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もし、エアコンが無い夏の夜が来たら・・・考えてしまいます。 少し恐ろしい、、、が、たぶん水道があればなんとかなるだろう!?もちろん、土地や住宅環境によっても程度が違う。 大阪の住宅密集地だと恐ろしい。エアコンに頼っている都会の日本人は弱いかもしれない。 私とて同じ。しかし、私には過去に経験がある。 たった3日ほどであるが、日本の真夏と同等の高温多湿の夜に、エアコンもない宿で過ごしたことがある。イタリアのフィレンツェで、「ユースホステル」と称する相部屋の安宿に泊まったのだった。95年ぐらいだったらろうか? 夏休みを利用して行ったが、聞いていた地中海地方の気候とは違い、そこは、日本と同等の熱帯夜だった。私が過ごした、過ごし方と同じ方法を、やはり 小銭旅行者の先輩方はしていた。後述する書に、私と同じ方法が書いてあったのを後で知って苦笑した。● 人は暑いと寝られないのが普通だ。 寝られないと、体力を取られ、やばくなる。● 気温が体温に近くなるほど、扇風機などで効果は少ない。 なおかつ、湿度が高いと、より周囲の温度が低くないと汗が発散せずに、体力を取られる。その20畳ぐらいの部屋には、二段ベッドが、20人分ほど並んでいて、衛生面などを語る前に、暑くて寝られない。 だが、寝ないと身体が持たない。寝るためだけに、小額だがお金を払って、次の日の計画のために必要な時間だからだ。エアコンなどない、窓はあったか記憶にない。 あったとしても、風はあまりない。● Tシャツなどの下着は、脱がない方がいいと思う。 汗を吸った方が衛生上よいし、 汗を気化させるのも、着ていた方が早いと思う! そこなんです。 汗を気化させる、イヤ、水を気化させると、 気化という吸熱の物理現象のために、温度を取ってくれることができる! すべきことは簡単です。 シャワールームがありました。 お湯は出たか記憶にないが、水をかぶっても寒くない気温です。● Tシャツとパンツを着たままでいいんです。 眠くて疲れてるから、行って水かぶるのがやっと、、 したたる水だけ、タオルなどで拭いて、 ベッドのシーツが濡れるのも構わず、寝ます。 天井にかろうじて弱い風を発するシーリングファンが気休めのように回っていた記憶。 これで、ずいぶん涼しかった。 真夏でなければ風邪をひくでしょうが、 真夏の熱帯屋では、暑くて寝られないことと比べれば、快適でした。 濡れて気持ち悪い? 寝具の衛生面? 関係ありません。 翌日洗えたりするでしょう。 (ポイントは、濡れたシャツを着ていることです。 ただシャワーで身体を冷やしただけでは、1時間以内に体温は上がると思われます)● この冷却現象は、体温で濡れた衣服と身体の表面が乾くまで効果があります。 その時の経験では、2時間ぐらい。 なので、夜中に再度暑くなって目がさめて、 深夜にもう一回シャワーを浴びました。 非常にランニングコストは安いです。 水ですから。下記は、 蔵前さんというアジアなどの旅行関係の雑誌を書いていた人だと思いますが、 この夜中の衣服着たままシャワーの話し以外にも、実話に基づいて、上手に面白く書いています。 小銭旅行が好きな人には、うなずけるでしょうし、 マンガが少し挟んでありうちの子供も、大好きな一冊です。アジアなどの実態に比べて、日本がいかに恵まれていたか、垣間見られますか・・・【中古本】 ホテルアジアの眠れない夜 (講談社文庫)価格:200円(税込、送料別)
2011.03.26
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はっきり言って、ホテルまで遠かったですね。疲れました。その理由は、東京駅内での荷物と子供連れての移動、最終バスが終わっていて、ホテルまで歩いたことなど。「歩いて!」アンバサダーホテルに入るのは、今一でしたが、ホテルのエントランスでポーター(?と呼んで正しいのだろうか)さんがこちらを見つけて、荷物を預かりに来てくれました。ポーターが荷物を部屋まで運んでくれるというホテルは、最近は人件費削減で、かなりの高級ホテルでほとんどなくなっているとこの前話したところ(VIPは除く)。ですから、行き成り感動ですね!つまりこれが、ディズニーランド直営ホテルのホスピタリティーの一つのようです。Hospitarity ですが、客へのもてなしのこと、 さらに調べたらラテン語のHospics(客人等の保護)ということです。わたくし、幼少のころは家族と割とよい旅館などに泊まったことがあって、その時に旅館に並べられたスリッパや女中さんなどのニコヤカな表情が記憶に残っています。ところが、20歳ぐらいから、自力で海外を貧乏旅行などしたために、20代から40歳ぐらいまでは旅行というとリーゾナブルで、ぜいたくは禁物、、最低限の機能が伴っていればよしというような癖になっていたようです。ところが、そこTDRは違います。 R=リゾートですから。 夢を抱いて、そのために普段仕事したりして、一時の贅沢や快感、解放を求めてきた人ばかりです。逆側(ホテルマンや、さまさまなスタッフ)から、ついつい考えてしまい、大変だとは思います。 どんな客にも、ニコヤカに、親切に、サービスしなければなりません。いえ!サービスではありません。sereviceの語源をたどると、無理やり遣えさせるような語源があるので、ここで彼らがしているのは、ホスピタリティ(モテナシ)でしょう。「行ってらっしゃい!」というのが、TDLやこれらのホテルでよくスタッフが客に発する言葉であることは、ご存知の方も多いでしょう。 これが実に、魔法の言葉です。歓迎していること、幸運を望むことが言葉に含まれているのですが、「行ってらっしゃいませ!」というどこぞのメイドのような媚びすぎた丁寧さがありません。・・らっしゃい!というフランクな、同格に近い言葉ですから、フレンドリーです。そうです、スタッフと客は同格です。 同じ人間で、片や貯めたお金を使っているのと、片や仕事という使命を果たしている違いで、両者、同じ時間をシェアしているわけですから。ふと、私が欧州などで過ごした、ユースホステルのスタッフを思い出しました。彼らは、決して媚びたような、低すぎる姿勢をしまえん。しかし、必要レベルで対応します。これも有名ですが、日本のJYH(ユースホステル)では、客が帰るときに、「いってらしゃい!」といいます。つまり、ここはあなたの居てよい場所で、また帰ってきてよいですよ、というニアンスを含めています。それから、接客で難しいと思うのは、状況判断ですね。すべてマニュアルにあるような、客からの要望だったら楽でしょうけど、客はさまざまです。さまざまな要望も事情もあるでしょう。そこは会社の方針と、指導方針だと思います。マニュアルにないようなことはしてはいけないとか、上に判断を得るまで客を待たせるとなると、客は不満を感じることが多いわけです。よって、末端のスタッフが状況判断しないといけない場合が多いでしょう。それができるスタッフが多いほど、ホスピタリティのレベルの高い施設ということになりますね。写真は、よい点の一例で、 最近ではこのようなことも広まってきたのかな? よいことですね。 以外と子供は無頓着で、親の方が嬉しかったりして ^^;
2010.02.12
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大げさなタイトルになった。リゾートとは何か?どうあるべきか? などについて書いた書籍はいくつか知っている。それらほど専門的に研究し、まとまり客観的な見解は書けないことを前提として、たわごと程度に書かせて頂きます。ディズニーランド(以下TDLなどと略)に関して興味を持って、リゾート論を考えたことが3年ほど前にある。 その時は自分が行くことを検討するとは思ってもみず・・・今回、自分が家族を連れて行きたいと考えて、検討してみて、実に面白い。それは、愚かとか、日本人とか、これまで客観的に見てきたことを、自分に当てはめて体験しているからだ。(過去の日記、作られた夢 参照)実は、行ける可能性のある日程を絞ってきたが、その日程がことごとくNGに成りかけてきている。一番の理由は、私の仕事だ。 来月の○日に、私は家族旅行をするために平日休みます!!これができない。 サラリーマンである以上、有給休暇を平日に取るのは、業務にまったく支障がない日でなければならない。 これを家内に納得させることが十分出来ていないことが一つ情けない。ただし、人間として、一年に一度や2度ぐらい、家族のために会社をその日だけ放棄する!これが認められない日本の企業って? 答えはない。 ただ、欧米と大きく価値観が違う。これがリゾート論である。 リゾートに関して、日本は変わっている、または遅れているという観点で考えて面白い。まとまりなく、今日は終わります。 リゾートとは、英語ではResort。 Re と sort再生 のような語源であった記憶だ(違ったかも?)。 今後、このことについて触れたい。・日本人、私もそうだが、 リゾルト が大変下手だ!
