


われわれは、ある激しい潮流のなかで、日々狭まる自由の領域の侵食を懸念している。それは、憲
法的常識とされた自明性が形骸化していることに他ならない。即ち、数次の安保闘争が、日本国憲
法に見合うだけの理想の精神を、我がものにすることができなかったからでもある。
すべてがあまりに不充分なものであった。原因は、市民革命というスキルがなかったからだ。
現在の、「体たらく」は実にそのことに尽きるだろう。憲法理念の自明性を完全に失っていた時代に生
まれたものの宿命でもあっただろう。それを安保闘争で解析できなかったのは、学者たちが如何に
無能であったかを暴露するものだ。
その反省がされないまま、現在の「体たらく」があるが、責任は旧世代にあることは間違いない。
その弱味につけこもうとする陰謀が顕在化しだしている。それが憲法改正論議と言われるものでも
ある。
憲法的な、それが「堤防」であるとすれば、決壊しようとしている。巧妙な家康が、
大坂城を攻めた時のように内堀外堀が埋められるのだろう。
憲法的理念の自明性を完全に見失ったものが、始めるべきことではない。できもしないことを人ま
ねで補おうとは呆れた所業だろう。また、日本は、愚かな政治家の愚行を目にすることになるだろう。
これから、われわれは、何を決意しなければならないだろうか。
戦わなければならないのはいつも目の前にあるのではない。