
それが来なくなるかも知れないという不安を持って生きている。朝が来てほっとすると同時にまた、自分の気持ちとどれだけ折り合って行けるだろうかという漠たる思いもある。朝が来て、いつか来ないということを知っている人間の存在は単純ではないのだろう。愉快に過ごしていることが、どれだけできているのだろうか。健康で病気のことを考えずにおれた時代も確かにあったが、それで健やかに生きて居れたかというとそうでもない。何かひっかかりをもっていた。いつも同じではなかっただけだろう。どこを向いても不安はあっただろうし、苦悩もあったからだ。他人と比較されながら、こころもささくれて行くのを感じてもいた。
・自分の思いを吐き出すことができたらどれだけ好いだろうといつも思ってもいたが、それができずにいた。自分の日記にどれだけ克明に描いたとしても、それが、何の意味があるだろうか。ノーとはすぐにゴミ扱いされて消去されるだろう。自分をどれだけ観察しても自分をどれだけ高められるだろうか。自分の身長を1cmでも伸ばすことができたとしてもそれはそれだけでしかない。人工的に手を加えなければ、何もできはしないのだ。
・へ2・・・アンチエイジングというが、何ができるのだろうか。絶望と闘うようなものだろう。無駄な努力をしているのかも知れない。それでも、何かを信じていたいのだろう。その気持ちは分からないでもない。努力することは悪いことではない。小さいことしかできないから、小さいことをしているだけなのだろう。ウォーキングもそうだろう。然し、それが必要な人には価値があるかも知れない。明日が来るのを信じるのも、生きているからだろう。いつも朝が来てくれる。どんなに疲れていても明日という日がきて、自分に課題を与えてきた。それができてもできなくても、一日が生命には至福の時でもある。