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手記
◇◇◇立原道造 手記◇◇◇
[火山灰まで]
*
私の魂のために私は日々をのこさう、この上に。私は夢みる、私は待つてゐる。わたしは傷つきたい。――いろいろな思ひ出のために、私はひとりにならう。
*
私の字は汚い。それは何かをたくらみ、考へ、きめてしまふ。私の言葉はもう役に立たない。さがしに行く日はいつだらう。
*
これは日記ではないのだ。私はあなたのよまれる日を待つてゐるやうな手記を作る。私はあなたと一しよにくらす日に、この上にほてつた白い指が行くことを考へる。するとわたしの言葉が私を導いて行く。
*
私の言葉は私の魂よりずつと醜い。そこには、理想もなく希望もなく、どうかするといたづらな嘆きばかりがひろがる。私はもつとちがふのだ。私は生きてゐるのだ。
私はまるでうたへなくなつた。
これはかなしみだらうか。
私は今日よりも明日を生きたいのだ。私は飛ぶやうにしてゐたいのだ。私は誰よりも早く。――私は今日よりも明日を生きたいのだ。
今の瞬間でなく、次の瞬間――私は、そのときに生きてゐる。私の生命は、私の眼でなく私の視線の落ちてゐる所にある、即ち、時間に就て。
私はひよつとしたら私の死を私の生きてゐるうちに見てしまひはしないか。私は生きてゐる、同時に死んでゐる。さうではない。私の生きてゐるといふ幻影は死と重なりあつてゐる。さうではない。もうすこし簡単なことだ。そのくせその簡単なことは簡単な言葉で捕へられないのだ。
つまり今生きてゐる場所の色どりや形は、ほんたうは
昨日の
、、、
僕の夢ではないだらうか。だから、
明日の
、、、
僕がそこにゐる。僕には今日の姿が、わからないといふこととは別だ。
光つてゐるのだらうか。
僕の身体は空間にどんな風にしてあるのだらうか。椅子に凭れてゐる。黒い上衣を着てゐる。壁を見てゐる。夜だ。だが、僕は、考へる。するとそんなことは無意味なのだ。僕は、ほんたうにどんな形だらうか。一しよう懸命に感じようとする。肘や腰からその形が作られかかる。するとすぐこはれる。
僕は僕が、空間を占めてゐない針金細工の仮想した面で囲まれてゐるのだとも言へる。僕の身体をこの部屋の空気がしづかにみたしてゐる。これはもつと単純な感覚なのだ。
私は
何か
、、
のすぐそばにゐる。即ち、
それ
、、
を言葉になほす、次の日私が
何か
、、
のそばに行くために。
だが、何とその言葉はちがふのだらう。私を全くちがつた所に連れて行く。それは今私が捕らへたそれではないのだ。大抵は色褪せてみにくく。だから、そのために、私のそのとき今の私(その日には昔の私)を、やくざなものときめてしまふ。
私は風であり豹なのだ。
私は向うへ行つてしまつたから、ここにゐるのだ。私はひとりで、同時に多くの人なのだ。私は変貌しない私になつてゐる。それは同時に変貌してゐる。
雲は流れ消えながら雲なのだ。雲の行為が雲にまで何の関係があらう。あれは風であり、幻なのだ。あれは私にも、なれるのだ。
一つの体系を考へるとその体系に入つてゐる任意の点は常にその体系に入つてゐる。この意味に於て、人間と自然を見ること。純粋。
私は、純粋といふことを詩によつて考へなくてはならない。いひかへればものによつて。体系を持つた論理でなく。
私が少女を思つてゐること。
少女と私の関係。
「とほくて近い」といふのを原因に就て考へるならば、通俗なのだ。状態に就て考へるならば、どう。――即、「とほかつたのに近くなつた」でなく、「とほいけれど近い」といふ風に。――これは抒情詩としての見方。
私は、「とほくて近い」といふ言葉に純粋状態への意識を感じる。尤もこの言葉は粗雑だから、私の空想なのだらう。
「メリノの歌」に於て、少女と青年の関係。
状態に就ての純粋な関係。
私の少女と私の関係。
夢と昼の間に待つてゐる。
二十七日、
朝、大学新聞から原稿料来る。三円也。原稿料といふ不思議な生物を前にして、途方にくれる。何かmonumentalな面も不用のものを買ひたいと思ふが、三円では欲しいものが一つも買へなかつた。本は買ひたくなかつた。気まぐれが来るまで、これは郵便局に取りに行くのはよさう。
昼、柴岡が伊勢からたよりをよこす。その書出しに辰野賞授賞をお祝すると書いてあつた。ほんたうとすれば、へんなものをもらつたものなり。
夜、堀さんに行く。メリノの歌・2[ローマ数字]・
*
これからは日記を書くことにしよう。日記を書く精神を軽蔑しないことにしよう。
日常の僕が僕の精神とどれだけつながつてゐるか。
三十一日
詩論への告別。
ナポレオンの帽子は黒い絹帽子で小さな赤白青の三色旗と金色の星が三つついてゐたこと。
丸山薫の職業の秘密――詩人は現実からとほくにゐること、即、現実・小説・伝記詩人といふ関係。帆・ランプ・鴎は海の生活の結果でなくて、ステイヴンソンの「宝島」とコンラツドの「青春」の生活の結果。現実は複雑すぎるのだ。短歌は短い形式のためその動機に於て既にあきらめて現実を大ざつぱにつかむ、小説は現実の複雑さにつれて変化する。詩はその中間にあつて、そのリズムある形式のために苦しむ。
ドストエフスキーの心理解剖の、詩人への有害無益。あのやうに解剖された小説よりも、ナポレオン伝へ。
4・3
堀辰雄の巨大!
