
昨年11月に亡くなった筑紫哲也氏のノートが文春2月号に「がん残日碌」として記載されている。人間にとって誰にでも訪れる死に対して如何に震え上がるものであるだろうか。彼は当初はジャーナリストのそれとして著名人との交流を書いている。他人の興味を引きそうな話題だろう。そして、段々寡黙になり、中学生の箇条書きのようになる。文章ではない。それこそ、加筆しなければ文にさえならないのだ。筑紫氏だからではない。皆そうなのだろう。最期まで全うする生き方はできないのだ。
・どんなに鋭敏で才気のあった人も同じだろう。「もっと光を」といいつつ逝くのだろう。ひとは死まで格好よくは生きられない。周囲の人たちに見守られて逝かねばならない。あの龍之介でさえ、妻は死の床で、失禁したかどうか手を入れて調べたという。有名人と言われた人たちのプライベートは、悲劇ではない。
・へ2・・・多くの人びとは、粉飾されたイメージになれてしまっている。油断なく生きているようで、それこそ間が抜けているような生き方ばかりしているのではないか。それは自分の体を知らないのだ。何で生きているのか、それさえ考えようとはしない原始人と変わらない存在なのではないだろうか。背広を着た裸のOO様でしかないのではないだろうか。ふと、寂しい想いがした。