こくごの先生の部屋

こくごの先生の部屋

その1



『二十歳への還り道』





 駅の北口を出て空を見上げると、鈍色の曇天がこちらを見下ろしていた。
 三月はじめの風はまだまだ冷たかった。
 「あっちは雪かな…。」
 北城遼太は、つい数時間ほど前まで自分のいた故郷の山を思い、見えるはずもない遙か北の空を見やった。ビルの間から見える空は何処までも灰色であった。

 祖父、武一の三回忌。その為に、遼太は休日を返上して帰省していた。
 一泊二日の久し振りの里帰りであった。今朝は早くから法要が営まれたが、そこは田舎の法事である。その後が延々と長い。明日は仕事であるということで、途中抜けるような格好で何とか2時過ぎに向こうを出て、夕方になってやっとこちらに戻ってきたのだった。

 遼太の故郷は山間部にある小さな山村である。
 今は、就職して比較的発展した地方都市に住んでいる。そこは遼太の故郷と同じ県内なのであるが、こちらは比較的海も近い南部の温暖な所である。実家はと言えば、そこからは少し緯度が上がるため、冬場はあちこちがスキー場になるような場所である。
 ただ、ここの所は暖冬続きで、帰った際も実家の周囲に殆ど雪は見られなかった。
 スキー場も悲鳴を上げており、法要の後の食事の場では親戚達の間でそんな話が飛び交っていた。遼太の親戚の中にはスキー宿を経営している者もいた。

 「俺が子供の頃は、三月になっても、そこら中に雪があったものだけど…。これ  から降ろうってのかな…。久し振りに雪が見たかったな…。」
 遼太はそんなことを思いつつ、肩に掛けた大きなカバンのベルトの位置を少し直し、会社の寮を目指して歩き始めた。
 法要で配られた饅頭や餅の他、田舎の母から半ば強引に持たされた野菜や小包。その大きなスポーツバッグは今にもはち切れそうであった。ただ、重さ自体はそれほどではなかった。
 遼太はそのままタクシーを拾わず、歩いて会社の寮まで歩こうと考えていた。
 時計は5時をを少し回ったところであった。

 タクシーを拾えば拾えたのであるが、その時遼太は、何となく考え事でもしながら歩きたい気分なのであった。

 正確に計ったことはないが、遼太の住んでいる寮まではここから3kmはあるだろう。しかも荷物もある。歩けば小一時間はゆうにかかる距離であった。

 それでも遼太は歩くことを選んだ。その理由が何かを、自分としてははっきりと自覚はできていなかったけれど、何となくもやもやした思いが遼太の気分を支配しており、それを吹き払うべく、無性に体を動かしたい衝動に駆られていたのである。


 大好きだった祖父武一。
 遼太は子供の頃から武一を「じっちゃん」と呼び、慕っていた。両親の呼び方は、「お父ちゃん」、「お母ちゃん」だったのが、いつの間にか「オヤジ」「お袋」に変わっていたが、「じっちゃん」はいつまでも「じっちゃん」であった。

 遼太の頭の中には、様々な「じっちゃん」との思い出の場面が到来していた。

 勿論、今日は祖父の三回忌の法要で帰省していたのである。それは当然と言えば当然のことだった。しかし、それをさっ引いても余りあるほど、何故か祖父のことが妙に頭にこびり付いて離れなかった。

 祖父が逝ってからもう丸2年であり、祖父を失った悲しみはもう過去のことになろうとしていた。

 遼太にとって心の拠り所でもあり、目標でもあった祖父。「じっちゃん」が死んだ時、遼太の心を埋め尽くした空虚さは、自分でも測りかねるほど大きかった。
 その時はもう、心に空いたその穴を埋め尽くすことは不可能であろうという気さえした。
 しかし、人の心の痛みというものは、時が癒してくれる…。それは遼太にとっても決して例外ではなかった。
 2年という歳月が遼太の心をゆるやかに鎮めていた。


