リンガラ創生期



リンガラと青空があれば!

ところで、リンガラ音楽――って、いまいち皆さんわかってらっしゃらない。アフリカ大陸の音楽、という固定観念はどうぞ捨ててくださいね。アフリカの大地で奏でる音楽は、タムタムなんかの太鼓の叩き出す激しいリズム=民族音楽、なんて今、思い浮かべてることでしょう・・。どうも、みなさん、「対象」に対する発想が貧弱です。そして、これは何度も何度も申してきているわけなのですが、貴方の「思い込み」のまま貴方が「留まっている」ようですね。貴方の紡ぐ「言葉」の背景にある貴方の「自分史」など、ち~~とも、求めてなんぞおらぬのですから。え?耳障りだ?愛の胡椒がまだ、足りませんの??

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―――1881年、イギリスの探検家スタンレーがコンゴ川をさかのぼり、スタンレー・プールにたどりついたときは、首長ンガリマエが築いた商業都市キンタンボのように、すでに5000人もの住民がいる町も形成されていた。スタンレー率いる部隊はンガリマエ山に守備隊を置き、このコンゴ川探検のパトロンであった当時のベルギー国王レオポルド2世に因んで、レオポルドヴィルと町を名づけた。 やがてレオポルドヴィルの人口は商業の発展や絶え間なく入り込んでくるヨーロツパ人のため、人口増加の一途をたどり、1926年ベルギー領コンゴの首都になったときには当時の推計でアフリカ人だけでも2万人を超えていた。鉄道も敷かれ、ますます都市としての機能は整備され、1950年代には約20万人もの人口を抱える商業都市となった。 かつての植民地政策により街は白人、黒人の街にすべて分割されていた。黒人は昼間は白人街で安い賃金で労働を提供するも、夜には我が町(シテ)へ帰らねばならなかった。 しかし、抑圧の下でも、人間はいつでも、何がしかの【自由】を持つ生き物だ。いや、求める、といったほうがわかりやすいかもしれない。シテでは、これまでの伝統社会にはなかったバーが出現し、皆がたむろするようになる。コンゴ川対岸のブラザヴィルで46軒、レオポルドヴィルのシテではそれを遥かに凌ぐバーがあった。彼らは、白人がもたらしたワルツやフォックストロットを踊った。 こうして、伝統的社会には存在しなかった生活や言語、文化が誕生した。リンガラ語の誕生だ。リンガラ語はもともとは、現ザイール(コンゴ共和国)西北部のバンガラ族の言語に由来すると言われている。ザイールは、私が以前訪れたカメルーンと同じく、わかっているだけでも約200の言語があり、方言なども含めれば400の言語に枝分かれするとされている。コンゴ川流域に発展した商業の共通語として使用されはじめ、また宣教師や植民地当局から共通語化されていった。 アフリカの初期におけるポップス音楽の誕生の地は西アフリカ、リベリアが発祥の地とされている。港町のパームワイン・バーなどでギター、バンジョー、コンサーティーナ、ハーモニカ、そして地元に伝わるパーカッションなどによる船乗りの音楽とアフリカ音楽のフュージョンが誕生した。このパームワイン・ミュージックと呼ばれる音楽スタイルは黄金海岸(現ガーナ)などの英語圏西アフリカでハイライフに発展していく。現ナイジェリアが現在最も盛んなハイライフのマーケットとなっている。 そして、1930年代、最も大きな影響を受けるルンバがキューバよりコンゴにもたらせれた。このルンバも、そもそも、シレなどの伝統音楽と、支配者スペイン人の音楽=セレナーデなどが融合してできあがった音楽スタイルである。アフリカ大陸から連れ出された奴隷の末裔たちの音楽にコンゴ人は共感した。自分たちと同じ血が流れていることを感じとったのだろう。では一方の北アメリカの同胞が生み出したジャズは何故アフリカ人に魅せられなかったのか?カメルーン人マヌ・ディバンゴによれば、―ジャズにおいては、黒人が打楽器を叩くのを禁止された歴史のなかで、自然と、ルンバに親近感をもって執着していったのではないか――、ということだ。 アフリカの伝統音楽を大別すれば、主に複数の打楽器を使って踊り、歌う音楽であり、もう一方のスタイルは吟遊詩人による弾き語りだ。グリオと呼ぶ。グリオは血筋により伝承され、彼らは儀礼祭礼において、楽器をつまびきながら、英雄を称える詩や、死者の誉れを思い起こさせ、祭りへの祝福などを称える詩を歌いあげた。初期のリンガラは、このスタイルを踏襲した。 そして、40年代にはいり、新しい生活、新しい文化、新しい嗜好、新しい市民層に触発されるかのように、楽団形式のリンガラへと発展していくのだ―――――。


