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「大人は泣かないと思っていた」寺地はるな 集英社読み終わったあとに、著者のプロフィールを見る。1977年生まれ。現在43歳か。会社勤めと主婦業のかたわら小説を書き始め、2014年ポプラ社小説新人賞でデビュー、この本が7冊目。1年に1〜2冊の割合だな。書くのが好きなんだなと思う。ライトノベルの流行を受けて描写はやさしい。映画のように場面の切り取りには、かなり神経を使っている。「大人は泣かないと思っていた」いい題名だと思う。人生の何処かで、誰もがそのことに気がつく。読む前の予測は15歳ぐらいの少年の話かと思っていたが、21歳とかなり遅い。しかも時系列では物語が始まる11年ほど前になる。よって、青春モノではない。片田舎の住人の、穏やかな日常と、それなりの人生の転機を描く。いろんな年齢層の人物の視点から紡がれる約1年間の連作短編集になっていて、主人公の青年視点は1番最初と最後に置かれる。でもやはり、30代の人物像が1番生き生きしている。青年が幸せになればいいなと思う。そうなんだよ、大人は案外泣き虫なんだよ。2019年5月28日読了
2019年05月28日
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「風流江戸雀」杉浦日向子 新潮文庫 時々思い出したように、杉浦日向子の絵を見たくなる。 ーそうそう、この風流を、まだ俺はわかるんだぜ などと、思いたいのかもしれない。 カバー裏の彼女の紹介文を見たり、あとがきの日付をみて、この本が月4Pの連載で、4年の月日で完成したことを知る。だとすると、これを描き始めたのは、25歳の頃だということになる。人生の粋も渋も枯も艶もわかったような絵を、どうして彼女は描くことが出来たのか? 田辺聖子が序文で、 ーこの本にえらび採られている古川柳は、すべて古川柳の代表作ともいえる佳句である。 と言っている。 「仲人を こよみでたたく お茶っぴい」などは、今はない暦やお茶っぴいという単語はあるが、何と無くわかる。「おちゃっぴい へそから出たと 思って居」となると、昔の近所に居た女の子のことを思い出した。 「細見を みてこいつだと 女房いい」となると、細見(さいけん)が何か、わからぬとお手上げだ。なんと遊女名鑑らしい。江戸にはそんなものまであったわけだ。杉浦日向子の女房は、その名にぎゅうっ‥と爪を立てる。おゝ怖。「火箸にて野暮め野暮めと書いて見せ」などは、言葉はわかるが、そんな状況は、現代では絶滅している。「雨宿り 惜しい娘に 傘が来る」もう絶滅はしているが、気持ちはまだ絶滅してはいない。 2017年8月16日読了
2017年08月22日
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「親鸞 上」五木寛之 講談社文庫お坊さまは、じっと忠範の顔をみつめて、ため息をついた。「この子の目にやどる光は、ただごとではない。なにものをもおそれず、人の世の真実(まこと)を深くみつめようとするおそろしい目じゃ。こういう目をした子に、わしはこれまで一度だけ会うたことがあった。京の六角堂に詣でるために紀州から上京してきたという母子じゃったが、その幼い子が、やはりこのような思いつめた深い目をしておった。いま、そのことをふと思い出していたところじゃ。たしか、法師、とかいう名前であった。母親が六角堂に万度詣でをして授かった子だとか。その子の目が、忘れられずに心に残っていたのじゃが、同じ目をした子にふたたび会うとはのう。このような目に見つめられると、悟りすましたわが身の愚かさ、煩悩の深さがまざまざとあぶりだされるようで、おそろしゅうなる。一歩まちがえれば大悪人、よき師にめぐり会えば世を救う善智識ともなる相と見た。心して育てなされ」この言葉は忠範(のちの親鸞)の心にずっと残る。或いは「自分には放埓の血が流れている」という意識をずっともっていたということになっている。この坊さんの言葉に出てくる母子はおそらく法然とその母親のことだろう。この前私は岡山県美咲町の誕生寺に行った時、「旅立ちの法然像」を見た。