ヘイフリックの限界part2

ヘイフリックの限界part2

2021.09.29
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「風立ちぬ」の中で遣われる「・・・のような」というフレーズが多用されるのはそれこそ尋常ではない。作家は同じ言葉を繰り返さないのが常識でもある。それを敢えて排除している。堀辰雄の目指しているところは、事実そのものよりも、その場面の雰囲気だという。例えば「軽井沢」という場所を特定すれば、ある誰もが持つイメージがある。それは歴史の中で人びとか知っている軽井沢のイメージだ。それは、一人ひとり違いもする。金持の別荘がある洒落た西洋風の避暑地のイメージであり、バタ臭い感じや、行ったことがあれば幾つかのシーンでもあるだろう。堀辰雄は、比喩によって主人公と恋人との軽井沢で二人きりの光景を描こうとする。


 ・そして、三角関係。私と恋人節子と、父親だ。否むしろ、父娘と私だろう。父娘との親密な関係に、私は邪魔ものでしかない。そして節子はサナトリウムに入り、私も付き添いをするというのだ。二人っきりの生活はサナトリウムでの節子の闘病生活の中だ。私はその中で、その物語を書いている。不思議な作品でもある。現実と私の切ない思いが交錯して行く。恋人との甘い生活の「・・・のような」、それで何が言いたいのだろう?ありきたりの恋愛であって、どこまで真実があるのだろうか。然し、視点を変えると、「ような」を多用したのは、作家が、日本という社会を、西洋のような文化を目指しているが、実は、西洋ではない日本であり、それこそ「ような」社会なのではないかということを云いたかったのではないだろうか。然も戦前書かれている。


 ・へ2・・・すべてが仮想の世界なのだ。事実ではなく、その雰囲気で感じている社会だ。西洋風なサナトリウムも、田舎の病院でしかないし、昔は死病と言われた肺病に節子はなっており死んでいくのだ。悲劇的な結末が用意されている。然し、その現実の暮らしが描かれているわけではない。そこには赤い血がない。





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最終更新日  2021.09.29 05:15:15
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