

言行一致させたいと誰しも思ってはいるが、それは現実にはなかなかできないことだ。だから初めから諦めている人もいるが、うんうんいいながら苦しんで言行一致させようとしている人の努力もある。三島のように一度書いた文章を修正しなかった才能もあるが、それだけ潔癖な性格が、禍にもなったのだろう。それほど甘くはないと言えばそれまでだが、自分で言ったことの責任を取ろうという態度は決して間違いではない。
・起きて、毎朝、父母の位牌に新しいお茶と新しいご飯を供えるが、これは仏教の精神から来るのだろう。私が自分は仏教徒だと思ってはいないが、其の習慣は悪いことではない、と思う。妻子も真似をしている。初詣も、寺社への参拝もある。ウオーキングの途中にある道祖神にも朝の挨拶をする。考えれば、余り信仰心が無いのに頭を下げるのは言行一致ではない。然し、それをすると気分が好くなる。誰が視ているからでもない。莫迦なことをしている。意味が無いことの中にも、そうしているだけの意味を見つけられるかだ。
・へ2・・・他人のことを大事にするのも自分の利益にはならないかもしれないが、喜捨やボランティア活動を進んでする人はいるし、それは宗教心がなくても遣っている人もいるだろう。そうすることがどれほどの意味があるかは外見では解からない。自分の身を削って遣っている人いれば、心のこもっていない人もいるだろう。宗教も道徳が根本にある。だからこそ信仰心もあるのだろう。こうして日々を過ごしているが、自分で何かをしようとして、努力している気持ちが支えてもいる。徒なことをするのを恐れないで前進する。言行不一致を何とかしたいと思い続けることの日常である。