2006.10.18
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トルコ旅行でのハプニングなどをここまで紹介してきた訳ですが、ここからは、小ネタ集とさせて頂きます ^^;「ニセ警官」! そのままんまです。偽者の警察官・・・ハイ! 詐欺師の一種です。97年のトルコ旅行の途中に、一度ハンガリーのブダペストに5日間ぐらい飛んだ時の、ブダペスト市内でのことです。その旅の途中で会った日本人バックパッカーなどから、流行っている犯罪のことは大よそ聞いていました。・ボッタクリ・バー・睡眠薬強盗 そして・ニセ警官 ・・・当時噂になっていたこの3大悪質犯罪のうち全てに私は遭遇してしまったのです。その他、置き引き、スリ、白タク(ニセタクシー)なんてのも有名で頻度は高いですね。ブダペストで前日夜出会った音楽家の山○○雄さんと二人で教会を見に行く途中だったと思うのですが、市内のやや裏道の路地を歩いていると、二人組みの男が近づいてきました。何人かは定かでありませんし、何語で何を言っていたかハッキリおぼえてもいません。ただ、近づいて来る途中から、私には、犯罪の臭いが分かり、警戒して防御態勢を取っていました。どうやら、私達の持ち物(多分お金かID(パスポート))を見せろと言っている様でした。私は、その前日ぐらいに聞いていた、ニセ警官のパターンと同じだったので、「Show me, your Police-I.D.!!」 と怒鳴り付ける言い方で言いました。相手は、何か言っていますが、明らかに怯んでいます。 IDを見せることなどできず、言い訳を考えてなおかつ、こちらのものを見せろと(弱気で)言っていました。相手に英語が通じているか? その表現が正しいかなんて関係ありません。もう1回、さらに大声で、同じ 「お前の警察の未分証明書を見せろ!!」 と怒鳴り付けました。この時は格好良かったですねー。 山○さんも、私も尊敬の目で見てくれました。数日前のイスタンブールで捕られたボッタクリ・バーの件の鬱憤を違う相手であるが晴らそうという気持ちもあって、より一層怒りが出たのですねー ^^;相手は、言い訳をぶつぶつ言いながら、どうしたらよいか困っています。既に、腰は下がって居りました。既に、私の勝でしたが、相手は犯罪者! これ以上関わって、警察に連れて行こうなどと考えると相手も何をしてくるか分かりません (ナイフだど出される可能性もありますから)。睨み付け牽制しながら、足早に彼らから離れました。 もちろん、相手らは追ってきません。以上で、ニセ警官との遭遇、一応勝利の話は終わりですが、ニセ警官のパターンと他の犯罪例を紹介して置きます。【偽警官】旅行者に対して、「この辺で偽札犯罪が流行っている。一応、君達の札を確認させろ」と強気で警察を名乗って近づいてきます。 知らない旅行者は、驚きあたふたするので、向こうのペースになり、ごちゃゴチャと財布の中身やパスポート、カバンの中身を触られているうちに、主には財布の中身が無くなっているか、すり返られている、という犯罪です。(私が遭った二人はヘタクソだったようですが、もっと巧妙に、偽造IDなども用意してくる手もあるかもしれません)【パスポート(旅券)を守れ!】私がしたような、旅行代理点が責任を取らない自由旅行では、まず自分の身の次に守るものは、パスポートです。次に、帰りのチケット・・・という順に優先順位が付きます。パスポートがないと、再発行に日にちが掛かり、その間、その国から一歩もでられなくなるからです。国によっては日本人などのパスポートは偽造に利用されるので高値で裏市場売買されているそうです。従って、お金や高価物品の次に狙われやすく、最も守らないと行けないものです。(高価な物品は持っていませんからね!)宿の種類によっては、シャワールームの中までパスポートとチケット入りの懐ポシェットを持ち込むので、濡れたり、懐での汗でヨレヨレとなります。免税店などではパスポートを見せる必要がありますが、それ以外はパスポートは人に見せたり出したくないものです。イタリアなどでは、両替屋ではパスポートの提示を求められましたが、日本人で怪しくないこともあり、旅券の白黒コピーで十分通りました。ユースなどでは、犯罪を防ぐために、フロントで旅券を預かるルールとなっているところもあるが、その金庫の安全性や、どちらを信用していいのか分からず、結局自分で管理する場合もあります。夜行列車の中では、下着のシャツの下(腹に接して)管理していた旅券入りポシェットを、捕られた実話をその前日にも聞いたばかりです。上着とシャツをハサミで四角く切って、持っていったらしいです。体は無傷でよかったね! なんてツワモノ・バックパッカー達の間では笑い話となります。なんしか、若げの至りというような、リスクを背負った経験の旅ですね。場合によっては、相当痛い目に合うリスクも考えると、簡単に無防備にすることはお勧めしません。(補足)そうした観光地などでの犯罪者の多くは、現地の人間ではなく、後進諸国からの出稼ぎ犯罪者であることが多いと思います。 一応、犯罪が多い、例えばトルコやブダペストでも、その土地の人が悪いという意味ではないというつもりです。 私達から見れば、みれば外人はみな外人に見えますからねー。注意!
2006.07.23
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ふとこんなことを考えました。フランス人バックパッカー(しかも、不思議なほど価値観が合う連中)と合流し共同生活をした私ですが、もし、強盗との遭遇が無かったら、彼らとの思い出はそんなに鮮明なものとしては残らなかったのかな? なんて。強盗とハイキングして、強盗だけ逃げ去ったその日の夜の食事は、一際盛りあがった記憶です。ペンションは貸切だったので、割増料金を払って、夕食を少しだけ豪華にしてもらいました。そうそう、ペンションで夕食を食べるような、落ち着いた(素泊まりでない)宿というのも私には珍しいことでしたし。彼らと何を話したか? ほとんど覚えていませんが、フランス人や日本の価値観まで話た記憶です。フランス人などは、仕事が気に入らないと直ぐにストライキやデモのようなことを実行するのは何故か?とか、、、あと余り覚えていません。二つ覚えていること、、、彼ら二人は、むちゃくちゃ酒が強い!という事実を垣間見ました。(欧米人一般にそうではないか?!) トルコには「ライオンのミルク」と称される「ラク」というアルコール度数45度の強い酒があります。この食事後に飲んで見ようということになって、オーナーに3杯注文しました。グラスにそのカルピスのような白い液体が200cc近く注がれていました。 「乾杯!」「(フランス語で乾杯(忘れた))」私が飲めたのは、口を付けて、10ccぐらいでした。 覚えていませんが、45度ですから、すーっとするアルコールそのものです。 口から喉が焼けて、これを半分も飲んだら、また何か犯罪にでもあっても仕方が無い! ような思いもあったのか、私は30ccぐらい飲んでギブ・アップ!色の白い二人は、きつい と言いながらも、順調に飲んでいるではないですか?そして、私が残した残りの150ccぐらいをよこせと言って、一気に喉に通したのはメニューでした。その後、別におかしなところなし。 饒舌になったぐらいです。45度の酒400cc近くをぐいっと飲めて顔色変らない日本人は、1%ぐらいではないかと思います。 もう一つ覚えていることは、漫画の話です。 日本のマンガは世界的にも有名なようで、どうやら、メニューはドラゴンボールを見て育ったようで、手帳に上手にその絵を書いてくれました。まさか、トルコでフランス人がゴクウの絵を書こう とは、強盗に遭うのと同じぐらい考えもしませんでした。 (ちなみに、ドラゴンボールは、フランスでは「モンガー」すなわちマンガを文字った名だそうです。 北斗の拳も知っていて、「ケン」というタイトルだそうです)次の都市は、初編で写真を載せたエフェソスで、何もなく安全に観光等できました。そして、エフェソス2日目の夜、私だけ旅程の関係で、イスタンブールに戻るという別れが来ました。夜の10時ぐらいのバスに乗るため、オトガル(バスターミナル)に3人で来ました。よくあることですがバスが来ません。 結局バスが着たのは深夜12時ごろ。一人だったら、すごく不安な待ち時間だったでしょう。11時を過ぎたころ、一度、もう宿に戻っていいよ!と私が彼らに言いましたが、メニューは、「僕達は仲間だから、最後まで一緒に居るよ!」 というような意味の英語を言いました。彼は、前にもそいう表現をして私は驚きました。さて、旅でできたこういう絆は、その後どうなると思います???別にどうもならないのです。 私は、数多くの外国人と友達になったことがありますが、よくて、手紙が3往復ぐらい続くだけです。また、おいでよ! ぜひ、私の国に着たら連絡してくれ! そう言います、お互いに。でも、ほとんど不可能です。 手紙もそのうち途絶えます。フランス人二人に対しては、私は帰国後、写真を添えて手紙を送りましたが、彼らからは写真は来ませんでした。この後のトルコ内の街から直ぐに絵葉書が一枚届いたのみでした。 97年の夏のことでした。私は、まったく恨みも、不思議だとも思いません。 外国人との出会いはそういうものだと思っているからです。 どうやら一緒に居るその瞬間を日本人より大切にするためではなないかと推測しています。出会いがあれば、別れがある。 だから、出会いも、出会っている瞬間も大切にしたいですね。
