
逆境で、苦悩を続けているとしても、何かに夢中で打込んでいれば苦痛は薄らぐらしい。真剣さとはそういうこと。下手に弛んだ時、悲哀を覚えるもの。所詮個人としての自分は、何ものでもない。徒の微力、非力の輩に過ぎない。そうしているのは自分である。
只一匹のハエのように狭い空間を、与えられた時間をせっせと自分の子孫を残そうとしているだけだろう。こっちから見るか、反対側から見るかによって物事は逆転して見えるだけだ。
宗教は、内に向かう人々ではないか。或いは外に向かって、万里の長城を築こうとしている人々ではないだろうか。もしそうだとすれば、この地球を分割しなければならなくなる。
私たちに何ができて、何ができないか?
不可能が何か、困難とは何なのだろうか?
不可能はいつまで経っても為しえないことであり、困難なことは努力次第で為しえるだろう。人は、困難を克服する為に努力しなければならない。常に、その見極めをすべきだ。
やがて夢は覚めねばならない。ひとはいつかその時がくる。自分が遣ってきたものが何かを知らねばならない。それは、個人のなしえることは、すべて果敢ない一事でしかない。短い夢か、長い夢かの違いでしかないだけだ。
それは、「一炊の夢」に過ぎないだろうか。・・・かも知れないし、そうでないかも知れない。東洋人も西欧人もその他の人びとも同じ遺伝子を持った種としてのヒトであって、遣っている来たことも、遣っていることも同じだろう。ただそれぞれが利己的に見えるだけだろう。
私の中の多忙は、自分を夢中にさせただけに過ぎないし生半可であれば自身の蒙眛に終わる。
>エーゲ海