カフェ・ヒラカワ店主軽薄

カフェ・ヒラカワ店主軽薄

2009.01.07
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カテゴリ: ヒラカワの日常
仕事で品川へ。
いま書いている本に俺はこんな事を書いている。
「確かに金融の崩壊は世界に一種のショックをもたらした。しかし、自由な市場の活力こそが経済発展の要であり、世界の問題を解決する動力であるという経済思想と哲学を世界に振りまき押し付けてきたアメリカが、自国の経済を救済するためにその思想も哲学もいともすばやく転換し、それに随伴していた国もまた無批判に追従していることにも驚くのである。結局、何でもありということなのか。書店を覗くと、平台にはグローバリズム批判や、レバレッジ金融批判の本が並んでいる。つい昨日までグローバル競争を勝ち抜くためにとか、レバレッジ投資戦略が並んでいた同じ場所に、正反対の論調の図書が並んでいる。酷い場合には同じ人間が、以前とは百八十度反対の立ち位置から市場原理主義批判を行っている」
このブログの読者には、俺が、市場経済を推し進めてきたから、いまの問題が起こっている、だから統制的な経済に戻るべきである、昔に戻れと考えていると思っている方もいるようである。
俺は一度もそのようなことを書いたことはないのである。

経済的な課題が直面している問題は、緊急であり、現実的な問題である。
緊急かつ現実的な課題に関しては、もっぱら最大の効果が期待できる政策と行動が求められている。
しかし、現実的な政策や行動は、それを忌避するにせよ、連帯するにせよ
それぞれの人間の立ち位置の中で行う他はないし、

ただ、その立ち位置を決定するものは、それぞれの人間の、
世界観であるし、思想であるべきだ。
思想的課題は、緊急かつ現実的な問題に対しては無力だが、
そのような問題に出会ったときの立ち位置を決定するためには
欠いてはならないものである。
それは、ビジネスというものに関して考える場合にも全く同じであると思う。
だから、私は『株式会社という病』の中で
「原理的な問いが照準している時間はほとんど無限大だが、遂行的な課題に要請されている時間はほとんどの場合は限定的であり、緊急性を有している。これを取り違えると、現場ははた迷惑な困った問題を抱え込むことになるだろうし、原理的な問いも意味を失う。私は、そのことをわきまえないほど頓馬ではないつもりである。しかし、現場での辛艱(しんかん)がなければ本書を書くこともまたなかった」
と書いたのである。

俺がこの間書いてきたことは、思想的な課題についてであり、
自己の立ち位置の問題についての考察である。

前エントリの、「雑巾がけ」をしろというのは、
竹中氏に対しての言葉ではないですよ。
自らに、あるいはすべての人々に問いかけた言葉である。

現実的な問題を思想めかして語るのは俺の趣味ではないし、
逆に、思想的な課題を、現実的な当為(なさねばならぬこと)に置き換えようと

注意深くお読みいただければ、俺がそのような混同を自らに禁じていることが
お判りいただけるのではないかと思う。

「2008年問題」とは、まさに思想的な課題と、現実的な課題を
どこかで取り違えたために起きた問題が頻発した年であったと思う。
グローバリゼーションという歴史的必然に関して考えることは、すぐれて
思想的な課題であるが、多くのひとが、グローバリゼーションという
思想的な課題と、アメリカの国益戦略であるグローバリズムを混同し、
グローバリズムは歴史的必然なのだといい、それに対応するために
市場自由化を進め、金融技術に遅れをとってはならないと喧伝していた。
グローバリズムはアメリカあるいはイギリスの国益に沿った戦略であり、
日本はそれに対して対抗策としての戦略を立てるべきだとは、考えなかったのである。

現在進行している経済危機や、格差、企業犯罪や、秋葉原事件などについて、
それらが思想的な課題として何を投げかけているのかということについて、
俺は自分の思考のリーチの届くところまで考えていきたいと思っているのであり、
そのためには、現実的な俺(や、あなた)がどこまでそれらの事件に加担して
いるのかということを見つめなおす必要があると思っているのである。







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最終更新日  2009.01.07 19:33:40
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