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モンテネグロの古都【世界遺産】コトルからの帰りは、 すっかり暗くなり・・・ コトル湾を渡るフェリーに乗る事になる 内陸を帰るよりかなり ショートカットして ドゥブロヴニクのホテルに戻る事に・・・ その場合は、 フェリー乗り場の前が「国境」 国境 フェリーが来る バスは、まず「出国手続」きをしてから・・・ フェリーに乗る フェリーは、10分くらい乗るだけだそうだが・・・ バスから甲板に降りても良いと言うので、 夜のコトル湾を、ゆったりと走るフェリーの風を楽しんだ♪ 観光バスは、私たちだけで あとは、地元のおじさんたちが、 暗いフェリーの甲板で話をしている ・・・ジロジロこっちを見ていて、少し怖いので サッサとバスに戻ると・・・ もうフェリーは、湾を渡り終え 出発・・・・ドゥブロヴニクへ戻る 来る時には、2時間半だったのに・・・ フェリーの 帰りは、むっちゃ~近かった! ホテルで、夕食 大きなホテルだけど・・・やっぱし食べる物が無いバイキング ダイエットに最適なホテルだった! 朝も、やっぱり・・・ 貧しいメニューの朝食バイキング 朝7:05ホテル出発 今日は、ここ クロアチアから・・・ ボスニア エンド ヘルツェゴビナまでの長旅 激しい戦闘が、繰り返されたボスニアの街へ ドキドキしながら出発ポチっとよろしこ→
2011.04.05
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モンテネグロのコトルは、はっきり新市街と旧市街に分かれております♪西はコトル湾に面し、東は山が迫り城壁は、山に向かって高く続いております。そんな地形を利用して造られた城壁は、外敵から人々を守り続けたのであります。 『モンテネグロ旅日記』・・・コトルのロマン コトルは、ロマンチックであります♪ 帰りに振り返って「コトル」を見ると☆キラキラ☆ 冬のヨーロッパの夕暮れは、アッと言う間に暗くなる 城壁は、山の上までライトアップされ・・・ コンパクトな「万里の長城」みたい 城壁の高さは・・・20m 城壁の長さは・・・約5km 城壁の最高峰には ・・・San Giovanni「聖ヨハン要塞」 ロマンチックであります・・・コトル コトルは、城壁に囲まれ3つの門があり 旧市街は、あまり広くなくて三角形 コトル湾に向かって16世紀に築かれた「北門」と「正門」があり 「南門」は9世紀の建造で美しく最古でグルディチ門(Gurdich)と呼ばれました そろそろ門の中に入りましょう・・・ 一目見て・・・どこよりも古いです! 小さな旧市街には、2つの広場があります。 狭いのに・・・教会が、いっぱいあります! その中で、一番素晴らしいのは 聖トリフォン大聖堂 Катедрала Светог Трифуна у Котору ロマネスク様式の大聖堂は、1166年の建造 もっと古い時代に建てられた教会の土台の上に建てました しかし大聖堂は、 1979年の大震災で、大きく破壊されてしまいます! それが長~い修復の末・・・見事に復興していますね 日本も大震災で大きな被害がありますが・・・ いつかきっと・・・時間は、長くかかるかも知れないけど 見事に復興できる日が来る事を信じて 元気を出しましょう! コトルは、大昔から ローマ・カトリック教会と ギリシア正教会の司教区の 巡礼の地でありました。 聖ルカ教会は、むっちゃ~カワイイですね♪ ロマネスク様式でしょうか・・・ 美術館もありましたが・・・お休みみたい? 周辺には、貴族の館もいっぱいあって バロックや ルネッサンスや ゴシック様式も 街中にぎっしり詰まった感じ・・・なんと贅沢な 宮殿もいっぱいあります 旧市内の建築は、だいたい 12世紀~14世紀のものだそうで・・・ それが、ここまでの保存状態を保ったのには、 入り組んだ湾の中に隠れた街であり、 この要塞は、一度も侵略される事なかったそうであります。 古い街コトルは、どんどん暮れてゆきました・・・ 山の上を見ると、万里の長城みたいに高く高く 城壁は、続いている事に驚き ええ・・・あそこは20mって!? もっと高く感じるのだけど・・・とブツブツ言いながら 城壁の外へ 黄昏・・・そしてライトアップにうっとり ロマンチックな世界遺産にポチっとよろしこ→
2011.04.04
