Dog photography and Essay

Dog photography and Essay

乾清門から乾清宮


乾隆帝は雍正帝の第四子


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保和殿の向かって左の石段を降り、
ふと立ち止まり乾清門を画像にした。
乾清広場に多くの観光客が大石雕を見終わり歩いていた。
この乾清門・乾清宮は乾隆帝1711~1799(在位1735~1795)
中国清朝第六代の皇帝で24歳で即位した。


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乾隆帝は雍正帝(1723~1735)の第四子で、
康煕帝(1661~1722)と雍正帝(実父)の流れを汲み、
清朝の全盛期を現出させ、内外に輝かしい治績をあげた。

乾隆帝の功績として知られている「四庫全書」
「収集された貴重な書籍3461種、計7万9337巻、
字数にして約8億字に達するものを一定の書式に、
したがって筆写させ統一した蔵書」


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乾清門は各大臣の奏上を受ける「御門聴政」の場であった。
乾清門の東西には皇子の読書する書房が造られていた。
画像は乾清門の中であるが、部屋の暗さと、
外の光のコントラストが悪く、飛んでしまっている。


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乾清門の中から観光客越しに乾清宮を撮った。
乾清門を出ると前方に視界が開け乾清宮と、
その両脇の弘徳殿と昭仁殿が見え観光客は、
まず佇(たたず)んで暫くの間見ている。


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私は外に出ると急いで30mほど歩き、
身体を反転させ乾清門から出てくる人や、
暫しの間たたずんで見ている人などを撮った。
門の上の梁に描かれた向き合った龍の絵と赤い門の、
色の調和も取れていて綺麗だった。



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乾清門から一気に乾清宮へ向かった。
多くの人が養心殿へ向かっていたが、この時、
中国人女性ガイドさんから「今何処ですか?」の声、
更に「私たちは後20分ほどで出口ですよ」と電話が入った。

「もう少し掛かりますから待ってて下さい」と言った所、
「何処に居るんですか?」「乾清宮を超えた所」というと、
「早くして下さいね」と、
しかし、私は乾清宮へも達してなかったので、急ぎ乾清宮へ。


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乾清宮の瓦の先にいろんな動物が飾られていた。
そしてどんな動物なのだろうかと考え出したが、
また悪い癖がでたと思い直し、
その何の動物なのかそして避雷針のようなものも設置してある。


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魔よけなのだろうか?また分からないまま画像の更新をした。
この乾清宮は皇帝・皇后の活動の中心でもあった。


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乾清宮は乾隆帝1711~1799(在位1735~1795)が、
創建したものばかり思っていた。
しかし、明代の永楽18年(1420)に創建され、
清代の嘉慶3年(1798)に再建されたという事で間違っていた。

明代永楽帝(1403~1424)から清代の康熙(1661~1722)年間まで、
皇帝がここに住み、日常の政務を執っていた。


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上の画像は乾清宮の中の画像である。
清代の雍正帝(1723~1735)が即位し、
寝宮を養心殿(乾清宮の左前)に移してからは、
乾清宮は内廷式典を行ない、
皇帝が臣下や外国使節に会見する場所となった。


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雍正帝の時代以来、皇帝が皇位後継者の名前を、
記した詔書を匣(はこ)に納め乾清宮の中の「正大光明」の、
扁額(細長い額)の後ろに置き、皇帝崩御の後、
匣が開けられ、指名された皇子が皇帝の位に即くというもので、
私は身震いするほどにロマンを感じた。


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乾清宮の右側に亀の像が置いてあった。
明の十三陵で何も書いてない重い石碑を背負って、
歯を食いしばっていた亀の像とは感じが違っていた。

一生懸命前に進んで行こうとの思いがこの像から伝わってくる。


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その横には鶴の像があり、画像は次回更新したい。
「鶴は千年、亀は万年」とよく言うが、
実際にはどうなのだろう?そして、
この亀の頭は何となく龍の頭のイメージがして仕方ないが?