2006.07.17
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さて自画自賛の記事もあまり面白くないので、この辺で一区切りします。イタリア中部のフィレンツエからバスで1時間ぐらいのところに、シエナという中世の古い町があります。(誰かの勝手なHPのリンクですが)イタリアに4泊ほどのパック旅行では立ち寄ることができませんが、私は、3度目の96年の夏には時間を取ることができて訪れました。中世の由緒ある街、如何にもゴシックの教会があり・・・とにかく行って見たかったのです。そして、この夏、そこでまた貴重な経験をすることが出来ました。おそらく、それはこのシエナという街独特の雰囲気が関係していたような(思い込みかも)。また、出会いの話です。この夏は、ほとんどユースホステルを見付けて泊まりました。シエナのユースホステル(とってもイタリアでは、JYHのような協会のものではなく、若者用安宿の総称のようだが)、は比較的大きく、夏ということで多くの若者が世界中から来ていましただいたい、初めての場所では、雰囲気が分かりません。ユースの敷地に入ると、芝生にベンチなどが出してあり、ややリゾート雰囲気のように数人の客がくつろいでいました。ハロー、とかBon Giorno! とか適当に挨拶を交わしながら、フロントで手続き。フロントは以外と事務的でした。そこへ、日本人青年(ヒトシ)が現れ、なにやら数泊泊まっているようで慣れ切っていました。すぐに私に親切にしてくれました。彼はイタリアに留学しているようで、イタリア語が話せ、他の宿泊客らともう和気藹々と友達でした。彼のおかげで、私も雰囲気を飲むことが出来ました。夜、街の中心のカンポ広場でジャズコンサートにみんなで行くから、一緒にどうだと誘われました。断わる理由などない。 多くの場合は、一人旅では宿で寂しい。 寝るだけです。夕方、ユースの前のバス停での待ち合わせは、大変ルーズ。30分ぐらい掛けて約20人の人間が集まって来ました。把握し切れていないが、世界各国約10カ国以上の若者。特にヒトシを仲介して仲良く話してくれたのは、イタリア人とアルジェリア人とスイスイタリアンとデンマーク人の女の子のグループでした。 (デンマークの女の子4人組みは18歳というのに、すっかり大人びてキレイでどぎまぎしたほどです)下の写真は、昼間のカンポ広場(私)と、夜の広場で集って飲んだり話したりしているところ。広場では、ジャズなどそっちのけで、みなお喋り。 キャンティという現地のワインを買い込んできてパーティーです。 そこで約2時間過ごし、最終バスでユースまで帰った後もユース内では、ギターや歌を入れてパーティーは続きました。ユースや安宿は何度か利用していますが、宿泊客が区別無く、全体規模のパーティーを、しかも自然発生的に開催されて盛りあがったのは、これが最初で最後。偶然というか、何かこの土地(シエナ)が引き寄せた縁のようなものを感じずには入られませんでした。この時も、旅行者の交流の間では、肌の色も、言葉の壁も少ないのだと思いました。(強いて言えば、確かに私のレベルでは深い会話はできず、約5分で相手を交代しなければなりません。 その辺は不便、残念さを感じました。 ここでは英語が公用語という感覚ではなく、なんでも通じる言語で話し、だけか分かる者が通訳する ということでした。 ドイツ周辺の人達は、母国語と英語とドイツができたり、フランス語も広く使われていました。)
2006.07.15
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旅の写真 としていろいろ載せようと思いましたが、まったく面白い写真がありません。言い訳はつきませんが、先にこの写真を。前記事と同じ96年夏にイタリアに10日ほど行った時の写真です。フィレンツエのホテル街で。 彼と話した切欠は自転車です。私も当時自転車が好きでできれば欧州を自転車で(列車にも乗せて)周りたいと思っていました。彼は兄弟2人でローマからツーリングに来ており、帰るところ。ローマからは急行で2時間だったと思うので、結構な距離です。ちなみに、彼は当時私よりずっと若くして、この容姿ということに驚いた記憶。私は一度ローマに戻るので、その時一緒に食事でもしようと言ってくれましたが、日程が合わなかった記憶です。写真の技術や美的面では「いい写真」は撮れませんでしたが、こんな写真は、個人にとっていい写真です。 彼との出会いは一瞬でしたが、旅の目的をぎっしりと抽出したタイミングだったと思います。イタリア人については好きな点が多い私ですが、例えば彼は英語が流暢ではありませんでした。日本の高校1,2年生ぐらいの片言の英語で、自転車について、旅について、出会いの喜びについてお互いに話そうとしたのでした。イタリアでは、そういうことを何度も経験しました。大学などできちんと勉強していない人はほとんど英語ができません。 それが理由か、旅行者にとって結構恥かしがり屋が多いです。(一部の物売りや詐欺師みたいな連中は除く) **** **** **** ****アレッツオという田舎街で、ユースホステルを探している時にもう一つ感動することがありました。ユースの近くまでは来たものの、田舎なので通りに名前や番地が書いてありません。看板も目印も何もないような田舎で、自力でユースの建物を探すのは無理。通りに人は居ません。 なんとか住宅まで行ったら、居たのは家の前に椅子を出して休んでいるおばあさん。 英語は一単語も通じる訳がありません。 どうしよう?!!もう、バックパックを担いであちこち動くのも限界に来ていました。そのおばあさんは、私が道を探している旅行者と分かったのでしょう。何か言ってくれています。ガイドブックを見せてユースに行きたい旨は通じました。 でも、行き方の説明が通じません。(日本語でも説明が難しいような、目印もない道の行き方です)貴方なら全く言葉が通じない外人が突然家の前に来て、何かウロウロしている時どうしますか?おばあさんは、何かしきりに言っているのですが分かりません。でも、そこで諦めませんでした。自分の足や感性で成し遂げる旅行と気合を入れて来ていたからです。言葉の中に「コンパニャ」のような単語が一つだけ聞き取れました。コンパ? コンパニオン?コンパ(compa-)という一連の英単語の中に、「付いて回る」とか「一緒に・・」という意味があることを思い出しました。少しは勉強していて良かったと思いました。そうです、そのゆっくりとしか歩けないような老婆は10分近くもありような距離を一緒に付いて来てくれると言っていたのです。 <これは大変田舎でのことですので、都会ではみなそうかは分かりませんね>こういう経験を数回しただけで、人間、肌の色や、言葉、生活習慣の違い で大きく違うものではないのだと思い込むことができます。もちろん、それらの違いが障壁となって理解できなこともあり、大きいでしょう。少なくとも、旅行やスポーツや芸術の交流に関しては、それらの違いは関係ない思っています。
2006.07.15
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昨日の旅行記に登場した、Nike Hotelは、ナイキホテルと読み、あのナイキから取ったのかと思っていましたが、まったく誤解でした。 今知りました。 まったく無知でした。http://www.amigo.ne.jp/~abraxas/submenu13.html#label04Nikeは 勝利の女神ニケ だったようです。 ホテルニケだったのかもしれません。スポーツブランドのナイキの語源は、この女神のようです。遺跡が多数ある現地で、神話の女神の名前などを使うことは当然ですね。
2006.05.14