 遼太はポケットからイヤホンを取り出して耳にはめ、次にiPodを取り出すと、手慣れた手つきで操作した。彼が選んだのは、お気に入りのアコースティックギターのインストゥルメンタル曲だった。
 美しく澄んだ音色が聞こえはじめ、それを聴きながら遼太は歩きはじめた。
 そう言えば、このiPodも祖父がくれたものだ…と思い出す。

 このiPodは、遼太が就職を決めた時、祖父が御祝いとして買ってくれたものであった。まだ、高校を卒業する前ではあったが、正月に帰省した時、祖父が「ほれ、祝いじゃ」と言ってくれたものだった。
 父や母には、「まだ卒業もしとらんのに…。」と言われもしたが、その時の両親の顔には微笑みが浮かんでいた。祖父も、ぶっきらぼうに手渡してくれた割にはとても嬉しそうであった。
 その時のことも遼太には、ついこの間のことのように思い出されるのだった。

 「あの時…、もうじっちゃんはかなり患っていたんだろうな…。」
 今更ながらに、最後に見た祖父の元気な姿が鮮やかに思い出されるのだった。

 高校は田舎を離れて寮に入っていたため、祖父が亡くなる前の数年は、離れて暮らしていた。それゆえに「じっちゃん」と一緒の時間が少なかったことを、遼太は至極残念に思っていた。
 遼太の田舎は交通の便も悪く、そこからから街の高校に行くには、かなり時間を要したため、大抵の者は寮に入っていた。
 遼太も例にもれず、地元の工業高校に進み、そこで3年間の寮生活を送った。
 電気科で、勉学に励むかたわら、剣道部に所属して熱心に活動していたため、実家にはあまり帰らなかった。帰省は夏休みと正月の二回。そして、いつの間にかそれがそれが普通になってしまっていた。

 だから、遼太は3年生になって部活動を引退しても、あまり実家に帰ることをしなかった。だから祖父が肝臓を患っていたこともよく知らずにいたのだった。

 心配を掛けないようにと、祖父自身や父母が気を遣っていたのかも知れなかった。
 おじいちゃん子だった自分に、弱っていく祖父の姿をみせたくなかったのだろう…。
 あの正月のひとときも祖父は随分無理をしていたのだろう。そう思うと今更ながらに胸が熱くなるのであった。

 祖父は遼太に御祝いをくれた正月明けに倒れ、入院すると、そのまま春を待たずに逝ってしまったのだった。実は、それが再入院であったことは、葬式の時に知った。
 何とか死に目に逢うことはできたものの、遼太が駆けつけた時には、もう意識も朦朧としており、話すことすら出来ない状態だった。
 「生きている間に会えただけでもよかった。」と皆に言われたが、「どうしてこんなになる前に呼んでくれなかったのか」、と父母を責めもした。
 けれど、卒業試験の真っ最中だった遼太を祖父自身が気遣ったこと…、そして様態の思わぬ急変であったこと…。それらを後から遼太は知り、結果、誰も責められず、ただ祖父に対して申し訳ない思いで一杯の遼太だった。

 そして、遼太には死ぬ前に祖父と言葉を交わすことが出来なかったことが今でも心残りなのであった。
 遼太は病院のベッドで横たわっている祖父の、何か言いたげな目を思い出した。

 知らない間に目の前の景色がぼやけていた。遼太の目に涙が滲んだのは、冷たい北風が眼に入ったせいだけではなさそうであった。



 商店街のアーケードを抜けると、遼太は街路樹が綺麗に立ち並ぶ歩道へと出た。
 街路樹の枝に一枚だけ残った葉が風に揺れている。
 遼太は何故か、妙にそれに目を奪われ、暫し立ち止まって見上げていた。寒々とした枝々。後に広がる灰色の空。
 ごつごつとした堅い表皮の下にも、もう新しい芽が静かに育っている…。