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クロアチアの国境を越え「モンテネグロ」と言うお国に入ると・・・コトルに向かうバスから見ると右に見えるているのが「コトル湾」であります・・・アドリア海に面した曲がりくねった湾のことだそうですが・・・静かで深そうですよね♪ 『モンテネグロ旅日記』・・・黒い山 コトル湾は セルビア語で Бока которска、Boka kotorska クロアチア語で Boka Kotorska イタリア語でBocche di Cattaro コトル湾は・・・・ ヨーロッパ最南部のフィヨルドとも呼ばれている。 ノールウェーやニュージーランドで見た事があるけど・・・ モンテネグロでもフィヨルドに出会えるなんて・・・嬉しい コトル湾には、古代から街が出来ていて これから訪問する「コトル」は、 フィョルドの水辺にあり・・・山が近く 不思議な三角形の街であります。 カルスト地形で、 むき出しの石灰石がゴロゴロ 鉄分が多いせいか? 黒ずんで見えますね! モンテネグロと言う国名は? モンテネグロ 「黒い山」と言う意味で 国名そのまんまやぁ~ ヨーロッパから コトルまで湾に入り 大きな船が深いフィヨルドを航海し 軍港としても重要な拠点であったとか? また コトルの街は、色々な宗教があり、巡礼地としても 古くから栄えたそうであります。 と言う事は・・・すっごい色々じゃ~ん! ワクワクしながらポチっとよろしこ→
2011.04.04
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「モンテネグロの歴史」を記しましたが、次は【世界遺産】コトル地方の歴史的建造物と自然・・・についても辞書ウィキペディアさまにお世話になりました。これもただの記録として、手短に♪ コトル 英語:Kotor セルビア語・クロアチア語:Котор Kotor イタリア語:Cattaro ラテン語:AcruviumKotor / Croatian コトルは、モンテネグロの都市である。人口19,000人。 コトルにて・・・・・・・2010年12月12日(日)午後 歴史 コトルが最初に言及されるのは、 紀元前168年である。 古代ローマ期を通してローマの属州であり、 AcruviumやAscriviumまたはAscruviumとして知られた。 中世初期より強化が続き、 535年のユスティニアヌス1世の時代に、 Ascriviumの上に要塞都市として建築された。 後にゴート族を退けている。 おそらく10世紀にコンスタンティノス7世により 第2都市が周辺の高地に建設されたことがLower Cattaroよりうかがえる。 810年にサラセン人の略奪にあっている。 1002年、街は第一次ブルガリア帝国の占領下で苦しみ、 翌年、ブルガリア皇帝(ツァーリ)サムイルにより、セルビアに割譲された。 ・・・・・辞書には、ここまでしか書いてありません!書き掛けです!あかんがな~駄目です 「モンテネグロの歴史」をぽちよろしく!【世界遺産】コトル地方の歴史的建造物と自然 英名 Natural and Culturo-Historical Region of Kotor 仏名 Contr?e naturelle et culturo-historique de Kotor 登録区分 文化遺産 登録基準 文化遺産(1),(2),(3),(4) 登録年 1979年 拡張年 2003年 この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた。 (1) 人類の創造的才能を表現する傑作。 (2) ある期間を通じてまたはある文化圏において建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。 (3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。 (4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。 これは楽しみですねポチっとよろしこ→
2011.04.04
