JEWEL

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茨の海に咲く華 第1話


「逃げろ~!」
いつものように近所の子供達から石を投げられ、火月が泣いていると、そこへ一人の少年がやって来た。
「大丈夫か?」
「はい・・」
「僕がお前を守ってやるから、もう泣くな。」
そう言って彼は、火月の涙を優しく拭ってくれた。
それが、土御門家の嫡子・有匡との出会いだった。
有匡も火月も、異人との間に産まれた混血児だった。
それ故、周囲の者達からは、鬼だの妖だの化猫だのと言われ、迫害を受けていた。
「まぁ宮様、どうなさったのです!?」
「少し、転んだだけ。」
乳母の菊は火月が嘘を吐いている事に気づいた。
「さぁ、お召し替えをなさいませんと。」
火月は、菊に髪を梳いて貰いながら、有匡と再会できたらいいなと思っていた。
同じ頃、有匡は病床の父・有仁を見舞っていた。
「父上、お加減は如何ですか?」
「調子はいい。有匡、お前に渡したい物がある。」
「父上、これは・・」
有仁が有匡に手渡した物は、自分の前から姿を消した母の懐剣だった。
「いつかお前に、大切な人が出来たら、この懐剣をその者に渡せ。」
「父上・・」
「有匡、お前だけは幸せに・・」
「父上~!」
土御門家十四代将軍・有仁が逝去した事により、有匡は時期将軍として江戸城で暮らす事になった。
「有匡様、もう会えないのですか?」
「そんなに悲しまないで。生きていれば、きっとまた会えるから。」
自分と別れるのを嫌がる火月に、有匡はそう言うと、彼女の髪に赤い薬玉の簪を挿した。
「また、会おう。」
それから、十年もの月日が流れ、火月は成人を迎えた。
「姉様、ご結婚おめでとうございます。」
「ありがとう。でも、あの方は冷たく、少し粗相をしただけでも家臣を斬ってしまう程恐ろしい方だとか・・」
火月の姉・絢は、有匡との婚儀を一月後に控えたある日、失踪した。
「何という事でしょう、このままでは・・」
「火月様、お館様がお呼びです。」
「はい・・」
火月は、父から、失踪した姉の代わりに、有匡の元へと嫁ぐ事を命じられた。
「宮様、よろしいのですか?」
「何をそんなに悲しがっているの、菊?僕が有匡様・・先生の妻になれるなんて、嘘みたい。」
火月はそう言いながら、袱紗に包まれた赤い薬玉の簪を見た。
 それは、幼い日に有匡から贈られた物だった。
(また先生と昔みたいに一緒に居られる!)
こうして、火月は有匡の元へ嫁ぐ事になった。
京を発った火月の花嫁行列が江戸へ向かっている頃、有匡は弓を射っていた。
「お見事です、上様。」
「そなたは?見ない顔だな。」
「お初にお目にかかります、この度老中に任命されました、阿部定春と申します。」
「へぇ、あんたが新しい老中?あの親父と全然似てないね。」
有匡と阿部の間にそう言って割って入って来たのは、一人の少女だった。
「艶夜、ここへ何しに来た?」
「別にぃ、大奥が退屈だから、こっちに来ただけ。何かさぁ、滝山あたりがカリカリしてんだよね。輿入れの事で。」
「輿入れというと、京から・・」
「あいつら、必死になってその宮様に対抗心燃やして馬鹿みたい。アリマサの寵愛なんて、一緒得られないのにね。」
有匡の妹・艶夜こと神官は、そう言うと笑った。
「絢宮様は、大変気立てが良い方だとお聞きしています。」
「ふ~ん、それじゃぁあいつらに虐め殺されるのがオチだね、可哀想に。」
「口を慎め。」
「まぁ、その宮様、神官が可愛がってあげるから、心配しないで。」
神官は、そう言うと笑った。
「あの、あの方は・・」
「あいつは、長年生き別れていた妹だ。百戦錬磨の滝山も、あいつには敵わないらしい。」
京を発ってから一月後、火月は有匡との婚儀の日を迎えた。
「宮様、こちらへ。」
「は、はい・・」
婚礼装束である十二単姿の火月が婚儀の場に現れると、周囲はその美しさにどよめいた。