 あたりは少しずつ暗くなり始め、横を通る車道を走っている車の中には、ちょっと気が早いけれど、フォグランプを点しているものも見える。
 太陽は見えないけれど、時間的に陽がそろそろ傾く頃である。それで気温が下がったのかもしれない。
 「寒いな。」
 遼太は先程から重い荷物を持って歩いているのに、体がほとんど温まらないので少し不思議に感じていた。
「こっちの方が寒いんじゃないか…。」
 思わず独り言が出る。

 耳元からはお気に入りのラインナップで、曲が次々に流れていく。
 遼太はアコースティックギターの音色がとても好きだった。スチール弦の奏でる硬質でキレの良い澄んだ音色を聴くと、自分の心まで澄み渡っていくような気がするのだった。
 静かなバラード調の曲が続いていたが、一転してアップテンポの曲がはじまった。鋭いカッティングの、ノリのよい曲である。
 遼太の歩みも、自然と少しスピードが上がった。

 実は、明日は遼太の20回目の誕生日であった。
 …それで、家族は今夜は泊まっていけばいいのに、と彼を何度も引き留めた。が、明日からまた仕事であるということは周知のことであり、それは家族も言ってみるだけのことに過ぎなかった。既に、昨晩は遼太の好物のすき焼きが振る舞われ、一応の御祝いの形は済んでいたのだ。

 …今日の法事の昼食時には、親類の者たちが盛んに自分の二十歳を話題にしてくれた。遼太は、照れ臭いやらくすぐったいやら、何とも面はゆい思いであった。
 彼はもう就職している立派な社会人であり、それももう2年目が終わろうとしているのである。
 「今更『二十歳だ』、『大人の仲間入りだ』もあるまい…。」
 と、少々反発したくなる気持ちもあったが、「めでたい、めでたい。」を連発する伯父さんや叔母さんなどに対して露骨に嫌な顔もできず、遼太にとっては少々居づらかった、というのが正直なところである。

 「武さんが生きておったらなあ。」
 「もう、あれから二十年か…。武一さんがのお…。」
 そう言って言葉を詰まらせる叔母さんもいた。

 とにかく、話題はと言えば、祖父の思い出話と遼太の二十歳のことが殆どだった。そんな言葉が飛び交う中、遼太も自分自身「そうだなあ…俺もハタチか…。」と実感しもした。そして、同時に祖父の偉大さをかみしめるのであった。
 もし、祖父が生きていたらどういう言葉を自分にかけてくれるだろうか…遼太は思った。
 「遼太も二十歳か。年齢だけじゃあまだ一人前とはいえんの。それ相応の腕がなけりゃあな。修行せえ、修行じゃ。」

 多分、そんな言葉が飛んできただろう。なかなか人を褒めない祖父であった。そう言えば何かといえば「修行」。それが口癖だったなあ、とふとそんなことを思い出し、少し口元がゆるむ遼太であった。




 遼太の祖父、武一は昭和の初めに農家の四男坊として生を受けた。子供の頃から手先が器用で、理数系に強かったことから、工業高校に進んだ。
 高校を卒業した後は、町工場に技術者として就職し、そこで20年間腕を磨き、田舎に帰ると、裸一貫から小さな工場を立ち上げたのだ。

 その小さな町工場『北城電工』は高度成長期の波に乗って、それほど大きくはないけれど「腕は確か」という評判の電子部品工場として注目され、県内は勿論、近県からも注文をうけるようになっていった。
 祖父の成功は、ただ単に時代の波に乗ったからというものではなかった。

 それには、祖父自身のもの凄い努力があってこそであった。
 祖父はほとんど独学で技術や知識を習得した。実際の現場で叩き上げた腕に、理論の裏付けが加わり、その技術の精度の高さは、雑誌やテレビ番組などでも紹介されるほどであった…。

 そんな祖父の武勇伝を、遼太は小さな頃から周囲の大人たちに度々聞かされていた。しかしそんな話も、遼太は当の祖父自身からは一度も聞いたことがなかった。 が、それが逆に遼太に祖父をいっそう「カッコイイ」と思わせるのだった。

