宇宙は本の箱

     宇宙は本の箱

失われた椅子


Hは一番最後には叫びののしったが、そのことを説明は出来なかった。

私に乗り越えなければいけないことが子供の頃からあった。
それは乗り越えられることだったし、もう考えることもなくなっていたことだった。
あの頃でも、私が一人身なら、それはどうということもなかっただろう。
だが、私は、世間一般の頭と感情を持った男の妻の立場でいようと思った。
家庭を乱してまでやることではないとの判断があった。

二十分おき、三十分おきに電話してくる夫。
店を探し回って訪ねあててくる夫。
彼女達は夫を愛妻家だと思っただろう。恐妻家だと思う人もいた。
が、事実は夫は若い頃と少しも変らず、焼餅焼きだっただけのことだ。
Hがなんと言おうと、正栄先生が何を望もうと、I氏が真夜中に電話を何回もかけてこようと、それは私にはたいしたことではなかったが、夫には不快極まることだった。
実際は、夫の心をそれと知って、さりげなく夫を取り込む方法を知っているMのような人のほうがはるかに怖いはずだが、夫はいつまでも子供だった。

Lがどうしていつもダメになるのか訝った時、一番最後のところ、そこが自分は女だからなのだと言ったって、その微妙な感覚をLがわかるはずはなかった。
自分が年をとっても女であるという事実がどうのこうのの話ではない。
要は人が私を女だと到底思わないことが大切なことなのだったのだ。

六十も過ぎ、七十も過ぎれば、そんなことはどうでもよくなるような気がしないでもないが、この間も遂に理想の人を見つけたと、結婚なんか申し込まれそうになって、
私は慌てて既婚者であることを告げたりして、女というのは実に面倒な生き物だ。
いや、男が面倒な生き物か。
十八の時、むっくんに理想の女性に一番近いと言われて以来、馬鹿馬鹿しくも何回か理想の女性だと言われたが、私は普通の人には絶対女だとは思われていないのに、人間っておかしい。

椅子は、だからいつしか、女の子か相当まともな人達しか坐れない椅子になってしまった。


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