ヘイフリックの限界part2

ヘイフリックの限界part2

2007.10.29
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  北京旅行を考えている


  西洋そのものであるキリスト教は絶対ではなく、人間の物語における相対的なある歴史的な段階でしかない。神はさまざまの名で呼ばれる。人間と、人間を取り巻く神秘だけが究極でしかない。すべて宗教は、人間存在と、時間、死、悪が突きつける現実と意識の裂け目の架橋であろうとしている試みであろう。そしてどの宗教も正しい鍵を握っているのではない。選民もない。すべての人間は精神的に対等であり、同じ窮地を切り抜けて生きねばならない。


 他の文化に触れ、他の文化を経験することが意味があるだろうか。自己意識の中枢神経を刺激するだろうか。キリスト教が歴史を包摂しているのか、歴史がキリスト教を包摂しているのだろうか。答えは言うまでもないだろう。


 6月に北京ツアーの予約をしたところだ。


P.S. 最近、昔書いたブログをアーカイブしている。別にネタがないわけではないが、やりっぱなしでもいくまい。そのうち整理をするつもりだ。そのうち一つにまとめて推敲したいがやりたいことがほかにもあるので、それが先である。





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最終更新日  2007.10.30 03:58:10
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