 そんな祖父武一は、大学の工学部あたりを卒業した新卒の社員に対しては厳しく、「そんなことも知らんのか。大学で何を勉強しとったんじゃ。」
 と叱りとばすことはざらだった。祖父が大きな声を上げた時の勢いといったら、棚の上の物が落ちてくるほどであり、工場の外の空き地で遊んでいた小学生の遼太も、その声が聞こえてくると震え上がった。
 そして、その光景は、祖父に対する憧れや恐怖心と綯い交ぜになって、強烈な印象とともに遼太の脳裏に焼き付いている。

 祖父は自分が大学に行かず、「叩き上げ」で腕を磨いたことから、大学というものをあまり認めていなかった。それもあってか「大卒」と聞くと、却って手厳しく接していたようだった。
 父はというと、そんな祖父に育てられながらも、自分の意志を持って大学の工学部に進んだ。大学を卒業した後は、結果的に祖父の後を継ぐ形になっているが、父も大学を出たての頃はそんな祖父には相当厳しく鍛えられたとのことであった。

 祖父は腕っぷしもなかなかであった。
 幼少の折から剣道を嗜んでおり、若い時には県の代表選手として国体に出場したこともあると聞いていた。遼太が2歳の頃までは町の道場でも師範の手伝いをして子ども達に手ほどきをしていたらしい。

 そんな豪快な祖父であったが、とても人情家で涙もろく、困っている人は放っておけない性格であったので、周囲の大人達に恐れられてはいたが、いざという時には頼りになる人として慕われてもいた。そのことは、子供心にも遼太にはよく分かっていた。そして、彼自身、そんな祖父に憧れを抱いて育ったのである。

 遼太は大変なおじいちゃん子であった。子供の頃から祖父に付きまとい、四六時中祖父の側にいた。
 遼太は一人っ子であり、結婚してからなかなか子宝に恵まれなかった両親にとっても、祖父母にとっても待望の赤ちゃんであった。が、それだけに遼太が生まれた時には、もう父は工場の中心として働いていたため、ほぼご意見番のようになっていた祖父が、遼太のもり役になった。
 祖母については、遼太が2歳の時に亡くなったために殆ど記憶がない。子供の頃の記憶と言えば、祖父とのことばかり…というのが正直な所であった。

 そんな遼太であるから、思い切り祖父の影響を受けて育った。
 小学校に入るとすぐに剣道も習い始めた。高校も工業高校に進み、大学には進学しなかった。
 理数系に強いのは家系であったのだろう、中学の頃から数学はいつも100点だった。しかし、担任の先生から幾ら「高校は是非進学校へ」と言われても、遼太は頑なに拒んだ。
 工業高校に行ってからも、先生から何度も大学進学を勧められたものである。
 しかし、祖父の「大学なんか行っても遊ぶだけじゃ。」という言葉を聞いて育っていた遼太にとっては、大学に行くというビジョンは遠い外国の出来事のように稀薄で、「大学進学」という言葉も彼の頭の中では全くリアリティを持たなかった。
 両親も、祖父を恐れてのことかどうかは分からないけれど、必要以上に強く進学を遼太にすすめることはしなかった。

 遼太は、周囲の人に「おじいちゃんによく似ているね」と言われることを「父に似ている」と言われることよりも数段嬉しく感じた。成長するにつれて、「背格好が武さんによう似とる」、とか、「目がおじいさん似だね」などと言われると凄く気分がよかった。
 祖父が亡くなった今でこそ、周りからそれほど言われることも無くなったが、小学校の頃、とりわけ剣道で上達が認められた時に、師範から「武さん譲りじゃ…」などと褒め言葉を受けると、それは天にも昇るような喜びを感じたものだった。
 実際に、自分の姿を鏡に映してみて、背格好が祖父に似てくることを嬉しく思っていた時期もあった…。

