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Innerview-インナービュー 内側から見た世界
生の無意味さ
「人間は無用な情熱だ。」とジャン・ポール・サルトルは言う。なぜ人間が無用な情熱なのか?人生には意味がないからだと彼は言う。人間は探しに探し、得たものといえば欲求不満にほかならない。人間は失敗するよう運命づけられている。というのも、そのような意味は存在しないからだ。ジャン・ポール・サルトルのメッセージは絶望的で、希望のない、悲痛なものだ。もし何も意味がないのなら、当然ながら人間は無用の情熱だ。人は無駄に存在している。偶然に、たまたま存在している。人は無用なことに従事しつづける。それでも、最後に行き当たるのは空しさにほかならない。何も得られない。人は手ぶらで来て、手ぶらで去っていく。努力のすべてが、それも大変な努力が、ただ無意味だ。
ギリシャ神話のシシュフォスの話は意味深い。それによれば神々はシシュフォスに怒ったため、大きな岩を山頂に運び上げるという刑に処した。それは過酷な労働だ。ほとんど不可能な仕事だ。だがシシュフォスはやってのけた。――彼は岩を山頂まで運びあげた。そうしてその結末は、岩は山頂にとどまっていられず、それ自体の重みで、ひとりでに再び谷へと転がりはじめるのだ。それは何度も起こった。シシュフォスは岩を運び、非常に入念な準備をし、山の傾斜と闘い、その結末として、岩は谷へと転がり落ちていく。シシュフォスは降りていって――また運びはじめる。
この神話は人の人生を象徴している。生まれてから死ぬまで、あなたはもがきにもがく。それは過酷なあらがい、困難な仕事だ。あなたは岩を運ぶ…そうしてたどり着くと、岩はまた滑り落ちはじめる。最後には死があなたを待っている。死があなたのしたことすべてを破壊し、生み出したものすべてを運び去る。そしてまた生まれ変わると…ナンセンスすべてがまたはじまる。そうやって繰り返されていく。
もし人の人生を観察すれば、ジャン・ポール・サルトルの論点がわかる。人間は無用な情熱だ――無意味だ。あらゆる努力にはまったく意味がない。それならなぜ人は生きつづけるのか?それが最も重要な問いとなる。だったら――なぜ人は生きつづけるのだろう?ひょっとしてただ臆病だから?自殺することができないから?怖いから?
もう一人の実存主義者アルベール・カミユは、それが唯一形而上学的な問題だと言った。――唯一のだ――それは自殺という問題だ。それ以外に重要なものはない。もちろん人が無用の情熱ならば、自殺が最も重要な問いとなる。誰もがそれに直面することになる。――なぜ自殺しないのか?なぜ生きつづけるのか?
シグムンド・フロイトは「人生は楽しみというよりは我慢の問題だ。」と言う。ただ我慢の問題に過ぎないなら、いったいなぜ我慢しなければならないのか?シグムンド・フロイトはこうも言う・・・彼が言うと重みがある。というのも彼は哲学者ではないからだ。全人生を通して、彼は人間の無意識の内奥に分け入り、働きかけつづけた。彼は心理学者だ。彼が言うと重みがある。それは仮説ではなく、観察に基づいている。彼は言う。人間に希望はないし、決して至福に至ることもない。なぜなら意味への可能性がないからだと。
太古の昔から、あらゆる哲学者、あらゆる宗教が答えを与えようとしてきた。――そこには意味があるのだと。意味は神の中にあるのだと。意味は天国にあるのだと。意味はどこかにあるのだと。どこに意味があるかは違っていても、ひとつの点については全員が一致する。――それはどこかに意味は存在するというところだ。だが彼らはみな失敗した。――あらゆる哲学、あらゆる宗教が失敗した。意味を見出せずに、人はますます幻滅していった。あらゆる答えを信じ、あらゆる答えに考えを移してみたが、どこにもたどり着かなかった。あらゆる答えが失敗する。
