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今月の初めまで約3ヶ月間帰りはほとんど夜中だった。仕事から帰る。家の近くまで来ると小さな用水路があって小さな橋が架かっている。その小さな橋の袂に車のヘッドライトにキラリと反射するふたつの小さな光がある。猫の目だ。白黒の猫だ。毎日のように同じ場所にうずくまっている。時計を見ると23時半から0時である。ところがある日から見かけなくなった。先月の半ば以降のことだ。今月に入って少し早く帰ることができるようになった。するといた。22時半前だ。その次の日もいた。同じ場所にいつもどおりにうずくまっていた。22時頃だ。ふと思った。猫の出現の時間が早まったのは秋になり暗くなる時間がグッと早くなったからだ。猫には猫の体内時計があり日が暮れてからどれだけの時間が経ったかそういう感覚で日々暮らしているのだろう。人間の時計による時間など関係がないのだ。と。今日はとても寒かった。あの猫はいつまであの橋の袂に現れるだろう。これからどんどん寒くなっていくだろう。僕は新潟に戻ってから二度目の冬を迎えようとしている。
2007.11.18
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空を見上げた。オリオン座を見つけた。東の空で横になっていた。星空に気がつくときいつも何故だかオリオン座がいる。オリオン座は冬の星座だという。とすれば僕は冬にしか空を見上げないということだろうか。初めてオリオン座を空に認めたのは大学生の時だった。冬だった。空気は冷え切って空はとても澄んでいた。夜中に買い物に出かけふと何を見るとはなしに顔をあげたときだった。オリオン座が目に飛び込んできた。オリオン座がどんな形をしているのかそれは知っていた。でも実際に空にあるオリオン座を認識できたときとても新鮮に感じた。誰もが(?)経験するかも知れない。初めて空に星座を認識できた時のちょっとした心の揺れ。それはオリオン座に限らない。北斗七星を初めて見たときカシオペア座を初めて見たとき北極星がどれであるか北斗七星とカシオペア座から辿ってみたとき夏の大三角冬の大三角そういったものを実際に空に認めることができたときプラネタリウムや理科の教科書で知っているそれとはまるで違うもののように感じはしなかっただろうか。読み返してみた。なんだか「それ」の使用頻度が高いような気がした。
2007.10.17
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伝えたいことがあるんだ確かに。でも言葉にできない。伝えたいことを正確に伝えたいと思う。けれどそれは無理なことだ。僕が本当に伝えたいことはひとことでまとめることができない。ひとことでは足りない。だから補足する。さらに補足に補足する。どれだけ補足しても本当に伝えたいと思うこととはかけ離れていく。もっとシンプルに考えられるなら僕はもっと楽になれる。たぶん。
2007.08.27
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「人生ってなんだろう?」いままではこのように自問自答してきたはずである。ところが最近気が付いた。「人生ってなんだったんだろう?」過去形というのか完了形というのかこんな形で問うことが多くなってきた。恐ろしい傾向だ・・・答えなんかない。いやある。いやない。ずーっとその繰り返し。それが人生だろうか。一体自分は何者だろうか。長い間疲れきっている。疲れきったまま長い間やってきている。疲労ではなく疲弊だ。意味の違いはよく分らないが疲弊のほうが僕には語感としてしっくりくる。燃え尽きた感じやる気も起きないしやりたいこともない無気力無関心無感動最近は少しの刺激で涙することが多くなった。ドラマやドキュメンタリーを見て簡単に涙する。しかしこれは感動のためではない。例えば高校野球お約束の泣かせるダイジェスト番組を見れば涙する。しかし決して高校球児やそれを応援する人たちの姿や思いに共感しているのではない。このときの涙は僕の悔しさと悲しさと寂しさと妬みである。僕にはやり残したことが多すぎる。そしてもう出来ないことも多すぎる。後悔?後悔はできない。仮に後悔するとすれば生れてきたことと答える。とにかく生きられるところまで生きていくまで。僕は高校2年の時に自死はしないと誓った。かなり古い話ではある。自分がそういうネガティブな傾向にあるということに気が付いていたからでもある。だから自死はない。今後の可能性としては大きく分けてみっつある。1.なんとかなる2.野垂れ死に3.発狂するこのなかで自分がイメージできるのはいまのところ・・・そして最も可能性が高いのはそのイメージできているものである。経験則で言えば人は思ったとおりの自分になれる。逆に言えばイメージできないものにはなり得ない。
2007.08.20
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「遠くで汽笛を聞きながら」 アリス♪ 悩み続けた日々が♪ まるで嘘のように♪ 忘れられる時が来るまで♪ 心を閉じたまま♪ 暮らして行こう 遠くで汽笛を聞きながら♪ 何もいいことが なかったこの街で実家に帰ってきて一年が過ぎた。未だに馴染めない。というか以前過ごしていた小・中・高校生の頃でさえここにいることに違和感があったのだから当然なのかもしれない。必要なのは覚悟だろうか?この街で生きて行くという。最寄の駅まで自転車で15~20分。うちは線路からは離れているといっていい。しかし夜中に部屋の窓を開けておくとたまに遠くで汽笛が聞こえる。かつてはこの歌を年上の人に合わせてカラオケで選曲することもあった。しかしまさか今になって自分自身身につまされるとは考えも及ばなかった。
2007.07.29
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ひとまず僕には問題は無い。今日は酔った。地震酔いというのがあるとすればそれだ。大きな揺れだった。おそらく僕が経験した地震の揺れの中で最大かあるいは2番目に大きなものだったろう。午前10時過ぎ。僕は布団の中で本を読んでいた。最近は何事にも集中できない。だから読書といっても字面を追っているだけだ。それはどうでもいい。ミシっといった。もちろん家が。その第一声に続いてミシミシガタガタと部屋は鳴き始め鳴き続けた。(これはでかい・・・)と思うまでおそらく7秒。仰向けのまま天井の部屋の電気を僕は見ている。揺れてる揺れてる。僕はおもむろに起き上がった。ここで10秒。そして立ち上がった。本棚を押さえるためだ。仰向けに寝た状態での僕と本棚の位置関係は仮に本棚が倒れてきたとすると僕の左側から足の上に倒れてくることになる。僕は痛いのが大嫌いだ。この程度なら倒れないだろうとは思いながらしかし確かに揺れている本棚を押さえながら僕は数を数え始める。1,2,3・・・9,10あいかわらず壁や窓からはガタガタミシミシと音がしている。揺れのほうはゆら~りゆら~りといったリズムでしかし方向は不規則にそしてまさにめまいを起こしているかと錯覚させるかのように襲ってきている。・・・28,29,30ここまで数えて止めた。揺れは弱くなってきたが続いている。(目が回る・・・)(今回もまた,どこかで被害がでたかな・・・?)ステレオのスイッチを入れラジオを聴く。FMローカル局のはずだが何事もなかったかのように番組を進行している。(どうしたことだ?)階下に降りた。家族は出かけていた。テレビをつけた。震度6強とか震度5弱とかわかるようなわからないような地震の規模を表す言葉が飛び交っている。僕の住む町は新潟市なので下越(かえつ)地方である。余談だが新潟県は細長い。南から上越・中越・下越という。京の都からみて近いほうが上越で以下遠くなるに連れて中越,下越ということである。これは国名でもそうである。越前,越中,越後。それぞれ凡そだが福井県,富山県,新潟県である。というわけで新潟市はそれほど被害はない。柏崎の原発も無事だった。ひとまず安心。放射能が漏れたりしたらもうなす術もない。中越の人たちにはまた眠れない日々が続くのであろうか。なんと声をかけるべきであろうか。