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前回までのこの旅での私の心境変化を示します。1)異国情緒たっぷりのトルコでウキウキ2)「ボッタクリ・バー」にて金を巻上げられ、自信喪失、人間不審3)親切なトルコ人により、多少心落ち着き (一旦、ハンガリーへ)4)トルコ内バス旅行中にフランス人バックパッカーと友達になり、 一緒に旅行。価値観の一致と暖かい友情に感動ということで、私はフランス人学生のメニューとオリビエとの3人で、トルコ国内(西部)の遺跡めぐり旅行を薦めていました。イスタンブール→イズニック(出会い)→ブルサ→ベルガマ→エフェソスという旅程ですが、かなりバスに乗ったり、バス待ちの移動時間が長く、遺跡めぐり自体は、写真を数枚見せればほぼ語れる程度の変哲のないものでした。以下は、ベルガマという遺跡でのことです。観光名所説明は得意ではないので下記などを参照されたし。http://www.asahi.com/travel/silkroad/TKY200604130235.htmlどうやらベルガモン王国というのが紀元前3世紀に栄えた跡のようで、丘の上に、いくつかの街や建造物の跡(石の柱や、石畳)が残っている。しかし、初編のエフェソスの図書館の建物http://plaza.rakuten.co.jp/ilpatio/diary/200603260000/のように、原型が分かるようなものは珍しく、当時を想像するに最低限の石の残骸や、基礎だけが殆どです。私は、イタリアを含め、紀元前の遺跡を両手で数えるほど見て回っているが、なぜ、それらを見たかったのか理由があまりない。紀元前という古さや、人力で巨大な建造物や街を作ったことが凄いと思う程度であり、歴史を細かく勉強したり覚えることもない。強いて言えば、そうした歴史を感じる場所で、ぼんやり座ったりして時の流れを感じるのが好きだ。だから、ツアー旅行ではダメだ。ゆっくり座って感じることができないからだ。記念写真をパチリと撮り、次の場所に移動して、現地の料理を食べても感動しないからだ。ゴメンナサイ! 睡眠薬強盗の話がまだ始まっていませんね^^;さて、ベルガマでは、かなりよいペンション(安宿)を見つけることができました。このペンションもフランス人彼らの本にお薦めとして載っていたもので、「Nike Hotel」(ナイキホテル)という名前だったと思います。あのナイキとは無関係です。実は、このペンションのオーナー(といっても、奥さんと二人だけで運営)さんが、私立ちを強盗から救ってくれた恩人なのです。ベルガマに着いたのは午後だったので、観光は翌日朝からとしました。その日の夕方、まだ日が高く時間があったので、私達3人はペンション近くに買いだしに行き、帰りに、他の観光客グループ(4人)に遭いました。私は全く話していないのですが、どうもモーリタニア人と自称していて、フランス語が話せるのか、メニューと話していました。どうやら、彼らも同じナイキホテルに泊まっていて、明日、同じベルガマ遺跡(丘)に行くから、一緒に行く約束をメニューはしました。同じペンションに泊まっている観光客同士が話して、昼間の遺跡という目的地に同行することは、まったく不思議でもなく、危険を予知できませんでした。ただし、夕方遭った時に、4人の一人が私にタバコを薦めて来たこと・・・これは後から考えて、私に警戒心を持てというサインだったと思います。遭って行きなり現地では安くもないタバコを薦めるのは、怪しい輩だと考えるべきでした。はい! もうお気づきでしょうが、彼らが睡眠薬強盗団だったのです。私達のような、先進国(=現地で高額な現金を持ち歩く)の観光客が泊まりそうな宿に泊まって、偶然を装い、近づいて来る手口でした。翌朝、かなり早くから歩いてペルガマ遺跡へ出発しました。私達3人とその族4人です。遺跡は丘の上にあるので、約半日の行程です。私達3人は、トレッキングシューズですが、彼ら4人はスポーツサンダルです。人種や国の文化が違うためだと思っていました。上の写真には貴重な証拠が写っています。3人は私達ですが、右の背後に写っている色の浅黒い二人はその族です。偶然写ったものですが、後から見ると、確かに怪しい奴らでしょ?遺跡はかなりの丘の上なので、歩いて登るのは私達のようなバックパッカーだけで、日本人などのツアー観光客は、バスでいきなり遺跡で降ります。従って、歩いている途中は、周りにはほとんど人気はありません。(それが、その強盗団の狙いでもあったと思い、人気のないところで犯行をはじめるつもりだったのでしょう)。結局、族は何もできず、私達3人は遺跡から無事帰って来ることができました。なぜだと思います?実は、遺跡に行く途中、一部始終、例のナイキホテルのオーナーさんが、後からこっそり付いていていて着てくれたからでした。私達3人は、途中1回だけオーナーを見ましたが、彼はその時は偶然と言っていました。しかし、強盗団は、オーナーの気配を後ろに常に気付いたため、犯行できなかったのです。その手の手口は、後でオーナーから詳しく説明を受けたのですが、何も知らなかった私達3人は、驚きと、恐怖と、感謝など言うに及びません。その手口は、睡眠薬です。 日本でも最近、入手できるようで、大変簡単な粉末でかつ、強力な効き目です。 ビスケットや飲み物などに盛られたものを口にすると、1週間ぐらい眠りつづけることがあるそうです。 彼らは、食べ物を薦め、眠気が始まったころ、人気のないところに連れこんで、後は金目のモノを奪って、放置してトンズラ。 放置される場所によっては被害者は、命すら危険です。オーナーは、その4人の雰囲気ですぐに怪しいと思いましたが、証拠もないので、私達に言うこともできず、そっと見守って、犯行を防止してくれたのです。彼ら族が、強盗団であると確信できる証拠は以下です。(オーナーが語っていた) ・おそらく近隣のヨルダンかシリア人であるが、普通その諸国の人は、 安宿旅行でトルコ遺跡観光しない ・彼らの装いは、1泊程度の着替えと、サンダルというような軽装。 (泥棒した金で、気のみ気のままの旅行をしているし、逃げたりしやすいように、 また、旅行が目的ではないので、沢山歩くこと(運動靴)を前提にしていない) ・ホテルへのパスポートの提出(預けること)を拒んだ。(すぐに逃げられるように) ・遺跡観光の後すぐに、逃げるように速やかにホテルを立った。 (オーナーに気付かれたため、逃げた)すべて辻褄が合いますね。また、強盗でないとしたらおかしいでしょ?その夜は、オーナーを交えて、夕食の最中にずっと話をしました。前の編で話したヌリが助けた日本人学生は、このような族に睡眠薬を盛られたのです。オーナーが居なかったら、私達はかなり高い確率で・・・金だけならまだいいのですが、怖いことです。その族は、前日にメニューに、次の観光地とお薦めの宿を聞いていたので、彼らは、そこに行く可能性が強いと考え、オーナーさんは、そのホテルと、現地の警察に電話で彼らの情報を入れるという賢明さでした。この場でも、ナイキホテルのオーナーさんにはお礼を言わなければなりません。命の恩人です。さて、以上で冒険旅行の面白いところは終わりです。私が、愚かにも、いや偶然にも遭遇した2つの大きな危険と、また逆にいろんな人の暖かさを情報として知っていただければ幸いです。あとは、エフェソス遺跡とメニューらとの別れを簡単に。また、私が面白いと思ったことなど、小トピックスにて番外編で少し紹介します。ここまで、下手な文章をお読み頂きありがとうございました。
2006.05.14
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前回までで、心に傷を負った私と、長旅で疲れ切ったフランス人バックパッカーとの出会いを書きました。 ここから、私と彼らとの友情の旅が5日間始まります。●彼らはなぜ私と気が合ったのか?私の推測の範囲ですが、彼らの旅のスタイル、服装は、私とほぼ同様でした。バックパック(大型リックサック)に、スニーカー、半ズボンなどの軽装の安宿旅行者です。バックパッカーという言葉で当てはまります。 もともとドイツ人などが好きなスタイルで、日本人などは後追いの真似っ子な訳です。彼らの旅のスタイルは、基本的に、チープです。彼らのガイドブックは、おそらくフランスでは有名であろう「Routard」という本で、日本では「地球の歩き方」が似ているようですが、もっと簡潔に、良い宿と観光地の紹介が書かれているようでした。Routardというのは、なぜか私は「小銭旅行者」と略していますが、どうしてそう思ったのか記憶がありません。http://www.routard.com/(フランス語で分かりませんが)実は、その本を彼らは大変信頼していたので、会って以降、私はそれに合意して、その本に載っている宿のみに泊まりました。彼らも、トルコに多少驚いて、危険を感じていました。 そんな状況の中、日本人はフランス人と価値観が似ていたのかもしれません。彼らは、フランスからほぼノンストップのバスに乗ってきて、体は疲れ切っていました。テントも持ってきましたが、イスタンブールのオトガルに着いて、多少危険を感じたのか、野営はほぼあきらめたようです。 おそらく5kg以上あるテントは、やや体格がいいオリビエ(カッコイイ方)が当番で背負っていました。彼らは、「真面目な」タイプでした。特にメニュー(背が小さい方で、少し目の回りにクマのような特徴が有る方)は聡明なタイプでした。大学のレベルや何を専攻しているかなどは話題にしませんでしたが、しっかり物で英語も話せます。オリビエは、見掛けによらず、優しいタイプで、不得意な英語でも私とコミュニケーションを図りました。私は、過去に、何回か外国人学生と部屋をシェアしたことがありますが、人あるいは人種はいろいろで、いろんな面で「不真面目」というタイプも居りましたので、彼らは偶然だったと思います。