宇宙は本の箱

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学校を創ろう

福来・山本先生の資料館


1995年。はじめて研究所に行った時だったか、その次の時だったか、先生が学校を創ろう、こんな学校にすればよいとか、これから病院を創る時はこんな病院が良いとか、そういう話をされた。学校用地はすでに徐々に確保するようにしていると。事実研究所の周りは建設予定地の札が立ててありその時は勉強に来た人達のガレージとして使われていた。
それからあとも何かの本に先生が、ご自分の山、或いはその山の材木を提供されると写真が載っていたと記憶している。(それが何処に載っていたか、その本がどういうわけか手元にないが。。。)


私はその話に心ときめいた。
私は学校というものがとても好きだったし、長男が理想の学校求めて松下に入学したあとだったし、ひどいいじめにあって公立から私立に進路を変えた子の親たちとも親しかったし、とまれここで理想の学校とはなんぞやを問いながら、先生と共に学校を創る。
その夢はその時の私のもっとも心弾む夢のように思われた。
お母さん、お母さんは学校創らないの?と後に問われた時にはもうそんなことは忘れていたが、生きてはおられたけれどもう講義に出てこられなくなった頃の精神統一で、新潟の方と共にやけい眠くなった時、理事長は今朝の精神統一にはなにか違うものがありましたとだけ言われたけれど、多分私達は、私が知らず知らず「学校創るぞ」「学校創るぞ」になっていたように、本当はならされていたと思う。大さんは「私は鈍いほうですが、今朝がいつもよりもっと温かいものがここをつつんでいました」といわれたけれど、あれはおそらく先生だった。。。
先生が自宅の書斎で一緒に精神統一されていた、あとではそう思った。


私は本当に馬鹿でぐずぐずしい。
理事長には申し上げたけれど、本当は先生が生きておられた頃にこんな申し出をしたかった。



記念館には私が唯一見てみたかった口碑をまとめた先生手書きのものはなかった。
貴重品だからなにもない時は保管場所を違うところにされているのだろう、写真だけしか拝見できなかったが、不敬罪で捕まりそうな時代をはるかに超えた先生の手書きメモは十センチもの厚さがあった。


先生なきあと、何かをしなければという想いが皆にもあるらしいとしれた研究所訪問。
大さん、浅さんとも話が出来て良かった!
勿論理事長は大いに喜んでくださって、天孫宮のお鏡の前に一緒に座らせて下さった。
理事長はやっぱりシャーマンなんだなぁ~と思った。
体が痺れていたかったので、一昨年の位山での声の話もしてみた。
そうそう、あの時頂上であった合気道の藤平さんの所の人が、そのあったことが機縁で研究所に来られたとか。
良かった!
私が話をした人達は皆行ってくださるのだけど・・・そのあとが問題で・・・。
その問題が問題だ。


師弟は三代の縁。夫婦は二代の縁。子供は一代。
先生、私はやっぱり○○でしょ?


初心忘れず、魂磨き忘れず、始動しますよ、と

心に深く刻んで黙祷!





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