弱さ――人間のほんたうの弱さ、決して気分に引きずられるだらしなさでなく、
弱さに従つて動く。リルケがロダンを、セザンヌを愛したこと。コクトオがキリコ・ピカソを愛したこと、何か自分の外に愛するものを求めた弱さ。愛しぬくこと――従つて弱さは同時に強さなのだ。
弱さのない作家。――志賀直哉、谷崎潤一郎などにとほいエスプリ。
愛したいが、愛されたくない。
リルケのマルテ、ゲーテの「おれがお前を愛したとてそれがお前に何のかかはりがあるのだ。」この強さ。
教養をばかにすることが出来るまで教養を積むこと。ジイド。或はクルチウス。ロオトの言葉――ルーヴルに行くな。
西洋の教養――ギリシヤ、中世のゴチツク、カトリツク。日本人に理解されないもの。
*
頭と心臓を正しく格闘せしめよ。あるがまま。
*
愛したいが、愛されたくない――三富朽葉のいふ、「真のIndividualistは永遠に童貞であらねばならぬ。」――この心持に、どれだけ僕は耐へられるか。
*
してはいけない。しなければならない。――規則。魂の成長には規則はないのだ。これをまちがへてはいけない。成長は正しく成長して行く。そのとき僕らはいかに逆はうとすることか。ただおそれるのは、このすなほでない僕自身。すべてはあるがままでなくて、どうなるだらう。成長をして、ほんたうの僕の果実であらしめよ。
それは童話のやうな夕暮れだつた。茜色の空には三日月と金星とが並んでうすい色でその形を空から切抜いてゐた。その前には、建物のシルエツトが、描かれてゐた。ゴチツクの尖塔の形である。そしてそこから、濠に沿つて正しい透視図法に従つて柳の並木があつた。芽ぶいてゐたが、もう暗くなつたのでその色はわからない。先刻まではその並木はぼんやりとまはりにその色をにじませてゐた。それはOIL-GREENといふ色である。すべては童話のやうな空気に包まれてゐた。
こんな景色を、僕は、「宝島」を見をへて、外に出ると、一ぺんに眼に入れてしまつた。僕のなかには、ジム・ホーキンスとジヨン・シルヴアが別れを告げあつてゐたばかりであつた。その海の上の景色がまだはつきり心にのこつてゐた。それは帆前船だつた。そこへ不意に、こんな中世期の絵葉書のやうな景色がとびこんで来た。
僕は活動写真の休みの間に、僕の全く反対の側に、一人の女の子がゐるのが気になつてならなかつた。茶色のベレエ帽をかぶつて、白いレエンコオトを着てゐる。顔ははつきりわからない。二人の弟を連れてゐる。女学校三年ぐらゐだ。それが、気になつてゐた。ところが、僕が階段をおりるとき、その女の子と一しよになつてしまつた。僕は不思議なものを見るやうにその顔をぬすみ見た。青みを帯びた小麦色の顔すこし白い顔。そしてそれは硬い線で組立てられてゐた。その年齢でまざりだしたまじめな少女の線が幼児のそれと一しよにそこにあつた。僕は、何とも思はなかつた。ほんのすこしだけ、気にせずにはゐなかつた。階段をおりる間、彼女たちは何の口もきかなかつた。……
外に出るとちやうどその景色だつた。きれいに澄んだ空を、その子たちは見上げた。けれど弟もその少女も口をきかなかつた。弟は何度も不思議さうに空を見上げてゐたが、少女は馴れた道を行く人のやうにずんずん歩いてゐた。弟たちはそれに引きずられるやうにいそいでゐた。こんな姉弟たちが僕には新鮮だつた。僕の心のなかにふいと大きな場所を占めだした。それは愛情ではない。好奇であつた。
