ある男の子が、「すでに勉強が嫌いになってしまった人は、どうすればいいんですか?」と聞いてきました。 私は、とっさに、「知識を覚えなければならないと思うから、キライになるんだ。」「正直に、今、自分はこの世界をどんな世界だと思っているのか、見つめてごらん?そして、本当にそんな世界なのか、どうか、おかしなところはないか、もし、そんな世界の物語がすすむとすれば、どんなことになっちゃうんだろう?って、思いめぐらしてごらん。そうすると自分で調べたくなる。調べているうちに、わからないことが出てくる。それがわかるようになりたいと思う。そんな風に自分をもっていくんだ。そうやって覚えた知識は、知識ではなく、君の物語の一部になるんだ。 逆に、そんな風に自分で勉強したものじゃないと、身につかない。頭に入らないんだ。人間って、そういうふうにできてるんだ。 だから、無理に、キライな教科の勉強をしようと思わないで、自分の頭の中の世界の物語を、もっともっと、いっぱいもつようにしよう。そうすれば、きっと、今キライな世界とも、いつかつながってくる。それまでは、いろんな物語を読もう。実際、今の科学は、ハリーポッターよりも、奇想天外な物語がいいっぱいだ。ハリポタ以上のストーリーを想像できなくては、科学者にもなれない。まして、生きている人間を扱う社会の研究なんて、なおさらだ。 本を読もう、物語を聞こう。空想をしよう。伝記を読もう。豊かな豊かな物語の森を、君の頭の中に育てよう。」 という趣旨で答えたつもりです。が、答えながら、自分で自分に、なあるほど、と言っていました。それが、「感想」の中で、「自分で勉強するってことが大切だとわかりました。」につながっていたのかもしれません。 こう考えると、あらためて、大人の役割を見直せると思います。
2007.11.27
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子どもだましでなく、この世は、魔法の世界だと思いませんか?今、パソコンに無線LANを通じて、サザンの歌をダウンロードしてますが、ピコピコ点滅を見てたら、この周辺を飛び回る無数の電波が見えてきました。むむむ。電波だけじゃありません。電波とはケタの違う、さまざまな波。波。波。 人間の信じる力が、子どもを成長させていくこと。その子をかけがえがないものと見る力、これが絶大なパワーをもつなんて、すごい、すごい!愛情と信頼というものが、存在していること。たしかに、パワーをもっているということ。 楽しさは、最初からあるんじゃなくて、楽しいと見る目が楽しさを作ること。どんなところからも、幸せと楽しさを生み出せるということ。魔法じゃああ。 やっぱり、寅さんは、魔法学校の先生なのだ。 そうだ、魔法の世界には、邪悪な黒魔術もつきものだ。 (ハリーポッターの見過ぎだ)それは、 (ごめんなさい、気を悪くする方もいるでしょう。寅さん流の表現なのよ。)それは、真面目パワー。何でも、真面目に考えてしまう魔法。それは、対象を固くしてしまう。カチンコチンの術。別名、正義の魔法。相手を裁きで、切り刻んでしまう、恐ろしい黒魔術です。 それに対抗するには、遊びの魔術でバリアを張ります。呪文は、「たかが、お遊びだ~!」「イヒヒ、おもしろくなってきたあ!」その効果は、何でも柔らかくしてしまうこと。こんにゃくのようになり、水のように溶かしてしまいます。 本当の愛や信頼ならば、人を固くしません。人を柔らかくするもの、解放するもので~す。 真面目な議論は、恐ろしい魔術。皆様、気をつけめされ。多数決の民主主義にも気をつけましょうね。少数意見を奴隷に落とす、恐ろしい魔術です。「常識」というアタマを固くする黒魔術もあります。 あ、そうそう、黒魔術には、「対抗」してもいけません。対抗すると、こちらも黒魔術師になってしまいます。対抗せずに、溶かしてしまうのです。笑い溶かしてしまうのです。これが最強の白魔術です。 ほんとに、魔法としか言いようがないパワーをもってるんだから~。
2007.11.07
