ばっきーさんの日記から

庭

幸せの基準

20代も後半にさしかかった頃、私のいらいらは最高潮だった。

社会に納得いかない、職場に納得いかない、人にも納得いかない、
なにより、自分自身に納得がいってなかった。

ぺらぺらの表面だけで生きてるような自分、
何を言っても何をやっても、確固たる自信などなく、
私の考えはこうだと言い切る中身や説得力も到底なかった。
そして自分が人生に求めるものは何なのかもわからない、
結婚して幸せな家庭築いて、子供を生んで育てて・・「ああ私って幸せ」
と思えるような気はまったくしなかった。

だいたい幸せの基準なんて、周りが自分よりも幸福な人たちばかりだったら
幸せだとは感じれないだろうし、自分よりも不幸な人たちばかりだったら
なんて自分は幸せなんだって感じれる、そういうものであるような気がしてならなかった。

私の幸せの基準はどこだろう?
中身のないぺらぺらな私に、括弧たる絶対的思想はなく、相対的なものでしかなかった。


一大決心をして仕事をやめた。

井の中の蛙でいる自分が嫌だった。
日本をでたところで・・がむしゃらに勉強したところで・・何が見えるのかはわからない、
ただ、できる努力とできる経験をしないで、表面だけの自分で生きて行くことに
耐えられなかった。


できるだけいろんな経験と、できるだけさまざまな仕事、
できるだけ広範囲な勉強、できるだけかかわったことのない人たち。

医療という限られた世界だけれど、とにかく狭い世界から抜け出すことにこだわった。


きっと、私の前にそびえた壁は、超えずに逃げることもできた、
超えたところで、私の幸せって何なのか、わかるかどうかわからない。

でも、この先ずっと続いていく自分の何十年を、納得いかない自分で過ごしてはいけない、
できる努力とできる経験はしておこう、少しは中身のある自分にしよう、
そう思った。



壁は、越えようとすることで、自分の身の程を知ることができる、

身のほどを知らないまま生きていくことは、川の幅を知らずに泳ぎだすようなものだと思う、
そんで、おぼれそうになったら、当然の顔して人の足を引っ張るんだよ。
自分もそうだったからよくわかる。

壁が現れたら逃げてはいけない、超えられなくても超えようとしなければいけない、
大切なのは、己を知ること。

私の経験から、そう思います。



私の幸せの絶対的なところはどこにあるのかは、わからないままだけど。



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