例えば、相部屋のユースホステルに行くと、脱いだもの、食べた後の片付けは出来ていない輩も多数いますが、彼らはそうではありませんでした。清潔好きかどうかは、体臭に繁栄しがちです。●少し体臭のことに触れさせて下さい。 生まれながらにして決められた体の特徴についてとやかく言うのは良くないことです。 しかし、私は幾度か外国人と生活して見た経験から次のように思っています。 よく西洋人は体臭が強いといいますが、確かに、体臭を持った率は多少高いと思います。 それよりも、影響度が大きいのは、入浴や洗濯の頻度だと思います。 中には、 毎日シャワーを浴びない人、汗の付いたバスタオルを洗濯しない習慣の人がいます。 これらは、強烈な結果となる場合があるからです。実際メニューは体臭を多少持つタイプでした。しかし、毎日宿に着くと、3人とも交代でシャワーを浴び、彼は消臭剤も使っていたようでしたので、まったく問題はありませんでした。●さて、一緒に行動するということは・・・言わば衣食住(生計)を共にしたようなものでした。食事を一緒(の店で)に取る、同じ宿を選ぶ、風呂に順番に入る、どのベッドを誰が使うか決める(安宿では、3つベッドがあっても、一つはエキストラベッドだったり、差が生じます)などなど、いろんな関わりが生じてきます。また、観光に行くにしても、別々に行っても良いわけですが、私達はほとんど24時間一緒に居ました。記憶が定かではないですが、メニューが、私も一人より安全だろう、というような提案をしたと思います。こうして、このフランス人二人とは、何の違和感もなく5日を心地よく過ごせたのです。つまり、不思議なほど価値観は合いました。 それは、なか日のベルガマでの夜に酒を飲んで、じっくりといろいろ語り合った時に、しっかり感じました。トルコのような国が我々にとって、先進国とは違う、「違和感」があっただけに、余計に、先進国の常識のようなもので一致したところもあります。例えばですが、トルコの一般のトイレは水洗ではありません。手桶で、少しの水を流して終わりです。長距離バスで、予備のドライバーが運転したまま(高速走行したまま)交代するような、アンビリーバブル(信じがたい)トルコの行為についても、我々はアンビリーバブルで共感したわけです。また、イスラム国であることもしかり。確か朝の5時に、街の数カ所にある拡声器から、コーランと思われる声が流されるのです。 いやでも一度5時に目が覚めます。 それも日仏人には驚きでした。この写真は、合った次の日の夕食ですが、店を探すのに手ごろな値段の店を探しましたが、その値段のレベルが偶然にも私のイメージと一緒でした。 例えば、現地で一色1000円は高く、600円ぐらいの店を探した記憶ですが、衛生面や店構えも彼らは重視しておりましたから、おかしくない訳です。また、一緒に食事した時の立替、割り勘の仕方で、一切違和感がありませんでした。細かい話かもしれませんが、飲んだモノの値段が若干異なったり、一皿のデュイッシュをみんなで突ついたりするので、割り勘時には、細かな気配りがないと違和感を感じるはずです。この写真は、会って二日目だと思うのですが、オリビエは、靴ずれで悩んでいました。重厚なスニーカーを長時間履いているので、蒸れたりして、「臭い」とメニューが突っ込んだり、そのうちその学生っぽい冗談が、3人の間で流行りました。旅程は、イズニックーブルサーベルガマーエフェソス でした。ブルサは中間乗り継ぎ点に過ぎませんが1泊しました。その夜は、中華料理店に入った記憶です。次の写真は、三日目のオトガル(バスターミナル)で待ち時間ですが、もうこの時は共同旅行者意識でした。一人でないということは、大変便利です。商売人と交渉するときには、一人だと弱い立場ですが、人数が多い方がいいです。また、どこにいても自分の荷物を多少監視していないと行けないのですが、3人だと3倍の視野を持つことになります。ブルサで夕方、目的の宿に向かう途中で、忘れられない行動がありました。長距離バスを降りて、路線バスに乗っていて、あと10分ぐらいで降りる前です。私は、急激な腹痛を覚えました。ただの下痢であることは認識できて、とりあえずトイレが必要だと思いました。まだ2、3日目の関係なので、少しは我慢しておりましたが、生理現象なのでもう限界が着ました。脂汗がにじみながら、メニューに腹痛を伝えました。俺だけここで降りてトイレを探すから、先に宿に行っていてくれと。 すると、メニューは直ぐに降りようといい、「俺達は共同旅行者だ」だったか、「仲間だから」のどちらかの内容の英語を答え、3人一緒に降りました。降りた後は、私はもう走って店舗のトイレを借りないと行けない状態でしたので、彼らは、荷物を見ていてくれると言って待っていてくれました。まあ、共同旅行者では当たり前かもしれませんが、まだ、彼らとは1泊偶然に泊まっただけで、完全な信頼関係はできていなかった時間なので、私には、嬉しいとうか、驚きのレベルでした。それ以外のときにも、やや体が大きいオリビエは私をかばって荷物を一部持ってくれたことがありました。 写真でも分かるように私が一番細いですし、歳も取って体力的にしんどいところを分かってくれたのでしょう。もう二つだけ、自慢話のような彼らの話を・・・3日目ぐらいからもう「臭い足」の冗談を飛ばすような関係になった我々は、水や食い物も分ち合う関係になりました。私達が使う安宿では、朝食がついていないこともありましたし、早朝に出発するときは、時間を惜しむので、どこかで簡単なパンケーキとジュースなどを買い込んで来ます。その時、3人でやや大きめのパンとペットボトルを買い込んで、分け合いました。実に合理的です。今から考えれば、メニューの節約的な提案であったと思います。私はいっぱし稼いでいる身なので、もう少し贅沢しても良かったのですが、バックパッカーの真髄である(贅沢しない)ことには一致しました。また、最後に近い日に、オリビエが大切に持ってきた「サラミ・ソーセージ」をみなで食べました。これは表現できないぐらい美味なものでした。おそらくフランスで手作りのものだからでしょう。近所の肉屋で買ってきたと言っていました。高温かつ衛生的ではないバックパックの中で、大丈夫か?の私の質問に対し、メニューは、「神がやどっているから」腐ることはない! とほぼ真顔で言うのでした。なんか私も感化されて、信じてしまい、舌鼓を打ちながら歓談して食べました。次の編では、ベルガマで遺跡に行く時に起きた事件になります。実際被害はありませんでしたが、危機一髪だったかもしれません。いや状況からして、救いが無ければヤバかったでしょう。(あと2編で〆るつもりです。 締りの無い文章でご勘弁を)
2006.04.23
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さて、いよいよフランス人・バックパッカー二人との合流(出会い)に入ります。一旦、ハンガリーへ飛行機で飛んで、数日間気分転換してイスタンブールへ戻って来た感じです。気を取り直して今度はトルコ国内をバス旅行です。トルコ国内には、数々の遺跡など見所があります。ところが、地図で見ると分かりますが大変国土は広く、一部の高級な旅行パックでは飛行機を使いますが、周遊する場合は、バスが移動手段となります。私も、旅行案内本などを読んで、バスの旅を企てました。しかし、それはそうは簡単でなく、都市にあるオトガルと呼ばれるバスターミナルに行って、自分の目的地へのバスを見つけることになります。しかし、英語はあまり正確に通じず、紙に目的地を書いて、見せると、勝手に「こっちに来い」と言う感じで連れられて行ったり、バスに乗せられて行く感じで、正直、不安いっぱいです!!オトガルには、複数のバス会社があり、バスの車掌(バスガイド?=男性)に聞くと、「勝手に」違うバス会社を紹介したり・・・と、きわめてシステムが分かりません。値段は、日本の長距離バスに比べたら、3の1ぐらいの感覚です。この乗合バスの面白いところは、おやつや食事が付くところです。おやつは、パンケーキが多く、ジュースは紙コップを配って、ペットボトル(大)から注いでくれるのです。全て、やや若い車掌が愛そうよく世話します。バスが揺れて、こぼれる事なんか気にしません。イスタンブールから比較的近い、イズニックというタイルで有名な田舎町に行くことにしました。途中何処を通るかなんて知りませんし、まず一発目のバスでしたので不安一杯です。途中で、バスが港からフェリーに乗ったのですが、イスタンもイズニックも陸続きなので、「俺は、ちゃんと行けるのか? 違うバスに乗せられているのでは?!!」 ・・・でも、ちゃんとイズニックに付きました。 フェリーの上から、離れ行く陸地を見て、私は何処へ行くのだろう?? って不安なところですイズニックに付いたのは、暗くなっていました。宿を現地で探す旅では、遅くに着くのはタブーです。私の経験の中でイタリアでは夜には客を入れたがらないホテルもありますし、空き宿を見つけ難くなる確率は増え、道も分からず、治安も悪くなり良いことは一つもありません。