
される中で、そうした動きに対する一段と警戒を強めたサイドにいた。
16世紀に渡来した宣教師たちは、日本という異教徒たちの混沌とした世界
観(森や木や狐の動物さえ拝む習慣)を天地万物の創造主であるデウスの存
在を認めさせようとする。
西洋の合理主義や実用的思考としての伴天連は説く
「我らがここで説く全能のデウスは、万物を創り給うた時に、ただちに下級の被造物は上級
の被造物に隷属し、そして上級の被造物は高尚であるから、その段階に応じて下級のものによ
って自らを養い生命を保つように定められている。蚊は蜘蛛の餌であり、蜘蛛は小鳥の餌であ
り、小鳥は小鳥でさらに猛禽に捕らえられて人間の食料に供せられる。そのことから獣類、鳥
類、魚類は、この世においてデウスが創り給うたもっとも高尚な被造物である人間
の食物として役立つために創られている」
当時の、日本人は、これをどこまで理解したであろうか。
フロイスの日本礼讃ともとられかねない著書「日本史」の多くの記事に対して、
「冗長」として、ヴォリニャーノはローマに送付するのを退けた。彼らのミッシ
ョンは異教徒の回心であって、それ以外は価値はないのであろう。宗教も
生き残りをかけた戦略があり、その拠って立つ存在理由があるだろう。それ
が都合の良い適応力でもあることはいうまでもない。どれだけの順応性が
あるかは係わるものの多様性であろうか。