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「モンテネグロ旅日記」 Montenegro 記録として・・・(辞書ウィキペディアさまより)・・・特に長いので読まないで下さい♪ モンテネグロは、 ヨーロッパ南東部、バルカン半島に位置する国。 セルビア・モンテネグロを構成する2つの共和国のうちのひとつであったが、 2006年6月3日に独立を宣言した。 モンテネグロ政府公式ウェブサイトでは首都は行政機関所在地であるポドゴリツァ(旧称チトーグラード)とされるが、モンテネグロ憲法によると 首都はツェティニェである。 国名について・・・ 自国では「黒い山」を意味するツルナ・ゴーラ(Црна Гора、Crna Gora)と呼ぶ。 モンテネグロ(Montenegro)とはヴェネツィア語による名称で、意味は同じく「黒い山」である。 公式の英語表記は、Montenegro。 日本語での表記はモンテネグロ。 2007年10月の新憲法制定に伴い、 それまでのモンテネグロ共和国(Република Црна Гора、Republika Crna Gora)から共和国が外された。 歴史 言語的、文化的にはセルビア人との違いはほとんどない。 宗教も同じ正教会だが、セルビアで主流のセルビア正教会の他に、 マケドニア正教会とセルビア正教会に併合されたモンテネグロ正教会も復活して存在する。 1990年代後半から経済的・政治的利害の相違、セルビア人中心の国家運営に対する不満などから独立運動が盛んになり、 自分をセルビア人とは別個のモンテネグロ人と考える人が増えつつある。 これには、古代モンテネグロ人の祖先が、南スラヴ人とは別個のイリュリア人だった可能性も背景にある。 1516年にツェティニェ家による神政政治が確立した。 これがモンテネグロが独自に持った最初の国家形態である。 ツェティニェ家はその神政政治という性格から叔父から甥へと主教座が継承され、 オスマン帝国のスルタンに朝貢を続けながら国家を存続させた。 ツェティニェ家は1852年に世俗的な公へと転化し、モンテネグロ公国が成立した。 これを契機として宗主国オスマンとの武力衝突に発展し、ロシア帝国の支援を仰ぐことになった。 1878年、露土戦争の講和条約であるサン・ステファノ条約、ベルリン条約でオスマン帝国からの完全な独立を承認された。 1905年に憲法が制定されて、 モンテネグロ公はモンテネグロ王と規定しなおされ、 国号はモンテネグロ王国になった。 公国および王国の初代君主はニコラ1世で、1918年までその地位にあった。 北をオーストリア・ハンガリー帝国、南をオスマン帝国に挟まれる地政学的条件を背景として、 モンテネグロはロシアとの協調を対外関係の機軸とした。 第一次世界大戦では、 セルビアに対していくらかの援助を行った。 このためモンテネグロは オーストリア・ハンガリー帝国に占領されることになり、 ニコラ1世はフランスへと亡命した。 その後モンテネグロはセルビア軍によって占領され、 1918年に成立したセルビア・クロアチア・スロベニア王国(のちユーゴスラビア王国)に取り込まれた。 以後はユーゴスラビアの中の一地域となった。 ニコラ1世とその子孫はモンテネグロ王位を請求し続けたが、実らなかった。 第二次世界大戦でユーゴスラビアは イタリアとドイツによる侵攻を受け、分割された(ユーゴスラビア侵攻)。 モンテネグロはイタリアの占領下に置かれ、 傀儡国家モンテネグロ王国の統治下に置かれた。 しかしパルチザンの抵抗の結果、 1944年に枢軸軍は撤退し、 モンテネグロは再びユーゴスラビアに復帰した。 建設されたユーゴスラビア社会主義連邦共和国においては 連邦を構成する6つの共和国の一つモンテネグロ人民共和国、 1963年からはモンテネグロ社会主義共和国として存続した。 1991年から始まったユーゴスラビア紛争においても モンテネグロ共和国はセルビアと歩調を合わせており、 最後までユーゴスラビア連邦共和国から離脱しなかった。 1997年の選挙でミロ・ジュカノヴィッチが大統領に就任した頃から、 分離独立の示唆が行われて来ていた。 1999年のコソボ紛争でもセルビアの行動を非難し、アルバニア難民の受け入れに努めた。 コソボ紛争後、 通貨や関税に関してセルビアから独立し、徐々に独立の動きが強まっていった。 これに対して欧州連合は モンテネグロの独立がヨーロッパ地域の安定に必ずしも好影響を及ぼさないという立場から、 モンテネグロとセルビアの仲介に動き出した。 こうした欧州連合の努力により、 2003年2月には 3年後の2006年以降に 分離独立の賛否を決める国民投票を実施できるという条件付きで国家連合セルビア・モンテネグロが成立した。 新国家は セルビア・モンテネグロ内で圧倒的にマイノリティーであるモンテネグロに対して セルビアとの間に最大限の平等を保障していたが、 それでもモンテネグロは共同国家の運営に対して非協力的であり、 モンテネグロ独自の外交機関、軍事指揮系統を有していた。 このため連邦国家としてのセルビア・モンテネグロはほぼ有名無実の状態になっていた。 2006年5月21日に、 セルビアからの分離独立の可否を問う国民投票が実施された。 