 大きな交叉点にさしかかり、遼太は赤信号で立ち止まった。
 正面に見えるビルとビルの間に、これから沈もうとする夕陽がほんの少しだけ夕焼けを作っているのが見えた。そして、それをバックに恐ろしいほどに鮮やかな赤信号がギラギラと輝いている。
 「夕焼けは、明日晴れ」というのは、よく耳にする普通のことであるが、今夕は、ちょっと感じが違っていた。
 確かに夕焼けは見えるものの、それは空のほんの一角であり、上空をはじ
め、それ以外の部分は殆ど鉛色であり、今の段階では明日が晴れようなどとは、全く思えない…そんな様子であった。
 しかも、寒かった。
 遼太は何となく、今の空が自分の気分を映し出しているような気がして、信号が青になったのも忘れて暫く立ち尽くしていた。

 実は、遼太は明日仕事場に行くのが少し億劫だった。
 というのも、先週末、職場でちょっとしたトラブルがあり、それが遼太の心に小さな棘のように刺さっていたのである。



 遼太の勤務先は、比較的規模の大きな電子部品工場である。採用試験の出来はよかったそうであるが、高卒ということで、最初は生産ラインでの点検作業が主な仕事になった。

 点検といっても、製品が確実に動くかどうかを実際に電気を流してみてテストする比較的単純な仕事であった。

 遼太は、ただ単に点検をするだけでなく、その部品がどういう構造をしており、どういう場面で使われるのかということまで理解した上で作業をするべきだと思い、いつも上司に自分が点検する部品のことをあれこれと尋ねるのだった。

 一年目の時は、ベテランの先輩が指導的に遼太の質問に丁寧に答えてくれていた。が、2年目の途中からは遼太より少し年上の若手の先輩がその部署の班長になった。西という名前の大卒の先輩であったが、西は遼太のそういった質問にも答えられないことが多く、熱心に質問してくる遼太に対して露骨に嫌そうな顔をするのだった。



 遼太もそういう西を、「あまり頼りにならない」と見抜いており、西に質問することは慎んでいた。というよりも、もう大体どのような部品をどういう構造で生産しているかは1年目の研修期間でかなり把握できていたのである。


 ただ、先週新しい部品の点検が始まり、遼太はその部品を調べているうち
に、その部品の構造上の欠陥に気づいたのである。

 それについては、さすがに遼太も黙っている訳にはいかないと思い、西に報告し、欠陥を指摘したのである。


 すると、西は最初は驚いたような顔をして暫く考えているようだったが、徐に遼太が使っていたテスターの電極をあてて、電気が流れているのを確認すると白々しくこう言った。
 「これは別に『欠陥』じゃあない。ほら、ちゃんと部品として機能するだろう。構造がどうだとか、よく分かってもいない癖に、下らないことを一々報告するんじゃない。」

 西は丁寧に報告した遼太に対してけんもほろろの態度で接した。しかし、しっかりと理論的な裏付けが頭の中でできていた遼太は負けずに言い返した。

 「はい。確かに。これは明らかな『欠陥』じゃあないかも知れません。でも、何かの拍子に電圧が上がると、ここの負荷が強くなって故障することが考えられます。この部品って屋外で使われることが多い機械のものですよね。電源などを考えると、電圧が上がることは十分想定できることですから、これは立派な構造上の『欠陥』だと思うのですが。」



 敬語は使ったものの、少々語気が強くなったことには遼太自身気づいてはいた。しかし、思わずそのまま言い放ってしまった。それは、日ごろから気に食わないと思っていた西への思いの表れであった。

 西は大卒4年目の小柄でキザな男であった。遼太ほか、高卒の者に対して必要以上に威張り散らす所があり、それを遼太は苦々しく思っていた。自分が大学を出ていることをやたらに鼻に掛けてくるのも、普段ならあまり意に介さない遼太であったが、今度ばかりは黙っていなかったのである。