この日私の不安を倍増させたのには、もう一つ事件がありました。詳細は省きますが、イスタンでオトガルい行く途中の人ゴミの中で、「スリ」に遭ったのです。 荷物で手が不自由、走れないのを狙われ、気がついたら、ポケットを探られていました。驚きと恐怖で声は余り出ず、なぜか「Hey!Hey!」と叫んでいました。幸い、財布がポケットに引っかかり、スリはあきらめましたが、周り数人はグルで囲まれていたようでした。その瞬間は、心拍数が200ぐらいになっていたと思います。そんなこんなで、バスの中やオトガルでも日本人は一人も居ず、夜のイズニックでバスを一人降りました。宿はどうするつもりだったか記憶にありませんが、ガイドブックを頼りに宿街に向かうのが普通なのでしょう。バスの荷物を下ろしてもらった時、同じバスから降りてきた、私と同じようなバックパッカ-(リックサックを背負った小銭旅行者)が居ました。 どうやら白人二人です。初めどうやって話し出したか覚えがありません。多分、「君も宿を探すのか? 同じだね!どっちに行けばいいんだろう?」 って感じだと思います。多分、道案内の主導権はメニュー(そのフランス人の一人)だったと思います。気がついたら、私も含め3人は、同じ小さなペンション(個人経営の小さな宿)のフロントで、宿のオヤジに部屋を見せてもらったりと交渉をしていました。多分、彼らのガイドブックにも、私のガイドブックにもその宿のことは載っていたのだと思います。次の会話で覚えているのは、オヤジの「3人部屋か?」の質問に対して、お互い顔を見合わせ「いいかな?」というやり取りです。 オヤジは、我々が一緒に宿に到着したので、ご一行様と思ったのでしょうが、私達からすれば、さっき会ったばかりで、一緒の部屋に泊まるのはきわめてあり得ない話!!その瞬間にも、私の中では、向こうから声を掛けてきたわけでもなく、偶然同じバスから降りて、しかも、怪しいところはなく、とても親切そうで英語も通じる。宿は人数が増えるほど一人頭が安くなるし、、、そんなきちんとした計算をする余裕はなく、勝手に神様が決めた出会いだった と思います。そこから、先は、部屋の中で「重い荷物」を下ろし、疲れた足を伸ばし、、、多分、持っている僅かなお菓子など夕食代わりに食べながら、お互いどうやってここまで辿りついたかの苦労、など順番にシャワーを浴びながら話しました。また、今後行きたい目的地についても概ね同じ方向だね、とか。実は、彼らはフランスを出発してから数日間、そこまで一度も横にならず長距離バスに揺られ、精神的にも疲れ切っていたようです。そこで仲間が増えたことは、彼らも大変喜んでいた様子でした。こうして、理由なく私は二人のフランス人と合流し、3人のバックパッカーグループとして、この後、3都市、約5日間の旅をすることになりました。また、その旅の中で彼らも巻き込む危険が待って居ようとは・・・?!! 想像できるはずもありませんでした。寂しく不安だったトルコ国内周遊に出来た仲間です。この写真は出会って次の朝の街の散策中(補足)前回の衝撃的な事件にも関わらず、またしても見ず知らずの他人(外人)と行動を共にしてしまったのは、やはり私の甘さだったのかもしれません。しかし、他の今までの旅も含めて、私は旅でしかできないよい出会いを幾つも経験していて、これに限って・・・とは思えませんでした。結局、蓋を開けて居見なければ判らないリスクを犯しているのかもしれません。しかし、傷を付ける者あれば、傷を癒すものがあるわけで、前編のヌリもそうですが、人を疑いっぱなしでは生きていけないのでした。
2006.04.15
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長引いておりますが、読んで頂いている方には、深くお礼申し上げます!少し詳細に書かないと状況がわかりにくい内容になってきたため、長引き、また更新にも時間が掛かっています。 ご了承下さい最後の・・・3、と4に 現地の(観光用)食べ物の写真を追加しました。
2006.04.15
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さて、旅行初日にして、軽度であるが詐欺という犯罪に合い!、それはもし運が悪ければもっと危険な目に遭いかねないミスを犯した! というショックが次の日から私に襲いかかりました。朝からどういう思考をしたかよく覚えていませんでしたが、当時のガールフレンドに電話して話しました。どうも状況がよく伝わらず、あまり心の支えにはなりませんでした。そうです、心の支えが欲しかったのです。人間不審と自信喪失により、方向性を全く失ったのでした。もう、こんな危険で不安な旅は早く切り上げようと、航空会社のオフィスを探して手続きを試みましたが、休みなどで上手く行かず(それで良かったのです)。肩に力もなく、しょぼくれて歩いていると、分かる人には分かるんですよねー。偶然にか、二人のトルコ人に「どうしたんだ?」と声を掛けられました。しかし、もうその時は、声を掛けてくる人間を直ぐには信用できなくなっていました。初めは、ヌリという絨毯の貿易商を営む40歳ぐらいの男でした。彼は、他にも日本人旅行者を助けたことがあるそうでした(初めは彼の話しを全て信用しなかったが)。まず、彼は私の尋常ではない表情から、何か被害にあったと見ぬきました。私のオフィスにおいで・・・と。しかし、私は直ぐには、彼のオフィスに入れませんでした。怖いと彼に言うと、彼は全て私を安心させる材料を見せはじめました。冷静に聞いても、彼の話はウソでなく、少しずつ彼に心の内を話していると、心が楽になってきました。彼が助けた日本人学生は、「睡眠薬強盗」にあって、瀕死の重傷だったそうです。この睡眠薬強盗に自分も出会うことになろうとは、この時想像だにできませんでした。本当に居るのです。しかも、簡単なクスリを盛られるだけで、1週間眠りつづける可能性もあり、放置されると大変危険だと。 ヌリが話した関東の日本人学生は、身包みはがれて放置されたために、危険な状態で発見され、米軍の助けを得て、病院に収容されたそうです。その話しを少しずつ信じだすと、自分が人に付いて行って飲食したことの危険性がより分かってきたのです。ヌリは、そういう犯罪に大変立腹していました。日本人はトルコにとって大切なお客さんなのに、そういう犯罪があると、観光客が減ってしまう! 実際、犯罪はトルコ人以外の周辺諸国からの出稼ぎ者が殆どだと言っていました(実際、私が遭ったボッタクリと、睡眠強盗もトルコ人ではありませんでした)。その後、ヌリは、警察署長が知り合いだから、行って見ようと言いました。警察署まで行って、調書を取られましたが、私が連れて行かれた場所もハッキリ言えないし、担当の警察官も、よくある事件で水掛け論になるからと、進捗はしませんでした。ヌリは仕事があるので、その辺で分かれましたが、彼が一生懸命に私に対応してくれたことが大変支えになりました。警察に行く前に、ヌリの友達の絨毯屋にも世話になりました。ここでトルコの絨毯屋事情を説明しなければなりません。トルコの特産物として有名な絨毯(じゅうたん)は、本物は結構高価なものです。私が少し知った数件の絨毯屋を見る限り、日本でいうヤ●ザのようなファミリーに類似するのではないかと私は見ました。売れればむちゃくちゃ儲かるでしょう。決して、恐喝的な商売をしているわけではなく、占有権、つまり商いの場所や権利をし切っている感じです。店の前にはベンツを置いたりしている点、彼らが黒を基調とした渋い装いをしている点、雰囲気などから独特の雰囲気を感じました(イスタンブールだけかもしれません)。そして、店の外には、トルコ人と結婚した日本人女性などが客引き・説明員として居たりしているところも多いようです。世話というのは、そのファミリーの日本人女性に通訳してもらったからです。この日は、そんなことでうろうろして、人と話したりして観光もせずに終わった記憶です。この日か次の日か覚えがありませんが、もう一人トルコ人に声を掛けられました。ヌリと同様に、初めから信じたわけではありませんが、蓋を開けて見ると、絨毯屋で日本人には親善的な連中でした。声を掛けたのは、小学5年生ぐらいの少年で、私が国際電話を掛けられず困っていたところを見て、うち(絨毯屋)においで、日本語が話せる奴も居るから助けてあげるというのでした。その絨毯屋もやはり、ファミリーです。出てきたのは、中学生の少年でしたが、日本語がぺらぺらです。絨毯屋のような豊かなファミリーでは、若い息子達を日本語学校に通わせて、将来の仕事に直結させるのでした。彼らは日本が話せる上、その絨毯屋の次の世代ということで、中学生にして、他の大人の従業員に指示を出すほどの権限と能力を持っていました(これだけで、驚きの社会ですね!)。結局、彼らには、電話を借りて、話しをしただけでしたが、人にはいろいろ居て、見方も居れば、敵も居る! 単なる人間不審をしている場合ではなく、自分の判断力と交渉力が大切だと思い出すことが出来たのです。この日と次の日に掛けて、現地旅行代理店で、ブダペスト(ハンガリー)行きの往復航空券を取り、予定どうり、一旦、4日目から4日ほどのハンガリー小旅行をすることができました。3日目は、衝心旅行とでも言いましょうか? ボスポラス湾のクルーズに出掛けました。エミノニュという埠頭から、フェリーに乗って、黒海付近までの観光船です。黒海が見えたことに感動しました。他は、エミノニュには、名物の「鯖サンド」という食べ物が売っています。ボスポラス湾で取れた鯖を船の上で塩焼きにして、フランスパンのようなパンに挟むのです。味は、日本の鯖とまったく同じ。それのパン挟みを想像してもらえばいいのです。まあ、美味しいです。臭み取りとして、生の玉葱刻みとレモン汁が置いてあり、好みで使うのです。私は、この旅行で3回ぐらい食べました。観光客目当てなので、200円ぐらいと高めには思いました。他には、ムール貝を調理して露店で売られていますが、、、これも名物!一度は食べて見よう!・・・ 少年が汚そうな手で触っていて、数時間は炎天下なので嫌な予感はしましたが・・・ 案の定、宿に帰ってから下痢が来ました。これも幸い数時間の下痢で済みました。そんなこんなで、初めてのイスタンブールでの3日は、ムダにか、あるいは波乱万丈にか過ぎて行きました。
