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2012.07.01
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カテゴリ: 仏法
続きです♪

 ジャイナ教においても仏教同様、宇宙の根本原理である梵や、それと同一とされる普遍我は否定したが、ただし個々の人や物質にそれぞれ独立して存在している個我は認めている。 これは輪廻の主体としてのアートマンであり、個人の死後においても不滅であると考えられていた。 ジャイナ教の聖典の中でも最も古いものに『アーヤーランガ』がある。 この聖典の冒頭に、実質的な開祖であるマハーヴィーラの説法の一節がある。 以下のように多くの人々には知識がない。

 「転生するものであるアートマン(我)は私に存在するのか? 転生するものであるアートマンは私には存在しないのであろうか? 私は過去に誰であったのか? 私はここから死没して、死後輪廻において私は誰になるのであろうか?」と。 ・・・以下のように人々には知識がある。 「転生するものであるアートマンは私に存在する。 この方向、あるいは中間の方向、すべての方向、あるいはすべての中間の方向に転生するのが私である」と。 彼はアートマン論者であり、世界論者であり、業論者であり、行為論者である。(Ay.1.1.3-4)

 ここで用いられたアートマンは、ヤコービ(H. jacobi)が英訳しているように、霊魂(soul)のことと考えてもよいものであり、個我と訳されるべき概念である。 すべての生き物や物体に内在し、輪廻転生の主体となるもので不滅である。 また、『アーヤーランガ』には、このことを私は言う。 

 「人は自ら世間を否定すべきでない。 アートマンを否定すべきでない。 世間を否定する者はアートマンを否定する。 アートマンを否定する者は世間を否定する」と。(Ay.1.1.3.3)とある。

 注釈書によれば、このアートマンは「身体の支配者」と説明されており、輪廻転生によって変わることのない個我である。 前世(ゼンセ)から現世(ゲンゼ)へ、現世から来世(ライセ)へ移動する輪廻転生の主体と見なすことができる。 わかりやすく言えば、「霊魂」である。 さらに『アーヤーランガ』には、業によって形成される微細な物質が霊魂を覆うので、それらを振り払えというような考えも説かれる。 この世で智(教え)を求め、怒りを離れた賢人は、アートマンをひとりきりであると認識して、身体を振り払うべきであり、アートマンを弱めよ。 アートマンを衰退させよ。(Ay.1.4.3.2)

 ここでの身体とは、業身(カルマ・シャリーラ)を意味し、霊魂にこびりついた数々の業を振り払えと言っているのである。 そうしないと微細な物質で覆われた霊魂は、死後に他の身体に移る働きがある。 それは、猿が樹の枝から枝へと飛び移るようなものであると形容される。 「アートマンを弱めよ。 アートマンを衰退させよ」というのは、身体を苦行によってやせ細ったものにせよ、というのである。 また、「多くの前世の業を背負った肉体を滅する」ことであるとも解説される。 ここには、苦行によって霊魂を束縛している業を滅することができ、そうなれば霊魂は本来の機能を回復して、解脱者の世界に昇天できるというジャイナ教独自の考え方がある。 このジャイナ教独自の考え方を簡単に説明しよう。 ジャイナ教においては、霊魂(ジーヴァ)が無垢・清浄(ショウジョウ)という本来の性質を発揮できないために、非世界(世界の頂上)に行くことができずに輪廻転生を繰り返すのは、業身が原因である、と説かれる。

 人が身(シン)・口(ク)・意(イ)の活動を行うと、その人の行為に適した物質が流れ込んできて、その人の霊魂に付着する。 これが漏(原語はアーサヴァであるが、仏教では、漏れ出る汚れ=煩悩と解釈される)と言われる。 そして、この流れ込んできた物質は霊魂に付着して、業身と言われる微細な物質の集合体を形成する。 このため霊魂は業身に覆い囲まれてしまう。 これが縛あるいは繋縛(ケバク)と言われる。 この結果、霊魂は昇天して成就者・解脱者の世界に行くことができずに、地獄・畜生・人間・神々の四つの迷いの世界(仏教では、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の六界である)を繰り返し輪廻転生して苦しみが絶えない、と説かれる。

 それゆえ、業身を振り払って縛の状態から解放されるための修行法が頭陀(ズダ)であり、注釈類では自制であると説明される。 ジャイナ教の個我についての説明が長くなってしまったが、ジャイナ教も仏教と同様に、普遍我の存在を否定するが、個人我の存在は認めている。



********************************

 この本、『沙門ブッダの成立*山崎守一著*大蔵出版』は、インドにおいて、仏教が成立したその背景を、ほぼ同時期に成立したジャイナ教文献との比較を通して仏教の教えを理解しようという、たいへんユニークな観点から書かれています。

 一般的に私たちは自分が信じたい教えや概念を選択するものなのですが、相対的な世界の中で、言葉によって示されたもののすべては、各人の理解力の差などによって、誤解が生じがちだと思います。 

 そのようなとき、ある学問体系や専門領域を実践されている経験者の意見を聞き、偏りのない情報を集めることは、百人百葉、千差万別のこの世においては、少し距離を置いてものごとの真偽を観察する上では重要なことではないかと思います。

 しかし、そのような情報を集めたあと、その情報の中から、実際に自らの体験を通して確かめるプロセスがなければ、ただの知識で終わってしまいます。

 以前ご紹介したポー・オー・パユットー氏も、仏法の学習と実践というのは、教本から学び、教本からの学びを実践し、それがそのとおりであるかを自らが確認、証得することが、仏法を学ぶことだと述べられていました。 

 そうなって初めて、お釈迦様の教えが真実であり、もはやそれを信じる必要のない事実として生きることになるというわけです。

 信じることは大切なことではありますが、むやみやたらに何でも信じることが自らを自由にする生き方にはつながらない、ということです。

 そして、自らの学習と実践によって証得されていないものについては、まだ事実ではないわけですから、それを真実だと考える前に、徹底的にそれが真実であるかを確認するプロセスはとても大切なことだと個人的に思います。





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最終更新日  2012.07.01 14:05:56
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