2007.07.16
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「ぶれる」最近個人的にではあるがよく目にしたり耳にする言葉である。僕の軸はぶれっぱなしである。ぶれるもなにも僕には軸がない。軸がないとは自分の考えや行動の出所がないということである。さらには自分自身がわからないということである。自分の中に軸がないから外部にそれを求めがちになる。容易に何かに縋り付こうとする。しかし一概に縋り付いてはいけないとはいえない。むしろ縋りつくことで救われる場合もある。(未完)
2007.04.22
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なにかを残したい。
2007.04.04
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「まず動け」という。動くと道が見えてくるという。そうだろうか?いや動くから変われるのではない。変われるかもしれない道が見えるから動けるそうではないだろうか。動くから道が開けるのか。道が開ける可能性が見えるから動けるのか。動こうにも動けないときがある。八方が塞がっているとき夢も希望も見えないとき動くために踏み出す方向すら見えないときそんなときにはやみくもに動いてみたところで変われることはまれだ。なにも見えていないときに「とにかく動いてみる」というのはそれは無謀という。自暴自棄,捨て鉢,向こう見ず,破れかぶれ・・・そんな場合は逆に後悔することが多い。動くには動機が必要だ。「まず動く」というのは動こうかどうしようか迷っている場合のことであってなにも見えてないときにあてはまる言葉ではない。動機さえあれば動けるのである。動くはずである。希望もない不安しかないそんな僕に必要なのは強い動機ではないだろうか。
2007.03.19
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ありがとう。今はそれだけ。
2007.03.16
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突然に消えてしまった。ネットの世界だからこんなことは日常茶飯事であろう。しかしそうは簡単に割り切れないものがある。こんなブログでもリンクしてくれた人がいた。僕は自分の性格上多少のプレッシャーを感じることになった。それでもなんとか自分のペースでこの場を保ちつづけていこうそう考えてこのブログを続けてきた(残してきた?)。僕が自分から誰かのブログにリンクを持ちかけることはない。自分に自信がないからである。そんな僕のできそこないのブログにもじっくり読んで(一定時間内に何度も何度も足跡が残っていた)リンクをしていってくれた人たちがいた。僕もその人たちのブログをリンクさせてもらった。ある人のブログは雰囲気が大好きだった。ある人のものは言葉が大好きだった。そして先日突然彼(あるいは彼女?)は跡形もなく消えてしまっていた。僕がとっさに思ったことは「あ~やっぱり」ということだった。自分は切られたと思ったのである。僕の頭にはそういう思考回路ができあがっている。「自分はつまらない人間だ」「とても薄っぺらな人間だ」という思いが前提にある。そしてそれを見抜いた人間は愛想を尽かして去っていく。そういう思考回路だ。まずは原因は自分にあると考えてしまう。少し冷静になってようやく相手には相手の事情があったのかもしれないと少しは考えることができるようになってくる。ほんの少しだけれど。今回の件に関しては後者であると信じてみたい。彼はブログをいくつか持っていたと思われる。僕が知っているのはそのうちのふたつである。そのどちらもが消えていた。気がつけばブログが削除されているただそれだけのことでとても気になってしまう。彼を責めているのではもちろんない。僕に寂しさや不安が生じるのは何故だろう?そう思うのである。そして心配だ。“心配だ"なんて僕にしてはめずらしい気持ちかも知れない。もう長い間自分の外に気持ちが向いていなかったような感じもする。もし既に改めてブログを開始しているのならば足跡だけでも残してくれるとうれしい。迷惑ならばリンクなんてしなくてもいい。僕がただ一方的に読みつづけたいだけである。いずれにせよ元気であって欲しい。♪ また会えるかな また会えるかな♪ ほら僕は君が気になりだした♪ また会えるよね また会えるよね♪ 社交辞令であっても真に受けたいな 「また会えるかな」 Mr.Children
2007.03.02
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負のエネルギー全開で行こう。この田舎町では移動手段といえば自家用車である。だけど僕には車がない。しかし有難い事に実家の車を借りて走る。車を走らせていると交通法規または常識が変わったのかと思うような状況に遭遇する。だけどおそらく一般人には些細なことなのだろう。まず気になるのは曲がる直前になってあるいはハンドルを切りながらようやくウィンカーを出すというのが当たり前のようになっていること。ひどいのになるとウィンカーを出さないやつもふつーに存在する。車線変更だってそうだ。追い越していった車が突然ウィンカーもださずに目の前に入り込んでくる。極めつけは昨日のことだ。上記のごとく僕の運転する車を追い越して十分な車間距離も取らずに目の前に割り込んできたウンコ。もうどう表現していいのか分らない。“ヤツ”とか“バカ”とかいうのは生ぬるい。“くそガキ”というのも実際に相手がガキだったかわからない。“チンピラ”というのもどうだろう。要するに人間ではないということだ。相手にブレーキをかけさせるような運転をするんじゃない。その人間ではないものが運転している車の後ろに僕はつけることになったわけだが前方の信号が赤になった。人間ではないものの車が止まってその後ろの僕の車も止まった。「こいつも含めて数知れぬアホどもが車を運転している。事故が起こってあたりまえだ」ついでに「オートマなんて車じゃない。おかげで誰でも乗れるようにしてしまったからなおさらマナーもクソもなくなってしまうんじゃ」などとイライラしながら前の車の後ろにピッタリと止まってやった。次の瞬間僕はぶち切れた。なんと前に止まっている車のおそらくカーナビと思われるものにはテレビが映っているではないか。「あー,こういう連中を一匹ずつ殺していけたら気持ちいいだろうな。いや,事故って死ね。こちらの手を汚す価値もないはずなのだ。そう,勝手に死んでくれればいいのに」なぜ僕は交通法規・マナーを守れないやつにイライラするのか?答えは明快である。とばっちりが大嫌いだからである。事故るなら勝手に事故ってくれ。そのかわりひとりで死ね。信号が青に変わった。僕は自分のペースで走り始めた。社会のとばっちりを受けないように。
2007.02.08
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何も書けないのは何も考えなくなったせいでもある。考えることに飽きたともいえる。すでに考え尽くした感がある。でも考え尽くしたなんていったら笑われてしまうだろう。もうとにかく疲れた。うむ疲れたという表現がもっともよく当てはまる。“生活する”苦労と“生きる”苦労の二重苦である。普通の人(というのも乱暴な言い方だが)にとって“生活する”ことと“生きる”ことはほぼ重なっていると考えていい。しかし“生活する”ことと“生きる”ことがばらばらに同時進行している人間も存在する。生活に苦しむ自分と生きることに苦しむ自分。単純計算で普通の人の2倍は精神的に疲労する。普通の人みたいに生活していく中での悩みや苦労だけならどんなに楽だろう。いや生活上の悩み・苦しみだってたいへんなのだ。それに加えて自分の存在の確認であるとかに悩み苦しむのは本当にたいへんだ。ただ疲労するというのではなくて疲れ果てるという感じ。疲弊というのだろうか。この疲弊した感じが全然払拭されずにもう本当に疲れきってしまい無気力・無関心・無感動・etc・・・さまざまな「無」に包まれてゆく。何も楽しくない何もおもしろくない何もおいしくない何も・・・終いには希望なんてものはなくなる。疲れきってしまうと二度と立ち上がれないものなのだろうか?わけのわからない文章。ブログを更新したかっただけ。
2007.02.07
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「何か書いておこうかな」って思って書いてみる。すると「もうつかれた」とか「めんどくせー」とか「何のために生きてるのかわかんねー」とかどうでもいいことを書いてしまう。これはどういう訳かといえば結局ここを覗いてくれる誰かに何かを期待している自分がいるということ。“構ってチャン”なのである。期待というとわかりにくい。言い直せば読者の存在を(かなり)意識していてそしてその読者に甘えているということ。甘えすぎてしまい愚痴ってしまう。最悪の行為である。まあ結局ブログである以上は多少なりとも読者の目を意識せざるを得ないであろう。しかし読者の皆さんがとてもやさしいとはいえこのまま愚痴りまくっていると自分もダメになってしまうし-既に落ちるところまで落ちているのだが-皆さんにも相手にされなくなる恐れがある。・・・結論はここだ。相手にされなくなることが怖いのである。なるほど。今回の自己分析はここまで。
2007.01.26
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精神科に行っても言っても変わらないと僕は思っているわけで。「具合はどうですか?」「はあ・・精神的には低空飛行で安定してます」「そうですか・・それでは薬の量を少し増やしてみて,また様子を見てみましょう。次はそれでは2週間後でいいですか?」てなことを延々と繰り返すのであれば僕にとってはほとんど意味がない。時間の無駄である。僕が望むものとは何であろうか?薬で何とかなるなんて思っちゃいない。薬はあくまでも補助。必要なのは心を揺さぶったり動かしたりとにかく心をいじることだと思っている。精神科や心療内科に診てもらうのと心理療法を受けることというのは別物であるらしい。だとすれば僕が助けを求めるべきものは何であるのか?何処にあるのか?正しい道はあるのだろうか?あるとすれば僕はその道を今後選び取ることができるだろうか?僕の可能性とはどのようなものなのか?まだこれから何かを仕出かすことのできる人間なのだろうか?僕は自己評価が低いのだろうか?僕は自分の力を把握できているのだろうか?僕は自分で思うよりもツカエル人間なのだろうか?それともやはり何もできない人間であることを認めるべきだろうか?僕には未来があるのだろうか?僕が生きつづける理由は何であろうか?
2007.01.14
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「親」という生き物はそれぞれ自分の人生を振り返ってみて後悔したり反省したりすることがないのだろうか。そもそも人生を振り返ることがないのだろうか。うちの親を見ているとそう思わずにはいられない。
2007.01.09
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少し太った。過食ぎみなのが自分でもわかる。食欲があっていいねという話ではない。ついこの間まではむしろ食欲がなく胃腸も緩く体重は少しずつ減っていた。成人してからの最軽量記録も更新したほどだった。だから食欲が少しでもあればそのときに食い溜め(そんなことが通用するならばの話だが)するようにしていた。すると今度はよく食べるようにスイッチが切り替わった。まだ戻してしまうほどには食べていないけれど。拒食と過食は表裏一体であろうか。これは一体なんであるかといえば心因性のものであろう。もう何がどうなっているのか今は考える気力もない。
2007.01.09
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遅ればせながら今年初の書き込みである。励ましてもらったり慰めてもらったり遊んでもらったり昨年はお世話になることが多くたいへんうれしく,有難く・・・しかし何のお返しもできない。お礼のしようもない。僕の人間関係は大体ここで行き詰まる。何のお返しもできないことに引け目を感じて「ありがとう」というべきところで「もうしわけない」といってしまう。そしてなんとなく相手から離れていくことになる。これまでの人生そういうことを幾度となく繰り返してきた。・・・こんな書き出しになるとは思っていなかったがこうしていつの間にかネガティブな感じに突入していくのはもう仕方がない。癖だ。ありがとう。今年もよろしく。
2007.01.08
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今日は・・・少しは元気である。昨年の11月末に空き巣に入られたらしい(未遂)というネタから始めたブログもご覧のように続いているのか続いていないのか分らないまま楽天に登録してあるからという理由でとりあえず消えることなく1年は経過した。・・・読みにくいな。寒い。新潟ってなんて寒いのだろう。ここのところ天気も愚図ついていて気分も滅入る。今日はクリスマスイヴであり自分の誕生日でもある。携帯電話にメールが届いた。東京時代の友人からだった。「メリー・クリスマス」のメールだと思ったら「誕生日おめでとう」だった。自分の誕生日を目出度いなどと思ったことはないが今日をクリスマスとしてではなく僕の誕生日として記憶してくれていた人がいたということがうれしかった。もうひとつ。携帯電話の留守電に入っていた一本のメッセージ。東京での最後の職場でお世話になった人達からである。「おめでとう,おめでとうございます,おめでとう,おめでとう・・・」電話の向こうで何人かが集まって順番にそう言ってくれている声を聞くことができた。うれしかった。ありがとう。それからここを覗きに来てくれる皆さんにもありがとう。さて前回更新から約1ヶ月。月一ライターになりつつある。次の更新はいつだろう?だからA merry Christmas and a happy New Year !!
2006.12.24
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何か書いておこうか。いや,書けない・・・書けないんだってお前は小説家か。いや,今日は書いたんだ。書き終えたと思ったらブラウザの戻るボタンを偶然にもクリックしてしまったんだ。全部消えたよ。というわけで寝る。
2006.11.24
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使えないのが痛い。機械音痴で・・・というのではない。むしろデジカメ購入は比較的早い時期だったと思う。1999年のことだった。携帯電話も早かった。1995年だった。最近のモノと比べるとまるで凶器になるのではないかと思われるような不恰好なものだった。MDだって早かった。10年程前のことだ。で今回は「メカには強いよ」という話ではなく引越しの際にデジカメの電源アダプタを紛失デジカメ本体は無事だが充電できずということである。新潟に落ち延びて8月,9月,10月と素敵な空と山と田んぼと庭のトマトやカエル達が見て見て~と言ってるかのように豊富な被写体があったにもかかわらずそのどれをも撮れなかった。がっかりだよっ!というだけの話。
2006.10.29
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要するに今何が僕を滅入らせているか。1.年齢2.お金がない3.仕事探し4.自分のことがわからない5.将来のことこまかく挙げるときりがないしそれぞれの問題が絡み合っているから分類のしようもない。年齢については明言を避けるが職探しにおいて不利になる微妙な歳である。1番と3番はここでつながっている。そして2番も当然絡んでくる。お金をなんとかしよう。手っ取り早くとりあえずその場しのぎでいいから働こう・・・それでいいのか?今までだってその場しのぎの仕事をやってきた。しかし手を抜いてやってきたわけじゃない。その場しのぎで仕事をやりながら何かを探していた。でも見つからなかった。既に体験済みだ。とりあえずの仕事ではダメなのだ。ではどんな職を探す・・・?根本の問題はこれだ。僕には積み上げてきたものがない。積み上げてきたものがあればそれを拠り所に職探しもできようものだが僕にはそれがない。 いつの日かここではないどこかに 自分の居場所が見つかるはずだから それまでは目の前のことに一生懸命に取り組んでいこうそうやって最近の4年くらいは勤めてきた。でもなにも見つからなかった。 まだ見ぬ将来のことなんて 考えるから不安になるのだなんていう自己啓発のhow-to本やらに載っていそうな言葉に安易に乗せられてしまったのがよくなかったのだろうか。それともただ単に僕の解釈の仕方がまずかっただけだろうか。確かに目の前のことに没頭することで慢性的な不安感は薄らぐ。しかしそれは根本の問題から目を逸らして逃げているだけである。僕に必要なものはなにか?自分が自分であるという実感である。アイデンティティの確立である。自信である。自分が人生の主体となることである。話が逸れたがもう少し簡単な話に戻すとアルバイトをする → 職を探すが手がかり&自信がない → アルバイト先に安住する →→ 歳を取る → 職探しにおいて門が狭まる → とにかく自信がない → ・・・人生に張り合いがない。この歳で未だに「何のために生きているのか」なんて考えていることがおかしいだろうか?手っ取り早くとりあえずというのであれば普通のアルバイトよりも工場で派遣や請負で働いたほうが収入はいい。でも何の将来も描けずにただ食っていくためだけの生存するためだけの人生だとしたら不安を感じずにはいられないのである。もうそれは不安どころではない。恐怖だ。
2006.10.29
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電車に乗り込むと適度に混んでいた。僕は高校生カップルの近くに立つことになった。カップルの会話が聞こえてきた。メス「・・・で,さっきの人はあやまっていった?」オス「いや,何もいわなかったよ」メス「きっとあれだ,もう歳だから鈍感になってるんだよ」オス「自律神経がおかしくなってるんだね」メス「自律神経失調症だよ」クスクス笑っている。自律神経云々は関係があるかどうかは知らないがどうやら体かカバンがカップル・オスにぶつかったが知らん顔をして行ってしまった人がいたようだ。電車が動き出した。しばらく走ったところで大きく揺れた。僕に背中を向けて立っていたカップル・メスもよろめいて左足を一歩後ろに踏み出し(?)て見事に僕の右足を踏んづけた。彼女は あっ と思ったのだろうか一応は振り向いて僕の足もとを見た。まさにカップルがさきほど話していたような事故が発生したわけである。果たしてカップル・メスは僕にあやまるだろうか?僕の足は少し痛かったけれどそれ以上にこれからの展開にわくわくした。果たして彼女は彼の方に向き直り何事もなかったかのように彼氏とのおしゃべりに戻った。僕は思った。僕A: こいつ,ぶっとばしてやろうか? さっきおまえ達が経験した出来事と類似のことを 今度はおまえが惹き起こしているのだぞ。 おまえは確かに振り向いてオレの足もとを見た。 何かをやってしまったという感覚があったにもかかわらず チラ見で終わりかよ。 さっきエラそうに文句をいっていたくせにこのザマはなんだ? 口先だけか? ぶつかっていった相手があやまっていかなかったことを非難するのは 自分が同じようにしたらあやまっていくだろう ということを前提としているのではないか? 他人を非難する前に自分を省みることができないのか? 文句を言うのは簡単だ。問題は文句を言える権利があるかどうかだ。 まず義務を果たしてから権利を主張しろ。 この現代人めが! 死ね!僕B: あれ? 僕の足を踏んだことに気が付かなかったのかな? いや でも振り向いて僕の足もとを確認したぞ。 さっきのおしゃべりの内容から察するに この娘は他人の足を踏んだらあやまる子なのだろうと思うのだが・・・。 もしかしたら 踏んだという感触がそれほどなかったのかもしれない。 彼女自身も (あれぇ? もしかして踏んじゃった? だとすればあやまった方がいいだろうし・・・ でも踏んでなかったのかもしれないし・・・) 迷った挙句なにか一言いうタイミングを逸したのかもしれない。 大目に見ておこうか。どちらも自分。で人を注意するタイミングを逸しつづけて生きてきた。
2006.10.17
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「満足した愚者より不満足なソクラテスの方がよい」 J.S.ミルなるほどとも思うが果たしてどうであろうか。満足した愚者のほうが圧倒的に幸福だと思うが・・・。一見不満足である人間をフォローしているように解釈できるが不満足である故にあなたはソクラテスであるというふうに思わせて自分は愚者ではないという優越感を持ちなさいといっているようにも解釈できる。解釈できるというよりも僕の性格上そう解釈してしまう。ひねくれているだろうか。愚者であろうが満足している方がよいと思うのは僕だけだろうか。そういう僕は自分が不満足であるということをこの言葉で肯定しようとしていないだろうか。そうだとすればそれは傲慢でもあるか。
2006.10.17
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今更であるが大学生の就職活動って職探しではなく会社探しなわけだ。新卒は 就「社」中途は 就「職」といった感じだね。もちろん新卒でも就社ではないケースはある。弁護士だったり,看護士だったり,その他専門的なものはそうだろう。学生時代の就職活動中のなんとなく釈然としない気持ちを言葉で表すならば上記のようなことだったと思う。僕には就社は無理だった。「なぜ当社を志望するのか?」この質問には答えようがない。僕は学生の頃から「社」よりも「職」を強く意識していたほうだと思う。だから会社を選ぶ際にも「職」を重視した。ところが今僕には売れる技術も知識もない。こりゃびっくりさ。
2006.10.13
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こんなタイトルが今日はたくさん見受けられたのではないだろうか。競馬に興味がなければまったく盛り上がらない話。今夜(正確には明けてから)フランスで日本の馬が走る。ディープインパクトである。日本競馬史上最強ではないかと僕は思っているけれど外国で通用するのかとても楽しみである。日本とは違う芝の上でここ最近はレースに出ていないという条件で果たしてどこまでやってくれるだろうか。がんばれ武豊。----------------------------------------追記:10/03・・・というわけで予想通り日本は人間だけじゃなく馬までも本番に弱いということが証明された。というのは大袈裟だがディープインパクトは3着に終わった。予想通り・・・。もちろん応援はしていたしディープインパクトは僕が知る限りでの少なくとも日本競馬史上最強の馬だと今でも思っている。ただハンカチ王子といい今回のディープインパクトといい報道の仕方とそれにとびつくアホどものそのとびつき方が醜くてしかたがない。不快だ。しっかりしろ該当者。
2006.10.01
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結城希さんから頂いたバトンです。 いつもお世話になってます。----------------------------------- ルール見た人は全員やる。 嘘つきは足跡に証拠が残っちゃうからダメ~♪ 見てしまったからには潔くいってみよ~!!! ゴーゴー!!あ、日記のタイトルはみんなが思わず 見ちゃうようなタイトルを考えてねwwww ----------------------------------- ということらしいですがそのへんは臨機応変に。001 名前、生年月日、血液型、住んでる所は? restless heart 19●●/●/● AO型 新潟 002 名前の由来は? 80年代洋楽ロック・ポップスの あるアーティストの歌の題名から。 restless :〔人, 気分などが〕落ち着かない, そわそわした; 不安な. heart :心, 心情, 気持ち(新グローバル英和辞典による) 003 家族構成は? ひみつ 004 身長、体重、靴のサイズは? 実質165.5cm 見え方170cmくらいらしい 50kg±500g 26cm 005 幼稚園から大学の出身 名前は出せない 新潟時代:幼稚園→市立小学校→市立中学校→県立高校→浪人 東京時代:私立大学006 紛失? 夢のかけら007 習い事はしてる? していない 008 自分を動物に例えると? 猫 が好き009 好きな女性 ビジュアルでは 中田有紀,長谷川京子,エビちゃん,ほか よろしければプロフィールもご参照あれ 好きな性格などのことならば やさしくて落ち着いていて強くてかわいくてきれいでエロい人 好きな人は 東京にいたり,北海道にいたりする010 嫌いな女性 たとえばハンカチ王子が話題になればハンカチを買いに走る人011 好きな男性 CHAGE と ASKA 昔々お世話になったフリーの技術屋けんじさん012 嫌いな男性 みんな敵 ^^; 013 好きになる人は何型が多い? O型が多い014 SorM?何フェチ? TPOでどちらも演じる どちらかといえばMだと思う しいていえばアキレス腱フェチ015 恋愛経験豊富? 豊富ではない016 結婚と恋愛は別? その違いを真顔で語り合うほど青くもない017 結婚はいつする? しないと思う018 子供は何人欲しい? いらない019 子供にさせたい習い事は? こどもはいらない・・・020 将来どこに住みたい? 以下の条件を満たすところ ・日本国内 ・台風の影響が比較的少ない ・地震が比較的少ない ・降雪量が比較的少なく,しかし四季を明確に感じられる ・自転車を乗り回すのに適度な起伏がある ・海が近く山も見える021 理想の家族は? 父・・・(・・・) 母・・・(・・・) 兄・・・(・・・) 夫・・・いまのところそういう趣味はない 姉・・・東京のHさん 弟・・・東京のUくん 妹・・・小野真弓 イタズラせずにはいられないかもしれぬ・・・以上・・・ですな。おそまつさまでした。
2006.09.28
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「Progress」 kokua / スガシカオ♪ ずっと さ がして~きた りそうの じぶ~んって♪ もうちょっと かぁ っこよかったけれ どぉ♪ ぼくがあるいて~きた ひびとみちのりを♪ ほ ん とはじぶんっていうらしい~♪ せかいじゅうにあふれているためいきと♪ きみとぼくのあまずっぱいざせつにささぐ♪ あ と いっぽ だ~け ま~えに~ すすもう歌の何に惹かれるのか。昔はメロディーだった。今は歌詞だ。割合でいうと昔:メロディー 8:2 歌詞今:メロディー 6:4 歌詞といったところだろうか。今でさえメロディーのほうが割合としては高いのだがそれは仕方がないことだろう。音楽というのはそういうものだと思う。基本はビートと旋律であると思うからだ。歌というのはテレビやラジオを通してまず耳から入ってくる。その際にはじめから歌詞に注目する人はそれほど多いとも思えない。今回の今日の歌はNHK総合テレビ(NHKネタばかりで恐縮だが)の「プロフェッショナル・仕事の流儀」という番組のテーマとなっている。たまたまチャンネルを合わせたときにやっていた番組で番組の最後に流れてきたこの歌を聴いた。声はスガシカオっぽかった。はたしてそうであった。そして最後の最後のフレーズあと いっぽだ~け ま~えに~ すすもう(あと一歩だけ,前に 進もう)ここだけは意識せずとも耳に飛び込んできた。このフレーズだけでどんな歌なのか気になったというまさに歌詞に惹かれた分りやすい例である。
2006.09.26
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NHK総合でやっていた「謎のホームページ・サラリーマンNEO」というテレビ番組が終了した。おもしろかったのでよく見ていたのだがじつはその他の理由のほうが強い。女優陣にきれいどころ(きわめて主観)ばかりを揃えたなぁと思っていたからである。これは観賞しなきゃならぬとばかり火曜の夜はチャンネルを合わせた。なかなかシュールなコントばかりで毎回楽しく見ることができた。シュールって言葉なんとなく使ってきたがシュール:表現や発想が非日常的・超現実的であるさま。(大辞林による)メモった。※女性について「観賞」ということばを使うのは語弊があるかもしれず誤解を生じる可能性もあるがあえてそのままとする。まったく悪気はない。説明するとなると僕のバックボーンを語らざるを得ずとてもまとまらなくなるため割愛する。
2006.09.26
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弟のあのブチ切れ様は初めて見た。僕よりも大人になったのかなと感じていたのだが,やはり内に秘めたフラストレーションは尋常なものではないようだ。相変わらず両親,特に母の支配欲は甚だしい。田舎に戻って改めて感じたのは母の精神的幼さだった。自由奔放といえば聞こえはいいが,要するに自分勝手・わがままだということだ。誰も注意しない。放し飼いの状態だ。父は何をしているかといえば何もしていない。母を制御しなければならない立場にあるはずだが何もしない。まるでお姫様だ。お姫様という歳でもないのだが,どうしようもなくガキなんだから。あることについて「それはおかしい」と思って彼女に反論してみるとすぐに口を尖らせて喧嘩口調になる。こちらは別に喧嘩をしようとしているのではないが母は反論されることが自分自身を否定されているようで怖いのかもしれない。それでもこちらがあえて話を続けていると何故か父がそこでようやく口を出す。そしてこちらを抑えにかかる。それで彼女は増長する。虎の威を借る狐とはこのことだ。父がいなくなったら母は一体どうなるのだろう。より一層嫌なババアになるかそれとも意気消沈するだろうか。親殺し・子殺しが他人事ではないそんな思いが今日はいつになくリアルに感じられた。夕食のときだった。僕は少し遅れて食卓についた。その時にはもう弟と母が強い口調でやりあっていた。母は自分の思うとおりにならないと感情的になる。だから冷静に話し合って決着がつくということはこの家ではない。母:「誰がご飯作ってやってると思ってんの!」弟:「あーわかった,いらねえよ! うるせーなー!」(席を立つ)母:「もう食べんな!」僕は横で(このくそババァ,またはじまったか)と思いながら(そのうちオレか弟がこのくそババーを殺してしまうかもしれんな・・・)と他人事のように,あるいはリアルに考え不安になって一気に食欲を失った。弟は自分の部屋へと姿を消した。弟のいない食卓で僕はご飯を黙々と(食道の内壁がピタッとくっついたような不快感のなかで)食べながら一応言ってみた。僕:「G(弟)も悩み苦しんでるんだがね,もう少し理解しようとしてみないと新聞に載ることになるかもしらんよ」母:「ああ,もう殺して欲しいわ!死にたいわ!」僕:「・・・」この人は自分のことしか考えてこなかったんだろうなと以前より冷ややかに見ることができるようになった僕はそう思った。彼女が感情的であるのは今に始まったことではない。僕や弟が小さい時からそうだった。僕らは彼女の気分や感情によって叱られ誉められ育てられた。何が何故よくて,何故わるいのかそれがわからないまま育ってきた。そのことに気づくのが遅すぎた。僕はさらに一応言ってみた。僕:「オレとかGみたいに,いわば片端がこの家から二人も出来上がったのは偶然ではないのかもしれんよ」(もぐもぐ)本当は単刀直入に「必然なんだよ」と言ってみたいものなのだが,そこは抑えた。母:「誰のせいだっていうん?! 親のせいだっていいたいんけ?!」僕:「親のせいだとはいっとらん。家族全体の問題だとは考えたことはないん?」(むしゃむしゃ)母:「それは親のせいってことらろーがね!?」僕:「(ふむ・・・)」正直すぎる僕はここで返す言葉を持ち合わせていない。(そうかもしれんし,そうじゃないかもしれん)まあ,うまいことを言ったとしても,相手がまともではないのだからあまり意味はない。いくつかのやりとりの後母:「この近所のどこの家だって同じようなものなんだて!良い家ばっかりじゃないんよ!」僕:「(ふむ・・・)」そう同じようなものなのだ。それは言われなくても知っている。僕が小さい頃から精神的におかしくなったらしいという人が近所にはいた。ここは田舎の団地だ。都会のイメージでいうマンションが立ち並ぶような団地ではなく戸建てがたくさん集まった,約35年程の歴史しかないであろう団地だ。この団地自体がおかしい,と僕は昔から漠然とではあるが感じていた。母の(必死の?)主張は続いていたらしい。母:「それじゃ親のせいだとしたらどうすればいいんだね?!」僕:「知らん。専門家じゃないのでね。 一度家族全体でカウンセリングでも受けてみたらいいんじゃねーろっかね?」ここではじめて父が「バーカ,笑われっこて」“何故笑われるのか? 誰に笑われるのか?”食いつきたくなるような振りだった。食いつかなければよかったのだが,つい問い返した。「なんで?」僕はここで問い返したことを後悔し,その後悔で頭がいっぱいになり,父がどう答えたか覚えていない。精神分析好きの嫌な部分だ。いわゆる体裁ばかり気にしやがって!という部分での食いつきである。こんなところに食いつくなんてまだまだ修行が足りぬ。つづく
2006.09.12
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田舎に戻って不便に感じること・交通の便・受信できるラジオの局が少ないまず出かけるだけで一仕事だ。バスや電車の時刻表を確認してから出かけないと20分とか30分も待つ羽目になることがある。改めて気づく東京の便利さ。ふらっと出かけてもとりあえず電車に乗ってしまえばなんとかなった。こちらではふらっと外にでることさえ“おでかけ”ムードだ。いわゆる“よそゆき”である。田舎では自家用車が欠かせないというような話をよく聞くがなるほどと思う。今あらためて実感する。街に出たら出たで今度はやることがないんだな,これが。結局車とSEXに金と時間を使うことになるのだろう田舎って。誤解のないように付け加えておけば僕は田舎を見下しているわけではないしたとえば東京で暮らしたことがあるから偉いとかそういう思想も持ち合わせていない。ただ東京の雑踏は好きだったそして育ったこの地は好きじゃなかったそれだけである。
2006.09.11
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正直,ぶん殴ってやりたいと思うことがある。自制できないようになったらどうしようか?って他人事のように考えていることがある。最近流行りの親殺し・子殺し。理解はできるような気がする。しかし理解はできるけれども同情はできない。憎みきっているけれどなかなか断つこともできない関係。これが耐えがたいほどのストレスとなる。いつの日か痛烈に仕返しをしたいとは思うが殺しは最終手段である。そしてそのときは自分の最後でもある。ってここまで書いて「パッチワーク・プラネット」アン・タイラーを思い出した。「今までありがと」なんてことをいいながら目の前に大金を手切れ金のようにポンっと置いてやったら彼らどんな顔をするだろう。やってみたいものだ。やはり無条件で許すなんてできないだろう。人生なんて短いのにその短い人生の大半を苦しむためだけに生きるなんていや,実際生きてきたわけだが悔しくて仕方がない。なぜ何をやっても癒されないのか?なぜこんなに生きにくいのか?それでは何が満たされたら少しはましになるのか?なんとなく分かるけれどもちろん専門家ではないから確信はない。自分を満たしてくれる何かそれはもう手に入れられないことだけはわかっている。だからそれを違うもので満たしていくことになるのだろう。違うものとは何であるのか?というのも問題になるが仮にその違うものを手に入れたとしてもそれは中学生や高校生に性欲を勉強やスポーツに振り向けろというのと同じで根本の解決にはならないだろう。でもそれしかないんだ。それしかないのだろうか・・・。
2006.09.06
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「いつの日か」 矢沢永吉♪ いつのひか もういちど あお~ぉぅ♪ なにもかわらぬ ふたりのま~まぁで♪ い~つ いつのひかぁあぁ もういちど あお~ぉう♪ ゆめをみていた この ばしょで「いつの日か・・・」といって5年も10年も経っているモノやコトってないかい?僕にはごまんとある。もしかしたら死ぬ間際でさえ「いつの日か・・・」って言ってるかもしれない。この歌は東京で社会人になってからたいへんお世話になった先輩とリンクしている。この先輩を僕は尊敬し慕った。先輩もとても可愛がってくれよく遊びに連れて行ってくれた。その先輩がカラオケにいくと矢沢永吉を歌った。そのうちの一曲がこれだった。僕は先輩から矢沢永吉のCDを借りて聴いてみた。そのCDのなかでも最も気に入った曲のひとつがこれだった。僕はその後その会社を辞め先輩とも離れた。たまに遊びの誘いもあったがそのうちにこちらの事情でお断りすることが増えていった。連絡は取れなくはないが今となっては取りにくい。この先輩にいつの日か恩返しをしたいと考えつつなにもできずに8年の時間が過ぎていった。
2006.09.03
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人生がプラモデルのようであれば設計もできるだろう。設計はしてみようとは思ったこともあるけれど部品がまったく足りないことに気がついてもいた。そもそも人生って設計できるのか?人生が設計できるものだとしたら僕はもう少しましな人生を送れてきたはずだなどと思う。
2006.08.29
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そのうち誰かに「生きてて楽しいの?」なんて聞かれそうだ。そんなときは問い返すだけだ。「生きるって楽しいことなの?」楽しいから生きるというわけでもなかろう。堂々巡りだ。「何のために生きている?」何のためでもないという結論は出している。けれど何度だって繰り返しこの問いに返ってしまう。いつか抜け出せると思っていたのだが・・・思いつづけて約20年?長いトンネルだ。いや,これはきっとトンネルではない。トンネルなら入口と出口があるだろう。トンネルに入った覚えはないからはじめから単に暗い世界だったということなのかも知れない。「もっとひかりを!」とはゲーテだったか。“もっと”ならまだいい。「“せめて”足もとにだけでもひかりを・・・」
2006.08.26
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無駄な努力無駄じゃない努力どうやって見分けようか。
2006.08.26
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部屋の網戸にかえるが白い腹をみせてへばりついている。かれらは球状の指先(?)を網に引っ掛けてしがみついているのだった。平面ならその球状の指先が吸盤のような働きをしているのだろう。なつかしい風物。僕はそれをじっと見ている。夏の間だけだけどふるいともだち。
