
歳をとってくると、自分のエリアのことばの世界を彷徨う。
月影のいたらぬ里はなけれども ながむる人の心にぞすむ (浄土宗宗歌)
同じく「勤行式」のなかに、
「願我心如智慧火」
というのがある。こころは「智慧火」の如し、という表現が、なにか相応しい言葉のように思えてくる。我は願うのでもある。そうあって欲しい。そうではないかもしれないが、私はそう思っているという謙譲がある。仏の(本願)というのもお仕着せではない。思うこと、願うことが、ひとの自主性を言っている。然し、反面そうしなければ、知らないよ。なのだろう。自由のように視えて自由ではありえないのだ。自分を社会の蔭に隠してしまえば、虎の威を借る狐にもなる。自分という存在は、それを活かしきることは難しい。
・強かに生きていかなければならないのは国家だけではない。個人にもある。それがなにかだ。そしてそれは、その時々で変化もする。何時も同じではない。「月影・・・」だけが、自分の人生ではない。あらゆる現実がある。それを目をつぶっていては視えない。確りと目を開けていなければならない。自分の意識がどこにあるのか、だ。自分の智慧の火を、点し続けなければならないだろう。消えそうになったりもするからだ。