上巻では、親鸞(この時はまだ比叡山修行僧の範宴)は法然の説教を聴いているが、まだピンときていない。本当の出会いは、おそらく範宴が世の様々な「罪」「煩悩」に出会って以降になるのだろう。「親鸞」に初めて出会ったのは、中学二年のときだったと思う。吉川英治を読み始めて、初めて自分で買った文庫本だった(文庫本の吉川英治全集が出始めて直ぐだったと思う)。それ以降、その本は擦り切れるほど読んだ。何か自分に引っかかったのだと思う。今回の五木版はどうやらその「親鸞」の数倍はある長さになるようだ。視点も、吉川版よりもずっとずっと庶民の視点に近づいている。私が何に引っかかったのか、暫らく付き合って行きたい。
2011年12月19日
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「運命の人 2」山崎豊子 文春文庫TBSで1月から連続ドラマ化されるそうだ。日曜夜九時、「南極大陸」の後続、いわばTBSの看板番組の扱いである。主演は沖縄機密漏えい事件で逮捕される弓成に本木雅弘、その妻で夫の不倫にショックを隠せない役、松たか子、弓成と共に逮捕されやがて「衝撃の手記」を出す不倫相手に真木よう子。当然、沖縄返還をめぐるありとあらゆる矛盾と問題が浮かび上がらなくてはならないが、はたしてどこまで描くのか。ちょっと注目である。これは毎日新聞記者の西山氏をモデルにした小説。事の発端は沖縄返還時の機密漏えい事件である。米軍用地の復原補償費を日本が肩代わりするという密約を記者が外務省の女性事務官からコピーまで入手し、それが社会党代議士の下に漏れてしまったという事件である。政府は、それを記者が愛人関係にあった事務官に強制させたということで起訴をした。そうなると、国民の知る権利対、国家公務員法違反という問題のすり替えという対決になった。しかし、ことの本質は、そもそも米国が出すべき費用を最後まで日本が肩代わりする、その後「思いやり予算」を始めとした対米従属化関係の是非をと言うということだったはずだ。実はこれと同じことが、今回沖縄普天間基地問題でもまたもや起こっている。今回は、裁判闘争にはならない。なぜならば、機密をばらしたのが、ウィキリークスだからである。税金約5000億円以上を投入して、米領グァムに新たな海兵隊基地を作る計画は、沖縄の海兵隊8000人とその家族9000人をグァムに移転して、「沖縄の負担を軽減する」というのが建前だった。しかし、ウィキリークスはその数字が「日本の政治的効果を最大限利用するために故意に多く見積もられた」「実数からかけ離れた」数字であることを告発したのである。これは2008年12月19日付の駐日米大使館発公電にはっきり述べられているという。このジュゴンのすむ辺野古の環境を壊し、嘘で固めた海外の米軍基地を建設し、米軍を強化するために使われる米軍再編強化に日本は総額1.3兆円を使うという。大震災でどのようにカネを作り出すか、日本全国民が喘いでいるときに、許すこのできない「従属」の構図がある。そのことの「本質」を果たしてこの小説は描くことができるのか、3巻4巻を注目したい。
2011年12月14日
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「運命の人」(1)山崎豊子 文春文庫やっと山崎豊子の(おそらく最後の)長編小説を読み始めた。「不毛地帯」からずっと読んできた読者としていつも思うのは、山崎豊子の長編は小説という名の告発小説だということだ。「この作品は、事実を取材し、小説的に構築したフィクションである」この一文がわざわざ巻頭に載ることの意味は大きい。固有名詞だけを替えて限りなく事実に近い世界を描いているのが山崎豊子の長編である。しかも、その取材は徹底していて、おそらく事実無根の話はないだろうと私は見ている。その証拠に、明らかに個人・団体が特定できる問題山積みの歴史的事実が満載なのにも係わらず、今まで一回も訴えられていないことから、それは明らかだ。今回は、沖縄機密漏えい事件にまつわる、所謂西山記者の裁判をテーマに扱う。今まで、商社の政治癒着、日本人二世問題、中国残留孤児問題、日航問題、等々日本の政治の「周辺」を扱ってきたが、今回はほとんどその本丸、国会周辺を記者の目を通して描いている。