―あれが・・
―絢宮様・・

暫くして、直衣姿の有匡がやって来た。
(あぁ、漸く会えた・・)
火月がそう言って有匡を見ると、彼は氷のような瞳で火月を睨むと、彼女にそっぽを向いた。
(え・・)
一瞬何が起きたのか、火月は信じられなかった。
(この人が、僕に優しくしてくれた先生?まるで、別人みたい。)
有匡と婚儀を終えた後、火月は大奥に入った。
「お初にお目にかかります、御台所様。わたくしは大奥総取締役の、滝山と申します。」
嫉妬と欲望、愛憎渦巻く大奥という茨の海の中に、火月は放り込まれた。
「へぇ、あんたアリマサの嫁?偽物の癖に可愛いじゃん。」
神官はそう言うと、口元に笑みを閃かせた。
「あの、あなたは・・」
「エル=ティムール神官、あんたの義妹(いもうと)になる女さ。」
「御台所(みだいどころ)様、大奥に入られた暁には、京風の装束や調度品を全て武家風に改めて頂きます。」
「そのような事、主上がお許しになる筈がございません!」
「そうや、宮様を蔑ろにする事は、主上を蔑ろにする事どす!身の程を弁(わきま)えなはれ!」
滝山の言葉に猛反発したのは、火月のお付きの女官達だった。
「あ~あ、やっぱり始まったね、縄張り争い。下らないったらありゃしない。」
神官はそう言って笑うと、その場から去っていった。
「皆さん、待ってください!僕が、今から装束や調度品を武家風に改めます。」
「宮様・・」
「あきません、そのような事をなさっては!」
「荻、僕は武家に嫁いだのですから、その家風に染まるのは当然でしょう。」
「まぁ、御台所様からそのような言葉を頂き、嬉しい限りでございます。では早速、わたくし達が・・」
「装束や調度品は大切な物ばかりなので、荻達に運んで貰います。」
「そ、そうですか・・」
大奥での騒動は、たちまち「表」にも伝わった。
「絢宮様は、どうやら芯がお強いお方のようで・・」
「偽者だけどね。」
「つ、艶夜様!?」
「なぁに、そんなに驚く事ないじゃん。アリマサはそれを承知のうえでカゲツと結婚したんだし。」
「それは、まことなのですか、上様!?」
「あぁ。」
有匡はそう言うと、食事に手をつけずに本を読み始めた。
「どうかされたのですか?」
「何でもない、下がれ。」
「は・・」
「もしかして、また毒入りの食事が運ばれると思ってんの?」
「お前には何の関係もないだろう。」
有匡は、一度毒殺されそうになった事があった。
彼を亡き者にしようと企む者達が毒見役の者達を買収し、“安全だ”と有匡に嘘を吐いて河豚(ふぐ)の肝を食べさせたのだ。
それ以来、有匡は自分が贔屓にしている料亭が作る料理しか食べなくなった。
「要らないなら、神官が食べちゃおう。」
「好きにしろ。」
有匡がそう言いながら呆れ顔で自分の食事を平らげている神官を見ていると、突然廊下の方が騒がしくなった。
「何事だ?」
「上様、一大事にございます!水戸にて攘夷の動きあり!」
「放っておけ。水戸では、誰も彼もが尊王攘夷を叫ぶ輩が居ると聞く。それは今に始まった事ではないのだから、どうという事ではないだろう。」
「上様、水戸の攘夷運動を放置すれば、それらは野火のように日の本に広まりまする!」
大老・井伊直春(いいなおはる)はそう叫ぶと、互いの鼻先が触れ合うか合わぬかの距離で有匡に詰め寄って来た。
「上様、どうか・・」
「其方(そなた)の好きにいたせ。わたしは知らぬ。」
「有難き幸せにございまする!」
こうして、“安政の大獄”が始まった。
外に、動乱の嵐が吹き荒れている事など露知らず、大奥では有匡をもてなす宴の準備が慌しく行われていた。
「あの、僕にお手伝い出来る事はありますか?」
「まぁ御台所様、そのような格好でこちらにおいでになってはなりません!」
小袖に襷姿(たすきすがた)で御膳所に入って来た火月を見た御殿女中達はそう叫ぶと一斉に慌てた。
「上様が初めてこちらへいらっしゃるので、上様の好物を作ろうと思って・・駄目かな?」
「まぁ、御台所様・・」
「御台所様がそうおっしゃるのなら、わたくし達は御台所様に従うまでです。」
「ありがとう、皆さん、あの、上様のご好物は・・」
「上様は、河豚の刺身が大層お好きでございますよ。」
そう火月に教えたのは、上臈御年寄(じょうろうおんとしより)の常盤(ときわ)だった。
「ありがとうございます!」
「いいえ。わたくしのような年増でも、御台所様のお役に立てて何よりです。」
時間はあっという間に過ぎていき、有匡が大奥入りする時が来た。
「上様のお成り~!」
大奥と中奥を繋ぐ錠が外され、滝山の合図によって鈴が高らかに鳴らされた。
(先生、何と凛々しいお姿・・)
裃姿の有匡に火月が見惚れていると、不意に彼と視線がぶつかった。
「その簪・・」
「え?」
火月は、有匡の視線が、彼女が髪に挿している赤い薬玉の簪に注がれている事に気づいた。
「憶えて下さって嬉しいです!この簪は昔、あなた様が僕に・・」
火月がそう言って有匡に笑みを浮かべると、彼は火月の髪から徐にその簪を抜き取った。
「其方には幼過ぎて似合わぬ。」
「先・・生・・?」
「代わりにこれを。」
有匡がそう言って火月の髪に挿したのは、赤い椿の簪だった。
「何だ、気に入らぬか?」
「い、いいえ・・」
「ならば良い。」
そう言って廊下を再び歩き出した有匡の後を、火月は慌てて追い掛けた。
華やかな宴の間、有匡は終始無言だった。
「上様、どこかお加減でも・・」
「構うな。」
「上様、膳の用意が出来ました。」
常盤の合図で、女中達が膳を持って部屋に入って来た。
「今日は、河豚の刺身をご用意致しました。」
有匡は、火月を睨むと、こう言った。
「お前か、この膳を用意せよと命じたのは?」
「先・・上様が、河豚の刺身がお好きだと聞きましたので・・」
「戯(たわ)けた事を申すな!」
有匡はそう怒鳴ると、膳を乱暴に払い、部屋から出て行った。
「待って下さい、上様!何がいけなかったのですか?」
慌てて自分に追い縋ろうとする火月の手を、有匡は冷たく振り払った。
「其方には、何も望まぬ。」
「あ、待って、先生!先・・」
有匡に触れようとした火月の眼前で、冷たく非情な音と共に、大奥は再び閉ざされた。
「御台所様は?」」
「お部屋にて、お休み中でございます。」
「まぁぁ、何処かお身体が優れないのですか?」
「いいえ、お気になさらず。」
菊は、そう言うと見舞おうとする常盤を拒絶した。
(どうしたんだろう、先生・・昔は、優しかったのに・・)
火月は寝返りを打ちながら、枕元に置いている椿の簪を手に取った。
有匡からこの簪を髪に挿して貰った時、とても嬉しかった。
 彼が、自分の事を憶えていてくれたと。
それなのに、何処か有匡と自分との間に見えない壁があるようで、悲しかった。
「不貞寝してんの、だっさ。」
「どうして、ここに?」
「別にぃ。それにしても常盤って奴、あんたに嘘吐いてアリマサから寵愛されようなんて、浅ましいよね。」
「嘘って、どういう事ですか?」
「知らなかったの?アリマサは、肉と生魚が苦手なのさ。特に、河豚はね。昔、河豚の肝を食べさせられて、死にかけたからね。」
(あ・・)
「僕、何も知らなくて・・」
「誰だって、自分の弱味を他人に見せたくないし、知られたくないもんだよ。ここは、アリマサにとって敵ばかりだからね。」
「先生の、好物って・・」
「アリマサが好きなのは、稲荷寿司とおはぎ、それに野菜の和え物だね。あんただけに、特別に教えてあげる。」