2006.08.26
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ホームシックかもしれぬ。ホームとはどこか?今いる場所は物心つく頃から20歳まで過ごしてきた土地である。通常ならここが「故郷」 ホームというべきところであろう。しかし僕はここを一度は捨てた。今回戻ってきたといっても心の拠り所がここには存在しない。かといって東京に心の拠り所があるかといえばない。ただ人的ネットワークはあった。友人・知人はいまや東京にしかない。東京に出た頃ホームシックなどというものが理解できなかった。今はなんとなくそれがわかるような気がする。東京がいいということではない。たまたま東京で暮らしてきたというだけであってそれが東京でなく他所であればそこだっただろうということである。
2006.08.25
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地元のちょーローカルな花火大会が始まった。19:30近所でわーきゃーという声が聞こえる。近くに大きな河が流れていてその中州から花火は打ち上げられる。近くで行われるから川まで出なくとも建物などの障害物がなければここからでも見ることができる。もちろん音もじゅうぶんにうるさい。十何年ぶりに聞く地元の花火の音である。見ようとは思わない。尺玉の音は大きいし突然なので心臓に悪い。花火を見に行くというのは楽しいことだろうか。僕にはもの悲しく感じられる。以前からそうだった。「今年の夏も終わる・・・」そんな気持ちが強く沸いてくるのだった。特に今回はこの小さな田舎の花火大会がよりいっそうもの悲しくさせるのである。
2006.08.25
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親がいなかったための不幸はよく論じられるだろうが親がいたための不幸はあまり取り上げられない。「親がいるだけありがたいとおもえ!」とは一概にいえなくて親がいるためにおおいにその子どもが苦しむケースがあるということはどれだけ世間に認識されているのだろうか。
2006.08.24
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蝉の声も遠くから聞こえてくるのなら聞けたものでそれがたくさんの蝉が一度に鳴いているようないわゆる蝉時雨であってもうるさいという感じではないのだが一匹だけ目の前でジリジリと鳴かれるとなかなかにうるさいものであった。東京では蝉時雨はもちろん単独の蝉の声もなかなか聞かない。意識していなかったからかもしれないが。蝉時雨といえば藤沢周平の小説である。原題は「蝉しぐれ」とひらがなである。テレビでのドラマ化や映画化などで知った人も多いだろう。周知のとおり素敵な小説である。この「蝉しぐれ」タイトルどおり要所要所で蝉しぐれを背景とするシーンが現れる。よければ何度でも読み返してもらいたい。間違いなく一読で済ます類の小説ではない。派手さはない。むしろ地味。しかし時間をおいて読み返させる魅力がある。別に「蝉しぐれ」藤沢周平を紹介しようと思っていたわけではないがこの方向で頭が回り始めたのでこうなってしまった。暦のうえでは残暑だがまったくもって暑さは今がピークではないかい?ということを言おうと思っただけだったのだが。残暑お見舞い申し上げます。
2006.08.16
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なにかが網戸にぶち当たる。蝉が体当たりしていた。地面に落ちたと思いきや落ちきらずに網戸の最下辺でふんばってけたたましい鳴声を上げはじめた。蝉からの残暑見舞い。
2006.08.16
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10年以上振りに会ったいとこが及川奈央に似ていたので驚いた。今は子持ちでその子が2歳くらいの女の子でとてもかわいらしかった。もちろん僕は現代的なあぶない意味で幼児に興味があるのではない。この場合「小さきものはみなうつくし」のあれである。「美し・愛し」と書く。あらためて日本語は美しいと思う。あれほどかわいらしい生き物を見たのはとても久しぶりだったように思う。「生き物」というのは適切ではないのだろうが・・・そのままにしておこう。深い意味はない。人間の子供にあるいは自分の子供にペット的なかわいらしさを求めるのであれば子供など作らないほうがいい。社会のためにも。そういうかわいらしさはまさにイヌやネコなどのペットに求めるべきで人間に対して求めるべきものではないし求められないだろう。
2006.08.15
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とりあえず更新。久しぶりに更新。頭の中身断片を載っけていく。文章にするのは面倒だ。重複、繰り返しけっこうだ。某作家や某心理学者だって同じことを言い方をかえて、ひどい時には装丁だけが違っているのではと思わせるくらい同じような内容の本を繰り返しいくつも著すことで稼いでいるではないか。売り物にしてそうなのだから僕がここでそうすることになんの問題もない。最近の再発見。月明かりで自分の影が確認できたこと。知っていた田舎の夜空のはずだったのにとても新鮮だった。というわけで僕は故郷に戻った。(そこが故郷と呼べるのなら)約15年におよぶ東京暮らしで得たもの(そんなものが存在したのか?)をまたすべて手放して必死に捨て去ろうとしてきた東京暮らし以前の過去に戻ろうとしている自分がいる。人生ぼろぼろだ。なにがいろいろだ、と思う。八つ当たりである。それまでの過去を捨て新しい自分を。そしてそれまでの自分を捨てまた違う自分を。こういった自分の過去が積み上げられてきていないことから生じる自分自身の不確実性。自分の拠るべきもの・ことがなく不安定な自分という存在。インチキ臭くいえばアイデンティティの不確かさ。常に今ある自分を否定しながら生きてきたことの付けが大いに回ってきているのかもしれない。でもそれは今になって気が付いたことでもない。塔は下から組め、という。差し詰め僕の人生というのは人生という塔の、基礎・土台のないものであるといえるのかもしれない。そんな前提でいくら日々経験してきたとしても人生という塔はうまく積みあがっていかない。基礎工事があまく、土台がしっかりしていなければその上に建てた建物もピサの斜塔のごとくである。いやピサの斜塔ならばまだいい。形を成しているのだから。
2006.08.14
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夏草や兵どもが夢の跡 (奥の細道)まさにこれがピッタリだろう。あぁ,ジダン,ジダン,ジダン・・・これでよかったのか,ジダン。なんとつまらない幕切れであったか。しかしなんと見事な頭突きであったか。たしかにイタリア人というのは狡猾そうだ。(あくまでも個人的主観)イタリア人に限らず西洋人なら少なからず汚さを持っていそうだがジダンは有終の美を飾るべくここはひとつ耐え忍ぶべきではなかったか。何があったのか?何を言われたのか?いや真相はまだ明らかになっていない。言い直すならば何かがあったのか?となるだろう。分かっているのはうつくしいヘッドバットだったということだけである。決勝がPK戦にもつれ込んだのは1994年アメリカ大会のブラジル-イタリア戦以来史上2度目。このときはブラジルが優勝した。イタリアはロベルト・バッジオというスタープレーヤーを擁してその大会に臨んだ。決勝のPK戦でイタリアの5人目のキッカーとして彼は登場した。しかし大きくはずしてしまいブラジルに優勝を譲り渡してしまった。あれから12年。イタリアはPKで優勝を決めた。がジダンが退場したときに僕のW杯は終わった。既にグラウンドに設置されていた優勝トロフィーの横を通り過ぎ控え室へ続く通路へと階段を下りていくジダン。その背番号10を僕は呆然と見ていた。これで終わり?勝っても負けてもあんたが主役だろう?退場したら意味ないじゃん。そのあとの試合の展開はまったく覚えていない。控え室でひとりジダンは何を思っていただろうか。
2006.07.11
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今日のW杯の予想をしてみよう。決勝戦●イタリア0-2フランス○○:勝●:負決勝戦。もうフランスでいいだろう。予想ではなくてこれは期待だ。願望だ。イタリアが強かろうがフランスを応援する。その気持ちを表してみた。不思議なものである。日本代表の試合ではこんな気持ちにならなかった。「クロアチア戦? ブラジル戦? 勝てないと思うけど予想は日本の勝ちにしておこう」などという気持ちは起きなかった。かろうじて「えっ?オーストラリア戦? 引き分けたら御の字でしょ」と思ったくらいである。どういうことかといえば僕は日本代表に期待をしていなかったということであろう。長くなりそうだ。ひとまずここまで。がんばれジダン。手製の決勝トーナメント表はこちら。---------------------------------------------追記:2006.07.11結果は○イタリア1-1(PK5-3)フランス●イタリア優勝。~ひとこと~とくになし。
2006.07.09
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今日のW杯の予想をしてみよう。3位決定●ドイツ1-2ポルトガル○○:勝●:負決勝戦の前日3位決定戦がある。この試合で日本人審判員の上川徹氏が笛を吹く。このことは快挙といっていいだろう。さてドイツだがケガ人が多いようである。司令塔のバラックは欠場するらしい。暫定得点王のクローゼも出場に黄色信号だとか。注目はゴールキーパーだろう。前回大会でも活躍したカーンが出場するということだ。ポルトガルはフィーゴに注目したい。この試合で代表からの引退を予定している。またポルトガルは準決勝から中2日というスケジュールであるため疲労が抜けきれていないことも考えられる。ドイツが勝つと思う。でも予想はポルトガルにしておく。個人的には優勝候補に挙げていたドイツ個人的には何故か応援したくなるポルトガルここまできたならどちらが勝ってもいい。いい試合になってほしい。手製の決勝トーナメント表はこちら。---------------------------------------------追記:2006.07.09結果は○ドイツ3-1ポルトガル●ドイツの勝ち。勢いだろうか。ドイツの若さには勢いがあった。7番シュバインシュタイガー(長ったらしい名前である)21歳がドイツの3得点の全てに絡んだ。僕が応援していたポルトガルはFWのパウレタがまったく機能せず。まるで11人対10人のようなものだった。後半残り10分ほどのところでパウレタに替わってフィーゴが入った。フィーゴは絶妙なパスを右サイドからゴール前に上げFWヌノ・ゴメスが頭から飛び込んでヘディングシュート。1点を挙げ一矢を報いた。美しいシュートだった。何度も言うようだがフィーゴはこれで代表を引退する。サッカー選手の選手としての寿命はとても短いものだと改めて感じる。今大会で代表引退,もしくは現役引退という選手が他にもいる。なんとなく86年メキシコ大会のような雰囲気を感じる。ブラジルのジーコフランスのプラティニドイツのルンメニゲなどが出場していたが既にサッカー選手としてのピークを過ぎていたであろう大会であり彼らにとって(確か)最後の大会だっただろう。そんな86年のように今回はフランスのジダンポルトガルのフィーゴドイツのカーンなどなど全盛期は過ぎ去ってしまったビッグネームたちの最後の大会となる。日本の中田英寿氏も加えておこうか?確かに彼も(ビッグネームかどうかは別として)サッカー選手としてのピークは越えていた。彼の商品価値はすでにサッカー選手としてではなくジャパン・マネーを呼び込むことに変わりつつあっただろう。少々長くなってしまった。ポルトガルはW杯本大会出場回数が4回目(日本は3回目)人口は約1000万人という国である(日本は1億人以上)。11人(または代表枠23人)/1000万人11人(または代表枠23人)/1億人違いはなんであろうか?
2006.07.08
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もう予想するのはよそう・・・。さてくだらない駄洒落は置いといてせっかく続けてきたのだから今日のW杯の予想をしてみよう。スコアまで考えるのは面倒なのでやめておく。準決勝○ポルトガル対 フランス●○:勝●:負フランスが今のところ勢いがある。しかし勝ち負けはもう関係なくポルトガルのほうが好きだからポルトガルの勝ちと予想。もうほぼ願望である。昨日7月4日のドイツ-イタリア戦はとてもよい試合だったと思う。今大会のベストゲームのひとつにしておこう。今日のポルトガル-フランス戦はポルトガルの7番フィーゴとフランスの10番ジダンに注目したいと思う。フィーゴは今大会限りで代表引退ジダンは今大会で現役引退ということになる。準決勝に進んできたということでここで勝てば決勝戦負けても3位決定戦が待っている。したがって今日を含めて彼らの勇姿はケガもなくレッドカードも出なければあと2試合見ることができる。ポルトガルは20番デコに期待。17番クリスティアーノ・ロナウドのスピードと若さに期待。フランスは10番ジダンに期待。見ていておもしろいのは22番リベリの運動量とスピード。手製の決勝トーナメント表はこちら。---------------------------------------------追記:2006.07.07結果は●ポルトガル0-1 フランス○フランスの勝ち。あらあら。フランスは一体どうしちゃったのだろう?チームの平均年齢が高いのに一試合ごとにあきらかに強くなっていく。もしかしたらフランスの優勝もありうるか。98年フランス大会のときも僕はフランスが優勝するとは思っていなかった。当時の職場でも優勝予想をしたが参加人数10名ほどのうちフランスの優勝を予想したのはひとりだけだった。今大会ここまでドラマティックにしてくれるのならフランスを応援するしかないか。
2006.07.05
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今日のW杯の予想をしてみよう。スコアまで考えるのは面倒なのでやめておく。準決勝○ドイツ対 イタリア●○:勝●:負もう少しでW杯も終わってしまう。長かったような短かったような。準決勝である。今日がドイツ-イタリア戦明日がポルトガル-フランス戦イタリアが勝つような気がするが優勝はドイツと予想していたのでドイツが勝たないと辻褄が合わない。したがってドイツ勝利。手製の決勝トーナメント表はこちら。---------------------------------------------追記:2006.07.05結果は●ドイツ0-2 イタリア○イタリアの勝ち。ドイツもイタリアもよい試合をしたと思う。イタリアが優勝するかもしれない。
2006.07.04
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W杯サッカー昨日の予想は以下のとおり--------------------------準々決勝○イングランド対 ポルトガル●○ブラジル対 フランス●○:勝●:負--------------------------結果は網掛は敗退国決勝トーナメント進出チーム1位2位グループAドイツエクアドルグループBイングランドスウェーデングループCアルゼンチンオランダグループDポルトガルメキシコグループEイタリアガーナグループFブラジルオーストラリアグループGスイスフランスグループHスペインウクライナ準々決勝●イングランド0-0PK1-3ポルトガル○●ブラジル0-1フランス○というわけで2試合ともはずれ。個人的には相当に驚いている。がっかりというわけではない。むしろワクワクしてきた。ポルトガルが勝ったのはうれしい。これでもう1試合はあるわけである。司令塔のデコが戻ってくる。ほぼ万全の体制で臨めるわけである。ただ120分も走り続けてPKでの勝利ということで疲労が溜まっていないだろうかということだけが心配である。ブラジルが負けたのもうれしい。これを判官贔屓というのだろうか。まさかフランスが勝つとは思わなかった。これでジダンの引退はもう1試合延びた。ジダンの動きには往年のキレが見られない。にも関わらず存在感とボールのキープ力などそれだけで試合を支配できる選手である。準決勝の組み合わせはドイツ対 イタリア 7月4日ポルトガル対 フランス 7月5日ポルトガルを応援するけれど優勝予想はドイツ。
2006.07.02
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