 しかも、西は大学を出ている割には電子工学の基本的な知識も曖昧なことが多く、普段から遼太は「この人はできない。」と、自分の中では見下している存在であった。

 遼太が子供の頃、祖父に工場で叱りとばされていたひ弱そうな大卒の社員がそこに重なっていた。





 遼太の上背は180センチほどあり、西よりも10センチ以上も高かった。「筋骨隆々」とはいかないまでも、しっかりした体格の遼太が正面を向いてきっぱり言い切ると、かなり迫力があった。
 西は、遼太の堂々とした態度に気圧されたのか、その言葉を聞くと視線を逸らし、わざとらしくテスターの位置を直しながら言った。

 「ふん。そんな事は言われなくても分かってるんだよ。上には近々報告しようと思ってたところなんだ。…お前、じいさんが有名人なんだってな。だからってお前が偉いってわけじゃないんだから、勘違いしてイキがってんじゃないぞ。…もうちょっと先輩に対する口の利き方を考えろよな。」

 結局西は遼太の目を一度も見ないままに、ねちっこくそう言い捨てると、そそくさと遼太の目の前から立ち去った。

 遼太にとっては、当然のことを言ったまでであり、その後も別段そのことは気にしていなかった。ところが、その次の日から妙なことが続けて起きたのだった。

 それは、遼太がチェックするラインから不良品が幾つも続けて見つかったということであった。
 ラインでのチェック後に不良品が見つかることは、時折あることで、それほど珍しいことではなかった。しかし、同じ人間がチェックした所から続けてそれが出るということは稀であった。
 製品自体がチェックした後で故障したのか、それとも最初から不良品を見逃していたのか…、その辺りの原因はなかなか特定できないけれど、遼太は、自分のチェックには絶対の自信を持っていたため、見逃しとは思えなかった。
 しかし、遼太の責任箇所から続けて5つもの不良品が報告されたことは事実であり、遼太は全く納得が行かなかったけれど、あえて言い訳はせずにいた。

 そして、一週間の終わりの金曜日である。遼太は退社時に、ロッカーで西から声を掛けられていた。
 「おい北城。お前、最近チェック作業をサボっるんじゃないのか。仕事に集中してできていないみたいだぞ。不良品がでると、班長の責任になるんだからな。しっかりしてもらわないと困るな。部品の構造なんか考えているヒマがあるんなら、もっと集中してチェックしろよな。
  ま、ということで、お前月曜日に坂本さんに呼ばれるから、覚悟しとけよ。」

 薄笑いを浮かべ、意地悪そうに話す西。呆然とする遼太。そんな遼太を横目に、西は上機嫌で立ち去って行った。

 遼太は暫く虚空を眺めていたが、改めて「自分の仕事にぬかりはないはずだ」と、もう一度自分の作業手順や、勤務中につい考え事なんかをしていなかったか…などと反省してみた。
 しかし「チェックミス」なんて…、自分にとっては到底心当たりなどなかった。というのも、遼太は、普通ならば一つの方向からだけでよいチェックを、敢えて双方向から行っていた。ごく稀にであるが、それで不良品を見つけることができることを知っていたからである。しかし、それをすると手数が倍近くなり、当然作業高率は落ちる。正確であっても、能率が悪くなることは避けたかったので、遼太は人一倍手際よくスピーディにさばく鍛錬を続けた。結果、ダブルチェックをしながらも、人より少し早いペースでチェック作業を行う術を身につけていたのである。

 一瞬、遼太の中で西を疑う心が首を擡げかけたが、そこは自制心で抑えつけた。証拠もないのに、人を疑うことはしたくなかった。

 「批判は正直に受けるべきじゃ。それがまた次への進歩になるんでの。」
 祖父の言葉が遼太の耳の奥で聞こえたような気がした。

 そして遼太は、今回の件はやはり自分のチェックミスだったと考えることにした。そして、今後一層しっかりチェックしよう…坂本さんには潔く叱られよう…そう思い直した。
 ただ、着替えようとロッカーに手をかけた右手が少しこわばっているのを遼太は気づき、暫くその右手を黙って見つめていた。




 ロッカールームの静寂を破ったのは、遼太のいる所からは死角になっている、少し奥の方からの声だった。
 「北城、まだそこにいるのか。」
 それは同僚の吉原の声であった。

