高橋信次先生に学ぶ

高橋信次先生に学ぶ

神について -1




世界中の人類が、何よりも大切にしているのが「神」という言葉です。

宇宙の存在を、存在たらしめている唯一の存在者、創造者がなければこの宇宙が存在している筈がありません。

その神が創られた宇宙の中に、われわれは生かされているのですから、それをそのまま素直に認めた時に、私たちの心の中に真の安らぎが起ってきますが、神の生命の中に生かされている現実を無視して、観念的にだけ「神はない」と思っている無神論者は絶対に、心の安らぎを得ることは出来ないのであります。

ここでこの世の中には、信仰しない人は一人もないという事実を知っていただきたい。

何かを信仰している人はそれでいいとして、世の中には「私は何も信仰していない」という人があります。

その人たちは、神とか仏とかは信じないというのでしょうが、しかし神仏は信じなくても、神仏はないという代りに「物がある」「物だけである」という信仰を持っているのです。

金か地位か名誉か物か、とにかく神仏以外の何かを信じている筈です。
てっとり早くいえば「無神論」という信仰をしているのです。

人間は何かを信ずることなしには、生きられないのです。
人問の行動の一切は「信ずる」ということから起ってくるのです。

その証拠には、いわゆる左翼の神論者、唯物論者の言動が、自分たちの信ずるイデオロギーに対してどんなに忠実であるかを考えてみて下さい。
あのような激しい言動は「無神論」「唯物論」が絶対であるという信仰から起ってきているのであって、この世界に信仰しない人は一人もないというのであり、「何もない」という人は「何もない」という信仰を持っているのです。

問題なのは「その信仰の対象は何か」ということなのであります。

仏教で「縁なき衆生は度し難し」という言葉があります。

これはどういうことであるかといいますと、神を信ずることが出来ない人は、まだ神を信ずるまでに魂が成長していない、魂が未熟であるということなのであります。

神の世界から新しく創られた霊魂が、魂の修業のためにこの地球に誕生して輪廻転生をして行きます。
その輪廻転生の回数の浅い人たちは、あの世の経験も少ないので、あの世での記憶が潜在意識の中に深く残っていません。
それでそういう人たちは、この世だけがある、物だけがある、と思うのであります。

そういう人たちは、自分の心の中にあの世での体験が深く印象されておりませんから、いくらあの世があるという話を閣いても分からないのであります。

そういう人たちに対しては、その人たち自身がこれから輪廻転生をくり返して、自分から求めてくるようになるまで待たなければ、仕方がないということになるのであります。

そういう人のことを「縁なき衆生」というのであります。

ですから、高橋信次先生の本とか正法誌をよんで、これが本当だと分かる人たちは、既にこれまでに永い輪廻転生をくり返して過去世に於て正法を聞いた、相当高い霊魂の持ち主なのであります。
神とか、縁生とか、霊魂とか、そういう言葉を聞いただけで涙が出て仕方がないという人たちがいられます。

高い霊魂の持ち主は思いやりが深く、心の動きも細やかですが、この世は物だけだと思っている人は心の動きが荒くて思いやりがなく、自己中心的になり易いのであります。

そこで自分の心が、どの程度であるかということを見つめる反省が、必要になってくるのであります。

それぞれ、その人の霊魂の高さがちがいますから、例えば高橋信次先生の本を読んだり、話を聞いても、その人の霊魂の高さによって、受取り方が違ってくるところがあるわけです。


正法誌12号1979.8より抜粋



© Rakuten Group, Inc.
X

Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: