読書日和 ~Topo di biblioteca~

読書日和 ~Topo di biblioteca~

2010年1月~3月に観た映画


2010年1月~3月に観た映画

 ジェイン・オースティン 秘められた恋
 アバター 3D版
 かいじゅうたちのいるところ
 ラブリー・ボーン
 Dr.パルナサスの鏡
 ゴールデンスランバー
 インビクタス 負けざる者たち
 ウエスト・サイド物語(午前10時の映画祭)
 雨に唄えば(午前10時の映画祭)
 人間失格
 ハート・ロッカー
 パーシー・ジャクソンとオリンポスの神々
 シャーロック・ホームズ
 NINE
 ○○○○
 ○○○○





ジェイン・オースティン 秘められた恋 1/5

夢と生活。理想と現実。仕事と家庭。恋愛と、結婚(?)。
これらは、比べれば必ずどちらかに比重が傾いてしまうもの…なのでしょうか。
理想は…両立する、出来ること…なんですけどねー。

 *映画の公式HPは→ こちら

ジェインの葛藤する姿を見ていると、なんだか身につまされます。
思うまま、自分の心の望むように生きてみたい。
けれど経済的自立は?家族からの箴言は?さあどうする?
うーんうーん、どうにも動けない…みたいなジレンマ。

家族からの忠告は自分の将来を思いやってのことだからって頭ではわかっていても
受け入れるには時間がかかる。
夢に描いて、欲しいと思ったものを諦めなければならない気持ち。
程度は違えど、今を生きている人にだって十分共通する悩み…だと思います。

ジェインの恋は「結婚」という形では実らなかったけれど、その代わり「小説」という形で実を結んだんですよね。
それは“成功”かもしれないけど、喜びばかりじゃなかったかもしれない…と思うと…。
仕事(自立)と家庭(結婚)の間で、女性はいつまで悩み続けるのでしょう…。
悩むのは女ばかりじゃないと言われそうですが、いざ両立しようと思ったら
女性の側の負担はやっぱりとても重たい気がする…。

あ、暗くなっちゃった。閑話休題。

この映画は年の初めに観るにはすごく良かったです。
ジェイン・オースティンの叶わなかった恋が主題ですが、
彼女の小説につながるエピソードやユーモアが随所に散りばめられていて
観ていて楽しかったです♪

観る前はアン・ハサウェイがジェイン・オースティン?と思いましたが
観始めたら違和感なく。彼女の闊達さがジェインにも、
あるいは彼女の小説の登場人物にもそのどちらにも重なって見えてきて、
良かったな。

アン・ハサウェイも、相手役のジェイムズ・マカヴォイも目が印象的な人達なので、
この二人が相手を見つめあうシーンだけで、物語が次々生まれてきそうな雰囲気がありました



アバター 3D版 1/8

広い宇宙のどこかに、地球以外の星に知的生命体が存在しているとして
やっぱりそこにも武器や争い事が存在しているのでしょうか…。

人間はどこへいっても同じような失敗を繰り返すのでしょうか。

 *映画の公式HPは→ こちら

初めて3D版の映画を観ました。
初めてそれを観るなら「アバター」で…と願っていたので。

ですが、柊にはどうも3Dは合わないみたい(笑)
最初は「おおおーっ!映像が立体的!字幕も浮いている!」と喜んでたんですが、
動きの速さに目がついていけなくて、途中からすごく目が疲れてしまいました。
これも慣れ、なんでしょうかねー。
字幕じゃなくて吹き替えだったら良かったのかな。
でも柊は字幕派なのでそれは譲れないしなあ…

普段眼鏡などかけていないものだから、眼鏡で視界が狭くなったようにも感じました。
3Dって奥行きをすごく感じさせてくれるけど、そのかわり横への広がりをなくしてしまうみたい。
それに眼鏡をはずしてみたときの方が色がすごく鮮明で綺麗でした。
眼鏡をかけるとなぜか色が黒っぽくなっちゃうみたいでそれがすごく残念でした。

柊がむむむと思った点はこれからどんどん改善されていくのかな…。
それまでは通常版でもいいかな、なんて風にも思いました。

「3Dだ!」ということに重点を置いて観てしまったため、肝心のストーリーの印象は
正直いうとよく観れていないような…。いかんですね、こんなことでは。
悔しいので機会があったら通常版で再度チャレンジしたい!と思いました。

