全8件 (8件中 1-8件目)
1
ブログでグダグダと説明してきましたが・・・【世界遺産】モスタル旧市街の古橋地区「Old Bridge Area of the Old City of Mostar」を語るには・・・きらり。未熟者であります・・・もし!?お時間が、ありましたら・・・まったりと音楽入りで【動画】を楽しんで頂きたくUP致しました。 『ボスニア・ヘルツェゴビナ旅日記』・・・【動画】 ぽちお勧め 昔のモスタル風景と内戦の【動画】たっぷりと10分40秒 古橋の歴史と内戦で破壊された古橋を修復する人々の【動画】 歌が悲しく心に響く モスタルの伝統的なお祭り・・・大阪の道頓堀を思い出す【動画】 ナカナカ飛ばない!飛んでぇ~ 一言で言えない気持ちにポチっとよろしこ→
2011.04.08
コメント(7)
ボスニア・ヘルツェゴビナで一番有名な観光地であるMostar「モスタル」東西の文化や宗教や人種が混じりあってヨーロッパでありながら・・・中東でもなしに、アジアでもあるような・・・?そんな不思議空間をお散歩してみましょう♪ 『ボスニア・ヘルツェゴビナ旅日記】散歩♪ ユネスコ【世界遺産】2005年7月登録 【世界遺産】モスタル旧市街の古橋地区 「Old Bridge Area of the Old City of Mostar」 古い橋「スタリ・モスト」があります。 そして・・・豊かな水が流れるネベトヴァ川 最近、水害があったらしく・・・景色が違う、だけど この街のお散歩は、かなり楽しい♪ 橋は、他にも クリヴァ・チュプリヤ「斜め橋」16世紀中期 この橋の右にあるレストランでランチ♪ キャベツのサラダ パイ お肉さん 小さな橋を渡りると・・・【世界遺産】マーク発見! ここから見る景色は、絶景です。 古橋の方に歩いて行きましょう 古橋の後ろで「イケ面」発見! 古橋の砦には、 小さな石のモニュメント 悲しい歴史・・・もう2度とは 古橋を渡ります 太鼓橋みたいですよね ココからの景色は、やっぱし素晴らしい ネベトヴァ川に橋を写してみました 毎年、夏には、勇者達がココから飛び込む 伝統的なお祭りがあります。 昨年、やっとクロアチア人が1名参加できる事を許された 話を聞きましたが・・・根が深い 橋を渡ると・・・・まるでトルコ ここは、トルコです♪ だけど・・・変わった ボールペンが売ってます! どうも怖くて、使う気にならないので・・・ 街をブラブラお散歩♪ 急な流れの川石で出来たまん丸の石畳 足裏の壷を刺激してくれます! 色々な民芸品のお店がいっぱい ・・・だけど、気持ち的には、 お買い物気分になれない 人口の半分が失業者であり・・・ 初めてストリートチルドレン3名の少女に出会う 内戦のずっと後に産まれたはずの少女 貧しい街の姿にも直面してポチっとよろしこ→
2011.04.08
コメント(2)
言い訳をしておきたい事がありまして「ボスニア・ヘルツェゴビナ」に行ったのは・・・興味本位の戦場跡の見学では、ありません!モスタルの街には、有名な「橋」があります。長い歴史を経て「橋」は、何を語ってくれるのでしょうか? 『ボスニア・ヘルツェゴビナ旅日記』・・・モスタル 15世紀にトルコ人が、やってくる前に ネレトヴァ川の鎖橋付近の左岸には 小さな集落がありました・・・ 「橋」がある事で街は、急速に発展し 15世紀半ば 1477年 モスタルの人家は、19軒だったそうです。 トルコ軍が、この集落を占領したのは、1466年頃 集落は「橋上の砦」を意味する 「ケプル・ヒサル」と呼ばれ モスタルと言う名前は・・・ 1474年ころから呼ばれたそうですが、 鎖橋の守備隊が、ネレトヴァ橋の両岸の塔に居たので 「MOSTARI」と呼ばれました。 この呼び名は、1440年に初めて登場しており MOST・・・とは? 現地スラヴ語で・・・「橋」であります。 トルコ統治下で、鎖橋の近くに・・・ 1566年 石造りの橋が完成し 街は、大きく発展し・・・いくつかの塔や 立派な門にモスク レストラン トルコ風の工芸品工房ができて 金属加工 繊維 タバコ 建材製造 そして観光 街は、独特の文化が発展してゆきます。 