2006.04.09
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今回は、いよいよ、衝撃の事件になります。(前回、だらだら長くなり、退屈でメリハリのないものであったことを反省しています)初日、イスタンブールダウンタウンにて宿探しに入りました。この宿探しというのが、小銭旅行者の醍醐味ではありますが、考え方によっては大変ムダ仕事です。(番外編で書くかもしれませんが、今回詳細省略です)宿に荷物を置いて、まず腹ごなしを。 なんせ、早朝に空港についてから重い荷物を持って宿探しでしたから既に普通なら疲れています。メイン通りには、数々の土産物屋や、食事屋がありますが、なんせ初めての国、初めての街で目がきょろきょろします。 まずは、ガイドブックでも有名な『ドネル・ケバブ』を食しました。申し忘れましたが、じゅりあすは、『買い食い』フリークです。旅先の、露店で売っているような現地のものをその場で食べるのが大好き! 良く分からない国では衛生上気になることはありますが、基本的には火が通っているかどうかが見極めポイントです。現地での初めての食としてのドネルケバブは、80点の美味でした。観光は、アヤ・ソフィア、地下宮殿、ブルーモスクと近くにあるので、その日中に回れました。今から考えると、建造物と美術は凄いけれど、観光名所と呼ばれるものへの感動は、私の旅行の醍醐味とは少し違うものだと思います。土産物屋物色、買い食い、散策、観光・・・はじめての、しかも西洋と東洋の中間の珍しい国で見るもの見るもの珍しく、私は、この時既に、気が緩んで浮いていたのだと後から思います。観光を済ませホテルに戻っても、興奮冷め遣らず、疲れているのも忘れて夜の街を散策に出かけたのでした。(この日、疲れを癒すために出掛けず大人しく寝ていれば、、、、この日記は面白くならなかたでしょうね)夜のダウンタウンにはあまり興味を引くものはなく、人も少なくなり、ホテルに帰る途中でした。どうやってそうなったか分かりませんが、同じ方向へ歩く現地の人と思われる人と道すがら話し出しました。(英語です)。どうやら彼は、近所でペンション(宿)を経営しているそうで、帰る途中だけど、もし良かったら、お茶でも飲んで行かないか?みたいな話しになったのです。もうお気づきの方が居ても不思議ないですね!!こんな怪しいことについて行くバカが何処にいますか?! はい、ここに居たのです。一人旅暦、4回目。声を掛けられた場合について行くなんて愚かなことは、ガイドブックにも書いてあり、常識中の常識。 ところが、私には、自分が『ツワモノ』のような錯覚があったのですね。 ちょっととっと!と声を掛けてくる怪しさもなく、偶然に方向が同じになったようなケースでした。その犯人は、実はロシア系でした(後で気付く)。初めは、現地人が入るような煙草屋でお茶(チャイ)を飲みました。観光客が入れないような雰囲気の店で、水煙草を吸う現地の人などが居て、私は「貴重な経験をした」と得意でした。もう、こうなると冷静さを欠いていて、その先の誘惑にも付いて行ってしまうのでした。 その犯人は、常に親切そうに振るまい、次は、トルコダンス(女性のヘソ出しダンス)を見に行こうという話しになりました。(私が、そういうのに興味があると話したので、当たり前のように餌につかったのでした)ダウンタウン(旧市街)から、新興市街までタクシーで約15分。もう私一人では帰れない場所です。その街は、旧市街とは違って、飲み屋やら夜の華やかさがあったようです。彼は迷うようなところなく、ある地下1Fの雑居店舗に私と入りました。飲み屋でした。はい!長くなるので、簡単に白状します。そこは、【ボッタクリ・バー】だったのです。 そして彼は、客引きというか連れ込み人でした。私がそれに気付いたのは、店に入って、20分ぐらいしてからで、何か雰囲気・・・と感じ始めても、もうそれは遅いことでした。 左右には、美人のロシア女性が居ました。飲んだこともない「シャンパン」と呼ばれるような瓶も2本開いていました。ふと我にもどり、まず、会計を持って来いと店員に言いました。確か、300ドルぐらいの数字。その時席から離れていた、その男を呼んできてくれ、と騒いだけれど、その男も、店員も落ち着いた表情で来て、、、、それから、いろんなやり取りをしました。彼が連れ込んだんだ!とか、私は知らなかったとか・・・全て後の祭りというか、遠吠えというか・・・ なぜなら、既に出口方向に数人の体格のいい男達がスタンバイして、軟禁状態に近かったからです。金を払わないと帰れないな! 半ば冷静。でも、恐怖で漏らしそうなほどでした。 この後起こりうることを想像、そして被害を最小限に抑えることに対して、私は、やっとその時になって、今まで勉強してきた全ての知恵を高速演算しはにめました。まず、漏れるからトイレに行かせてくれ!と要求。 行かせてくれました。トイレの窓から脱出することは不可能でした。出たところで、右も左も分からない、捕まることは見えています。次に、持っているお金を隠そうとしまいた。多分何百ドル分のトラベラーズ・チェックを持っていましたが、300ドルぐらいを財布に入れ、後は、靴下の中に押し込みました。少し落ち着いて、出てきた後、もう一回交渉です。「よし分かった、払うよ! でも、私も可愛そうだろう? 負けてくれ! 旅行を続けられなくなる」などと、相手の同情も引きつつ、また、彼らの焦り、怒りとの加減を見ながらギリギリのところまで。それが200ドルでした。彼らにとっては、大の大人1ヶ月分以上の稼ぎと思われます。もちろん、店、男、下っ端も含めての山分けとなりますね。よし、帰れ! みたいに店を出て、下っ端の男が店の外でタクシーを呼びました。私はガクッっと力を落していましたが、もう一回芝居です。その下っ端の男に、「帰る金がないよー」などと泣きそうな顔で言ったところ、多分300円分ぐらいの札をポケットから出して私にくれました。後でタクシーの運転手にも俺は被害者だから負けろと言いましたが、それは無理でした。こうして、長い長い一日は終わりました。翌日から、数日間、私は、ひどい【自己嫌悪】に陥り、自信喪失、人間不審により、帰りの便を早める手続きまでしたぐらいでした。(補足) 私が愚かだったことは隠すつもりはありません。 ただ、ガイドブックに載っているような初心者ではなく、各地の情報も危なさも多少知って いるはずの人間でした。半ば英語が通じたので着いて行くことになったのかもしれません。 自分は「クロウトだ」などということは、このような場合では命取りです。 油断大敵! 私は、たった200ドルの出費で、しかも、それは現地のそのようなバーでは相場に近いとの 話しもあり、美人と飲んで遊んだと思えば・・・いやそんなことを言っている場合では ありません。 このような犯罪は、場合によっては命にまで関わるケースがあるそうです。 ウソではありません。 実は、この旅行で私はさらに3種の犯罪に触れることになったのでした
2006.04.02