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子どもが心配で、やせ細ったり、幽霊のようになった親を見てきました。心情的には、わからないでもありません。しかし、気持ちを逆なでするかもしれませんが、そういう親は、ほとんどの場合、子どもを愛しているのではなく、自分の気持ちを愛しているのです。子どもの立場に立って考えられない、まだ「子ども」です。親になるべきではなかった。 どんなに、社会的にエライ立場であろうが、子育てに関しては、精神的に未成熟な「子ども」がいっぱいいます。 親の暗いその顔は、 「あなたのために、私はこう苦しんでいるのよ」というメッセージを与えているのですよ!それが、良いわけがないでしょう! どうして、心配する親の言動がこの上なく残酷なのかを理解できない人がいっぱいいます。 時間が無いので、詳しく説明できませんが、子どもを本当に救いたかったら、親がハッピーに過ごすことです。笑顔を忘れないことです。 親が不幸になることは、最悪のシナリオです。 そして、不幸になるのは、仕方がないことではありません。子どもがどうであれ、それで親がどう感じるかは、全く別の問題なのです。「こういう状況だから苦しむのが当然だ」、という考えは、明かな間違いです。そういう意識から脱出できないところに、あなたの本当の病があります。それが、子どもに悪影響を与えているのです。 そんな親より、バカボンのパパの方が、よっぽどいいのだ! とにかく、心配顔は、ひとつも良いことは無いことだけ、覚えておいてください。これは、寅さん自身の魂の叫びでもあります。
2007.11.05
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私たちは、どうして子どもを丸ごと受け入れられないのだろう? 子どもの光り輝くものを、覆ってしまう「常識」を子どものためと称して、いくつもいくつもかぶせてしまうんだろう? それは、もしかして、大人の私たちが、自分を偽っているからではないだろうか? 私たち親も、小さいときから、本当の自分を否定されて育ってきました。 「自分を出しちゃいけない。」本当の姿を見せると、「人様に笑われるよ!」「社会では通用しないよ」 夢をもて、と言われながら、常に、決定的に否定されてきました。 被害者のままで、人生を終わるなんて、ガマンできません。本当の「私」がかわいそうです。 もし、本当の「私」を縛っている鎖から解き放たれたら、そして、「私」がホントに欲しいものに向かって、歩き始めたら、どんなに、毎日が楽しく、「お祭り」になるだろうか? 自分を解放してない大人が、子どもをのびのび育てることができるだろうか?無理だろう。 私たちの内には、神様がいると考えたらどうだろう?誰の内にも、それぞれ神様がいるのです。 その神様を拝まなければ、神様は引っ込んでしまうのです。 実は、重大なヒミツがあります。理性や論理は、神様の召使いとしてだけ意味があるのです。理屈は、星の数ほどありえます。しかし、どの論理が良いかは、自分の内にある神様をほめたたえるかどうか、によるのです。 自分の内なる宇宙を、讃美しない科学は不要です。一切、拒否しましょう。 ただし、神様をコントロールしようとするのも、レッドカード。人間は、すぐ、都合の良い方へ、神様を連れていこうとします。おだてりゃ、何とかなるんじゃないのです。本気で、誉め称える存在だから神様なのです。 神様を恥じたり、社会につぶされるなんて、心配は不要です。 一旦、神様がお出ましになれば、世界の方が変わってくるのです。世界は、神様が恐くて、封じ込めているのですから。
2007.10.26
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今日、南中の青空学級の7人は、パレットおおさきで開かれた、手をつなぐ育成会の宮城県大会で合唱を披露してきました。 校内合唱コンクールでも、感動の嵐を呼んだ「旅立ちの日に」です。全県下に披露するチャンスに恵まれました。 どうして、彼らは、こうも私たちを感動させ、涙を出させることができるんだろう?本当に不思議です。彼らが、可哀想だから????正直、ほんの少しは、そんな気持ちも入ってるかもしれません。しかし、それで、こんなに涙は出ません。 彼らの、音楽そのものの美しさとは別に、彼らの魂の波動をダイレクトに感じられるからでしょう。 写真のような絵画を見ても、感動はしませんが、魂を表現した絵画は、いかに、常識的には、ヘンテコリンな構図でも心を揺さぶります。 実は、私たちの魂は、理性で抑圧されていても心の奥で、マグマのようにエネルギーを貯めているのでしょう。それが、その波動をダイレクトに受けると、解放されるんじゃないでしょうか? 彼らの魂の波が、私たちが本来もっている魂を呼び起こし、私たちの美しい魂を再発見させるのです。私たちは、自分の美しさに感動しているのです。 世の中の実体は、魂の部分だと思います。理性は、ただの交通整理のガイド。人の幸せには、知性は、そんなに必要が無いのかもしれません。 そんなことを、気づかせてくれる7人は、神様から与えられた素晴らしいプレゼントです。ありがとう。