せっかく、色彩の美しい世界を描き出しているのだからそのままの印象で観たい。



かいじゅうたちのいるところ 1/18

さびしい、という気持ちは誰でも感じたことがあるものでしょう。
でも“さびしい”からといって、何をしても許されるわけじゃない。
“さびしい”ことを理由にしちゃいけないんです。

映画の冒頭(中盤も)、マックスは暴れまくるけれど
そんなことが「小骨」のようにのどのあたりに引っかかって
すんなり物語を飲み込むことが出来なかったかなあ…なんて思います。

さびしいという気持ち。僕を見て、存在を認めて、という満たされない気持ち。
暴れても、叫んでも、それは誰かに何かしてもらって癒されるものじゃないと思います。

マックスも、かいじゅうのキャロルも自分が一生懸命作ったものなのに
好きな人が自分を一番に見てくれないからといってそれを壊してしまう。
作っても作っても自分の手でそれを壊してしまう。
そうすることで、ものだけじゃなく相手との関係も壊してしまっていることに気がつかない。

「さびしい、さびしい」って訴えられる側って相手のさびしいという気持ちは汲んであげられても
結局何もしてあげられないんですよね…。
いっとき、かまってあげることが出来ても、さびしいという欲求は底なしなので次第に疲れてしまうんです。

我慢…というと語弊があるけど、さびしいという気持ちは自分が誰かに何かしてあげたいというような気持ちが湧いてこない限り、自分の心の中でいつまでも暴れ続けるのだと思います。



 *映画の公式HPは→ こちら

絵本の世界そのままのかいじゅうたちが可愛かったです。

食べられるのは嫌だけど。
かいじゅうたちのリアリティときたら、すごい。
柊も飛びつきたい!と思いました。

オレンジ色を帯びた夕陽のような光が、かいじゅうたちの住む木立を照らす場面が美しかったです。

絵本は子供も、大人も読者を選ばないけれど
映画となると…大人向けかもしれないですね。



ラブリーボーン 1/19試写会

映画を観終えた後にも何かわり切れない、やり切れない思いが残るのは
見ている間に主人公スージー・サーモンのことが好きになっていたからだと思います。
スージーという女の子に、14歳という年齢の女の子に気持ちが重なっていました。

殺されてしまった後でもなかなか天国に行けない。
死んでしまった後も自分を殺した犯人が怖くてしかたがない。
現世と天国の狭間にあるという世界はとてもイマジネーション溢れる美しい世界なのに
スージーの心はなかなか癒されない。
こんなつらいことってないです。

観ている側は「せめて映画の中だけでも…」と思うのですが、
ファンタジックな要素を持ちながらも、この映画は突然事件に
巻き込まれてしまった被害者、その家族をどこまでもリアルに描いています。
この映画を観終えて、気持ちが割り切れてしまったら駄目なんです。たぶん。

予告編を観て「あのピーター・ジャクソン監督がどう天国を描くんだろう」とか、
ファンタジックな内容を期待して観に行ったら、結構重ための内容にがつんときちゃうかもしれない。
実際、柊がそうでした。

天国との狭間にある世界はとても美しい世界です。
たぶん、スージーという女の子の心のままの世界。
だけど観ている側は14歳という年齢でそれが断ち切られてしまったことを知っているから
すんなり受け入れることが出来ません。
対のようにして描かれる家族の悲しみの深さや犯人の心の虚無のほうが
ずっと観ている方の気持にのしかかってくるようです。

特に犯人の描かれ方は怖ろしいです。
こんな闇が人の心の中に存在するのかと思うと…登場するたびぞっとして鳥肌がたちました。
自分の娘たちもちょうどスージーと同じ年齢…と思ったら、近頃部活で帰りが遅いこととか
心配で心配でたまらなくなってしまったー。

これはスージーが少しずつ自分の死と、自分のいない世界を受け入れていく物語だし
残された家族が再び互いを信じる絆と愛する気持ちを取り戻していく物語でもあります。

殺された人も、残された人も、すごく苦しむから。
こんな事件が起きなくなればいい…と心から願います。

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スーザンを演じたシアーシャ・ローナン、観たのは「つぐない」以来だけど大きくなりましたねー。
この年頃はあっという間に大人になっていってしまう…。
今後どういう女優さんになっていくのか楽しみです。

