JINさんの陽蜂農遠日記

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2024.10.17
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カテゴリ: JINさんの農園
「大乗寺」を後にして、JR東海道線のガードに向けて歩く。
前方にあったのが「東通り入口」交差点。



横断歩道を渡ると前方に「旧地名」碑が立っていた。



愛宕下 」碑。



あたごした 」。



「この地の西側にあった小高い丘の上には、古くから摩利支天(まりしてん)が祀られ、
この山を「愛宕山」と呼んだ。この丘の東側の地なので愛宕下と呼ばれ、江戸時代前期の

後期になると、道路の両側に組長屋が造られ、武家地の性格が強まった。この道路を中心にして
「愛宕通り」とも呼んだ。」
別の説明では
この地の西側にあった小高い山の上には、古くから摩利支天(まりしてん:仏教の守護神の一つで、
別に多聞天とも呼ばれています。武士の守護神として信仰された)が祀られ、その東に安国寺が
あって、この山を愛宕山と呼びました。
この山の東側山すそを愛宕下と呼び、稲葉氏時代(1632 ~ 85年:寛永9年(1632)、稲葉正勝が
下野真岡城(栃木県)から移って小田原藩主になり、正勝・正則・正通を経て、貞享2年(1685)、
正通が越後高田城(新潟県)に転封されるまでの3代53年間)は、武家屋敷が点在していたものの、
田園色の濃いところでした。
しかし、江戸時代後期になると、道路の両側に組長屋がつくられ、武家地の性格が強まったため、
愛宕下の地名は、武家屋敷地のことをさすようになったようです。
なお、この地を「愛宕通り」とも呼びました と。



来た道の1本北側の道を引き返すと、右側にあったのが「 日乃出旅館 」。
小田原市栄町3丁目1−5。
全6室の素泊まり日本旅館であると。



日曜日であるが人通りの少ない路地を進む。



突き当りを左折して進むと、前方に「旧地名」碑が現れた。



裏組 」碑。







「この地は、持筒(鉄砲隊)や持弓(弓隊)の人たちが住む組長屋であった。
地名の由来は甲州道筋の御組長屋を「表組」と呼んだのに対し、これと対象的に「裏組」と
いった。なお、明治以降は、「浦町」と呼ばれるようになった。」
別の説明では
甲州道筋の御組長屋を「表組」と呼んだのに対して、こちらはこれと区別するため「裏組」と
いいました。
持筒(鉄砲を扱う者)や持弓(弓を扱う者)の人達が住む組長屋でした と。



旧地名案内図で「 裏組



さらに「栄町三丁目」交差点に向かって進む。



「栄町三丁目」交差点の先、左手に「旧地名」碑が。



竹花町 」碑。



「たけのはなちょう」。



「この町は、小田原北条氏時代からある北の城門であった井細田口の近く、江戸時代末期には
郷宿(ごうやど・公用で藩役所などへ出向く村人が泊まる宿屋)や日用雑貨品などを売る店が
多く、城下町の出入口らしい町並みであった。」
別の説明では
ここは、小田原北条氏時代(北条早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の北条氏5代(1495 ~ 1590年) )
からある北の城門であった「井細田口」に近く、江戸時代末期には、郷宿(ごうやど:公用で
藩役所などへ出向く村人が泊まる宿屋)や日用貨品などを売る店が多く、城下町の出入り口らしい
町並みでした。
なお、天保初期(1830年代)、町内の戸数は38軒でした と。



国道255号を北に進む。
この先にも「旧地名」碑が。



先町 」碑。



「さきちょう」。



「地名の由来は竹花町の町境から竹花広小路にかけての甲州道の両側に、表組の先手筒
(先鋒の鉄砲隊)と先手弓(先鋒の弓組)の御組長屋があったことにより、これらを総称して
「先町」といった。」
別の説明では
甲州道の両側、竹花町の町地境までは、表組の先手筒(鉄砲を扱う者) 2軒、先手弓(弓を扱う者)
1軒、あわせて3軒の組長屋があったので、これを略して「先町」といいました と。



さらにその先、「緑町駅東」交差点手前にも「先町」碑が立っていた。







内容は前記と同じ。



「先町」はここ。






「緑町駅東」交差点を渡る。



その先には「 竹花広小路 」碑。



「たけのはなひろこうじ」。



「地名の由来は、井細田口の木戸から府内に入る甲州道を少し上って裏組に分岐する
地点までの小路で、特に道幅が広くなっていたから「竹花広小路」といわれていた。」
別の説明では。
井細田口内側の甲州道に、裏組からの道が交差する地点より井細田口の木戸までの間は、
特に道幅が広くなっていました。この間を竹花広小路と呼んでいました。



このあたりは国道255号線がクランク状になっており、これはかつての井細田口の名残です。
付近には暗渠になっていますが、かつての惣構の堀の一部が残っています。
「栄町郵便局前」交差点 を右折する。



そしてその先の 「広小路」交差点 を左折。




                                  ・・・もどる・・・


                  ・・・つづく・・・








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Last updated  2024.10.28 05:08:24
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