今回の主人公は、毎朝新聞の弓成。日米機密を暴いた記者を裁判にかけて不倫問題に貶めて潰したのであるが、正義の人物というふうには描いていなくて、小平(大平のこと)番の特ダネ記者として、特ダネのためなら何でもするような人物として描写している。実際そうだったのだろう。たとえば、こういう描写がある。政治家は、新聞記事の書かれ方一つで、生かされも殺されもするから、保険の意味で、盆、暮に、番記者はもとより各社編集局長に30万、政治部長に10万、有能な若手には銀座の一流テーラーのお仕立て券つきワイシャツといった通り相場の挨拶が届く。それ以外に昇進祝、海外出張の折の餞別にも気が配られる。むろんそれを受け取るか、返送するかは、各社各人の判断で、毅然としてはねつける記者たちも多い。弓成の自宅に届いた"越前もなか"は、30万円が菓子折りに添えられていた。時節柄明らかにポスト佐橋を見据えた実弾攻撃で、"二角小福"戦では、お手柔らかにとも、田淵・小平連合ができた際には宜しくともとれる。弓成はバナナ王である北九州の父に、輸入ものであるパパイヤを空輸してもらい、その中に"越前もなか"を添えて、目黒の田淵邸へスマートに返したのだ。田淵は言うまでもなく田中角栄だろう。いやに具体的なので、おそらくこれと同じことがあったに違いない。噂には聞いていたが、政治家のマスコミへの金の使いようは、昭和46年当時でこれなので、ものすごいものがある。しかし、たぶん大げさではないだろう。国会機密費というものがあって、これと同じことが行われていたということがつい最近明らかになったばかりだ。こういうことが堂々と行われていたということは、受け取る記者や編集局長そしてテレビ関係者が少なからずいたし、今も居るということだ。今ならば、10万が20万、30万が50万円だろうか。いや、五万円であれにせよ、我々庶民の「常識」とはかけ離れている。こういう人たちが、マスコミと称して現在も、橋下フィーバーを作り上げたり、原発批判を3-5ヶ月も遅らせたり、しなかったりしているのだ。ああ、書けば書くほど頭にくるので、これについてはもう書かない。この物語の中心的な「事実」、沖縄機密については、一巻目であっさりその真相が書かれる。沖縄返還名協定の際に、沖縄の土地などの復原補償費は米側の支払いとなっているが、事実は日本側の肩代わりのだという「密約」なのである。このとこについては、二巻目でも問題になるだろうし、私もいろいろと書きたいことがあるのであとに譲る。
2011年12月13日
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「峠うどん物語」(下)重松清 講談社上巻の方は9月に読んだのですが、やっと下巻のほうが貸し出しの順番が来ました。峠うどんは、斎場のすぐ近くにある。お客さんは葬式にやってきたけど親類じゃないので直ぐ帰るのだけど、気持ちの整理がつかない人ばかり。そういう中でお爺ちゃん夫婦のお店を手伝いながら中学三年生の淑子はいろいろなことを学んでいく。下巻は淑子の三年生10月から3月、高校受験までの話。「よっちゃん」「なに?」「まだ高校生のうちはめったにないだろうけど、おとなになったら今夜みたいなお通夜や告別式に出なきゃいけないことも増えるからね。覚悟しときなさいよ」「……けっこうつらいね」「でも、それが生きるってことなんだから。人生ってのは出会いと別れの繰り返しなんだからね」いつもなら笑ってしまうおおげさな言い方だったけど、いまはすんなりとうなずくことができる。「アメイジング・グレイス」のメロディーが耳の奥で鳴っているからだろうか。淑子はその日初めておじいちゃんのうどん屋で正式のお客としてかけうどんを啜る。同級生の女の子が受験の日に飛び降り自殺をしたのだ。話したこともない同級生だったから、涙は全然でない。お通夜のあとに食べたうどんの味は……。初めて葬式に出会ったのは、私の中学の入学式の日の次の次の日だった。なぜ覚えているかというと、母方のおばあさんが入学式の日の朝に亡くなり、ちょうどその時に我が家の瓦屋根の上でカラスが何回か鳴いたのである。「不吉だねえ」と話しているときに電話が鳴った。前日の夜まで連日看病に行っていた母はその時朝食を作っていたが、その知らせを聞き泣き腫らしていた。一度も話をしたことのない祖母だった。だから、一切悲しいという気持ちは生まれなかった。と思う。死に顔も見なかったと、思う。新しい制服で葬式に遅れて参加し、親類からちやほやされたのを覚えている。みんな優しかった。それは不思議な空間だった。そのとき、社会をほんの少し垣間見た。「人生ってのは出会いと別れの繰り返し」だっていうことは、今なら分かる。きちんとやっているとはいえないけれど。