 吉原は遼太の一つ上の先輩である。同じ高卒という立場もあるが、気さくで男気のある人物で、遼太がもっとも信頼しているこの工場の先輩であった。

 吉原は、もう既に着替え終わっていた様子で、カバンを提げて遼太のいる側にやってきた。
 「今の、西さんだろ。…お前、西さんに何かしたのか。」
 いきなりの質問に、遼太は少したじろいだが、相手が信頼できる吉原であるということで、安心して答えた。
 「俺のラインから不良品が続けて見つかったでしょ。あのことで…。」
 「それは今そこで聴かせてもらったから分かってるよ。
  …俺が言ってるのは、お  前が西さんになにか睨まれるようなことをしたの  かってことだよ。」

 遼太は吉原の言葉に対し、反射的に「別に…」と、言いそうになったが、その言葉を呑み込み、暫く間をおいて告げた。
 「いや…あのですね。…今週の頭に、今チェックがかかっているあの『Cの40番』にちょっと問題があるって指摘したんですが…。それぐらいのことで…別に、特に睨まれるようなことは…。」
 吉原は、その言葉を聞くと少し笑みを浮かべ、訳知り顔で言った。
 「そうか。それだよ、きっと…。」
 そう言うと、吉原は声をひそめて続けた。

 「あいつさ、大したことない癖に、大卒だということで威張ってるだろ。だから、俺達みたいな高卒者からそういう専門的なことを指摘されるとプライドが許さないんだよ。俺も以前、あったんだよ。同じようなことがさ…お前、…多分西さんに仕返しされたんじゃないか…。」

 その言葉を聞いて、遼太の心に一旦抑えつけていた疑念がまた甦ってきた。吉原の意見が、余りに的を射ていたからである。
 そして、思わず目を見開いた遼太であったが、そこはワンクッション置き、慎重に次の言葉を選んでいた。
 「でも…吉原さん…、そんな。証拠もないし…。」

 すると吉原は言った。
 「いやな、俺聴いちゃったんだよ…。」

 吉原はそこで、ポケットから煙草を取り出すと、慣れた手つきで、箱から一本つまみ出した。そして下唇に載せるような感じでそれを口にくわえると、すかさずライターで火をつけ、一息大きく吸い込んだ。
 「フゥーッ」と、天井の換気扇に向けて煙を気持ちよさそうに吹き出すと吉原は話を続けた。
 「昨日さ、俺残業だっただろ。西さんさ、お前が定時で帰った後、何だかお前のライン所で何かごそごそしてたんだ…。西さん、きっと俺が残業してるって気づかなかったんじゃないかな。それでな…暫く何かやってたんだけど、またどこか に行っちまったんだ。」
 吉原は、そこまで言うと遼太の顔を窺うような感じで覗き込んだ。遼太は黙って吉原の話に耳を傾けていたが、やはり少し考えてから言った。

 「でも、西さんは班長だから、部下の仕事の後を見て回るぐらいはするんじゃないですか。それだけのことでで、疑うのはちょっと…。」
 しかし、吉原はすぐにこう続けた。
 「それはそうだろう…、でもな。最初に言っただろ、その後が問題なんだ…。俺が帰ろうとして事務所の横を通ったら、中から声が聞こえたんだ。西さんと坂本さんだったよ。俺も、別に聞き耳をたててたわけじゃないんだけどさ、『北城』って言葉が聞こえたんでついピンときて立ち聞きしちゃったんだよ。」

 「何て? 俺のことを何か言ったんですか。」 
 「いやさ、単純なことだったんだけど。勤務態度が良くないから、不良品が出ているんじゃないかと思って再チェックを入れたって言ってた。それから、Cの40番のことも言ってたぞ。『問題があるから、規格を変えた方がいい』ってな。でも、それ西さん『自分が気づきました。』って言ってたぞ。」

