


ほんの切り取った部分に過ぎないものを、それに広がりを見せるのは作家の腕だろう。それには多く比喩が使われている。芥川の作品はその手法が多い。神社で幼い子が鳩と戯れていたといえば、日本人にはそのひとなりのイメージが湧くだろう。必ずしも作家のそれと同じではない。だが共通モノがあるのはそれは、神社・幼子・鳩のイメージの心象風景がある。私などは、晴れた空と、よちよち歩きの子と、広場と、クックッと鳴く鳩の声と、それを笑顔で眺めている周りの眼がある。すぐ初めて歩いた我が子を連想してしまう。
中世のキリスト教の宗教画も型に嵌ったシンボルが描かれている。それを見えるだけで聖書のことばが浮かんでくるのだろう。描かれているものを真実と思ってもいただろう。東方には、人肉をたべるモンゴル人が描かれた。欧州人も自分たちの民族が一番偉いのだとどこの国でも信じていたのだ。
どれだけ、それが全体の一部で、すべてではないと分かっていても、目の前のことしか信じようとしないのだろう。それは視覚を中心にした脳のシステムが出来上がって進化して来たことでもあるだろう。所謂、幼い頃からの刷り込みがされてもいる。
だからどんなに高度の知識を得たとしても正しい所業をするとは限らない。寧ろ読み書きも出来ない人間が、まともな人生を暮らしているひとはどれだけでもいる。周囲から疎まれもせず善良な人間として尊敬されてもいるだろう。それは幼い頃から宗教という道徳を叩き込まれるからでもあろうか。
私たちは、日本人はどうの、というが、それは概念化したものでしかない、一部のことでしかない場合が多いだろう。シーボルトがみた日本人も全体の中のほんの一部でしかない。併し、嘘ともいえない。彼は併し、風景ではないにしても日本人たちを、自分たちと同じ人類と遇しようと努力したとしても、ヨーロッパ人の眼を捨てている訳ではない。蘭学を目指した日本人も彼から学んだの医学だろう。
ドイツ医学を日本人が学ぼうとしたのは歴史的事実だが、いまやUSから多くを学んでいる。してみると、その時の世界の一流から学ぼうとする学徒の習性でもあるだろう。併し、それは一部であって全体ではない。常に流動する現実を見損じては真実を見誤ることにもなる。
何故なら、かって日本では優秀な人材が多く集ったのは軍人にだった。戦後は官僚であり、銀行だった。今は何だろうか。多分それは、新しい創造的な日本人だろうか。