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彼らとの出会いを引きたてるのは、その5日ほど前(日本を立ちトルコについた初日)の出来事でした。今回は、その長い初日について書きます。なんと長い道程であったか!台風が来ていたため早めに関西空港に着いたこともあって、まず、空港での待ち時間からして、(いつも通り)長く、退屈で寂しい。 この時は、飛行機に乗るまでに3時間ぐらいあったと思う。そんな寂しい旅行をなぜするのか? 分かっていても、同じようなことを既に3回はしていたのだった。旅費をケチったのと、シンガポールエアの評判が良かったことで、シンガポール経由のイスタンブール行きを選んだのだが、なんと日本を離陸してから、イスタンブールまで24時間近かった記憶だ。台北で一度降りたような、そして、シンガポールでの待ち時間も4,5時間だったような。そのレベルというか、この(私の)レベルになると、空港の人の少ないところに行って、地べたに横たわって体を休めたりするのだ。そうしないと、足腰がむくれて体がもたないからだ。アラブのドバイにも降りた。 正直言って、自分が何処を通って行こうとしているのかよく分かっていなかった。 しかし、乗り継いでくる乗客の中に違う雰囲気を感じた。 きっとかなりの金持ちだろう(??)。新婚旅行にトルコに行くのだろうか?カップルだが、女性は黒装束。厳格なイスラムだろう。女性の顔には、黒いレースが掛かっており、肌は手以外は一切見えない。どうやって機内食を食べるのだろうか???蛇足だが、金持ちであろうという理由の一つに、着ているものがあった。黒装束に、確かモリ・ハナエのブランドの刺繍がしてあった。 モリハナエがそこまで進出していることへの驚きもあったが、それは高級ブランドの一つであると私は見た。長い長い旅程でイスタンブールに到着です。空港で両替! これをしないとバスに乗れません。 本には書いてあったが、桁の多い紙幣です。確か、当時、日本円よりゼロが3桁多く、さらに1.5倍ぐらいするといったレートです。つまり、450000(四十五万)トルコリラ⇒300円。 食事をするのに、45万トルコリラぐらい要ります。 現地に安いコーラを売っている店があって、10万コーラと呼んでいました。・右下が、5万トルコリラです。 左上は今は無きイタリアリラです 右に縦にしてあるのが、ドイツマルクですが、10マルクがこの中で一番高額紙幣です。バスに乗って、イスタンブールのダウンダウンの近くまで。この辺はガイドブックに書いてあります。バスを降りてから、??? どっちへ行ったらいいんだ?? 早朝でしたし、英語圏以外の人種に聞くこともできず、、、人が流れる方へという経験から、路面電車の駅に辿りつきました。いろいろ苦労して、路面電車に乗り、ダウンタウンに着きました。まだ、このころは元気でしたね、きっと(他人事のように思い出しているが)。荷物は、バックパックとデイパック。何をそんなに入れていたか覚えがないですが、私のきゃしゃな体には重かったです。 この重さが、また彼らとの思い出に関わっていました。だいたい、小銭旅行者といのは、このレベルの目的地では一人ということはなくて、他に日本人も数人います。お互いにはじめは相手をさぐりったりします。どちらが旅クロウトだろう?とか。でも、お互い情報交換など助け合う気持ちがあることには違いなく、敵とは思っていません。状況によっては仲良くなり、食事を一緒にしたり、デイトリップを一緒にしたりもします。一線引いているので、女性でもOKです。 女性の一人旅については、いろいろと考えるところがありますが、逸れるのでここでは割愛します。ダウンタウンについてからは、あまり良く覚えていませんが、、、一つトルコ独特のことが、その時から私の身に振りかかってきました。それは、人です。 いろんなトルコ人が話し掛けてくるのです。 挨拶は日本語。その後、知っている日本語を練習するかのごとく、何処へ行くのか? トルコは初めてか? 私には日本人の友達が3人いる・・・・ なんでもいいから話してきます。歩いてもついてきます。 断わっても着いて来ます。この背景は説明しなければなりません。トルコはインフレ国です。また、国内産業が少なく、観光業、そして観光客は、とても大切なのです。観光客からお金を落してもらう、あるいは、外国人(特に日本のように豊かな)とコネをつける、あるいは、その外国語を習得すること、、、は自分達が生活して行く糧として大変重要なのです。ですから、貪欲なまでに、ついてきて、話し、引きよせ・・・・もう一つ背景はあり、トルコ人は日本人が好きなようです。それは過去の戦争時に日本を仲間と考えていたような逸話があるようです(詳しくはありません)。さらに、補足しますが、前者の商売に直結したような着いて来たり話すトルコ人は、イスタンブールや観光名所だけで、注意が必要ですが、田舎に行くと、後者の日本ビイキの背景の方がつよくなるようです。 (すみません、大変長い話になっています。 彼らと出会うまでに、まだ道のりがあります。この初日の夜の出来事です。 お付き合いいただけたら幸いです)
2006.04.01
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旅行記など書くのは苦手ですが、この写真の経験は私の青春の最後を飾るに相応しい、汗にまみれたものでしたので、書こうと思います。まず、この写真の場所は、トルコのエフェス(現地語ではエフェソスだと思う)の遺跡です。 87年の夏。私は節目休暇というのを会社から頂き、1ヶ月近い旅行を計画して実行した。過去には、一人でアメリカ、イタリアなどを旅したけど、実は、あまり周遊するような旅は得意ではなく、一都市に数日滞在して、街の隅々を歩いて見るのが好き。格好良くいうとそうだが、移動のしんどさ、新しい街に移る時の精神的ハードルから、ついつい楽な道を選んでいたのだ。この時も、イタリアからトルコまで陸路での移動を考えたが、かなり困難な旅程になるため断念。トルコ内での周遊も計画が甘いまま出発したのだった。この写真に写っている3人のうち一番左は私だが、あと二人はフランス人である。実は、彼らとの友情というか、出遭いというか? がこの話しの一番いいところだが、その出遭いをする前振りがあり、それがまた私の旅行に重さを加えていたのである。何から順番に話そう・・・?とりあえず、登場人物の紹介から。 一番右はManuel。綴りは定かでないが、メニューと略して読んでいた。 当時、大学生だから21か22歳だったと思う。真中の背が高く頭に巻物をしているのが、オリビエ。オリビアだっがかもしれないが、適当に発音していた。 二人は、高校かなにかの同級生で夏休みを利用して、トルコ周遊を開始した直後に、ひょんなことから私と合流して旅をすることになったのだ。出会いは、バスを降りた時だった。トルコを旅した人は知ることだが、トルコはバス社会である。古い人はオリエントエクスプレスの終着駅と思うかもしれないが、今では、車社会である。中近東が近いためか、ガソリンも安く、旅の手段としては、大型バスが有名である。 ろくに整備もされていない高速道路(フリー)をバスやトラックがガンガン走る。バスは、乗合バスが有名である。 オトガルと呼ぶ、バスターミナルに行くと、トルコ内各地へ向かうバスを自由に選んで安価に旅をすることができる。私と彼らは、偶然同じバスに乗り合わせたのだった。 (なにが書きたいのやら? 写真に関わるブログでまたなぜ? 結局は、この一枚の写真が私の心に刻まれていることの画像化なのです。 AFで何も設定できないコンパクトカメラでしたが、この写真だけは きれに撮れてプリントされていました。 こういう写真は、ずっときれいな色のままで残っていて欲しいし、 撮りそこなったり、データが消えたりして消失しては、青春の証として残念。 さて、どういう流れて書いて行くかも考えず、適当な人間ですが、 全4回ぐらいにまとめようと思います。 一期一会を大切にしたいです。)
2006.03.26
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カンボジアのアンコールワット遺跡での現地の子供の写真です。目がくりくりして可愛いでしょ?子供に罪はありません。人種、宗教、貧富などなにもなく、神様が与えた命なのに、社会ではそう言った差が起きてきてしまいます。さて、彼の着ているTシャツ・・・くれよんしんちゃんでは?? または、そのパクリキャラの絵ですかねー?いずれにせよ、彼か親が買ったものではなく、日本などから何らかの経路で貰われていったものと思えます。日本などではモノが有り溢れていますが、こうして世界には、古いものでも大切に使わなければならない人達が沢山いることを知ります(実は、私は縁あって、12歳ぐらいの時からアジアで現地の人たちと触れ合う機会があって、いろいろ見て来ているので、完全な観光ツアーとして行っても、土産屋なんかより、現地人の方へ目が行ってしまうのです。)写真ですが、この時はデジカメ購入前でEOS55とフジカラーのネガ(SUPERIA100)で撮っています。天候が曇ったり、石造りの建造物が多かったりで、大多数の写真の色はきれいに撮れていませんでした。 写真屋(当時現在行き付けのラボではなく、イマイチの普通の店)に数回通って、目で見た色はこんな色じゃなかった!なんとかしてくれ。と粘りましたが、あまり治りませんでした。UPのデータは、適当にスキャンしてJPEG保存していたものを、今回再度レベル補正しました。蛇足ですが、ピントが甘いのかスキャナ精度の問題か?子供の顔がぼやけていたので、Photoshopでシャープネスを試みましたが、大変醜い画像になり止めました。
2006.02.19
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