スーザン一家は家族もすごい。
両親はマーク・ウォールバーグとレイチェル・ワイズ。
おばあちゃんはスーザン・サランドン。

スーザン・サランドンのアル中がかってて、きてれつで、でもユーモアのある
おばあちゃんはこの映画中とてもほっとさせられる人物でした。



Dr.パルナサスの鏡 1/27

ありのままを映すようでいて、実は間逆の世界を映し出している鏡。
鏡というモチーフから想像される、ありとあらゆる願望が詰め込まれたような映画でした。
「真実を映し出す…」とはよくつかわれるフレーズだけれど、観る側の目が曇っていたり
心が病んでいる場合はすんなりと像を結んでくれない。
「なんなんだ、この世界は…!?」と驚くシーンの連続でした。

ヒース・レジャーの遺作…と思って観に行くのはなんだか寂しい。
テリー・ギリアム監督が作り出す不思議世界の中で、彼はずっと留まっているんじゃないか。
そんな錯覚を覚えるのは柊だけかなあ…。

彼が演じられなかった鏡の中でのシーンをジョニー・デップ、ジュード・ロウ、
コリン・ファレルの三人が演じ分けるという演出には違和感なく、
ヒース演じたトニーとの類似点を探したりして面白かったです。

だけど、もしヒース・レジャーが全てを通して演じていたら…?
鏡の外と中とで、どう演じ分けていただろうか…そんな興味がやっぱり湧いてしまいます。
鏡の中の場面の方が、実は彼の本領発揮!だったのではないかと思うと残念です。
特にコリン・ファレルが代わって演じた最後の部分は…ヒース・レジャーであって欲しかったなあ。
(それはコリン・ファレルが良くなかったという意味じゃなくて)
あの場面だけはヒースが演じていた方が映画として統一感があったろうなと思いました。
それにしてもコリン・ファレル、すごーく久しぶりに映画で観た気がします。

現代が舞台のはずなのにまるで時代物を観ているようなファッション、小道具。
鏡の中のイマジネーション溢れる世界はすごい色彩感覚だったなあ。

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ゴールデンスランバー 2/4

伊坂幸太郎さんの小説をうまく映像化できるのは中村義洋監督に限るなあ…と思いました。
もちろん2時間弱の上映時間におさめるために、原作小説の細かなディティールなんかは
省略せざる終えなくて、それを残念に感じるところはもちろんあります。
だけど、それでも活かすところ、残すところ、切るところを選ぶセンスみたいなものが
原作愛読者にも納得出来る気がします。

この作品では、無実の罪を着せられた男が仙台という街をひたすら逃げ回る、というところに
焦点を絞って作り上げられていました。
原作に何処までもこだわるなら、「That's監視社会!」の怖さだとか、情報への信頼の揺らぎ
だとか、説明っぽく、くどくなる部分がいくらも出てきたと思うんですが、その辺は潔く
“オズワルド”という言葉に預けて、主人公の青柳雅春が心理的に追い詰められていく中で
数少なくとも自分を信頼してくれる人たちに必死で応えようとする気持ちの部分にとくに
力を入れて描かれていたと思います。

青柳雅春を演じてた堺雅人さん、ぴったり嵌っていましたねー。
原作を初めて読んだときから、実は堺さんを想定して読んでいたんじゃないかと思うくらいです。
どこまでも人が良さそうで、抜けてそうで、信頼されるとほろりと涙したりなんかして優しくて。
人間不信に陥ってもぜんぜん不思議じゃない状況なのに。
(スケジュールの都合次第では堺さんが警察庁の佐々木一太郎を演じる案もあったとか。
そうなっていたら、きっとまた全然違う堺さんが観れただろうなーと思うと不思議な気持ちがします。)

香川照之さんが醸し出す緊張感と、濱田岳さん、伊東四朗さんら作り出す緩い空気と
場面ごとの緩急のつけかたが絶妙です。
伊坂さん独特の台詞が死んでない。これはすごい。

この映画はオール仙台ロケだそうですが、ホントに初っ端から仙台!!という感じで
思わずにんまりしてしまいました。
人間知っている場所が映し出されるとそれだけで感激しちゃうのは何故なんでしょうね☆
うーん、映画中に登場した逃走経路を実際に辿ってみたいわー。