―――こうして、1940年代のレオポルドヴィルには、新しい言葉、新しい市民層、新しい生活習慣、新しい音楽嗜好、つまり新しい文化が生まれていった。アフリカの伝統的吟遊詩人=グリオのスタイルを踏襲した弾き語りミュージシャンたちは、こうした民衆の要望に応えるべく、ギター、アコーディオンに伝統的打楽器加えて、3,4人の楽団を構成して、街角のバーで歌いはじめた。 1947年、オデオン・キノワとアルモニ・キノワという二つのグループがアフリカ人による最初のレコーディングを行った。この頃、レオポルドヴィルに相次いでレコード会社が設立されていた。経営者はもちろん非アフリカ人であったが、アフリカ人のためのアフリカのポピュラー音楽を提供するためで、アフリカのポピュラー音楽においてリンガラがアフリカ全土を征服する条件整備がなされたのだった。 さらに1952年にはローデシア(現在のジンバブエ)とともにアフリカ初の現地プレス工場が設立された。コンゴ以上に人種差別の激しいローデシアでは、アフリカ人のための文化に寄与する産業となりえなかったため、アフリカ人のためのポピュラー音楽の供給地がレオポルドヴィルの独占状態となった。これは、リンガラの普及条件であったが、では何故、コンゴでアフリカ・ポピュラー音楽=リンガラが芽をふき、アフリカ全土に圧倒的な人気を博することになったのか。それは、サハラ以南のアフリカに多くあるように、イスラム教ではなく、キリスト教が圧倒的に浸透「させられて」いたため、教会音楽に馴染みがあったからだといわれている。教会音楽と根源が同じである西洋音楽を受け入れやすい土壌があったのだ。そして、最大の理由は経済政治的にはベルギーの支配は、当然のように抑圧と差別の支配であったが、文化面では比較的、他の植民地施策国と異なり、放任主義であった。そのため、コンゴのバンツゥー文化が色濃く反映したリンガラに、イスラム教、キリスト教圏を越えて、アフリカ人の魂をとらえる力を持ちえたのではないか、と推察する。 草生期といわれる1950年代から60年代にかけて、リンガラの普及に貢献したのは、アフリカン・ジャスと0.Kジャズという2大グループだった。アフリカン・ジャズを創設したのは、後にグラン(偉大な)・カレと慕われるカレ・ジーフ。彼は、聖楽隊出身の美しい声の持ち主で、伝統的要素を取り入れながらも、都市民層の感性にあった音楽を生み出す才能に恵まれ、彼の美しくも甘い恋の歌は「ルンバ・コンゴレーズ」と呼ばれ、現在のリンガラの音楽的基本要素の土壌をつくったといわれる。 一方の雄、0.Kジャズはフランコという天才ミュージシャンのおかげで、めきめき頭角を現し、彼の野太い声と、独特の電気ギター演奏は、アフリカン・ジャズより一層土着的で、彼らは「エパンザ・マキタ」(女の子のバンド)と呼ばれ、第2の流派をつくった。

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アタシの青空がリンガラ・・・恋など、いらぬ・・・




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