虹のお家・野島崎



雨はまだ落ちていない。
朝焼けでもいい、もっと明るさがほしいのに。
鉛色の空は間もなく道を濡らすだろう。
足の悪い母を思い気が滅入る。

房総の誕生寺に降りたったときには、
雨は本降りになっていた。

旅館へ直行するのもためらわれ、かといっても、
この激しい雨では観光する気分にもなれない。
母はいつものように遠慮がちに言う。
「せっかく来たのだからどこか見物すればいいでしょ」
一方、父は母の足を気遣う。
夫まで、両親のいいように、と私の決断に委ねてしまっては、
もう些か苛立ちを覚える。

4歳の姪の奈都は、先ほどからずっと歌を歌いっぱなしだ。
無邪気でいい。

「お客さん、6千円もありゃあ・・」
誕生寺でタクシーを拾った。
こうなりゃ旅館に行くしかない。
雨脚は益々ひどくなった。

車は海岸線に沿って走る。
うねりながら押し寄せた波は黒い岩にぶつかって白く砕ける。
仁右衛門島がぼんやりと霞んでいる。
「仁右衛門という人が流罪の頼朝公を助けて住まわせたのですよ」
運転手は観光案内まで引き受けてくれたらしい。

「シーワールド、入場料が高いから入る程のこともないでしょう。
 この海岸、茅ヶ崎に似ているでしょ・・鴨川港、鯖が豊漁です。
 あの船は大島帰りですよ。ホラ、あの冷凍庫、しっぽを出して走っていますよ。
 みんな鯖なんです・・カワハギのみりん焼き、此処しか売ってませんよ。
 お客さん、見て来なよ!」

もうそれどころではない。
雨の中を密室に閉じ込められて一時間以上も走っているのだ。
車に弱い娘はぐずぐず言うし、奈都を抱いた私のお尻は、
不幸にも皮下脂肪不足で痛む。

楽しみにしていた房総の花にも、
はしゃいで指差す言葉とは裏腹に心はあまり晴れやかでない。
密室からの開放をひたすら望むだけである。

「お花、買っていく?」
運転手ははまだ喋っている。

漸く畳に足を投げ出す。
部屋に通されてやっとひと心地がついた。
みると、父はもう手帳に何かを書きとめている。
何という恐ろしいエネルギーか、80歳だというのに。
運ばれてきた茶を喫み、南部煎餅をかじる。

棒縞の着物にたすきをかけた係りの人は、事務的に言った。
「お風呂はこちら、大浴場は2階にあります。男女別になっておりますが」
「お食事は何時になさいますか?」
イントネーションが如何にも味気ない。
方言の方が趣があっていいのに、私はそう思った。

子供達が大騒ぎで駆け込んできた。
奈都が、本物の虹だという。
あんなにひどかった雨が、いつの間にか止み、海は残照に煌めいている。
岸壁の上に聳える白亜の灯台からは、
かつて見たことのないような、見事な虹が空に伸びていた。
七色の橋とはよく言ったものだ。

「わたしね、ほんもののにじをみてよかった」

奈都は幾度となく告げにくる。
絵本の世界が突然目の前に現れたのだから、余程嬉しかったのだろう。

翌朝、奈都に促されて散歩に出た。
空はどこまでも青い。濡れた岩場に足を少し取られながらも、
彼女は私の手をぐいぐい引っ張って歩く。

時々打ち寄せる波にも、岩場に泳ぐ小さな魚たちにも目もくれない。
どうやら灯台を目指しているようだ。

岩場を過ぎ、灯台へ続く道に出た。こんもりと繁った小さな林の丘に、
それ程大きくもないが、白亜の灯台が、それでもしっかりと根を下ろしている。
野島崎灯台である。

奈都は、何かを探すように何度も辺りを見回した。
灯台のてっぺんを仰ぎみては、また下をキョロキョロする。
そして、やおら私に尋ねた。

「ねえ、にじのおうちはどこ?」


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