
魂が足りない
Rachel Carson は、56歳で死んでいる。環境汚染を警告したひとでもある。自然の価値を知る人が早く死んでしまうのだろうか。エコロジーが彼女のコンセプトであった。
われ見ても久しくなりぬ住吉の岸のひめ松いくよ経ぬらん (作者不明)
日本人のそういう松の伝統の中に育った来たという文化が、この古松の長寿をめでたく詩的に受け取ることができるのだろう。それが古典文学を持つ国のゆたかさでもある。龍之介も多くの作品で、「松林」をある感情をこめて描いている。古典文学が自分の国にあることは、そういう意味では大したことかもしれない。古典を読む力を養っていることは、つまり人生の知恵を知ることができることであり、その蓄積の恩恵にも浴し、楽しむというゆとりがあることでもあるからだ。
そうした日本の古典を、現代社会は如何にも陳腐なこととして遠おざけるのは全くあたらないのであり、外国の古典も決して外国の昔語りに過ぎないのではない。人類が営々と経験した積年の叡智が含まれている。むしろ泡沫の表現を有り難がり、功利に走る経済社会をこそ警戒すべき現象だろう。
ある名画工がいう。
「見な、あれはラファエロという五年前に死んだ男の描いた画だ。腕のつけかたなんか間違っている。チョークをよこしな、直してみせる。こういうふうにならなくちゃいけないのだ。だが、精神というやつ、心、魂、これはどうにもならない。おれあやつに、かなわない、やつの画は天へ昇っている・・・。」
精神が、魂が足りない、あまがけるものがない、世俗に汚れた画工や教師や小説家たちがたくさんいるのだろう。