僕は心のなかで半分ずつ、三日月と金星と茜色の地に描かれた尖塔の影絵のことと、この少女たちのこととを考へた。それはしあはせな心持であつた。僕の眼はうつとりとそれを一しよに眺めてゐた。märchenweisとつぶやきながら、こんな言葉がこの時間にふさはしいのはなぜかしらと考へながら。
少女たちは、歩きながらも口をきかなかつた。彼たちの心のなかにも、やはりこの中世期の西洋の絵葉書風な風景と、ジム・ホーキンスが一しよにあるにちがひなかつた。その弟はきつと宝物や帆前船のことを夢みてゐるにちがひない。そしてこの少女は……僕は何だか僕がこの少女をそんな風にして考へてゐるのが、恥しくなつた。僕はなるべく濠の景色ばかり見るやうにした。この少女は、今、何を見てゐるのだらう。
僕はいつの間にか、その少女より先に立つて歩いてゐた。ときどきふりかへつて、その少女の方を見た。まじめな顔をして歩いてゐる。いつでもおなじだつた。
すぐに日比谷の停留所に来てしまつた。銀座の方へ出ようか、すぐ帰らうかと迷つて、ふりむいた。するとその少女たちは停留所の方へいそいでゐた。僕も何だか急にそのあとを追つて、信号のかはらないうちに安全地帯に行かなくてはならないやうな気がした。その少女は、すぐに電車にのつてしまつた。前の方の一番の隅に腰をおろした。弟たちは立つてゐた。僕は戸口の下に立つてぢつと見つめた。誰も僕には気がついてゐなかつた。僕は、電車の行先をたしかめた。目黒行だつた。目黒――僕は、ぼんやり久子ちやんのことを思ひ出してゐた。ぢつとその少女の方を見ながら。弟たちは窓から外を見てゐる。外はあの茜色の絵はがきである。
僕ははじめてこの少女に愛情を感じた。
戸がしめられて電車は出てしまつた。僕は停留所にのこされた。少女たちの方には何のかはりもなかつた。そして僕の方にも。このやうな愛情はただよろこびばかりだつた。やがて僕の心臓はふくれるやうだつた。誰にともなくいちばんやさしい言葉で、僕を語りたかつた。そしてそれはすばらしいひとつのおとぎばなしだつた。
僕は先刻見た柳の並木道の方へ歩いてゐた。その尖塔を眺めながら。もうその少女のことは、完全にこの景色に場所をとりかへられてゐた。僕はこんな風景にはげしい愛情を感じてゐた。一生のうちの或る一とき、僕はこんな風景のなかにゐる、僕は、オーヴアの襟をたてた。濠の波が水銀色にかがやいてゐた。僕はことによつたら、病人が病床を抜け出て来て、こんなうつくしい風景のなかで頬をほてらせてゐるのではないかと、人に思はれてはしないかと思つた。そんな僕は、自分の顔がよろこばしげな線、而も瘠せた線で組立てられてゐるのをはつきり感じた。
僕は不意に今まで愛情を持つてゐた景色に背を向けて歩き出した。東の方はくらかつた。東京会館の広告燈とその上に青白い大きな星があつた。そしてその暗がりのなかに、先刻西の方を向いて歩いてゐるときには眼をぢつと向けなくては色の見えなかつた柳の枝が、ぼんやりとくらいオリーブ・グリーンの色をにじませてゐた。あの少女は、今夜うちに帰つた。不良の大学生が帝劇から停留所まであとをつけて来たと、母たちにいひはしないか。不意にそんな不吉な考へが浮んで来た。それともあの少女もまた誘惑されなかつた正しい行ひに何かしら後悔を感じてはゐないだらうか。僕は小学校の六年ぐらゐだと思つた年上の弟の方ののんきさうな顔を思ひ浮べると、不思議な嫉妬と憎しみの心が湧いて来るのを恥づかしく思つた。僕は自分を大げさな悲劇役者に考へさうだつた。
そのまま濠の水を見てゐた。あかりがうつつてゐた。風がさむくなつた。まだ僕はよろこばしいのだ。
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