そうなると人は革命を考えはじめる。「哲学が失敗し宗教が失敗するなら、他のところに目を向けようじゃないか。」政治革命、経済革命、科学革命・・さて、それらはみな失敗した。人は失敗する運命にあるようだ。それは人がずっと昔から問うてきたあらゆる質問とその答えを見ればわかることだ。
意味という問いは最も古くからの問いだが、意味は見つからなかった。多くの答えが与えられ、多くの哲学者たちが提唱してきたが、それらはすべて慰めだった。それらはあなたを慰める。そう。あなたは一時自分を騙すこともできる。だがあなたに充分な知性があれば、必ずそれらすべての無益さを見ることになる。充分な知性があれば、そうした慰めは助けにならない。それらは凡庸な者にだけ助けとなる。それらは自分を騙すことにした者、意味あるふりをしたい者にだけ役に立つ。――お金の意味。権力の意味。尊敬の意味。善行の、品性の意味。聖者であることの意味。だがあなたに充分な知性があるなら、あなたが深く深く探りつづけるなら、遅かれ早かれ無意味さという底にたどり着く。
きっとそのために人は充分に探らないのだろう。彼らは恐れている。「深く入っていっても、何も見つかりはしないだろう。だから深く入らないほうがいい。表面に浮かびつづけていることにしよう。」という何か無意識の感じがあるのだ。
だが禅は誰もが失敗したことに成功した。ブッダは誰もが失敗したことに成功した。そして禅は二千五百年前にブッダがブッダガヤで木の下に座って起こった洞察の究極の開花だ。
そのとき起こった洞察とは何だったのか?ブッダの独自な体験とは何だったのか?彼はどんな神も体験しなかった。彼は遭遇しなかった…実際、何もスピリチュアルな体験はなかった。彼は大いなる光を見なかったし、クンダリーニが上昇するのも見なかった。彼は大いなる展望も黄金の天国が開くのを見ることもなかった。――そうした類のものは何もなかった。彼の洞察とは何だったのか?そして、その洞察こそが禅の土台だ。その洞察が理解されなければならない。――それはかつて人類の意識に起こった最も重要なことのひとつだ。彼は何を知ったのか?彼はひとつのことを知った。それは、もし意味が落とされたなら、無意味さもまた消え去るということだ。
これは偉大な洞察だ。――最も偉大な洞察だ。もし意味を落としたら、自動的に無意味も消え去る。そうならざるをえない。というのも、意味がないのに、どうして生を無意味と言えるのだろうか。意味が存在しなければ、無意味もありえない。無意味が成立するには、意味が必要となる。発言には意味がないと言えば、それは意味ある発言がありえるということだ。もしあらゆる発言が無意味ならば、どんな発言も無意味とは呼べない。――どうやって比較できる?何が基準になる?その朝のブッダの洞察は意味への探求すべてを捨ててしまうようなものだった。彼は十分に長く探してきた。――何生にもわたって――彼はこの人生でも六年間探し求めてきた。彼はすべての答えを試みた。可能な答えすべてを検証した。そしてそれらは物足りなかった。
その早朝、最後の星が空に消えていくとき、彼の内なる空でも何かが消えた。そして深遠な洞察に至った。「生が無意味に見えるのは、私が意味を探していたからだ。生は無意味なのではなく、無意味になるのだ。それが無意味に見えるのは、私の意味への切望のせいだ。問題は、生の無意味さではなく、意味への切望なのだ。私が意味を切望しなければ、無意味さとは何なのか?そうして大いなる喜びが放たれる。」
西洋の実存主義は見逃した。その洞察はとても近いものだったにもかかわらず見逃した。あともう一歩だ…勇気ある人たち――マルチン・ハイデッガーやジャン・ポール・サルトル、アルベール・カミユ、ベルジャーエフ。勇気ある人たちだが、もう一歩だ。それで西洋にブッダが花開いていただろう。彼らは意味という考えに執着したままだ。そして絶望が生まれる。あなたは生に何か意味がほしい。