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乾清宮の右側に鶴と亀の像が置いてあり、その隣に、
日時計(影の向きによって時刻を知ることができる時計)が、
置いてあり画像にした。
中国での日時計の歴史は古く紀元前にさかのぼる事ができる。


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13世紀までは世界のどこの国よりも進んでいたが、
13世紀以降、医学・天文学・物理学・数学や紡績・陶器・建築等、
立ち遅れる事になっていく。
しかし、現在の世界のこの発展の基礎は中国が作った。


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乾清宮の右後側に昭仁殿(書庫)の裏から交泰殿、
奥に坤寧宮を画像に収める。
交泰殿は1420年創建され、1798年再建。
中和殿と同じ形式の建築で中和殿よりやや小さい。


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坤寧宮は1420年に創建され、
1655年再建。明代には皇后の寝室として利用された。
右側には景和門が見え、坤寧宮の横に東暖殿が見える。


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交泰殿は1420年創建され1798年再建された。
清代にはこの交泰殿にて皇后にたてる「冊立」の儀式をしていた。
この「冊立」とは、立后の手続きを経た人で、
皇帝の正妻で皇后になることをいい、それを冊立の儀式と言った。


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元旦・冬至・皇后の誕生日には、皇后はここで家臣の祝賀を受けた。
殿内には、大きな水時計と置時計が置いてあり、
置時計の方は現在も使用可能であるとの事。
乾清宮から後ろ側に交泰殿がある。


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清代に清の乾隆13年には、王朝が25代続くようにと、
25個の金印が収蔵され、内部には宝座があり、
背後に4枚の屏風がある。屏風の上には、
乾隆帝直筆といわれる「交泰殿銘」の屏風がある。


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坤寧宮は1420年に創建され1655年再建された。
明代には皇后の寝殿として利用され暮らしたところ。

明の崇禎17年に、李自成率いる農民軍の北京入城時に、
崇禎皇帝(1628~1644)は皇太子を脱出させ、
皇女を斬ったのちに故宮の北にある
万歳山(紫禁城後方の景山)で自害した。


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皇后もここ坤寧宮で自害し、明の滅亡を引き起こした。
清代には祭神の場所となった。
清代に入ると改築され、皇帝の結婚儀式の場所となり、
皇帝・皇后の活動の中心でもあった。



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1655年再建された坤寧宮の北側の石段を降りようと、
前方を見ると綺麗な赤の坤寧門が目に入り、
私は急いで石段を上に上がった。

そして、直ぐ下の黄色の瓦と前方の坤寧門の窓枠の、
朱赤とのコントラストを気に入りシャッターを切ったものの、
肉眼で見た感動は出す事が出来なかった。


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カメラのレンズを通す場合、
やはり露出とシャッタースピードの関係をよく把握しないと失敗する。

坤寧宮の北側の石段を降りながらも、
ふと私を呼ぶような声に振り返っても知っている人は居なかった。
でも何となくカメラを向けシャッターを切った。


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左側の東暖殿では多くの皇帝・皇后の世話をした女官が、
無念で怒り苦しみ泣き、それでも人を愛する事も許されず、
どれだけの女官が悲しみの中に散ったのか?

そう思うだけで私の胸は切ない思いに駆られながら、
重い足取りで石段を降りていた。


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交泰殿の石段を降りて少し歩いたところから、
交泰殿と左に隆福門と右に景和門を撮影した。
天候は厚い雲で太陽の光を遮っていた為、
綺麗なコバルト色は出ていない。
そして坤寧門の画像を撮った。


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近寄って撮った為、
坤寧門の赤と屋根の瓦の黄色と梁の藍色と、
その梁に描いた龍の金色の絵がマッチしていた。

この時に再度ガイドさんから携帯に電話が入った。
「皆さん、お待ちですよ!何処に居るのですか?」
「坤寧門の前に居ます」と答えると「まだそんな所ですか?」と、
言い置き電話は切れたが、また電話が鳴った。