2007.10.19
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もしかして、私たちは大いなる勘違いをしているのではないでしょうか?教育に力を入れると言いながら、社会全体で子どもや先生を過剰ストレスの脅威にさらし続けているのでは? ひいき目に見ても、ちょっと冷静になれば、教育が破綻していることは、誰でも気づくことです。 子どもたちは、立ち騒ぎ、落ち着かず、集中せず、または、とりとめのない別の世界にいます。 暴力が増え、疎外感が高まっています。 先生も病んでいます。日本ばかりではありません。スペインでは、教師の80%がストレスで疲れ切っています。イギリスでは、特に小中学校の教師のなり手がなく、政府は頭をかかえています。 ブラジルでは、ストレスによる身体の異常症状を三つ以上感じている教師は全体の92%に達しています。 どの先進国でも同じなのです。大都会の一般の社会人の2倍以上のストレスを感じていることは、間違いないのです。 こういうストレスを抱えた、精神病院に入院してもおかしくない教師に指導される子どもたちは、どんな影響を受けるでしょう。 教育についての常識を根本的に考え直す時にあるんじゃないでしょうか? 寅さんは、「考える教育」をすすめていると思っています。しかし、「考える」という意味を、脳みそに対する刺激と、とらえるとこの時代は、「考えすぎ」であふれているのではないでしょうか? 映像などを通して、過剰に情報がめまぐるしく入り、大脳皮質のエネルギーを大量に使うため、激しい運動をしていないのに、いつも疲労感を味わっています。睡眠不足、過敏反応、取り越し苦労、物忘れ、注意力散漫頭痛、胃痛 とにかく、高速にいろいろ考えてしまうのです。これが、本当の思考力とは、違うことは明かです。 この問題を解消するには、従来の教育理論では太刀打ちできないのではないでしょうか? 情報の洪水は、記憶を読み出して思考を組み立てることを妨げます。もちろん、心を平静に保つこともできなくなります。内面の充実に心を向けることもできません。あぶくのような思考過多こそ、癌なのではないでしょうか? これに対する処方箋は、新たなものにならざるを得ません。 寅さんの活動の趣旨と矛盾するようですが、現代の子どもたちには、論理的な考え方よりも「感情」を、まず豊かに教える必要があるんじゃないでしょうか? 今まで、私たちは、感情をどれだけ教えられてきたでしょうか?または、教えてきたでしょうか?感情は、思考を妨げません。逆に、主体的な考えや行動を支えます。思うようにならない人生と、真っ向勝負する力を与えてくれます。 しかし、これは、複雑な数学の公式を教えるより、難しいことです。 言葉プラス、何かが必要です。 この事についても、ゆっくり考えて書いていきたいと思います。
2007.10.12
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無限の力を持ってます、と言うと気休めに聞こえません?そうして、すぐ、スピリチュアル系か、宗教系をイメージしてしまいますが、寅さんが言いたいのは、冷静に納得できる「事実」です。 前回からの続きですが、 自分の外に世界がある場合は、当然、人と利害が対立します。そして、誰かが、美味しいところを取れば、その人以外は、あきらめなければなりません。少なくとも、一等賞を取れるのは、一人だけですよね。 また、いかに無限の力といえども、100Mを5秒で走れるわけがありません。重量挙げで、1トンを持ち上げられるわけがありません。 ところが、自分の内部に世界がある場合は、違ってきます。この世の人、み~んなが、自分の内部、つまり、「あなた」そのものなのです。自分が幸せになることを願うということは、周りの人々が、より笑顔でいることを願うことなのです。「私」だけが幸せでいればいい、というのは、自分の身体の右手だけが幸せなら、左手はどうでもいい、ということと同じなのです。それは、精神異常です。 人々の幸せを願うことは、道徳の問題ではなく、極々自然なこと、精神が健康かどうかだけの問題なのです。 「自分の世界」をもっている、と言うと自分は世界の王様、支配者であって、ヒットラーのように、好き勝手ができると思うかもしれません。 