たとえば、庭へ行って薔薇の花を見る。あなたはその意味は何かと尋ねる。尋ねることで、あなたはその美しさすべてを台無しにする。いまや、花の優美さを見ることはできない。いまや、その美しさを覗き込むことはできない。花の喜びが見えない。太陽の中で、雨の中で、踊っているのを見ることができない。あなたには直面しているものが見えない。――それは途方もなく意義深い存在の開花だ。さて、あなたは意味を探して「薔薇の花の意味は?」と尋ねている。当然ながら意味はない。花を意味へと貶めることはできない。そして花を意味へと還元できないと、たいへんな失望がわきおこる。「花に何も意味がないだって?生はすべて無意味だ。無駄だ。人間は無用の情熱だ。」あなたは闇夜へと落ちていく。
あと一歩で―意味は落とすことで――あなたは世界全体を変容する。意味を落とすとき、無意味も一緒に落としなさい。どうして無意味を持っていられる?どうして「人間は無用な情熱だ」と言える?もしすべてが無用ならば、完全に無用ならば、「無用」というその言葉の意味がなくなる。
これがブッダに起こった洞察だった。それはゆっくりゆっくりと発展し、禅へと極まった。これを理解すれば、禅を理解できるだろう。でなければ、あなたは要点全体を見逃す。そのとき、禅歌は何の意味もなさないだろう。禅画はどんな意味もなさないだろう。永嘉(六祖慧能の法を継いだ永嘉玄覚)の途方もなく美しいこれらの経文はナンセンスに思えるだろう。あなたがこの洞察を理解したら、大いなる重要性(significance)がわきおこる。意味が消えて、無意味さも消えるが、重要性がわきおこる。そしてその堂々たる重要性、その生と存在の尊厳、それが神の何たるかだ。
神とは体験と同時の荘厳さだ。起こっている魔法の同時性だ。この雨粒、その音、この静かな朝。これが神だ。
ブッダは決して「神」という言葉を使わなかった。なぜならそれは問題を生み出すからだ。彼は涅槃という言葉を使った。涅槃とは消滅という意味だ。ちょうどロウソクを吹き消すようなもので、ロウソクが消えると、ロウソクの存在が止む―意味が消えると、無意味さも消える。そして意味への切望といっしょに、あなたの中の何かも消える。それは何か?誰が人生に意味がなければならないと欲しているのか?その欲望がエゴを、エゴする(ego-ing)プロセスが生みだす。意味を探せば探すほど、突き進めば突き進むほど、エゴが生まれる。そしてあなたが死ぬとき、そのエゴだけは役に立たない。
人間は無用な情熱ではないが、エゴはそうだ。だが、あなたがエゴと同一化していたら、もちろん、あなたは無用であるかのように思える。
ブッダは言う。そして禅師たちはそれを高らかに繰り返す。「意味はない。そして無意味さもない。すべてはあるがままだ。」と。意味を求めてはならない。でなければ見逃してしまうだろう。ただ意味を探してはならない。でなければ絶望を生み出すことになる。意味のことは全部忘れてしまいなさい。バラはどんな意味もなしに完全に美しい。太陽も、人々もそうだ。意味という問いを発した途端、ある種の狂気にだんだんと捕らわれていく。そして全人生をかけていたのに意味が見つけられないと、もちろん人は不満を感じ、苦悩が生まれる。
シシュフォスの神話は意味深い。それはギリシャで書かれたものだ。もしそれが禅の人々によって書かれていたら、まったく違う風味が加えられていたにちがいない。シシュフォスは谷へと岩が転げ落ちることに悩まされなかっただろう。彼は頂上から谷へと戻る旅全体を楽しんだだろう。それは美しい。――かたわらには花が咲いているし、鳥たちが歌っている。そしてさわやかな朝の空気…それは恍惚とさせる。シシュフォスは歌を歌っている。――証道歌、光明の歌だ。彼が禅の人だったら、神々を打ち負かし、神々が嘆き悲しんでいただろう。というのも神々は彼を罰しているのに、彼はそれを楽しんでいるからだ!彼は路傍の樹木や石を、そして彼が運んでいる岩そのもの――その質感をも楽しむことだろう。