 遼太は、或る程度予想していたこととは言え、余りに予想通りの展開に、まるでテレビドラマか何かを見ているような気にさえなっていた。…やる気のある新入社員を意地悪な上司がいびる、よくあるパターンの話。しかし、まさか自分がその当事者になっているとは思いもよらず、その時点では、遼太にはまだその話が現実味を持って聞こえてこなかったのだ。

 吉原はもう一度深く煙草をふかすと、目を細めて言った。
 「まあ、心配するなよ、北城。もし、坂本さんに何か言われて、お前の立場が悪くなるようだったら、俺がかばってやるからな。下らないだろ、あんなヤツのために嫌な気分で週末を過ごすなんて。」
 そして、吉原と一緒に退社した。…ちょうど金曜日の午後6時だった。



 …遼太は歩き続けていた。
 そして、今の憂鬱な気分の原因になっている、先週末の不愉快な出来事を再現フィルムを見るかのように、リアルに思い出していた。
 あの時の嫌な感じが、まだ肩の辺りにまとわりいているような感じがして、遼太は立ち止まり、右肩に掛けていた荷物を一旦降ろした。そして、両腕をぐるぐると回すと、今度は左肩に担ぎ上げ、再び歩き始めた。

 そんなことで、明日は上司の坂本に呼び出されるはずになっていた。

 ただ、あの時、吉原がロッカールームにいてくれたことは天恵であった。そして、あの吉原が嘘を言うとも思えない…。だとしたら自分に非はなかったということになる…。
 しかし、どうも嫌な気分が晴れない遼太なのであった。…それで明日会社に行くのが億劫になっていたというわけなのだ。

 遼太は、ゆくゆくは田舎に帰り、祖父の作った工場を継ぎたいと思っていた。
 そして、父もそれを望んでいるだろうということも予想できた。しかし、そこには遼太にとって、やや不満要素もないではなかった。
 幾ら祖父の跡とはいえ、自分の前にひかれたレールの上を走ることに若干抵抗があったのだ。それが敬愛する祖父のひいたレールであったとしても。
 それを尋ねたい肝心の祖父はもうこの世にいない。
 「じっちゃんならどう思うだろう。」
 …きっと、祖父もそれは望まないだろうという気もしていた。祖父武一自身、そういうことを嫌うであろうということは想像に易かった。

 だからこそ、遼太は純粋にまず自分の力がどこまで通用するかを試してみたかったのだ。それ故に高校卒業後も、すぐに実家に戻らずに一般就職することにしたのである。そういう遼太であっから、決して仕事の手を抜くなどということはしたこともないし、考えたこともない。反対に、もしこの職場を離れることになったら、その時に「腰掛けだから…」などと誰にも言わせない。そのためにも、人一倍努力しているつもりもあった。
 ただ、自分では自覚が無いものの、心のどこかに「いざとなったら辞めてしまえばいい」、そんな思いがあるのかも知れない。そんなことを考えると、また憂鬱な気分になってしまう。それは、強く自分自身に戒めている考えでもあった。

 今回の出来事は「些細なこと」と言ってしまえばそうであるが、職場の人間関係の難しさというものに初めて直面した遼太であった。
 「今日、もう一日泊まって行きなさい。」と言う家族の引き留めを固辞したのも、一つにはこのことがあったからであった。
 折角の誕生日だから、ということでもう一日休みをもらって、火曜日から出勤をすることも可能ではあった。が、月曜部が自分の誕生日であることなど職場の誰も知らないに違いない。祖父の三回忌で帰省しているということは何人かに話はしたが、それほど遠くない帰省先であるから、それで月曜日を休むということは理由としては弱くなってしまう。…「逃げた」と思われるのは絶対に嫌だった。
 いずれにせよ、遼太は休む気などなかった。ここで休むと自分の立場が逆に悪くなってしまう。それぐらいは簡単に想像できたからだ。
そこまで考えを進めると、何となく心の中が整理できたような気がした。
 こんなことで動揺していては祖父に恥ずかしい…そんな思いも湧き上がってきた。








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