それにしても放火犯が出没したり(重力ピエロ)、連続殺人犯や首相暗殺犯がいたりして
仙台という街はなかなか物騒と思われたりして…

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インビクタス 負けざる者たち 2/8

名言の宝庫のような映画。
字幕の一字一句を心に刻み込みたい、記憶しておきたいと必死で画面を追いました。

「勝ったぞ!」「俺たちが?」

台詞だけ追ったら、それはとても平凡な会話かもしれません。
だけどこれは大統領を警護する白人と、黒人との間に交わされた言葉です。
最初の頃にあったわだかまりが次第に溶けて、自然と自分たちのことを「俺たちが。」と呼び合うようになるまでにどれだけの見えない壁を乗り越えてこなければならなかったのか。
何気ない台詞にも、すべてに大切な意味が込められていました。

誰にでも“怖れるもの”があります。
偏見や憎しみ。不安や、変化や、その結果や、未知なるものに対して。
それを乗り超えられるのは他者に対する「赦し」の心だけなんだって感じました。

大統領の心には本当に一片の憎しみも、復讐心も湧くことはなかったのでしょうか。
どうすれば、皆がそんな強い心を持つことが出来るようになれるのでしょうか。

「私が我が運命の支配者、我が魂の指揮官」

クリント・イーストウッド監督がまた一本の素晴らしい映画を作って見せてくれました。
この映画の中で、マンデラ大統領の人柄を体現して見せてくれたモーガン・フリーマンの演技もまた素晴らしかったです。
モーガン・フリーマンの、静かだけれど力のこもった声の響きが忘れられません。

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ウエスト・サイド物語 (午前10時の映画祭 何度見てもすごい50本) 2/8

繰り返し観たくなる映画には、時を経ても風化しない、タイトルを聞いただけでどきどきしてくる魅力があります。
この「ウエスト・サイド物語」もそう。
オープニングで聞こえてくる、指を鳴らすあの音。
あれが聞こえてきた瞬間にはもうこの映画の虜になってる。

結末を既に知っているからこそ、ラストに到るまでの過程がとても儚く美しいものに感じるのでしょうか。
バーンスタインの作り出した旋律の美しさ、一曲一曲が胸に沁みるよう。
ダンスシーンのぞくぞくするような曲もいいけれど、やっぱりトニーとマリアの二人がお互いを見つめあい、
想いを歌い上げるシーンは何度聴いても良いです。
見つめあうことだけではじまった純粋な恋は、あまりに短い時間のうちに奪われてしまいます。
ラストシーンのマリアの叫びにはやっぱり涙してしまいました。

午前中に「インビクタス~負けざる者たち」を観ていただけに、
ああ、この映画でも偏見や相手への理解の足りなさから、憎み合う姿が描かれているなーと思いました。
憎しみが犠牲者を増やしてしまう。
犠牲を出さないためには、自分が変わっていかないと。
変わることを怖れず、「赦す」心を自分の内に育てていかないといけないんだなと繰り返し思いました。

我が家には「ウエスト・サイド物語」のDVDがあります。
それでも大画面で観たいっ!と思ってしまうのは何故なんでしょうねー。
やっぱり大画面で観ることは特別なことだと思います。

今でこそDVDやなんかで繰り返し観ることは(時間さえあれば)容易いことになったけれど
柊が映画に嵌りだした頃は一本の映画のビデオを購入するのは万単位で、
自宅で映画を所有する、鑑賞するなんてのは夢みたいなことでした。

その代わり、映画館に行けば入れ替え制じゃなく、一度の料金で何度も繰り返し観ることが出来ました。
柊にとって、その頃「映画に行く」というのは丸一日かけて一つの映画を2~3回観ることでした。
その日限り二度と観ることは出来ないから、一度目は台詞を、二度目は場面の一つ一つ、
役者の表情、風景、音楽、いろんなことを記憶に留めておこうとほんっとに全身全霊かけて映画を観てました。

だから大画面で、映画館で映画を観ることは特別な、特別な時間でした。
どれだけ真剣に観ても、やがて記憶は薄れてしまうから。
それでも「いいな」と思った場面は繰り返し頭の中で再現したいから。
いやー、もう必死という感じで観てたかも。刹那、でしたね。

今はたとえ見逃してしまった場面があっても、「すぐDVDになるから」と気持ちを切り替えてしまえます。
便利だし、記憶力も落ちてきたのですごく助かるけど、それはそれで寂しいような気もします。