そして、今朝のようだったら…雨粒、そして濡れはじめたばかりの土の匂い、彼はすばらしい歌を歌うにちがいない。彼はいくつか俳句を詠んで、「これだ!」と言っただろう。岩とともに、岩のまわりで踊っただろう。岩を楽しんだだろう。そして頂上から岩が滑り落ちていくとき…その音たるや!また新たなスリルが、谷へと降りて再び岩を持ち上げることの冒険、すばらしい旅がまたはじまる。そのとき物の見方すべてが変わる。
しかし、ギリシャのマインドは論理的なマインドだ。彼らは世界に論理をもたらした。あらゆる論理の源泉だ。それは有罪宣告のように思える。シシュフォスは刑に処されている。そこに何もあなたは意味を見出せない。どんな意味があるというのか?――シシュフォスが頂上に着いてノーベル賞が授与されたなら、そこに意味があったと思うだろうか?それも別の重荷となる。どんな意味があるというのか?問いは生きつづけている。ノーベル賞を取ることに何の意味がある?あなたはどう思う?――彼が頂上に着いて億万長者になるなら、それが意味になるだろうか?あるいは世界的に有名になるとか――シシュフォスが頂上に着くと、あらゆる新聞に載るとか、彼の写真が世界中の大きな新聞の一面を飾るとか――それが意味だろうか?どんな意味だ?本当の意味と言える意味をあなたは考えられるだろうか?
違う。考え方すべてが間違っている。意味を結果として考えるなら、あなたは要点全体を見逃す。そこがブッダの洞察の途方もなく重要なところだ。「意味は結果にではなく行為にある」と彼は言う。そして意味を探し求めていないときにだけ、行為の中に在ることができる。もし意味を探していたら、あなたは未来へと動いて現在を見逃してしまう。そこに在るもの、そしてその美しさを――その祝福、そのまったき喜びを見逃してしまう。
これが禅の何たるかだ。禅は意味への探求を捨てる。というのも、それはエゴの探求だからだ。エゴを喜ばせることが意味だと思われている。禅は意味への探求そのものを捨てた。そして、その捨てることによって、あらゆる無意味さが消える。その美しさを見てごらん。すると生は―ただ単に在る。意味も無意味もない。どうして絶望していられるだろうか?意味を探求していなかったら、もうあなたは生と分離してはいない。意味への探求がなかったら、どうやって生と自分を分けられる?あなたはこの有機的統一性の一部だ。同時に在るこの荘厳さだ。存在(being)の魔法だ。存在のこのエクスタシーだ。そのとき、あなたは鳥とともに歌い、樹木とともに開花し、星とともに踊る。そのとき、あなたは自分の私的な世界を持たない。この世界があなたの世界だからだ。そこには未来という考えはない。この瞬間がすべてだ。それが永遠を含んでいる。
フリードリッヒ・ニーチェは言った。「神を失くすことは狂気を意味する。そして人類が神は失われたことを発見したら、全世界的な狂気が湧き起こるだろう。」そして、これは自ら神は死んだと宣言した男の発言だ…彼は自分が宣言したことを恐れている。それに恐怖している。神を失うと人は気を狂わせると言っている。それがまさに彼に起こったことだ。――彼は発狂した。彼は意味なしには生きられなかった。彼は神は死んだと宣言した――それも敢えてした――にもかかわらずだ。彼は思い切りすぎたのかもしれない。自分の許容力を超えて思い切ったのかもしれない。神の死を消化できなかったのかもしれない。――それほどのショックだった。反発して、対極へと振れてしまったのかもしれない。そうして彼の存在に傷がついた。彼自身、神なくしては生きられなかった。彼はとてもエゴイスティックな男だったので、神を信じられなかった。神の死を宣言せざるを得なかった。だがいったん神の死を宣言すると、意味はまったくなくなった。