街を歩くと・・・今でも不思議な世界に入り込んで 怪しく・・・小さなバザールに潜入 むっちゃ~怪しいです♪ ぐるぐる見て・・・やっぱし怖すぎるので脱出 美味しそうなスイーツ発見! 興味津々その後 モスタルは、色々な国の支配下になります。 ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の時 それは・・・大昔の事ではありません! 1992年~1993年にかけ 18ヶ月間 街は・・・悲しい内戦に 「橋」は、 クロアチア勢力軍に寄って破壊されてしまいます。 モスタルの住人たちにとって・・・ 思い入れのある「橋」を失う事は、 ふるさとを失う事と同じであります。 そして、沢山の住人が 同じ街に住んでいる同士が戦い 命を失い 街には、新しい墓標が沢山ある墓地 激しい戦闘から逃れ・・・他国に逃げた人も多かった こんな悲しい歴史を語りたく無いですが・・・ この【世界遺産】モスタル旧市街の古橋地区 「Old Bridge Area of the Old City of Mostar」 ブログ苦しいですポチっとよろしこ→
2011.04.08
コメント(4)
クロアチアからボスニア・ヘルツェゴビナまでは、バスで3時間かかります。バスからの車窓は、なかなか楽しい風景が続きます・・・アドリア海を見ながら、平和になった風景を堪能しました♪ここまではウキウキだったけど・・・ 『クロアチアからボスニア・ヘルツェゴビナ旅日記』 バスから見える島にはミニ版「万里の長城」みたいな城壁 「マルコポーロ」生誕の島「コルチェラ島」海はムール貝の養殖 えええ・・・マルコポーロってクロアチア人? ポルトガル人じゃ~ぁ無かったんですね! 「メトコビッチ」の街 こんな美しい景色に別荘が欲しい♪ いや・・・移住したいかも? クロアチア ボスニア・ヘルツェゴビナ ボスニア州と ヘルツェゴビナ州が 合わさった国名 60パーセントが、イスラームの国なので・・・面白そうですが いよいよ『国境』 国境警備隊のお姉さんが、 バスに乗り込んで来て、直接パスポート回収 ドキドキ 30分以上待って・・・ パスポートが、戻ってくる えええ・・・配るのは、何でやねんきらり。かい? ボスニア・ヘルツェゴビナに入国すると・・・ 景色は、微妙に変化 どうも最近、大きな水害があったみたい? 川沿いの木に、沢山のゴミが付着している! それは、荒涼とした雰囲気 バスは、どんどん「モスタル」に近づき街の中央まで乗り入れ えええ・・・家の壁に銃弾がっ ドキドキ・・・生々しいです! えらい所へ来てしまいました・・・・ 気持ちを立て直しポチっとよろしこ→
2011.04.07
コメント(12)
ドゥブロヴニクのホテルを出発したのは、12月13日(月)7:05今日は、ボスニアまでの長旅であります!またまた最高のお天気♪絶景のドゥブロヴニク通りを走り始めると・・・真赤なお日様が出てきました・・・ 『ボスニア・ヘルツェゴビナ旅日記』・・・教会の木 朝焼けの【世界遺産】ドゥブロヴニク~さようなら バスの中からのお別れ・・・・ ボスニア・ヘルツェゴビナの「モスタル」まで3時間の旅 途中・・・バスの中から 大きな2本の木と 教会 樹齢400年 ・・・2本の木 小さな教会は「ドレステーノ教会」と言う・・・ 教会には、 ゴッホ晩年の作「糸杉のある道」 糸杉・・・・サイプレス ヨーロッパでは、しばしば教会に糸杉が植えられるが・・・ 糸杉の根っ子は、真っすぐ下に伸びて「棺」ひつぎを傷めないから お墓に植えられる木として植えられたそうです。 確かに・・・ゴッホの晩年には、好んで「糸杉」を描いているし カラスなどの不吉とされるテーマも多い・・・糸杉もか 彼は、どこまで追い詰められていたのだろう? そんなゴッホが気になるきらりにポチっとよろしこ→
2011.04.06
コメント(10)