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急ぎ電話に出ると、ガイドの声が聞えてきた。
「ではもう少し待ってますが、
まだ天壇へ行かなくてはなりませんよ」と、
大分迷惑を掛けていると焦りながらも撮った坤寧門の画像。


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ガイドさんより電話が掛かってより、
急いで進んだもののどうやら道に迷ってしまったようだ。
道に迷っても増瑞門のいくら押しても開かない扉を画像にした。

そして引き返し「大成右門」へ来て、
門越しに屋根の動物が見えたが、
紫禁城の何処の屋根にも同じような動物の瓦が載せてあり、
分からずに中国人に聞こうとしたが、
ガイドさんたちが何処で待っているかも忘れてしまっていた。


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仕方なく再度ガイドさんに電話したところ
「神武門の外で待ってますよ」そこは紫禁城の外だった。
急ぎ、その場所へ向け小走りに行った。


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こんな狭い路地で迷うとはと思いながらも先を急いだ。
先ほど迷い込んだ所は女官や宦官が住んでいた所へ、
迷い込んだようだった。
現在少し広い所へ出たと思ったら、やけに緑が多かった。
その一角に千秋亭がありそれを画像に収めた。


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その奥には、軽食が販売される澄瑞亭から、
いい匂いがしてきたが、その誘惑に負けたら大変と先を急いだ。
その時にまたガイドさんから電話が入った。
後どれくらい掛かるのかも分からずに、
「もう直ぐ着きますからご安心を」と言っていた。


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紫禁城の中で緑があるところがこの御花園の周りのみである。
ここには小さな池があり、その池には石で作った橋が渡してある。
その画像は次回更新したいと思うが、
今回はこの御花園にある香炉を画像に収めた。
この香炉は中国各地にある禅寺の前に、
備え付けてある香炉と良く似ている。


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ここから皆の待っている神武門まではもう直ぐであるが、
もう一枚ともう一枚と撮っている時に、
今度はガイドさんが私の5m後ろで電話を掛けているのも知らず、
「もう少しです」と言ってより、
振り向くとガイドさんが近づいてきて腕で×印を作って見せ、
「もう撮りましたか?」と。。。


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紫禁城の神武門を除けば最終の門になるのが、この順貞門になる。ガイドさんは私の横にぴったり張り付いている。「もう予定より30分以上遅れてしまってますよ」と、私が撮影のために立ち止まる度に、後から声がする。急いで撮った順貞門と書かれた表札だが、その横に書かれた文字は、満州語である。


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順貞門を抜け、神武門のゲートを撮った。
6m以上は有るだろうかその神武門を通り抜けるゲートの入口である。
そのゲートを潜り抜けるとき後を振り向き、
他のツアー客越しに、順貞門を撮った画像。


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前を歩いていたガイドさんは、
私が居ない事に気付き小走りに来て、
「もう貴方の様な人初めてよ」と嬉しい悲鳴?



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紫禁城の神武門ゲートを通り、
間もなく出る所で前面の景山公園を画像にした。
景山公園上の万春亭と呼ばれる楼閣が見えますか。
11年前に北京故宮を見に来た時は、この景山公園を通り故宮へ入った。


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そして、太極拳をしている老人たちを横目で見ながら、
山を越えこの紫禁城の神武門でチケットを購入し、
今回とは逆のルートを見て回った。
しかし、11前の時は全くの一人ぽっちの旅ゆえに、
時間は気にしなかった。


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紫禁城の神武門をアップで画像に収めた。
ここ神武門は故宮(紫禁城)の北に位置し、
ここを出て景山公園へ向かうのが一般の観光ルートであるが、
今回はこれで故宮の旅は終了です。


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次からは1420年に建設された中国で、
最大の壇廟である天壇公園を更新します。
天壇公園は明・清の皇帝が毎年豊作を祈った壇廟。


「中国写真ライフ」へ戻る。
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