「ウエスト・サイド物語」を大画面で観ることが出来て本当に良かったです。
午前10時の映画祭ではこれから一年間かけて“何度見てもすごい50本”を一週間単位で公開していくわけですが、出来る限り足を運んでみたいです。
柊がもう一度映画館で観返したい映画は50本になんてとても収まりきれるものじゃないです。
多分、DVDで観ることは出来ても、映画館で観れる機会なんてきっとやって来ないと思います。
それを思うとすごく切ない気持ちになります。
映画館に足を運んだ、その記憶ごと、観た映画の一本一本が柊にとって忘れられない思い出なんだな…と実感させられました。

来週は「雨に唄えば」です。

 *午前10時の映画祭 HPは→ こちら



雨に唄えば (午前10時の映画祭 何度見てもすごい50本) 2/16

この陽気さ!コミカルでロマンチックで、ラストシーンにはきゅんとさせられて
「ああ、アメリカ映画だー!」「ミュージカルの王道だー!」って心から思いました。
日本映画もかなり面白い作品が観られるようになってきたけど、
こういう映画だけは作れないだろうなーと思います。

一つのシーンを撮影するのに何度も何度もリハーサルを繰り返したことが窺えます。
息のあったダンスシーンは圧巻です。
観ている方を幸せな気持ちにしてくれるダンス。
最も有名な、雨の中ドンが歌うシーンは、観終えた後即「もう一回観せてくれ~い!」と心の中で叫びましたとも!

トーキー映画が作られ始めた頃の映画製作の裏側を観る事が出来る脚本もユニークです。
路面を走る電車、クラッシックカー、女性たちのファッション…どれも目を楽しませてくれます。

この映画祭のキャッチコピー「何度見てもすごい」を実感しました。



 *午前10時の映画祭 HPは→ こちら



人間失格 2/22

『人間失格』の主人公、大庭葉蔵は著者である太宰治が色濃く
反映されているけれども、それでも著者自身ではない筈。

「太宰治」を描きたいのか、その作品である「人間失格」を描きたいのか…
脚本がどっちつかずで迷っている印象を残したのが残念に思えます。
「人間失格」に果たして中原中也のエピソードは必要だったのか?と疑問符が。
森田剛さん演じられた中原中也像がなかなか色濃くこの作品に色を落とすだけに、
描きたい焦点がぶれた気がしてなりません。
昨年末に同じく太宰原作の「ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ」を観たけれども、
あちらは“どっちつかず”の印象はなかったなあ…と思います。

観始めたばかりの冒頭とか、「あれー『人間失格』ってこんな風だったっけ?」なんて思い
確かにこんなエピソードや台詞があったけれども…。
柊は原作を読んだばかりだったので、頭の中にはその前後の葉蔵の独白が
勝手に蘇ってきたけれども、読んでなかったら「これは誰」「どんな意味?」の世界が繰り広げられたかもしれない…。

そして伊勢谷友介さん演じる堀木正雄が葉蔵をくってしまいそうにアクが強い。
(全然映画と関係ないけど、堀木が葉蔵の絵筆を取り上げて、勝手に絵具を塗り重ねてしまう場面を観て
「はちみつとクローバー」映画版森田とドラマ版竹本の共演か!?と思ってしまった…

自分の内側と、外側。それが乖離していくほど深まる絶望感といったものは
やはり太宰の文章でなくては表現しきれないものなのかもしれない…。

葉蔵を「人間失格」の通りに表現するとなると、それは“道化”を演じる陽の部分が表でなくてはならない筈です。
だけど映画では“道化を演じている”裏の顔が主に表現されている。後半はとくに。
裏の顔が主役になってしまっては、どうしてここまで彼が自分に絶望しているのかが伝わってこない。
裏の顔をストレートに観客に見せてしまってはいけないような…気がしなくもない。
だから、葉蔵という役はとんでもない汚れ役であり、難役だぞ、と思います。
何故ここまでお酒に溺れ、女を惑わし、果ては薬にまで手をつけていったのか…
「心が弱い」だけが理由じゃないことをいったいどう表せばいいのだろー。

葉蔵を演じた生田斗真くん、観る前は「イメージが違う…」と思いましたが、
少なくとも女に罪悪の垣根を越えさせる悪魔の顔を観た…気がしました。
室井滋さん演じる寿に薬をせがむ場面や、三田佳子さんの母性も狂気に変えさせる場面などは
芯からぞっとさせられました。
それは決して綺麗な顔なんかじゃないのに、惹かれる。怖い、と思いました。

