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大阪城

大阪城

 小学生の頃、両親に連れられて大阪観光に行って強烈な印象的だった大阪城が今も脳裏に残っている。印象的だった天守閣もそうだが石垣の石の大きさに感動したのだ。石というよりも岩のような大きな石をどうやって運んだのか、人間と言うものは物凄いことをやるものだなと子供心に感心したのだった。具体的な運搬方法は後年になって教えてもらうのだが、エジプトのピラミッドの一つ一つの石よりも大きな石が石垣の中にあるのが迫力で、日本人は世界でも類を見ない技術を昔から持っていたのだなと独り感心し、日本人であることに誇りを感じたのだった。

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秀吉が全国の大名に命じて集めさせた石で築いた石垣(1)。

 別に大阪城を観たから建築家に成ろうと決意した訳ではないが、子供心に大きな影響を与えた建造物であることには間違い無い。大体、子供は城が好きなものだ。いや、大人だって好きな人は大勢居る。何処の土地でも地の人は郷里の城には愛着をもっているものだ。ボクなんか京都市内に生まれ育ったせいで天守閣を持った城は市内には全く無く知らなかった。だから、二条城に何度行って観ても城と言う気はせず、お寺の一つ程度にしか想えなかった。後年、伏見に観光用の桃山城が出来たものの偽物にしか観えず当然ながら愛着は湧かず未だに一度も行ったことはない。矢張り生まれる前から建っている城でないと愛着は湧かないものだ。

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秀吉が全国の大名に命じて集めさせた石で築いた石垣(2)。

 しかし、この大阪城は先の大戦で焼失してしまって、戦後になって市民の寄付金で再建されたものである。国の税金で建てたものではなく市民の金で出来た処が商都の街だけあって大阪城らしい。庶民に人気があった秀吉は今も大阪人に人気があって、反対に騙し打ちで大阪城を陥落させた徳川家康はタヌキ親父と呼ばれ人気が無い。東京では評価が違うようだが、江戸城には天守閣が矢張り無いので京都の二条城のようにお城という気がせず、むしろ皇居とか宮城というイメージでしかない。確かに堀で囲まれた石垣の向こうに鬱蒼とした森が観える建造物は貴族の大邸宅という雰囲気でしかない。

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桃山時代は瓦にまで金箔が施してあった(遺跡の瓦に金箔跡が残っている)。

 日本は木の文化で西欧は石の文化と言われるが、元々は何処も石の建造物から始まっていて、明日香古墳の石舞台やイギリスのストーン・ヘンジなどを観てもそれが分かる。しかし、ギリシャ、ローマのパルテノンはその昔は木で出来ていたことは余り知られていない。その証拠に石柱にはエンタシスが残っている。エンタシスは木の長柱の座屈防止の技法である。その流れは木材が枯渇した後世(山の木を切り倒した跡に植林をしなかった為、はげ山になってしまった)、石で代用せざるを得なくなってもエンタシスは残った。その文化が東洋に流れ着いて奈良の唐招提寺の柱にエンタシスが付いて廻ることになるのである。

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近年、綺麗に化粧直しされて金箔の虎や錺(飾り金物)が光っている。

 こうして天守閣を観ていてどっしりと安定感があるのは上へ行くほど構造物が小さくなっているからだが、フランスのモンサン・ミッシェルも海に浮かぶように在りながら安定して観えるのは上部構造が細く小さくなって天に突き刺さるようになっているからだ。安定感がある建物は人々に安心を与える。入母屋が四面ファサードにあってコニーデ式火山の富士山ように優美にデザインされているのが更に安定しているのだ。ビルのファサードも威圧感が無いように上へ行くほど軽快なデザインやガラスのカーテン・ウオールにするのはノッポな建造物の安定性を狙っている為だ。奇をてらった不安定なデザインのビルは目立ちはするが好感は持てない。バランスというものが大事なのである。

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秋の菊花展が催される大阪城公園。

 その証拠に、阪神大震災の後、被災地(神戸や西宮など)を仕事で行く度に気分が滅入るのは、被災者への同情だけではなく建物が微妙に傾いていることが視界から脳へ不安定さを伝え精神的に気分が滅入るのだと心理学者や医師が話していたのを聴いて尤もなことだと思ったものだ。建物は垂直に建っているものという刷り込みもあるが、地球の重力に反発して無理に傾けさせたり安定を欠くデザインにするのは如何なものだろう。ちなみに、イタリーのピサの斜塔は建設中に基礎が軟弱だったせいで傾き始めた為に高さを途中で制限し、ペントハウスの位置で重心を保つようにしたから辛うじて持っているという。しかし、今も少しずつ傾きは進行していていづれは建て直すか大修復をしなければならないそうだ。

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城に桜は付きものである。満開の頃は人々で賑わう。

 全国にお城の天守閣や城跡公園は数多くあるが、一番優美で有名なのは世界遺産に登録された姫路城だろう。昭和の大修理以降は中は未だ観ていないが、魚の棚(漁港の横の市場名)で活けの魚を買うついでに観に行きたいと思っている。しかし、遠いので何時も二の足を踏んでしまう。それに引き替え、大阪城は近場ということもあって仕事で出かける度に眼にするから親近感がある。JRの森ノ宮駅や大阪城公園駅を通過する度に観えるから当り前の風景になっている。今では隣のОBP(大阪ビジネス・パーク)の超高層ビル群にも違和感なく新旧の時代を代表する建物が並んでいる様は壮観である。但し、子供の頃、大きいお城だというイメージだったのが今ではビルに囲まれた小さなお城に変わってしまった。

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エレベーターの塔屋(左手前の小さなガラス張り:天守閣へのルート)が観える。

 一昨年だったか、建設中の建物の監理検査の後で時間があったので近くの大阪城の三の丸公園の桜を観に行ったことがある。平日にも関わらず大勢の人々が居たが、昔のような花見客がゴザを敷いて宴会をしている風景は見られなかった。昼間のことだったからだろうが時代と共にスマートになったものだと隔世の感をもった。昔は飲めや歌えの酔っ払いがワーワー言いながら騒いでいるのが普通だった。時代も変われば変わるものである。醍醐の大花見を催した秀吉の話は有名だが、人々は時代が変わろうとも花を愛でる気持ちは変わらないようだ。当時は現代では主流になっているソメイヨシノは未だ無く、山桜が殆どだったから華やかさも亦違った形での花見であったろう。

Osaka Casle
ОBP(大阪ビジネス・パーク)に囲まれた大阪城の夜景。

 それはむしろ大茶会と考えた方が分かり易いだろう。当時は酒も今のように透明ではなく白く濁った言わばドブロクのようなものだったし庶民が思う存分呑めた訳でもないから我々が想うよりも静かなものだったに違いない。だから野点の大茶会に毛の生えたぐらいの催し物程度だったと想った方が正解だろう。時代考証は難しいものがあるが、現代の感覚で物事を見ては見間違えるだろう。社会構造も封建社会という自由度の少ないものだったから身分制度も厳しく区分されていた筈である。花はそのままでも人々の関係はそのままではないのである。大阪城を観ながら歴史の変遷で今は東京に取って代わられた大都会大阪も、やがては安定した商都に戻るのかしらと考えてしまう。



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