確かに、王様ではあります。が、国民を苦しめるのは、自殺行為、精神異常なのです。 そこで、創造性の問題ですが、粘土をこねくり回して、好き勝手に世界を創るイメージをするのはちょっと違います。 確かに、どのようにでも、創っていく力をもっているのですが、粘土の粒そのものにも、意志や精神をもっているのです。粘土が幸せになりますように、と愛情をもって接するのです。 誰かが1等賞を取るのは、自分の喜びです。誰かが美味しいものを食べるのも、私の喜びなのです。これは、ヘリクツではありません。認識学では、そうなのです。 人々の笑顔は、私の笑顔です。 そうすると、みんなが飢え死にしないように、地球全体の食糧を創造していくことが、当然、健全な姿勢です。この創造性には、限界がありません。人間の知恵、創意工夫には限界が無いからです。 そして、人類の知恵は、あなたの知恵でもあります。人々と一体になって、人々の幸せのために、創造に努めると生命をもった粘土のあなたの世界自体がどんどんパワーを返してくれます。人々のパワーと一体化すれば、100mを、5秒で走ることも、1トンの重さを持ち上げることも、そりゃ、カンタンでしょう。 ちっちゃな「自分」だけでやろうとするから、ダメなのです。この世界・宇宙のパワーそのものが、あなたなのです。 その意味で、日本銀行が、毎日、大量にお札を印刷してますが、これは、あなたのために、あなたのお金として、印刷してくれているのです。 この世のお金は、あなたの世界の中で流通しており、すなわち、あなたのお金なのです。 ここまで、聞くと、何てアホな。寅さんも、とうとう、本格的にイカレテしまった、とお思いかもしれません。 しかし、この考えは、外に世界がある場合の「ちっちゃな自分」へもご利益をもたらします。 たとえば、あなたがセールスマンだとします。毎日、自分の売上のグラフだけを気にして、自分の収入増だけを考えている人と、お客様の喜ぶ姿を、自分の喜びとしている人では、どちらが、最終的に成功すると思います? どちらも、笑顔を作るでしょう。しかし、自分の欲望だけで動いている人は、笑顔は、単なるテクニックの一つに過ぎないのです。そういう人は、言葉は悪いですが、詐欺師の技術を磨いていきます。行き着くところは、何とか商法と言って、大勢の人を不幸にし、自分も手錠をかけられます。 この世界を幸せにするのに、限界は無いのです。決して、弱肉強食の世界ではありません。愛情で育て上げる世界なのです。 まだまだ続きます・・・・・・
2007.10.07
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あなたに会えてよかったうれしくて うれしくて言葉にできない有名な実話のドラマですが これが教育というより、子育ての真髄じゃないでしょうか? 午前中、古川第二小学校PTAさんが音頭をとって、特別支援教育理解のための講座が開かれました。役員さんがた、教職員の皆様、ご苦労様でした。ありがとうございました。明治安田生命CM 「たったひとつのたからもの」篇へジャン プ 本も出ているのですが、エピローグ、お母さんが綴った「人の幸せは命の長さではないのです」は、涙がこぼれそうになってしまいます。 内容は次のようなものです。 もう少しで1年生になれたのにね...とは、時期が時期だけに多く耳にした言葉だった。 あと3ヶ月。普通に考えれば、3ヶ月というのはあと少しなんだろうが、 1日1日死と背中合わせで限界を手探りしながら生きてきたAにとっては 明日は来てみなければわからない。 3ヶ月先というのが、いかに遠い将来、あったか。 今現在を楽しく元気に過ごせたら、それがいちばん大切で、喜ぶべきことだった。 これはAと共に生活して気づいたこと。 今の命を精一杯。病気の人に限らず全ての人間に言えること。 得体の知れない将来のことをあれこれ悩む前に、 今、この時の1分1秒をAが楽しく過ごすことができるように。 それだけを願ってきたから。 この子だけではない。すべての子がたからもの。子どもだけじゃない、すべての人、そしてすべてのもの。この私が生まれてきたこの世界がたからもの。 今朝、ひょんなことから、朝一番に福島県から来られた団体のガイドをさせていただきましたが、この出会いも、たからもの。
2007.10.06
