動く重力

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価値ある双眼鏡の話(1)

価値ある双眼鏡の話(1)

「おかえり」
 扉の向こうから僕を迎える声がした。
 僕は通っている大学の近くにアパートを借りている。地方から出てきた身なので、親元を離れて生活をしなければならないのだ。しなければならない、と言っても特にそれで不満を感じているわけではない。
 そもそも大学を選んだ理由に一人暮らしをする、というのがあったので、僕としては親がいない不自由さより、いろんな面で自由になったという充実感の方が大きい。今のところは大きな問題もこれと言って無く、満足の一人暮らしである。
 玄関で靴を脱いで、中に入る。この部屋はそう大きい部屋ではないので、三歩歩けばキッチンと風呂、トイレ、洗濯機を通り過ぎる。よくもここまで、と言えるほどぎゅうぎゅうに押し込んだ空間だが、都会には場所が無いらしいので、これくらいはする必要があるのだろう。そして最後、突き当たったところに僕が生活するための空間がある。狭いワンルームだが、ここが僕の生活の軸だ。僕はここで寝たり起きたり、食べたり食べなかったり、落ち込んだり落ち込まなかったりしている。
 とりあえず僕は大学の講義で使うものが入ったバッグを置いて、ベッドに座った。僕に『おかえり』と言った人が、ベッドの上の僕を見ている。
 ちなみに僕が『おかえり』に『ただいま』と返さなかったのには、ちゃんとした理由がある。僕が礼儀を知らない若者だったわけでも、日本文化を知らなかったわけでもないのだ。手短に言おう。
 ――僕はこの人を知らない。

「あなたは、誰ですか」
 僕は間違っている。ここはそんな質問をするべきではない。僕の部屋に勝手に入り込んで我が物顔で居座り、あまつさえ家主に向かって『おかえり』なんて言ってしまう人を前にしたら、何よりも110番である。日本国民ならまず間違いなくそうすべきであるし、他の国でも110番で警察につながる国の国民なら、是非そうすべきだ。
「お前は変なやつだな」目の前の男は言った。「こんなに怪しい奴と普通に話し合おうだなんて」
 この人はは僕より10歳ほど年上、三十台の中盤くらいに見える。しかし、なんとなく年齢よりも老けている。何と言うか、妙に落ち着きを持った変な男だった。
 変な男に変と言われてしまうのは癪だけど、一々そんな事も言っていられない。
「あなたは誰ですか?」僕は初めにした質問をもう一度繰り返した。
「和泉」
「いずみ?」
「俺の名前だ」
「いや、そうじゃなくて」名前を言われても困る。「じゃあ、何でここにいるんですか?」
「俺がここにいる理由か」
「ええ、ここにいる理由です」
「俺は今、住む所がない」何の関係があるのか、と思いを巡らせていると和泉さんは思いもよらぬ事を言ってきた。「だから、ここに住む事にしたんだ」
「え?」
 当然、僕は驚いた。何でこんなにわけの分からない事を言うのだろうかと。
「そういうわけだから、よろしく頼む」
 和泉さんはやはり落ち着いた人だった。だからこんな無茶な提案も淡々と話す。
 確認すると、この部屋は空き物件ではなく僕が住んでいる。そして、僕は和泉さんとは面識がない。それでも、どうやら和泉さんはこの部屋に住むつもりらしい。
 普通、大抵、一般に、常識で考えれば、日本人の感覚から言わせてもらえば、まず無理だ。首を縦に振る人間がいるとは思えない。
 そして、もちろん僕もこの提案を受け入れるつもりはない。
「許可は取ったんですか?」僕のこの質問に和泉さんは初めて表情を翳らせた。
「誰の許可だ」
「僕の、ですかね」
「取ってない」
「出てって下さい」
 僕はそう言うと玄関の方に向かって手を向けた。このジェスチャーの意味は言うまでもなく『出てって下さい』という意味だ。
「それは、断る」
「何でですか?」僕は本当に困惑していた。「許可は取ってないんですよね?」
「俺は泥棒だ」和泉さんは何を言うにも顔色一つ変えない。「だから、この部屋を盗む」
 僕は『この人、頭おかしいんじゃないだろうか?』と思った。
「そういうわけだからよろしく頼む」泥棒の和泉さんはそう言ってテレビのスイッチを入れた。
「和泉さん。僕、ちょっと電話を掛けてきます」
「何処にだ」
「警察に決まってるじゃないですか」それからこう言ってやった。「家に泥棒がいるんですよ? 友達に電話してもしょうがないでしょう」
「ちょっと待った」和泉さんは僕を止めた。
「何ですか」
「分かった。お前の許可を取ればいいんだな」
 そこに気付いたという事は、少しは僕の言い分を理解してもらえたようだ。しかし、僕は許可を出さない、という事も理解して欲しかったところである。
「和泉さん。僕は許可を出しませんよ」
「家賃の半分」
「え?」
「俺が家賃の半分を払おう」
 予期せぬ申し出だった。僕は最近、通信販売に踊らされて十万円の双眼鏡を買ってしまったので、お金がなかったのだ。
 僕は迷った。
 こんな人と一緒に暮らしていける自信はない。ないが、お金もないのだ。この部屋に金目の物は特にないから、セキュリティという面では問題ない。しかし、面倒事がないとも言い切れない。僕は決断しなければならない。ない、ないと考え続けてもしょうがないのだ。
 散々迷った挙句、僕には何よりもお金がないという結論に至った。和泉さんとの同居を承諾したのだ。

「今月分を早速払おう。いくらだ」
「あ、よ、四万円です」僕は嘘を吐いた。少し金額を割り増ししてしまった意地汚い自分に自己嫌悪を感じながら、四枚のお札を受け取った。
「これで俺はここに住めるようになった」
「ええ、まあ、そうですね」
「これからよろしく頼む。……お前、名前は?」和泉さんは僕の名前が分からず言葉に詰まった。僕はついちょっと前まで名前も知らなかった人といきなりルームシェアをする事に、やはり不安を抱いた。
「僕は、久倉です」

「俺は仕事の都合で昼間にここで寝る事が多くなると思う。久倉が出かけてるときはこのベッドを使ってもいいか」
「いいですよ」ここで和泉さんの日常に関わりそうな事は聞かなかった。聞いたらきっと面倒な事になるような気がしたからだ。
「なんだったら合鍵も作りましょうか? 和泉さんと僕は生活のリズムが違うんだから、部屋への出入りが面倒でしょう」
「それには及ばない。大体、俺は鍵もないのにこの部屋に侵入していただろう」
「そう言えばそうですね」
「このアパートの鍵は開けやすい。初心者の練習にちょうどいい」やはり僕は和泉さんの事を少しは聞く必要があるような気がした。
「和泉さん、その、ご職業はもしかして」
「初めに話した通り、泥棒だ」
「僕はてっきり冗談だと思ってました」
「俺は冗談が好きだが、それは冗談じゃない」
 それでも、僕が和泉さんの言い分を信じなければならない、という事にはならないのだが、すぐに四万円を払って見せたり、夜中に仕事が多かったり、開錠(鍵無し)が上手かったりするのを知ってしまった以上、僕は納得するしかないのだった。

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