だから、もっと神官を楽しませてよね。

「そのお顔を見るに、随分とお疲れのご様子ですな、上様?」
「放っておけ。」
「しかし、ここ数日お食事を召し上がらず、上様のお躰を皆心配しております。せめて、一口だけでも・・」
「わたしが食事を取らぬのは、また毒を盛られて死にかけるのが嫌だからだ。」
「上様・・」
「もしわたしが死んでも、悲しむ者は居らぬだろうよ。あぁ、井伊あたりがわたしの死を喜ぶかもしれん。何せわたしは・・」
「失礼致します、上様。御台所様からお届け物にございます。」
「御台所様から?」
「失礼仕(つかまつ)ります。」
そう言って側仕えが有匡の前に運んで来たのは、膳の上に載った、おはぎだった。
「これは?」
「それは、御台所様が直々にお作りになられたものです。」
「御台が?」
「はい。先日のお詫びをしたいと。」
「そうか・・」
有匡は、恐る恐るおはぎを一口食べると、それはとても甘かった。
「上様、どうかされましたか?」
「いや、何でもない。」

その時、有匡は自分が泣いている事に気づいた。

―お珍しいわね、上様がお渡りになるなんて。
―大奥嫌いの上様が・・

「僕、どうしよう、緊張してしまう・・」
「火月様、何もご心配なさる事はありませんわ。わたくしが、“ちゃんと”手筈を整えましたから。」
「手筈・・?」
「さぁ、そろそろお時間ですよ。」
火月は菊に、それ以上聞く事が出来なくなった。
「おもてを上げよ。」
有匡が寝所に入り、そう火月に声を掛けると、俯いていた顔を上げた彼女は、何処か苦しそうだった。
「どうした、気分が悪いのか?」
「いいえ。躰が、急に熱くなって・・」
火月はそう言うと、有匡に抱きついた。
「其方は、わたしに抱かれていればよい。」
「あの、ひとつ、お願いが・・」
「何だ?」
「痛く、しないで下さい。」
「わかった、優しく抱いてやる。」
寝所には、衣擦れの音と、二人の甘い声が響いた。
「常盤、其方には暇(いとま)を出す。」
「上様、何故にございます!?」
「其方、わたしからの寵愛を得ようとし、火月を陥れるとは、浅ましいにも程がある。貧乏公卿(くげ)の娘が、宮家の姫に勝てるとでも?分を弁えよ。」
「上様、どうか・・」
「わたしは此度の事で其方を罰するつもりはないが、其方を大奥へ送り込んだ井伊はどう思うであろうな?」
「あ・・」
常盤は、その夜の内に大奥から追い出された。
「この痴(し)れ者が!」
「申し訳ございませぬ、井伊様・・」
「もう良い、下がれ。」
(あの異人とのあいの子には、好きにはさせぬ!)
正春は有匡への憎しみを滾らせていった。


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