神の死は意味の死だ。神は何世紀ものあいだ意味でありつづけた。人間が地上に現れて以来、ずっと神が意味だった。つまりそれは「私たちはいつでも神を頼みにできる。」「人生は神への準備にすぎない。」「人生とは神を待つことにほかならない。」そして「遅かれ早かれ我が家に帰るのだ。」ということだ。つまり我が家があって、父親あるいは母親のような者があなたを待っている。あなたは迷子ではない。道は間違ったかもしれないが、失われたわけではない。いつでも戻ろうと思えば我が家に戻れる。家は消えたりはしない。神は中心でありつづけた。――あらゆる意味の中心だ。あらゆる意味は神から生まれる。
さて、ニーチェのエゴに外側からの意味を受け容れるのは難しかった。彼は自分の内側から来る意味を望んでいた。意味は神のものではなく彼のものでなくてはならなかった。彼は誰からも意味を借用したくなかった。――彼はとてもプライドの高い男だった。神の死を宣告したが、いったん神が死んだら、あらゆる意味も死ぬ。いったん神が死んだら、存在に中心はない。あらゆるものがばらばらになって、分解しはじめる。他のすべての意味は従属的な意味だ。それらは神からやって来ている。
神がいなければ、善とは何なのか?神がいなければ、徳とは何なのか?神がいなければ、道徳とは何なのか?そして神がいなければ、誰が罪人で、誰が聖者なのか?神がいなければ、なぜこれをやらずにあれをやるのか?ニーチェは「神は死んだ」と宣言した同じ文章の中で、「いまや人間は自由だ。」とも宣言している。もちろん、あらゆる価値、あらゆる制約、あらゆる責任からは自由だ。もう人間に義務はない。誰も人間に何も要求できない。審判の日が来ることなどない。いまや人間は自由だ。何でもしたいことができる。
フョードル・ドストエフスキーは「神がいなければ、すべては許される。」と言っている。もし神がいなかったらすべては許されるのは明らかだ。誰があなたにあれをしろとか、これをしてはいけないと命ずるのか?そうなったら従順であることにも反抗することにも意味はない。そうなったらアダムがエデンの園を追われることはない。――禁止する神はいない。「この知識の木の実を食べてはならない。」という神はいない。アダムに服従を強いる神はいない。
ひとたび神が消え去れば罪悪はない。なぜなら罪悪とは不服従だからだ。神の十戒に反することだ。神の消失は、あらゆる価値の消失を意味する。そうなったら人間は何の価値もない単なる動物だ。神がいなければ、人は間違いなく自由だ。
ジャン・ポール・サルトルは「人間は自由の刑に処せられている。」と言う。刑に処せられる?そう。何の価値もないなら、自由は手におえないものになる。あなたにそれは生きられないだろう。人生はカオス(混沌)となる。自由はカオス(混沌)となる。自由は狂気となる。
ニーチェはそのことに気づいていた。神がいなければ、人は気を狂わせることに。彼自身が発狂した。彼の晩年は大変な狂気に満ちていた。まったく方向感覚を失い、方向への可能性も失った。神がなければ、どこにも向かうところはない。だが、ニーチェは気づいていなかった。「神はいない。」と言いながらも、発狂しなかった人たちがいることに。ブッダがそうだ。
神はいない。それでもブッダは発狂しなかった。それどころか、何とか正気を保つためにあなたは神を創りだしたのだとブッダは言っている。あなたの正気は本物の正気ではない。――それを保つには神が必要だ。神がいなくなると、暴かれてしまう。あなたが狂っていることを。神は正気を保つための仕掛けにすぎない。あなた方の宗教はすべて、正気を保つための策略にすぎない。――でっちあげの慰めだ。でなければ、生はあなたの手に負えず――その痛みのため、その苦しみのために――背負っていけなくなる。あなたがブッダを理解したなら、神を信じることは、ただそこにある内なる狂気から身を守ることにすぎない。
本当に正気な人は神を必要としない。本当に健康な人、全体的な人は神を必要としない。その人自身が神なのに、神を必要とするだろうか?
