カフェ・ヒラカワ店主軽薄

カフェ・ヒラカワ店主軽薄

2009.01.15
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カテゴリ: ヒラカワの日常
それぞれのワルツを踊ろうよ。
だいぶ前にこのブログにエントリしたタイトルと同じである。
ラジオデイズの連載コラムにこのタイトルで書いた。
このところ、ラジオデイズは快進撃である。
あの大貫妙子さん、スポーツジャーナリスト二宮清純さん、
ラグビーの増保輝則さん、作家山本一力さんなどなど
それぞれの分野の「聞きたい声」が続々と届く予定。

「流行らない歌はすたれない」@上野茂都
いや、路地裏ビジネスは不況に強いを再認識。

ということで、一足先に地味にコラムの掲載。

それぞれのワルツを踊ろうよ

 数年前から備忘録の意味もあって、ブログ日記を書いている。
時々、アルバムをめくるようにして「あの頃」の自分に会いに行くことがある。
二年ほど前の頁を見ていたら、「それぞれのワルツを踊ろうよ」というタイトルの日記を見つけ、数年間の時間が逆流して渦を巻いているような感覚にとらわれた。
そのブログ日記はこんな風に始まっている。
「このところ、毎日毎日、上野茂都ばかり聞いている。
俺にしては大変に珍しいことである。しかし、一度聞いたら頭の中に音が棲みついてしまった。
歩いているときも、
バスに揺られているときも、
仕事をしているときも、
飯を食っているときも、

糞しているときも、
寝ているときも。
気がつくと
それぞれの ワルツを 踊ろうよと
鼻で、歌っているのである。


歌声は、ひとりの酔っ払いが街道辻を歌いながら通っていく風情である。
なによりも、歌詞が泣かせる。
最近読んだ、どんな現代詩よりも、味わい深くて、後味がよい。
煮汁が出ているからね。

 ♪ つみれの花の咲くころに
   うづらうづらと まどろめば
   ちくわの友の夢を見る
   空にがんもどきの 群れ遠く
   ふやけてはんぺん 雲になれ
   ちぎれてこんにゃく 石になれ
   ながれてしらたき 風になれ
   輝いてぎんなん 星になれ

すがれた場末の一角にあるいつもはストリップ小屋の即席ライブハウスで観客は多くても二十名。暖房が無いので、みんなコートの襟をたてたまま壊れかけたいすに沈み込んで聞いている。外はつむじ風が舞っていて舞台の上には疲れた中年の楽団のジンタ。
どこの誰だか誰も知らない観客の中で、俺もひとりの匿名の客となって、一度も聞いたことのないような、それでいてなつかしいような音の世界の中で、煮込んだおでんの具のように、体が半分溶け出している。

ブログ日記はここまでである。
拙劣な殴り書きだが、ご容赦願いたい。
上野茂都とは、多摩美術大学や武蔵野美術大学で彫刻を教えている痩身白皙の美青年で、(いや、もう中年なのかな)上記のような不思議な唄を、三味線片手に唄い続けている人である。上野茂都の紹介サイトには、高田渡、早川義夫、忌野清志郎ら、反骨の音楽家の絶賛を浴びる、とある。なるほど、知る人ぞ知るという歌い手であったのかと思う。
さて、この『煮込みワルツ』は、次のように終わる。
「湯気は立てても、具の中までは、暖められないそんな世の中。
転げて浮かべ、煮汁の中で、それぞれのワルツを踊ろうよ」

読み返してみて、私は、何故これほどまでにこの唄に惹かれたのかと思う。いや、勿論今聴いても、何度聴いても、いい唄だと思う。しかし、ただ、いい唄というだけでは、これほどまでに入れ込んで聴き続け、文章にも何度も引用し、人に吹聴したりすることはないだろう。
その理由は、上記の日記のなかでも言及している「ジンタ」という独特の旋律と、その旋律の背後に隠れているある物語に因っている。
『煮込みワルツ』は一種のコミックソングとも聞こえるが、その旋律は私が洟垂れ小僧だった頃に追いかけたチンドン屋が奏でていたメロディーであり、昭和初期を生きてきたものにはある種の感慨なしには、聴くことができないものが含まれている。
ジンタの代表曲である『天然の美』は、サーカスなどでよくかかっていた懐かしい旋律で、その背後に幾つもの物語が潜んでいると思わせる何かが確かに存在している。
上野茂都と出会った頃、私はある一冊の本に引き寄せられるようにして出会っている。『追放の高麗人』(姜信子著 石風社、2002年)という、モノクロームの写真と、文芸的ルポルタージュ(そんなジャンルはないかもしれないが)で構成された美しい本である。そして、この本の主人公は、まさにその『天然の美』というジンタなのである。
この唄は、日本の古い演歌のようなものだと思われている方もいるかも知れないが、もともとは佐世保にある成徳女学校の校歌であった。明治三十五年頃の話である。ところが、まったく意外なことに、今でもカザフスタンやウズベキスタンといった国で、この唄が歌い継がれてきているのだという。何故、そんなことが起きるのか。
『追放の高麗人』を読み進めていくと、だんだんとその事情が明らかになってくる。この唄は、旧ソ連領内にいた朝鮮人が、政治的な事情によって中央アジアの辺境まで追放されていくときに、心のうちに携えていた旋律であった。『天然の美』は、もともと日本に生まれ、日本帝国主義の時代に満州に渡り、それが沿海州に暮す朝鮮民族にリレーされて『故国山川』と名前を変えてその地で歌い継がれるようになる。そして、スターリンの時代に追放された高麗人と共に中央アジアの辺境まで漂流していったのである。 
だから、この唄には、政治に翻弄され、抑圧された民族の百年に亘る流浪の記憶が染み付いている。
 さて、もちろん私はそんな壮大な物語を斟酌して、上野茂都の曲を聴いていたわけではない。ただ、ジンタという旋律、リズムが生み出す懐かしさの、源流を探っていけば、そこには幾つもの支流があり、それぞれの物語に出会うことになるということだけは言えそうな気がする。なつかしさ、せつなさ、やりきれなさといった感情は、個人の感情の中の出来事であるよりは、もっと連綿とした生活史のなかに埋め込まれた記憶のようなものなのかも知れないと思うのである。





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最終更新日  2009.01.15 20:29:59
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