葉蔵を取り巻く女たちの競演というふうに観れるかなーとも思ってましたが
意外に一人ひとりの出番が少なく、それが残念だったかな。
それでも、それぞれがいろんな女の顔を分担して演じ分けている感じが面白かったです。

つくづく「文学」「文章」を映像化するってのは難しいねえ…と思った次第。
高い壁に挑戦する姿を観るのは、観る側にとってはとても楽しいものだけれど。




大貫妙子さんが歌う「アヴェ・マリア」が深い味わい。
エンディング曲など、サウンドトラックも良かったです。

 *映画の公式HPは→ こちら



ハートロッカー

観終えた後、映画館を一歩外に出たときに感じる違和感がすごい。
目の前に広がる自分の生活圏。これが私の日常。
でも、非現実的な状況に置かれながら同じ時間を過ごしている人が
この地球上の何処かにいるんだという現実に、罪悪感に似た感情に襲われる。
自分は平穏な中にいて、でもイラクでは戦争、爆弾が身近なところにある生活を送っている人がいて。
これってどういうことなんだろう…と考えさせられます。

 *映画の公式HPは→ こちら

あらすじや言葉による明確なメッセージはないかもしれない。
だけど、一歩足を踏み出した先に爆弾が埋められているかもしれないという
恐怖感に常に晒される“疑似体験”には強烈なものがあります。
自分の心の中の怖れを感じる部分、弱さに繋がる部分をどんどん鈍化させていかなければとても耐えられない場所なんだということが痛いほどに伝わってきます。

爆発物を処理する米軍を冷ややかに、或いは何の感情も汲み取れない目で
遠巻きに眺めるイラクの人々の視線がすごく怖い。
自分らの生活を脅かす爆発物を取り除いてくれる…といった感謝の目ではないし。
異邦人を見る目なのか、敵を見る目なのかよくわからない。
意思の疎通がうまくはかれないということは、こんなに見られる側に恐怖感を
抱かせるものなんだと感じました。

これがいつまで続くのか…果てがない。終わりが見えないこともつらいです。
終わりが見えない…ということが心の中に焦りを生み出していきます。
いつ死ぬかわからなくて、まだ何も成し遂げてなくて、それでいいのかいいのかって
気持ちがどんどん募っていって…。

何も感じない。何も考えない。

そういう術を身につけないととても戦場で生活することなど出来ないのかも。
でもそれは決して“日常”になんてしちゃいけない状態の筈です。

イラクで生活するごく普通の人々も、そこに派遣されている米兵も、
テロに仕掛けられた爆弾や銃撃戦などの恐怖に常に曝されてる。

こんな状況は「変だ」「おかしい」って感じられる人が増えていかなくちゃ駄目なんです。

「ハートロッカー」は第82回アカデミー賞作品賞受賞作。
映画…というよりも一本のドキュメンタリー番組を観た感じがします。

「アバター」と賞を争った…と言われるけれど、製作者が観る側に伝えたいこと、
表現したいことが全く異なる二本の映画を単純に比較することなんて出来ない気がします。
ただ、「アバター」の成功によって映画の製作が一気に3Dに傾いていきそうだった勢いが
「ハートロッカー」の受賞によって若干歯止めがかかった感じがするのは嬉しいかも。

映画は映像…よりも脚本重視であって欲しいから。これは柊の場合ですけど…。



シャーロック・ホームズ

予告を観たときから想像していたけど…すごいワイルドなホームズでした。
そう思って観ていたから不思議と違和感がない(笑)
服装までよれよれなのは英国紳士としてどうかな…と思ったけれど☆

ワトソンというと事件の筆記者、傍観者というイメージが強かったんだけど
この映画ではホームズとあくまで対等という感じだったのが新鮮でした。
むしろ事件解決以外の部分ではほとんど役に立たないホームズを
ぐいぐい引っ張っていくような強さがあって。
探偵とその助手という関係の前に「友人」であることが大前提になってます。
だから二人の容赦ないやり取りにも勢いと信頼が感じられて面白かったです。

ロバート・ダウニー・Jrにしてもジュード・ロウにしても最初は「ええ?」と思いましたが
意外にぴったりしっくりくるコンビでした。

映像化されたホームズというとどうしてもNHKにてテレビ放映されていた
ジェレミー・ブレット演じるホームズ像が一番しっくりくるんですが、
永遠にそのイメージが固定化されちゃうのもつまらない。
この映画みたいに新しい解釈、新しいイメージで描き出すのも柊は面白い!と思います。