2011年12月02日
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「マイ・バック・ページ」川本三郎 兄は、職業上のモラルが重要なことはわかるが、今度の事件の場合、その政治グループは、君がジャーナリストのモラルを持ち出してでも守らなければならないことをしているのか、自分にはただの殺人事件にしか見えないが、といった。 それから兄は、私の顔を見てゆっくりといった。「だって君、人がひとり死んでいるんだよ。何の罪もない人間が殺されたんだよ」(略)兄は最後に「あの事件はなんだかとてもいやな事件だ。信条の違いはあっても、安田講堂事件やベトナム反戦運動、三里塚の農民たちの空港建設反対は、いやな感じはしない。しかしあの事件はなんだかいやな気分がする」といった。(p178-p179)この兄の言葉は、映画では巧みに違う脚本に書き換えられているが、重要な言葉であった。私は今年の6月、山下監督の「マイ・バック・ページ」という映画を見て、最初は川本三郎をモデルとする妻夫木が全共闘運動に全面的に寄り添っており、それを映画でも追認しているというふうに捉え、反発した。しかしながら、今は違うと思う。映画はこの本の中にある一つのエピソード、高校生モデルの保倉幸恵との本の少しの「触れ合い」を大幅に膨らませたものになっていた。その視点は、その保倉に「あの事件はなんだかいやな気分がする」と語らせたことで、明確である。私は映画の「視点」を支持する。そしてこの本の中にあるように、「わたしはきちんと泣ける男の人が好き」(p41)と、保倉に言わせている。これが見事に効いていた。映画では、「きちんと」かどうかは観客に委ねられているが、妻夫木は最後に男泣きをするのである。今年100本以上映画を見たが、邦画のベストワンはこの映画になると思う。一方、本を読んでわかったことは、川本三郎は結局この朝霞自衛官殺害事件だけは「間違った方向」であったことは認めているが、全共闘事件全般は、ぜんぜん間違っていないと思っているということだった。69年から70年にかけて日本の反体制運動は次第に過激になっていった。爆弾闘争も始まっていた。70年の3月には赤軍派による日航機よど号ハイジャック事件がおこっていた。今にして思うと、こういう過激な行動への傾斜は"世界のあらゆるところで戦争が起きているというのに自分たちだけが安全地帯に居て平和に暮らしているのには耐えられない"という、うしろめたさに衝き上げられた焦燥感が生んだものではなかっただろうか。"彼等は生きるか死ぬかの危機に直面している。それなのに自分は平和の中に居る"。この負い目を断ち切るには自ら過激な行動にタイピングするしかない……。(p106-p107)こういうふうに一連の事件を曖昧に「擁護」している。「過激な行動」を「焦燥感」という「個人の問題」に摩り替えているところが、特徴である。川本三郎は朝霞事件で自らの証拠隠滅の罪を認めた直後に起きた浅間山荘事件については、「事件のことを話すのもいやだった。自分の事件のことも、連合赤軍のこともすべて忘れてしまいたかった」と思考停止の状態になっていることを告白している。おそらくこの本を書くまで15年ずっと思考停止だったのだろう。だからその15年後に、全学連議長の山本義隆や京都の滝田修を評価しているのである。私は79年に大学に入った。いわば、10年遅れた世代、しらけ世代全盛のときに人生で最も重要な選択を迫られた世代である。だからこそ、私は彼らに詰め寄る「資格」があると思っている。あなたたちが「全共闘運動とはなんだったのか」真に「総括」しなかったから、(もちろん力不足だったことは否定しないが)私はついに「活動家」になることができなかった。活動をするにはほとんど孤立無援に陥った。「あなたたち」とは誰か。その責任の「一端」は全共闘にだけではなく、そのシンパとして周辺に居た川本三郎たち、あなたたちの未だにこのようなことを言っているところにもあるのだ、と。
