佳子さんが 18歳の大学生の頃だったと思います。
私は7歳年上ということになるので、その時の私は25歳位だったでしょう。
この時は 会場の三階の大講堂で、GLA関西本部婦人部の女性を対象にして 話をされていました。
私はその会場の中に入らずに、外で拝聴させて頂いていました。 ただそれだけだったのです。 話の内容は関係なく、その姿を見ていた程度です。
又 高橋 佳子さんは後に、 「 新創生記 天上編・地獄編・黙示編 」( 三法出版 )
という三部作の著書を世に出し、具体的に真実の世界を公開されました。
現在、多数の著書があり、それらは本屋さんに出回り、又GLAの関係者だけに出されているもっと詳しく書かれた専門書籍も多いようです。
その全ては 読まれる方々の気根に応じた本になっているようで、どれを読んだら良いのか判らない時もあると思いますが、実際に手にされた本を読まれることが大切かもしれませんね。また事務所の事務局員さんが懇切丁寧に相談に乗ってくれるので、どの本を読んだらよいのかを説明してくれます。
必要な本というのは、それはきっと貴方に必要だからこそ・・・勝手な言い方かも知れませんが・・・その本が向こうから やって来たんだと思います。
これらの本の内容は、読まれた多くの方々の心を癒し、 自分を救う、心の手助けになり、 そして神理(真理)を世に問うておられると思います。
著書は インターネットでは、楽天ブック等々からでも、高橋佳子という名前で検索すれば 直ぐに現れるほど、多くの方々に支持されています。
私は この時の会場で行われていた話の内容は、覚えていません。
なぜなら、会場の外で ガラス越しに 聞いていただけだったのです。
女性だけの集会だと 聞いていたので、男が入ったらいけないと思って、外で聞いていただけだったのです。
ただ高橋佳子さんが人間的、外観的に 可愛い人だという、一般的な男性的なものの見方しか していなかっただけの話しです。
まだ私はこの組織〔 GLA 〕 に入ろうとは思いませんでした。
その理由は、もともとこの様な 宗教的組織は嫌いだったから、どうしても肌身で 馴染めないものを感じていたからでした。
どうも私は 一匹狼的な性格を持っているからかも 知れませんね。
それゆえに 他との交わりがそれ程好きではなかったのです。
高橋佳子さんに関しては、詳しくは 御著書を読まれるか、直接GLAに足を運ばれて 対話をされるのが良いかも知れません。
GLAの所在は、この「 ホーム 」 の所に、「Our Hopes」というアイコンをクリックすれば「 GLAホームページ 」 が出てきます。
この組織の活動の目的は、自己研鑽に努める ということになると思います。
この会には 祭る祭壇は在りませんし、自分の心を理解し、自己研鑽のために 日々精進していく努力を真摯にされている方々ばかりです。勿論人間ですから、全ての会員さんがそうであるとは言えないでしょう。でも、そう在りたいと願い集っておられるのは事実です。
会員さんは日々の生活を通し その研鑚を進めるのですね。全く普通の生活の中から、さまざまな問題が起こりますが、それらを友人と共に、相手の身になったり、様々な心の交流を通じて、互いを見つめ自分を見つめるようにしていると云う事になろうかと思います。
その様な方々が多く集い、自己中心的な自分から 自分を解放し、多くの方々と交わって、己を知る世界を築かれておられます。
自分を見つめ、自分の理解を深め、そして共に同志〔 協力者、友人 〕 として この次元を生きていこうとしている仲間作りに、皆さん楽しく生きられておられます。
そして 総ての原因、根源は己の心の内に存在している事を、証明されている会でもあります。
しかし以前の私は 宗教組織というものに対して、「不信感」と共に毛嫌いをしていました。
実際のところ、「 本当の宗教 」 に出会えることが無かったからでしょう。
「 本当の宗教 」 というものが 一体どのようなものなのかを、理解出来ていなかったんですね。
なぜ そうなったのかと言いますと それは、