欧州連合は、 セルビア・モンテネグロでなければ欧州連合への加盟を認めないという立場を取っていたが、 投票の直前には「50%以上の投票率と55%以上の賛成」というハードルに切り替えた。 一方で独立支持派は「モンテネグロの独立こそが欧州連合加盟への早道」であるとするキャンペーンを展開した。 投票の結果、投票率86.5%、賛成55.5%で欧州連合の示した条件をクリアした。 2006年6月3日夜(日本時間4日未明)に独立賛成派が国民投票の結果に基づき独立を宣言した。 6月5日にはセルビアもセルビア・モンテネグロの継承を宣言して、 モンテネグロの独立を追認した。 6月12日には欧州連合がモンテネグロに対する国家承認を行った。 これにより国際的にモンテネグロの独立が認められた。 両国の独立により6つの共和国から構成されていたユーゴスラビア社会主義連邦共和国は完全に解体した。 6月28日には国際連合に加盟した。 現大統領はフィリップ・ヴヤノヴィッチ、現首相はイゴル・ルクシッチ。 2007年10月に新憲法を制定し、国名をモンテネグロ共和国からモンテネグロに変更した。 ・・・・・・・・・・・・・以上(辞書ウィキペディアさま参照・・・・・・・そんな モンテネグロ【世界遺産】の訪問は、コトル地方の歴史的建造物と自然ポチっとよろしこ→
2011.04.04
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クロアチアいち押しの世界遺産であり早くから登録されたのにも関わらず・・・一時、内戦で街は、激しく破壊された「ドゥブロヴニク旧市街」は、ユネスコの危機遺産に登録されましたが、やっと復興を遂げ、観光客が戻ってきて4年であります。 プラッツア通りの中心で可愛いお店を発見! 中に入ってみました・・・・ 可愛いアクセサリーがいっぱいです ひぇ~っ ギャルには、手が出ないお値段です! お金持ちそうな、おじさまが 2人の娘さんにプレゼントだと言いながら買っていました! どこかの銀座や渋谷の娘さんで無い事を願うばかり・・・ 自分の為の ご褒美には、ぴったしですが・・・ ここは、ぐっと堪えて ジャスミンちゃんにクリスマスプレゼントを奮発 ネオクラッシュクなペンダント 恋人の写真が2枚も入る・・・ロケット・ペンダント このお店は、現地通貨クーナだけでなく ヨーロッパ通貨ユーロでも カードでも支払えます。 プラッツァー通りのローソク屋さん とっても綺麗なローソクつい買ってしまいました♪ 2本が、一対になっています 今となっては・・・「計画停電」が多いから お友達に いっぱい買いたかったお品です。 グループは、集合して・・・お昼ごはん シーフードのお店 城壁の外へ出る橋を渡った目の前のお店です メニューは、スープとシーフード・リゾット ツアーの皆さんは、お口に合わなかったみたいだけど・・・・ 私はむっちゃ~好みのお味 白ワイン小瓶1本30クーナ(480円) ひとり美味しさに満足しながら・・・完食 楽しかった【世界遺産】ドゥブロヴニク旧市街の散策は、終わり いよいよ国境を越えモンテネグロへ向かいます。 『モンテネグロ旅日記』・・・国境越え モンテネグロの古都【世界遺産】コトル 「京都」みたいな街・・・なのだそうですが クロアチアから モンテネグロへ バスで・・・・2時間半 国境には、高速道路の料金所みたいなゲート クロアチア側のゲートで、運転士さんがバスを降りて 国境警備員と話をして・・・クロアチアは、無事脱出 モンテネグロのゲート到着 ここは、全然違う・・・・緊張した雰囲気 ドキドキ・・・し~ん! グループ全員→ 39個のパスポートを 山のように集め・・・持って行く女性 腰には、ピストル ドッキンドッキン・・・緊張 夏だと観光バスが、行列し、ゲートは、大渋滞になるらしい? 最低でも 2時間 冬だから・・・私達のバスだけなのに 入国手続きは、 むっちゃ~長い 国境警備隊は、みんな美人 腰にピストルをさげた美人の国境警備隊・・・美人って事が余計に怖い BOXに入り・・・ パスポートの文字をPCに打ち込んでいる そんな姿がバスの中から見える・・・ドキドキ 入力には、20分くらいかかり パスポートは、まとめて返してくれた あああ・・・ハンコウが増えるのは うれしいけど・・・ こんなに恐ろしい国境越えを 何度も繰り返す旅 本当に物好きな方が・・・・ほ~っ私も含めて変わった方々 変わった方々は、いよいよ モンテネグロ と言う・・・知る人ぞ知る国へポチっとよろしこ→
2011.04.03
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