ニーチェはブッダが神なしに生きていたことに気づいていない。それはブッダひとりではない――マハヴィールは神なしで生きた。それはマハヴィールだけではない。その他、数多くの光明を得た人たちが、彼らに先駆け、継承した。東洋で、偉大な伝統――仏教、ジャイナ教、道教にはみんな神がいない。――それでもこれらは宗教だ。西洋はそれがいかにして宗教たりうるのか理解できない。神なくしてどうして自らを宗教と呼べるのかが理解できない。彼らは神なくして宗教を考えられない。神という考えに取り付かれている。だから神が死んだり、消えてしまったり、見つけられなかったり、人が信じなくなったりすると、発狂する。ニーチェは発狂した。そして人類全体がゆっくりと狂気へと向かっている。彼は正しい予言した。彼はとても予言的な狂人だった。
けれど、禅に神はない。禅はどこから正気を得ているのだろうか?――いったいどこから?どんな源から?意味への欲望を落とすことで神は落とされた。神は人間が生み出した作り物の意味にほかならない。聖書には、神は自分の姿に似せて人間を創ったと書かれているが――それは本当ではない。人間が自分の姿に似せて神を創ったのだ。――そちらのほうがずっと真実だ。実際、神が人間の父であるというのは間違いだ。神は人間の息子だ。それは人間の思いつきだ。人は神なしには生きられない。それは人間の神経症だ。それは人間の依存性を表している。人は父親像なくしては生きられない。人は寄りかかれる誰かを、頼りにできる誰かを必要としている。大変な支えを必要としている。―人間はひとりで、自分の脚で立つことができない。
そしてそれが禅の美しさだ。それがブッダのメッセージだ。――それは人はひとりで在れるということだ。――誰にもよりかかる必要はない。誰にもよりかからないでいると、あなたの中に神が必ず現れる。というのも、よりかかるときには、あなたは自分の信念にもたれかかっているからだ。それは夢、投影だ。それらは本物ではない。恐怖から、あなたは神を創りだす。それがどうして本物でありえる?――それはあなたの体験ではない。絶望からあなたは神を創りだす。それは絶望の副産物だ。惨めさからあなたは神を創りだす。どうしてあなたの神がサッチダナンダでありえよう?どうしてあなたの神が、真実、至福、意識でありえよう?あなたは無意識から神を創りだした。――それがどうして意識でありえる?あなたは惨めさから神を創りだした。――それなのにどうして至福でありうる?あなたは虚偽から神を創りだした。――知りもしないのに神を信じることは最大の虚偽だ。――どうして神が真実でありえる。いや、神はサッチダナンダではありえない。
ブッダはこのように言う。神はあなたが創りだすものではない。あなたはあらゆる意味への探求と切望を捨てられるところまで来なければならない。その探求が落とされることで、あらゆる神がひとりでに消えていく。あらゆる天国が消えていく。それは夢にすぎなかった。あなたは中身なく、ただひとり残される。
そして、もう一度思い出しなさい。絶望に陥るのではない。そんなことはできない。――覚者は絶望に陥ることはできない。それは不可能だ。希望は消え去った。と同時に失望も消えた。ゴールが消え去ったのに、どうして不安になれる?不安が起こるのはゴールがあるときだけだ。――やり遂げられるか否か、それゆえの不安だ。意味がなければいかなる緊張もありえない。残されるのは遊びだけだ。残されるのはこの瞬間を生きることだけだ。そうなったら、食べるときには食べ、眠るときには眠り、歩くときには歩く。ひとつひとつの行為が究極だ。それは何ものとも関連がない。意味を持つこととは何の関係も持たない。それは意味があるのでも無意味なのでもない。――それはただ在る。
その在ること(is-ness)をブッダはタタータ(如性)と呼ぶ。在りて在る。ブッダはこの在ることを自由と呼ぶ。それはサルトルが「人間は自由の刑に処されている。」と言うような自由ではない。それは栄光だ。それは大いなる光輝だ。それは解放――エゴすること(ego-ing)からの解放だ。あらゆる捕らわれと同一性からの解放だ。内なる輝きの解放だ。あなたは開花する。どんな未来もなしに、現在に開花する。この瞬間がすべてだ。
OSHO:The Sun rises in the evening #5
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