2011年11月29日
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「モダンタイムス」(上)(下)伊坂幸太郎 講談社文庫「自分たちのはめ込まれているシステムが複雑化して、さらにその効果が巨大になると、人からは全体を想像する力が見事に消える。仮にその、「巨大になった効果」が酷いことだとしよう。数百万人の人間をガス室で殺すような行為だとしよう。その場合、細分化された仕事を任された人間から消えるのは?」「何だい?」「『良心』だ」「まさに、アドルフ・アイヒマンか、それが」岡本猛がストローで氷をまた、かき回し始めた。「じゃあ、その仕組みを作った奴が、一番悪い奴だ」私は単純に言い切る。「機械化を始めた奴が?誰だよそれは。それに仕組みを作った奴だって、たぶん部品の一つだ。動かしているのは、人というよりは目に見えない何かだ」(上巻P278-P279)なんだかだんだんと伊坂幸太郎が芥川のように思えてきた。頭がよくて、社会の本質を見据えているのに、社会を斜(しゃ)に構えて書くことしかできなかった、そして自殺した人物。この作品の中でも芥川の言葉が印象深く引用されている。「危険思想とは、常識を実行に移そうとする思想である」ところで、芥川の場合、「危険思想」とは「社会主義思想」のことであった。果たして伊坂の場合、どうなのか。「人というより目に見えない何かだ」というのが、私にはマルクスの「人間疎外論」のように思えて仕方ないのであるが。そして「アリは賢くない。しかし、アリのコロニーは賢い」という「国家」というものに、斜(はす)から捉えた小説になった。今回は「魔王」で提示された「独裁者とは何か」ということの伊坂なりのアンサーがある。結局、独裁者でさえ、一つのシステムの中に組み込まれて自由を持っていない。ということになっている。じゃあ、どうすればいいのか。「勇気を持て」「考えろ」ということなたのだろう。しかし、私はやはり伊坂の「逃げ」に思える。今回、本当ならば殺されても自然な主人公たちがのうのうトラストを迎えているというのすごく安易に感じるし、某元大阪府知事の「独裁けっこう」というへんな流れに対して肯定ではないにせよ、斜に構えることしか効果は無いこの小説に対して、少し幻滅したということもある。明日は、このままでは「独裁者」が誕生しそうな雰囲気である。もちろんこの某元大阪府知事も決して信念を持って「大阪を変えよう」と思っていないことは、斜から見れば、見えるほどに見える。それでも「変化して欲しい」と住民が望むというのならば、もう何をかいわんや。いつもの伊坂に比べて、伏線として使われる「名言」が嫌にひつこく使われていて、「切れが悪いな」と思っていたら、どうやら漫画週刊誌の「モーニング」に連載されていたらしい。その読者用に書かれたのだと思い、納得した。結果、同時期に作られた「コールデンスランバー」のような傑作とはなっていない。
2011年11月26日
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「おまえさん」(上)(下)講談社文庫 宮部みゆき男はどこまでも莫迦で。女はどこまでも嫉妬やきだ。どっちも底なしだ。俺はもう勘弁してもらうよ。長い1200頁以上にも及ぶ本格時代推理モノの今回は、本格的な恋のあれこれの話だった。人間の心は底なしである。宮部の小説はいつも長いが、描いていることはいつもその一点だ。雑誌での連載は09年に終わり、後は終章を描くだけになっていたのに、今まで延びてしまい、「申し訳ないから……」と単行本と文庫同時発売になったいきさつは、推測するほかはないが、宮部が恋の落し処に未だ迷っているという証左なのだ、と私は思ったね。同じ年齢(とし)の私が思うのだから、間違いは無いと思うよ。白髪の多い薄い鬢を指で掻いて、源右衛門は初めて恥じ入ったようにうつむく。「やはり、わからん」むしろ学問を続けるほどに、わからないことが増してゆくようだった。「それでも、儂は学問をしてよかった。人というものの混沌が、その混沌を解こうとして生み出した学問が、儂にわからぬことの数々を教えてくれた」
