
段々用事が面倒になっていくのだろうか。鳥渡したことが、何でもないことが気になったりもする。どうせ大したことがある訳でもない。自分で一人で焦っている。あれもこれもと考えるから、自分が・・・ではないかとか、思ったりもする。他人のことはどうでもよいことで、物忘れがどうでも、文学が判らなくても何ということもない。それで命のやり取りでもない。莫迦なことを言う人が多いのは何故だろうか。自分の無能が見えないだけだろう。
・漱石の文学を読んでいるが、今日は「永日小品」で、よく分からないのは、作家が判るように書いていないからで、読者に解ってほしいからではない。自分の思いを描いて見せただけだろう。作家が読者に解らさねばならないということはない。自分が判らないから他人も理解できないだけだ。理解しなければならないものはそれほどこの世に多くはない。
・へ2・・・何も分からないまま死んで行く人がどれだけいるだろうか。漱石も多くの作品を残したが、何を言いたかったのだろうか。それは後の世の評論家たちがどこまで精確に評論できているか分かったものではない。解らないものが判らないまま沢山残っている。それはどうでもよいからだろうか。問題の所在が分からないだけだろう。自分の準拠枠の中でそこから出て行かなければ他人の考えは理解できない。自分の殻に閉じこもっていては何もわかない。