歴史2【ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争】とは? ・・・・・辞書ウィキペディアさま参照 1990年に共産主義独裁が公式に放棄され、多党制が認められると、 ボスニア・ヘルツェゴビナでは、 それぞれの民族を代表する政党が議会の大半を占めるようになった。 1991年にスロベニア、クロアチア、マケドニア共和国が 相次いでユーゴスラビアからの独立を宣言し、 クロアチアでは、クロアチア紛争が始まった。 相次ぐ独立宣言や隣国での民族間紛争の勃発によって、 次第にボスニア・ヘルツェゴビナの各民族間には、緊張・不信が広がり、 一部では武器を準備する動きも進んだ。 正教徒主体のボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア人たちは、 セルビアやモンテネグロとともにユーゴスラビア連邦に留まることを望んでいたが、 イスラム教徒中心のボシュニャク人や、ローマ・カトリック教徒主体のクロアチア人は ユーゴスラビアからの独立を望んだ(この3つの民族は互いに言語・文化の多くを同じくする一方、異なる宗教に属していた)。 1992年、ボスニア政府は、 セルビア人がボイコットする中で国民投票を強行し、独立を決定した。 3月に独立を宣言してユーゴスラビアから独立した。 大統領アリヤ・イゼトベゴヴィッチなどの、 数の上で最多となるボシュニャク人の指導者たちは、 ボスニア・ヘルツェゴビナを統一的な国家とすることによって、 自民族が実質的に国家を支配できると考えていた。 これに対して、セルビア人やクロアチア人は、 ボシュニャク人による支配を嫌い、独自の民族ごとの共同体を作って対抗した。 クロアチア人によるヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共同体や、 セルビア人によるボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人共同体は、 それぞれ独自の議会を持ち、武装を進めた。 ボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人共同体は、 ラドヴァン・カラジッチを大統領とする 「ボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人共和国(スルプスカ共和国)」として ボスニア・ヘルツェゴビナからの分離を宣言した。 1992年5月にユーゴスラビア人民軍が公式に撤退すると、 その兵員や兵器の一部はそのままスルプスカ共和国軍となった。 また、ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共同体も、 マテ・ボバンの指導のもと、 「ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国」の樹立を宣言し、 同国の軍としてクロアチア防衛評議会を設立し、 クロアチア人による統一的な軍事組織とした。 2つの民族ごとの分離主義国家、 および事実上ボシュニャク人主導となった ボスニア・ヘルツェゴビナ中央政府の3者による争いは、 それぞれの支配地域の拡大を試みる「陣取り合戦」の様相を呈し、 それぞれ自勢力から異民族を排除する目的で 虐殺や見せしめ的な暴行による追放を行う民族浄化が繰り広げられた。 1994年にはアメリカ合衆国の主導で ボスニア中央政府とクロアチア人勢力との間で停戦が成立した。 これによって両勢力は セルビア人勢力に対して反転攻勢をはじめ、 またNATOによる空爆などの軍事介入も行われた。 1995年に国際連合の調停で和平協定デイトン合意に調印し、 紛争は終結した。 【ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争終結後】 デイトン合意によってボスニア・ヘルツェゴビナは、 ボシュニャク人(ムスリム人)とクロアチア人主体のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と、 セルビア人主体のスルプスカ共和国(セルビア人共和国) という2つの構成体から成る連合国家となった。 民生面を上級代表事務所(OHR)、 軍事面をNATO中心の多国籍部隊(平和安定化部隊、SFOR)が担当し、 停戦の監視と和平の履行を進めた。 また、紛争中の戦争犯罪者の逮捕と起訴、 民族浄化によって移住を強いられた人々の帰還支援や 民族間の和解に向けた取り組みが続けられているが、 住民の強い抵抗によって帰還は遅々として進んでいない。 選挙では民族主義政党が勝利し、 民族間対立によって政治が行き詰まり、 国外から派遣されるボスニア・ヘルツェゴビナ上級代表の強権発動によって 政治的困難を打破せざるを得ない事態もたびたび起こっている。 2004年6月のNATO首脳会合で、各国首脳はボスニアの治安改善を考慮し、 SFORの展開を2004年末で終了させることで合意した。 2004年12月からは EUの部隊である欧州連合部隊 アルテア(EUFOR Althea)が ボスニアの治安を維持する目的で展開している。 EUFOR Altheaは順次部隊を縮小しており、 当初7,000名であった兵力は 2008年時点では約2,200名となっている。 国民 【民族】 住民はボシュニャク人が48パーセント クロアチア人が14 パーセントセルビア人が37パーセントなどである。 それぞれの民族の差異は主に宗教と歴史的経緯によるものであって、 それ以外の言語・文化の面では3つの民族には大きな違いはない。 それ以外の少数民族としては、ロマなどが住んでいる。 民族構成(ボスニア・ヘルツェゴビナ) ボシュニャク人 ? 48パーセントセルビア人 ? 37パーセントクロアチア人 ? 14パーセントロマ他 ? 1パーセント元々この地域には、 ボシュニャク人、セルビア人、クロアチア人が概ね拮抗する割合で暮していた。 その為、ユーゴスラビアが連邦制を実施する際、 他の5つの共和国は主要民族に基づいて樹立されたのに対し、 ボスニア・ヘルツェゴビナは地域を基礎として樹立された【言語】 言語は、 公用語がボスニア語、クロアチア語、セルビア語である。 それぞれボシュニャク人、クロアチア人、セルビア人の言語とされるが、 これらの言語は 19世紀から20世紀末にかけて セルビア・クロアチア語と呼ばれ、同一視されていた。 多民族が混住するボスニア・ヘルツェゴビナでは、 実際には、民族ごとに言語が異なることはなく、 住民は民族の別に関わらず地域ごとの方言を話している。 自らの話す言語に対する呼称の違いは、 ほとんどの場合話者の民族自認に基づいている。 セルビア語はキリル文字、クロアチア語とボスニア語はラテン文字を用いる。 【宗教】 ボシュニャク人の多くはイスラム教、 クロアチア人の多くはローマ・カトリック、 セルビア人の多くは正教会である。 メジュゴリエでは聖母の出現があったと主張されているが、バチカンはこれを公認しておらず、メジュゴリエの教会もローマ・カトリック教会に属するものではない。 【文化】 ボスニア・ヘルツェゴビナ2つの世界遺産が登録されている。 モスタルにあるスタリ・モスト(古い橋)の周辺と、 ヴィシェグラードのソコルル・メフメト・パシャ橋で、 ともにボスニア・ヘルツェゴビナの代表的なオスマン建築である。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・以上 辞書ウィキペディアさま参照・・・・・お疲れさまですポチっとよろしこ→
2011.04.06
コメント(1)
