ヘイフリックの限界part2

ヘイフリックの限界part2

2009.05.28
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で共感的理解していただろうか。

日本への哲学の紹介は「ヒロゾホ(哲学)ということばの意味は、人間というものは、新しいこと

を見て驚嘆し、そしてその訳を知りたいと思うものである。たとえば日蝕、月蝕を見ると、その訳

を知りたいと切におもう。そういうところから、ヒロゾハル(哲学をする)ということはおこった

のである。これでみると、ヒロゾホということは、根元を知ることなのである」という。

明治以前の西欧文化は、ポルトガル・イスパニア人は、先ずキリスト教、天文、航海、語学の知識

を。オランダ人は、医学、測量、冶金、物理、化学などの知識を教えたが、そのもとになる学問で

ある哲学を伝えていない。哲学の研究を始めたのは、日本人が西欧に出むいて研究してから後であ



ギリシャ語で「フィロ」は、愛すること。「ソフォス」は、賢または知である。

フィロソフィーとは、つまり「知を愛する」ことである。ピタゴラスに始まり、プラトンによって確立

された。それは、本能的な欲求が「知る」ことへの要求と言われる。

それでは、儒教や仏教に、フィロス「愛」なるものが、知識と結びついていただろうか。

論語では、知的な「愛」とは、「親しむ」「惜しむ」といった意味に通じるであろうか。

三浦梅園は「愛は令徳なり。而して小人の愛や愛に溺る」(玄語)

仏教では、「愛」は「愛楽」に通じるが、寧ろ愛着、愛染に近い。それは迷いであり、迷妄であっ

て、修行によって取り除かれて慈悲に至るべきものであろう。

従って、東洋では「知を愛する」という想念はないといえるだろう。それは、「知ること」を愛すると

いう思想の実践とか、学問の中でうたわれることはなかったのだ。東洋と西欧の思想文化の大きな

開きがあるのであって、単なる訳語上の小さな問題とみるべきではない。



た人びとにおいて発展したのである。


今や、日本人をして本能的な欲求として「知る」ことへの要求とすることができるだろうか。









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最終更新日  2009.05.28 21:57:32
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