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世界を受け入れられない考えや気分は、容易に自分を受け入れられないことに結びつきます。特に若い子は、自分の容姿や体型が受け入れられません。それが自己嫌悪に結びついてきますと、原始的な神経システムの働きが、理性のタガをはずしてバクハツしてしまいます。これが、摂食障害やうつ病などにつながり、さらには、自殺に結びつきます。 最近、女房と夜、歩き始めたおかげで寅さんの体重は、現在、82Kにまで減少!3K減です。青空学級の子どもたちに、何かにつけ、おなかをポンポンたたかれ、タプタプ揺れる感触を楽しまれているので、何とかしなければ、示しがつかないと思っております。それより、健康問題です。メタボの道、まっしぐらを軌道修正しなければなりません。 ところで、美しい体型は、文化によって、 ずいぶん違うんですね。テレビで見た方もいるでしょうが、太っているのが美人の条件という国では、真剣に食べています。 スリムな人が美人で頭がいい、という思い込み文化は、歴史的にみても、ごく最近の欧米文化の特異性であって、後世の人は、この痩せた病人崇拝の時代を笑うネタとして見ることでしょう。 問題は、自分がいかに魅力的に見えるかということは、生存本能・生殖本能と結びついた原始的な脳みその働きに直結してるもんですから、この部分でSOSを感じると理性をぶっ飛ばしてしまうことです。 度を超したダイエットに陥りやすいのは、このためです。 もともと自己嫌悪はすべて否定されるものではありません。生存と生殖に不利益になる欠点を選別し、排除しようとすることですから。 しかし、理性のタガが外れると、自己憎悪に変わります。原始的な脳みその特徴である、ステレオタイプ化がはじまり、黒か白かでしか、世界を見られなくなります。 鼻の具合がちょっと上を向いているだけで、「私はブスだ」と自分でレッテルを貼ってしまいます。一事が万事だと思いこむのです。欲求不満の怒りがすべて自分に向けられます。自己嫌悪は、また、他者を攻撃する方向に向かうこともしばしばです。 これの治療には、いろいろあるでしょうが、寅さんの関心から言うと、行動の支配を、高等な神経システムに移す努力だと思います。 まずは、脳みその働きを理解した上で、一事が万事だとレッテルを貼る習慣と戦うのです。「自分はバカだ」「数学はダメだ」から逃れるには、意識的にヘリクツを言う習慣をつけることです。 違った見方や考えもあるだろう、と常に思いめぐらすことです。この意味でも、日本の教育にヘリクツを認めない風潮があることを嘆いています。 そして、それよりも大切なことは、自分も含む世界を肯定的に受け入れることです。自分に対して、許しと共感で接する習慣をつけることです。そうすれば、他人にも許しと共感をもてるのです。 現代社会では、原始神経システムの役割である罪悪感も、恥も、後悔も、怒りも必要ないのです。 緒絶川の生き物の研究発表 古一小4年生
2007.10.06
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子どもが60点の点数を取ってきたら、何と言うでしょう?「マー君、60点もとれたの、よかったね。」でしょうか「マー君、60点しかとれなかったのだめじゃない。しっかりしなさいよ。」でしょうか? じゃあ、30点だったらどうでしょうか?じゃあ、0点だったら? フーテンの科学寅さんは、褒めなくてもいいですが、その結果を肯定してやるのが、健全な教育だと思います。 なぜでしょう? よく、プラス思考が大切だと言われます。何でも良く解釈すればよい、というものです。 しかし、ここに落とし穴があることを寅さんは、指摘したいのです。プラス思考というのは、マイナス思考があるから存在するのです。どこかで境界線を引いています。60点まではプラスだけれど、40点からはマイナスだとかそれぞれ、勝手に線引きをしています。 寅さんワールドでは、そもそもマイナスは存在しないのです。この世のすべてが、プラスなのです。どこまでが、マイナスでどこからがプラスということ自体が無いのです。特に、教育に関しては、こうじゃなくては、と思います。 不登校へのメッセージで書いていますが、この世界は、私がいるから存在するんで、すべて、「私」が奇跡的に宇宙に生まれたことによりできたプレゼントの世界なのです。もし、あなたがこの世に生まれなかったら?想像してみてください。この今の世界は味わえますか?ある意味、望まれて生まれてこなかった子なんかは、容易に自分がこの世に生を得られなかった時にことを想像できると思います。