『ボスニア・ヘルツェゴビナ』とは?・・・・・・・・・辞書ウィキペディアさま参照 東ヨーロッパのバルカン半島北西部に位置する共和制国家、地域。 首都は、サラエヴォ。 ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦とスルプスカ共和国(セルビア人共和国)のふたつの構成体からなる連邦国家である。 ほぼ三角形の国土を持ち、国境のうち北側2辺をクロアチア、 南側1辺をセルビア、 モンテネグロと接する。 ユーゴスラビアからの独立時、 独立の可否や国のあり方をめぐってボシュニャク人、クロアチア人、セルビア人が それぞれ民族ごとに分かれてボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で戦った。 ・・・歴史・・・ 【古代・中世】 現在のボスニア、ヘルツェゴビナには 当初インドヨーロッパ語族のイリュリア人が住んでいたが、 紀元前1世紀にローマ帝国の支配下に入った。 その後、6世紀後半からスラヴ人が定住し始め、 中世のころにはそれぞれ王国を形成していた。 この地域は地理的環境から、 カトリックと正教会の対立の最前線となり、 両宗教の激しい布教争いの場となった。 このため多くの人々はブルガリアから入ってきたボゴミル派に救いを求める。 12世紀後半にはボスニア王国がボスニア、ヘルツェゴビナを統治した。 【オスマン帝国統治時代】 15世紀後半までには ボスニア・ヘルツェゴビナの全域がオスマン帝国の支配下に入る。 正統派のキリスト教勢力から弾圧を受けていた ボゴミル教徒たちの多くは、このときイスラム教に改宗した。 またこのほかにもイスラム教に改宗した現地のスラヴ人、トルコなどから移り住んで ボスニア・ヘルツェゴビナに定着したイスラム教徒などによって、 この地方ではイスラム教徒の人口比率が高まった。 サラエヴォはオスマン帝国のボスニア州の中心となり、宮殿が築かれ、 帝国の州知事たちによってオスマン風の都市建設が進められた。 多くの住民がイスラム教を受容していたことや、 その戦略的重要性のために、 ボスニア・ヘルツェゴビナでは 他のバルカン諸国に例がないほど文化のトルコ化が進行した。 16世紀から17世紀にかけて、 オスマン帝国がハプスブルク帝国、及びヴェネツィア共和国と戦争を行った際に、 ボスニアは重要な前哨基地としての役目を果たしている。 【近代】 19世紀後半、オスマン帝国の衰退に伴い、バルカン半島は オーストリア・ハンガリー帝国とロシア帝国の勢力争いの場となる。 1875年にボスニア蜂起が起きると、 この反乱を口火として露土戦争が起こった。 戦後、ロシアの南下政策にオーストリアとイギリスが反対したことにより 1878年に開かれたベルリン会議によって、 オーストリアはボスニア、ヘルツェゴビナ、サンジャクのオスマン帝国主権下の施政権を獲得する。 オーストリアは1908年、ボスニア、ヘルツェゴビナ両地域を併合した。 このことがセルビアの大セルビア主義や、 汎スラヴ主義を刺激し、第一次世界大戦の一因となる。 第一次世界大戦後、サン=ジェルマン条約 により オーストリア・ハンガリー帝国は解体され、 セルビアの南スラブ連合構想に基づいて セルボ・クロアート・スロヴェーヌ王国が建国されると、 ボスニア、ヘルツェゴビナはその一部となった。 【第二次世界大戦】 第二次世界大戦時、ボスニア・ヘルツェゴビナの大部分は、 ナチス・ドイツの傀儡ファシスト国家であるクロアチア独立国の支配下に置かれた。 クロアチア独立国の支配下では、 クロアチア人の民族主義組織ウスタシャによって、 セルビア人はユダヤ人、ロマ、反体制派などとともに激しい迫害を受け、 数万から数十万人が各地で殺害されるか、強制収容所に送られて殺害された。 また、これに対抗したセルビア人の民族主義者チェトニクによって、 クロアチア人やボシュニャク人が大量に殺害された。 この時代、フォチャをはじめとする各地で、 ウスタシャとチェトニクによる凄惨な民族浄化の応報が繰り広げられた。 これらの民族主義者や、ナチス・ドイツ、ファシスト・イタリア等に対して、 多民族混成の抵抗組織としてパルチザンが結成され、 ボスニア各地で戦いを繰り広げた。 パルチザンによるユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議(AVNOJ)の第1回の会合はビハチで、 第2回の会合はヤイツェで行われた。 【社会主義時代】 ユーゴスラビア連邦人民共和国が成立すると、 1946年にボスニアおよびヘルツェゴビナ地方には、 ユーゴスラビア連邦の構成共和国の一つとして ボスニア・ヘルツェゴビナ人民共和国が誕生した。 戦後、共産主義国家として誕生したユーゴスラビア連邦では、 クロアチアやセルビアなどが民族ごとの国家として誕生したが、 多民族による混住が進んでいたボスニアでは特定民族の国家をつくることはできず、 地域的な共和国としてボスニア・ヘルツェゴビナが置かれた。 ユーゴスラビアがソビエト連邦と決別してからは、 ユーゴスラビア独自の自主管理社会主義が導入され、 経済活動や政治的権利は、より下位の単位に移管されていった。 ボスニア・ヘルツェゴビナのイスラム教徒(ムスリム)たちは、 多くの場面でセルビア人、クロアチア人、あるいはトルコ人と名乗っていたが、 固有の民族「ボスニア人」としての扱いを求めていた。 1974年にユーゴスラビア連邦の憲法が改定された際、 ボスニアのムスリムは「ムスリム人」の呼称で独自の民族とされた。 これは、連邦の中央政府の意向によって、 ボスニア・ヘルツェゴビナを多民族混住の純粋に地理的な単位とみなす上で、 ムスリム(ボシュニャク人)のみが「ボスニア」の呼称を使用することに対する懸念によるものである。 長らく民族間の緊張の少ない状態が続き、 都市部では多民族の混住、民族間の結婚なども進んだ。 また、いわゆる東側諸国とは一線を画したユーゴスラビア独自の路線によって、 言論や文化的活動に関して他の共産主義諸国よりもはるかに多くの自由が認められていた。 体制批判的な映画も製作され、 またサラエヴォはユーゴスラビアのロック・ポップスの一大拠点となった。 また、1984年にはサラエボオリンピックが開催された。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・以上ウィキペディアさま参照・・・・・・・・・・歴史つづく冬季オリンピック辺りから、段々と怪しくなりポチっとよろしこ→
2011.04.06
コメント(1)
とうとう怖い~(@@;)クロアチアからボスニアヘルツェゴビナへの国境へ・・・・旧・ユーゴスラビアから独立したクロアチア・スロベニア・ボスニアエンドヘルツェゴビナ・モンテネグロの4カ国を旅しました。国境を何度も越える過酷な旅であります。 『ボスニアエンドヘルツェゴビナ旅日記』・・・国境 クロアチアから ボスニア エンド ヘルツェゴビナへ移動 ネウムのスーパーで買出し またクロアチアへ戻る旅 それは・・・・「飛地」 今回の旅の一番の見所である【世界遺産】ドゥヴロヴニクに 行くためであり・・・ドゥヴロヴニクは、クロアチアの「飛地」だから どうしても~ボスニア エンド ヘルツェゴビナの国境を 出たり 入ったり する旅になってしまう それは・・・ドキドキの旅であります。 クロアチアのスプリトから3時間の旅 ドライブインで休憩 BRELA(ブレラ)のレストラン「SAMPION」のおトイレを借りて とっても美しい湖で休憩 こんなに美しい湖なのに「バッチーナ」と言う名前の湖 ばっちく無いけど・・・・ばっち~な? 石灰岩の山々を通り・・・道の先にある「国境」 青いゲート クロアチアとボスニアの国境 バスの中から撮影 ええええ・・・見えてない!? 近くで写すと狙撃されるので・・・遠くから撮影 道をクネクネ行くと・・・ドキドキの国境 凍りつく思いで・・・パスポートを渡し 運転士さん・・・袖の下を渡し 無事「国境」を越えてネウムへ ネウムのスーパーマーケットでお買い物 また、国境を越えドゥヴロヴニクのホテルへ向かう スリリングな旅ポチっとよろしこ→
2011.03.19
コメント(2)
全8件 (8件中 1-8件目)
1