 *映画の公式HPは→ こちら



パーシー・ジャクソンとオリンポスの神々

2010年映画界はギリシヤ神話が流行りなのでしょうか。
(予告でGW公開の「タイタンの戦い」が流れるのでそちらと重ねて観てしまふ。)

神と人間の間に生まれた子供が主人公…という設定は斬新だなあと思います。
ギリシア神話を知っていればすごく楽しめるし、知らない人にも興味を持たせるようなアイテムが満載でグーだと思います。

子供向けの小説が原作なので、腑に落ちない部分(都合のよい部分)も
確かにありますが、物語に勢いがありますよね。

映画ではぽんぽん話が展開していきますが、多分小説で読んだら
もっとはらはらどきどきさせてくれるんだろうなあ・・・って感じました。

これは…きっと原作小説が面白いと思う。
確か五冊くらいでシリーズが完結したのではなかったかなー。

ショーン・ビーンがゼウス役で登場。
「トロイ」ではオデュッセウスを演じていたし、ギリシヤ神話向きの顔立ちなのかしら。

(ちなみに「タイタンの戦い」ではゼウスをリーアム・ニーソンが、
ハデスをレイフ・ファインズが演じているのが興味深いです…。)

でもなんといっても印象深いのはメデューサを演じたユマ・サーマンかな。
現代に生きるメデューサという感じで、ぎょっとします。

 *映画の公式HPは→ こちら



NINE 3/19

予告編を観たときから「早く観たい!」と切望していた映画。
豪華な出演陣をどうまとめ上げるのだろう…と思っていたけど、
一人ひとり異なるオーラをまとう女優たちの上にたったひとりの男優ダニエル・デイ・ルイスが
ものすごい存在感でその頂点に君臨していました。。
それはそのまま映画のストーリにきっちり重なっていて「お見事」としかいいようがない。

 *映画の公式HPは→ こちら

ミュージカルなので、一人1~2曲ずつその人物を象徴するナンバーを歌っているのですが
跳び抜けて印象的なのはファーギーの歌う「Be Italiano」、
ケイト・ハドソンの歌う「Cinema Italiano」ですね。(予告にも使われている)
この二曲は聴いていてホントに鳥肌たちました。
衣装やダンスが、ぎょっとするほど挑発的なのを抜きにしても記憶に焼きつけられます。

存在感として印象的だったのはペネロペ・クルス。
こういう情熱的な役柄がとっても似合う人ですね。
愛人という立場を楽しんでいるようでいて、実はその関係の脆さにとても傷ついている。
そんな二面性が、表情がとても印象深いです。

映画監督の妻を演じたマリオン・コティヤール。
理解者という役割を次第次第に重荷に、負担に、不満に感じていく。
前半のナンバー「My husband makes movies」と後半のナンバー「Take it all」で
まったく異なる顔を見せるのが印象的。

映画監督にインスピレーションを与える女神(主演女優)のニコール・キッドマン。
彼女の歌が好きなので一曲のみなのがちょっと残念でした。
他の女優陣が下着姿に近い衣装で歌い踊る中で彼女の存在は特異。
「女神」という不可侵なイメージは、近寄り難さと寂しさとがない交ぜになっていて
彼女の持っている雰囲気にとてもよく似あう。

もう二人、不可侵なイメージをもって登場したのが母親役のソフィア・ローレンと
衣裳係を演じたジュディ・デンチ。
ソフィア・ローレンは登場するだけで「別格」といった風格のようなものが漂ってましたし
ジュディ・デンチは戦友。良き相談相手。母親代わり?のような役回り。
一口に「女」といってもいろんな役回りがあるものですね…。

ダニエル・デイ・ルイスという人にはどうしてか怖い印象を持っている柊なのですが
この映画ではそういう雰囲気はまったくなくて、むしろその声に惹かれました。
格好がよれよれしているようであっても、彼が演じた映画監督は間違いなく
イタリアのファッション界をリードする役割も担っていて、そういう人を惹きつける
カリスマ性のようなものが、煙草の煙のごとくその周囲に漂っていました…。
女性にだらしない男が何故そうまでもてるのかは、やっぱり謎のままだけど。
後半のナンバー「I can'tmake this movie」は悲哀感たっぷりで聴きごたえありました。

帰りにサウンドトラックを買いに寄ったことはいうまでもありません














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