私の父親が「 金光教 」 という 岡山にある宗教団体の 教師の資格も持っている人だったので、私達家族はその影響を諸に受けていました。
でも私は 小さい時から好奇心旺盛な性格と、反骨精神とが入り混じった性格で、父の影響を 最小限に抑える事が出来たのです。
こんな事を言うと、父親を悪く言っているような感じになりますが、そうではありません。父親を深く尊敬していますし、心から愛しています。
小学生の時に、父と一緒に彦根の高宮という場所にある 金光教の教会〔分教〕に行きました。
父親は、この彦根出身だったからです。
私が採った行動は、そこでお祈りをしている信者さんが 頭を下げている時に、私は頭を上げていました。
そしてこの時、先生や信徒がやっている行為を見て、私の目に「不思議なもの?」〔彼らの言う神様〕が全く見えないことや、みんなが何も考えずに同じ行動・・・平伏をしてかしこまっていること・・・をしていること等に対して、疑問を持つように成ったんです。
そして 彼等自身が自分のやっている事に 何の疑問も持っていない事を知るにつけ、信者の行動が 信じられなくなってしまったのでした。
『 なぜみんな、頭を下げて恐ろしがって 平伏しているのか? 』
『 何も 起こっていないのに、かしこまっているのか? 』等々の疑問が 何時も心の中に起こっていました。
この様な 多情多感な子供でした。
でもまさか 私の人生がこれから大きく流転変革するなんて考えていない時だったから、深くこの出会いを 捉えてはいませんでした。
しかしこの後 暫くしてから、勤めていた自転車会社を辞める事になりました。 理由は、自分への「 自信喪失 」 になったからに他なりません。
営業不振で自信が無くなり、営業職からかなり強行的に 総務職に変更してもらいました。
仕事に対して、生意気にも「 疲れてしまった 」 と、思い込んでいたからでした。
この時私は、『 何をしているのだ! 』 という気持ではなかったのです。
それは私にとって「 当たり前 」 のこと、「 職場を代えてもらって当然だ 」 と思っていたのです。
しかし今考えれば、よくぞまあ、あんな事をお願いし 実行したもんだと思います。わがままの極みです。 若気の至りだった、ということは今になって判る事です。
これで私の「 出世の道 」 は閉ざされたのでした。
だからと言って、出世がどうのこうの、という感じは持っていなかったし、実は 意味も理解出来ていませんでした。
しかし私は 総務職に配属されても、仕事には満足出来ませんでした。
自分が出来ることを常に考え、営業職の人のバックアップを実現できる事だけを考えていました。そして 考えれる範囲で実行しているのですが、それが本当の私の仕事には思えなかったのです。
本当に、自分勝手な私でした。
そうこうしている内に、父親が自分の経営している会社を打診して来るようになりました。この時には実家に帰って、そこから会社に出勤するようになっていたからかも知れません。
父に関係する会社に入って仕事をしないか? という事を遠まわしに言って来ました。
だが父親は遠まわしに言って来るだけで、直接の話ではありませんでした。
寮から出て 実家から通うようになったので、両親といつも顔を合わすことになりました。 その時に父が話す内容は、その新聞関係の会社のことが多かったのも事実です。
その会社の「 良いとこ取り 」 の話に聞こえました。すなわちその「 会社の将来性 」 とか、「 この会社が本当にすばらしい所 」 だとか、その様な話を聞かされ続けていました。
このような話を聞かされ続けると、私の心が ぐらつき始めました。
やはり自転車会社では もう満足行かなくなっていたのでした。
もしかしたら、親父の勧める会社の方が良いのではないか と思うようになってきました。
そしてある日、心を決めました。
そして父に、その会社で 仕事をしたいと申し出ることにしました。
暫くして私は 自転車会社を辞める事にしました。
一応自転車会社は 私を引き止めましたが、今考えると幼稚な見解を支店長さんたちに述べていたと思います。
