ヘイフリックの限界part2

ヘイフリックの限界part2

2017.05.30
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生きるとは、生甲斐のある生活を営むことだろう。少なくとも社会はそのために法

の整備をはじめその他あらゆる努力をしなければならない。ヒトは無抵抗な状態で

産まれて来るのだ。そのために親がいなければならない。家庭という環境はかけが

えのないものだ。人格形成の過程で障害があると取り返しのつかないことにもな

る。殊に幼児の場合は重大だ。それだけ社会が成熟していなければならない。とこ

ろが、其れが一番遅れているところに現代の社会の悲劇があるのではないだろう

か。身勝手な自由が「自由」ではないことは誰でも判るが、案外其れが自分では判

らないものだ。権利の濫用や公共の福祉、生存権の概念は、抽象的で判り難い。

法は元々抽象的な条文でできている。それを解釈するのは、結局は裁判官の裁量



ひとりひとりの人間に、最適の生甲斐を示せるような環境はできそうにない。だか

ら余程努力しない限り生甲斐を得て生きることは難しいであろう。自分流は、自己

満足でしかない。宗教家の悟りはあるにしても其れは別の世界だ。

どこにでも哲人はいるだろう。其れは未だマイナーでしかない。私たちが求める

ものは、多くの人が生甲斐を得て、自分らしく生きることのできる社会のことだ。

それができないのではない。それを成就させる、点を線にする能力がないだけだ。

私たちの脳細胞は、その可能性を秘めているのにむざむざ「腐った林檎」にしてい

るのではないだろうか。智慧を出すことを懼れるな。

「無知と貧困」が万里の長城のように、前に聳えているだろう。





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最終更新日  2017.05.30 12:38:59
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