海外旅行紀行・戯言日記

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奥の細道


良忠は藤堂家の侍大将新七郎家の三男であったが、兄二人が早世した為、将来は家督を継ぐ筈の人であった。
芭蕉は、良忠に二年遅れて、1644年六人兄弟の二男として伊賀上野に誕生した。父は郷士の末流ではあったが身分は農民であり、次男の芭蕉は長子相続制の下では、生涯部屋住みとして居候でいなければならず、従って良忠への俳諧が縁となっての出仕は、青年芭蕉にとって将来に望みが大きく開けたことを意味していた。
しかし、これも束の間の夢、良忠が25才で若死してしまったのである。時に芭蕉23才、行くべき道を模索し、悩みに悩んだであろう。その後数年は良忠の俳諧の師北村季吟の住む京都の禅寺にて勤労奉仕等をする等煩悶と修行の時代を過ごした。
29才にして、新進の俳人達の屯する江戸にて宗匠として立つべく、江戸に下った。苦節8年にして、漸く俳諧師としての生活が成り立つことになった1680年、江戸市中から深川に居を移してしまう。安定した生活を送る為には、点者に専念しなければならないことへの反省がそうさせたのである。
深川隠棲は、俳諧を文芸として高める思索を深めようとする結果であった。

1684年、東海道を上る旅での「野ざらし紀行」、3年後の東海道の旅紀行「笈の小文」を経て、1689年東北・北陸道の紀行「奥の細道」に漂白の詩人の想いが実を結ぶこととなった。
芭蕉の風狂の精神は、無常観を基盤とする。生きとし生けるものは無常に繋がるものとし、愛しく想い、美を感じるのである。その境地を求めるには、一所不在、現在に安住しないことだと悟ったに違いない。

そうした想いを基に「奥の細道」の序章を読むと、彼の心情が理解出来ます。

“月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也。
舟の上に生涯を浮かべ馬の口とらえて老いをむかふる者は、日々旅にして、旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。
予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂白の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋、江上の破屋に蜘蛛の古巣をはらひて、やゝ年も暮れ、春立てる霞の空に、白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるわせ、道祖神のまねきにあひて取るもの手につかず、もゝ引きの破れをつづり、笠の緒付けかえて、三里に灸すゆるより、松島の月先ず心にかゝりて、住める方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、
 「草の戸も住み替わる代ぞひなの家」
面八句を庵の柱に懸け置く。”


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