2005/02/08
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カテゴリ: 読み直し
 140回目の誕生日の朝に、口から屍臭が流れ始めたにもかかわらず私に死は訪れていなかった。噎せ返る臭気の中で、私に限って仕事を怠っている「死」を憎み始めた。とっくの昔に動かなくなっている痩せ細った手足と違い、まだ微かに残る五感は否応もなく老醜を自覚させて私を苦しめる。
 足は野道を歩くことを欲し、手は女体の肌を求める。何も叶わぬからせめてもの慰めに私は物語を食べ続けてきた。食物を受けつけなくなった身体にも物語は染み込んだ。物語にのめり込んでいる、現実には生きていない時間を過ごしてきた分だけ、私の命は延びてきた。だけどそれも、そろそろ終わりにしなければいけない。人は140年も生きるものではない。
 私は新しい物語を食べることをやめた。
 いつも私に物語を読み聞かせてくれる、私の子孫の青年に、既に読んだことがある本を注文した。
「以前読んだことありますよ、これ」と、訝しげに青年は尋ねる。
――いいんだ、これから読み直しを始める、いろいろな物語を。
「それならばこの作家には他にも優れたものがありますが・・・」
――その作家の、初めて読んだ長編だからな、また入り口から入り直したいんだ。そうしないと出口も現れてはこないだろう。
「よくわかりませんが、用意しましょう」





『晒し井』より




『晒し井』
『鵲の橋』
『いつもの花の』
『われから』
『松葉酒』
『石橋の舞い』
『方百里雨雲』
『か行きかく行き』
『夕星の歌』
 告解室の中、司祭と男の対話から物語は始まる。自分の井戸から汲む水が一番美味しいという、聖書の言葉で司祭は男を諭す。「そうなのですが、しかし・・・・・・」と口を濁す男は、そんな言葉では慰められてはいない。少し記憶と違ったのは、本編の主人公とおぼしきこの男=郡山勉は、初め名もない存在で、先に廃屋のような煙草屋に何十年も坐り続けてきた沼崎友敏の描写が始まること。そうして引用部分、沼崎の誇大妄想気味の想いが描かれる。そこで私は立ち止まる。

――私は蒔いてこれたかな。

――今満たされているものはいい。この煙草屋のように何かを待ち望みたい気分でもあるんだ。
「待っているじゃないですか、『死』を」
――あれには避けられているよ。だから恋しくもあるな。種を蒔かなきゃ死ぬことも出来ないのか。
「少し飛ばしますが、こういうのもありますよ、聖書からの引用、パウロ『ローマの信徒への手紙』からです」





『鵲の橋』より



――見透かされているな。

――何十年も前に読んだ小説の内容を事細かに覚えていられるような頭を持っていたら、記憶に寿命を持ってかれて、とっくに事切れてるよ。
「それと似ているかもしれませんが、こういうのもあります。『全速力で走る人には、頭も心も無い』こちらもW・B・イェーツからの引用ですが。この人どこかからの引用が多いですね」
――全ての物語は別の物語の構成要素になりうる、自覚的にしろ無自覚的にしろ。一人の登場人物の生涯と同等もしくはそれ以上の価値さえ、物語の中に引用される文章は持つことがある。
「それは作者が引用元の文章に感銘を受けて、そこから物語が作ったか、そこに収斂したがったか、というだけのことじゃないんですか」
――そう単純な話でもない。今日はこの辺で止めよう。
「ではおやすみなさい」
――少し匂わなかったか? この家、この部屋。
「いいや?」

 私の口から流れ出る屍臭は私一人の鼻にしか届かず、一日が終わる頃には慣れ親しんだものとして、心地よくさえ感じた。





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Last updated  2005/02/09 01:32:32 AM
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