自転車会社の大阪支店長さんには 本当に迷惑をお掛けしたと心からお詫びしたいのですが、今更言っても仕方が無いでしょう。
でももうその時には未練は無かったのです。
やはりその会社での仕事の在り方に 不満を持っていたのも事実だったからです。
それよりも、これから先を楽しみにしているようになりました。
そして父親が関係する関連会社に入りました。 大阪の梅田にある会社でした。
父はその会社の取締役でしたので、この会社に入れたのでした。
だが実は、本当の人生への苦しみは、ここから始まっていたのでした。
亡き父には本当に申し訳なく思っていますが、この会社には 3ヶ月しか在籍できなかったのでした。
この会社の人間関係や仕事内容で、私の気持ちは耐えれなくなってしまったのです。
この時の営業部長との関係が、どうしても上手く行かなかったのです。
私のような「 縁故 」 の人間と、そうでない人間との「 確執 」 がこの会社にはあったのです。
私以外にもう一人、私のような人が他にも居ました。 その人も取締役の息子でした。
彼も私と同じ、今で言えば「 いじめ 」 にあっていました。
いじめの内容は、仕事を与えない、教えない、ほったらかしでした。
だから仕事を自分から探すのですが、全くクリエイティブな所が無い仕事でした。
半端な仕事しか私には与えられず、当然私は焦ってしまいました。
「 自分は仕事が出来る人間なのに、どうして 仕事を与えないのか? 」
このように 自分を過信しすぎていたんだろうと、今になれば 感じ理解しています。
そして 「 この会社の仕事は誰でも出来る仕事だ 」 という、自分勝手な思い上がった 心と判断力になっていました。
この会社の仕事は「 単純な仕事 」、「 何も作ることが出来ない仕事 」として、軽蔑していました。そしてその営業部長に対しては もっと軽蔑していたのは事実です。
自分から作ったこのような心の苦痛と、心の葛藤とで、疲れはててしまうだけの 弱い魂であったのです。
暫くして私は この会社を辞め、私は実家を離れ、ジプシーの様な生活を始めなければ成らなかったのです。
手持ちのお金は 余りありませんでした。
長居公園の傍の ボロアパートに 住み着くようになりました。
管理人さんは優しい人でしたが、夜中に 他人のセックスをする女の声が響き渡る所で、落ち着く事が出来なかったのです。女の喘ぎ声が響き渡る環境で、心静かに反省行をするなんて、若い体は耐えれません。
人生で初めて その様な環境で過ごす事になりましたが、真面目に己を知ろうと、反省・・・を続ける毎日でした。でも反省なんて この環境では 到底出来ませんでした。
それからは 喫茶店のウエーターをしたり、ある有名なアメリカの辞書を売りに歩いたり、お金の為に、食うために、自分に似合っていないと思ってしまう仕事を選んでは、毎日を苦しみながら、そして不安を持ちながら生活を続けていました。
でも基本的に 私は心の底から「甘えん坊」です。
やはり 父親の元に返ることになったのでした。
お金が 無くなってしまったからです。
「 自分は一体何をしたらいいのだ、私にとっての天職は何だ 」。
この様な自問自答の毎日を 過ごすことになったのです。
そうそう 一つだけこの時期にあった 不思議な体験をお話します。
それは時々 朝風呂で風呂屋さんへ行くのですが、ある時 体を洗っていると、やけに タバコのにおいが 私の周囲に立ち込めるのです。
そのとき 頭を洗っていたので、シャンプーを洗い流して その匂いの素を探ろうとしました。
そうしましたら、私の周囲には誰も いませんでした。ただタバコの匂いだけが 私の周囲を取り巻いていたのです。
当時 両親はいつも セブンスターをスパスパとよく吸っていました。今でも思いますが、両親が心配して、私の所に意識で訪れて来たのだ、と思います。
本当に私は親不孝者です。 m(*- -*)mス・スイマセーン
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