もし、中絶してしまったら、すべての体験ができないのです。 この世は、すべてがプレゼントです。特に子どもたちなんか、その最たるものです。子どもたちの行動一つ一つが、どんなに問題行動であろうと、「私」が存在しないときのことを考えれば、神様が私に下さった、宝石のようなプレゼントだと気づくでしょう。 0点は0点として、叱咤激励するとしてもその基本には、その子のできの悪さもひっくるめて、抱きしめる喜びがどんなときもあるべきだと思います。 いわば、プラス・マイナスの二元論ではなく、プラスだけの一元の世界です。どこを切ってもプラスなのです。そうすると、不思議なことに表現が微妙に変わってきます。子どもたちに元気が出てきます。 だいたい、0点のテストを親に見せられる子どもって、すごい良い子じゃないですか?私なら、ほめたいと思います。
2007.10.05
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「私の内部世界」と言うと、誤解しやすいのが、オタクの世界です。小さな世界に閉じこもって、外部とのつながりを遮断します。これは、自分の世界を大切にしているようですが、フーテンの科学寅さんの言う、「私がいるから世界がある」とはまるっきり逆の方向です。 外部とつながりを断つ、というのは、それこそ「外部」を意識しています。内と外をつくっています。だから、これは世界の中の小さな自分なのです。 そうじゃなくて、すべてが、あらゆるものすべて一切が自分の中だと気づいて欲しいのです。 普通、自分の家庭は「ウチ」 その他は「ソト」と分けますね。ちょっと意識が広がると自分の学校を「ウチ」と考えます。もっと広がると、日本を「ウチ」と考えたりします。しかし、どれもこれも、境目があります。本当は、境は無いのです。意識できてる範囲がすべて「ウチ」であり、自分なのです。 人間は赤ん坊のときから、少しずつ、自分の世界を広げてきました。より、広く、そしてより深い、豊かな世界を創ることが、方向性なのです。 同じ地球、そして同じ平成の世の中に住んでいても、それぞれの世界は、全くと言ってよいほど違います。暗い世界もあれば、明るい世界もあるのです。 すべて、意識できるものすべてを、まず受け入れることです。受け入れないというのは、外部世界を創ってることです。 どんなにイヤなことも、自分の内部世界で起きていることです。それ以外ありえないのです。そのことを、はっきり意識してごらん? 自分で気づいているのに、拒絶するのは、自分の内部、いわば、自分の手足を自分と認めないのと同じで、一種の精神異常です。少なくとも、不健康な精神状態なのです。 健康な精神は、包容力のある精神だと言えるのです。何でも、すべて包み込んでしまうのです。そして、包み込める人のことを「強い人」と言うのです。 外面的にいくら強がっていても、壁をつくっている人は、弱い人です。たとえ、小学生の女の子でも、何でも自分の中に受け入れてニコニコしている子は、世界で最も強い人なのです。 地球どころか、宇宙丸ごと、すっぽり包み込む自分を意識してみましょう。当然、学校なんて、丸ごとストンと小さくなって、「私」の中に入ります。校長先生も、部活の先生・先輩も、私の中でしか生きていけないのです。 だったら、そういうちっちゃな先生たちや、いやな先輩をイジメてみます? ちょっと待った!イヤな人たちも、君の中、いや、君そのものなんだよ。だから、イジメなんて、自分を自分をいじめることなんだ。これって、一種の精神異常、マゾみたいなものだね。 ぼくたちにできるのは、イヤな人のいる「私の世界」をステキなものに創り変えることなんだステキな世界を創る主人公は、当然、この世界のご主人様、「君」しかいないんだよ。 きっとできる。イヤな思い出も、突然、イイ思い出に変わってることがあるだろう?不思議なことに、君の世界は、どのようにでも創り変えられるんだ。そこが、創造の世界であるこの宇宙の面白さ、ステキさのポイントなんだ。 毎日、毎時間、ドンドン、素敵な世界にしていく。豊かな世界を創っていくんだ。 そして、創造力が発揮できるのは、このような「健康な」精神のときに、自然にドンドン出てくるんだ。 次は、君の中の無限の創造性について、考えてみよう。 「緒絶橋のひみつ」 総合学習 研究発表(古一小 4年生)
2007.10.05
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