proud じゃぱねせ

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親父の夢



北海道では帆立貝の漁の出稼ぎをしていた。その頃は網を上げるウィンチも半手動で、
太いワイヤーで指を切断されたり、目に当たって失明したりする人が続出していて、
力自慢の親父もさすがに怖い思いをしたのか、どれだけつらい仕事だったかをよく私に話して聞かせた。
後々、私が小林多喜二の「蟹工船」を読んだ時、真っ先に思い浮かんだのが親父のこの話だった。

その頃、突然親父が連絡不能になり、家族も母ちゃんも心配したそうだが、
実はこの時、親父は監獄に入っていた。
何をしたのかと聞いたが、
「喧嘩だよ、血気盛んだったからな、昔は。」(いや、今もだよ、おい)
と言うだけで細かい事を教えてくれない。何か臭うんだが、未だに霧の中である。
その内聞き出そうと思っているんだが、、、

彼は何とか外部と連絡を取ろうとしたが、無理な話だ。
今と違って、当時の監獄はとっても厳しく、私語さえ許されない事もあったそうだ。
頭をひねった親父は、当時貸し出されていた本のページの、
上と下の字が書いてない部分、つまり余白(1から1.5cm程のもの)を、
ばれない程度に何枚か切り取り、食事の度に米粒を何粒か壁に張付け、
消灯の後の暗闇の中で、その米粒を使って、余白の紙を張り合わせた。
それを何度か繰り返すうちに、便箋程度の白い紙になった。
親父はそれに自分の居場所、元気でやっている事、いつ出られるかなどを書いて、
送り先も書き込んだ後、先に出所する事になっていた監獄仲間の靴の下敷きの下に挟んでもらって、
その人が出所した後に投函してもらった。

祖母も、親父の奥さんも、母ちゃんもやっと居場所が分ったと喜んだそうだ。

ある時は東京の織X組と言う、いまもある大きな土建屋に出稼ぎに行っていた。
電車で仕事場に向かう途中、トンネルに入る直前に親父の目の前の開いた窓から、
鷹が飛び込んできた、親父の真ん前に。
「鷹」と言えば、“一富士、二鷹、三なすび”と、縁起の良いものだったので、縁起を担ぐ昭和一桁親父にしてみると、
偶然とは思えない位縁起が良いと思ったらしい。それを証拠にそのすぐ後何か起こったのだが、忘れてしまった。
今度親父と話す時があったら聞いておこう。

これは母ちゃんと一緒になった後の話だと思ったが、修善寺に道路だかトンネル工事の出稼ぎに行っている時、
仲間の誰かが、何かが原因で喧嘩になり、その相手が在日朝鮮人で、
翌日になったら仲間を20人ほど連れて親父達のいた飯場(宿舎)に仕返しに向かってきている事を聞きつけて、
飯炊きをしていた母ちゃんもろとも、仕事も放って夜逃げをした。
その時通った山道が、天城山心中の現場の近くだったと母ちゃんは今も懐かしそうに語る。


興味のある人は 天城山心中


大阪、滋賀方面にも一時期出稼ぎしていたらしい。
東京の奥多摩湖のダム建設にも関わったらしい。
その頃の話は全く聞かないな、そう言えば。。。

この様に親父は出稼ぎの度に山形から電車に揺られて、土地、土地へと移動を繰り返した。
東海道線に乗って、大磯から真鶴、湯河原にかけて見える太平洋を初めて目にした時、
日本海の荒れ狂う灰色の海とは正反対の、その穏やかで美しい姿に言葉を無くし、
この山形の田舎者は、いつか金を貯めて、この辺りに家を買ってやる、っと決心した。


私の実家、つまり親父の家は神奈川県の小田原市にある。


親父と母ちゃんの貧乏生活 に続く


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