2011年11月20日
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「鷺と雪」北村薫 文春文庫「お嬢様。……別宮が、何でもできるように見えたとしたら、それは、こう言うためかもしれません」「はい?」ベッキーさんは、低い声でしっかりと続けた。「いえ、別宮には何もできないのです。……と」「……」「前を行く者は多くの場合―慙愧の念と共に、その思いを噛み締めるのかも知れません。そして、次ぎに昇る日の、美しからんことを望むのかも―。どうか、こう申し上げることをお許しください。何事も―お出来になるのは、お嬢様なのです。明日の日を生きるお嬢様方なのです」わたしはヴィクトリア女王ではない。胸を張って《I will be good》と即答することはできなかった。 だが、この言葉を胸に刻んでおこうと思った。昭和初期の上流階級の日常に潜む「謎」を解く趣向の「ベッキーさんシリーズ」はこの本にて終る。09年の「玻瑠の天」のとき、あと3年待たないといけないなあ、と思っていたが二年と少しで文庫になった。急いで読んだ。足掛け七年をかけて、英子さんの未来を描いたのだとつくづく思う。最後まで、「日常の謎」を描きながら、一方で「時代」をも描くという難しい課題に挑んだことに敬意を表す。改めて、「ベッキーさんは未来の英子さんなのだ」という宮部みゆきの喝破に敬意を表す。上流階級の純真で賢くて英明な女性の日常の思考の推移をきちんと描いているが、それでも彼女は「外の世界」を少しだけ垣間見る。「不在の父」ではルンペンの世界を、「獅子と地下鉄」では上野を根城にする少年少女の小犯罪集団を、そして「鷺と雪」では2.26事件を。ベッキーさんはずっと思っていたはずだ。「外の世界は大人になれば否が応でも見えるようになる、眼をつぶることのできない女性だからこそ、しっかりと守って生きたい」。と。あそこで終わって正解だった。文庫の解説にはシリーズ全体の構想がどこから出たのか、という「謎解き」がされている。北村薫は、なんと一番最後の場面からこのシリーズを創って来たのだそうだ。なるほど、だから最初の章に服部時計店がでてきたのではある。北村薫は松本清張の「昭和史発掘」のたった数行のエピソードからこのシリーズの着想を得たという。2.26事件について書かれたところである。それは以下のようなエピソードだった(普通の人がここからあのような話を作れるかどうかということは、また別の話)。官邸の電話は一本だけ残して、みんな切った。「その残した電話が銀座の服部時計店の番号と似ていたらしく、ハットリですか、という間違いの電話がずいぶんかかってきた」(石川元上等兵談)
2011年11月19日
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「僕は、そして僕たちはどう生きるか」梨木香歩 理論社この本の題名を知って、先ず思ったことは二つ。吉野源三郎の名作「君たちはどう生きるか」をちゃんとリスペクトしているか。もししていたならば、現代の課題に応えているか。結果は二つともマルだった。主人公はおじさんがつけたあだなの14歳のコペルくんである。それでもう一番目の答は十分。二番目については以下に述べる。梨木さんらしく、ガーデニングの薀蓄はたっぷり出てくるし、登場人物はちょっと14歳にしては大人びすぎているが、後半辺りからそんなことはどうでもよくなる。僕は軍隊でも生きていけるだろう。それは「鈍い」からでも「健康的」だからでもない。自分の意識すら誤魔化すほど、ずる賢いからだ。「いじめ」の問題から、「全体主義」の問題まで通じるような「問いかけ」が、このコペル君の痛切の呟きの中に含まれている。この小さな本の中に、性の商品化も、命の価値も、自然保護の問題も、良心的懲役拒否の問題も、言葉の両義性の問題も、ジェンダーの問題も、忍び寄る軍靴の響きの問題も、大きく小さく「問いかけ」られている。「……泣いたら、だめだ。考え続けられなくなるから」コペル君は決意する。戦時中に、徴兵拒否で洞穴に隠れて暮らしていた人がいた。その人が当時を振り返って言うのである。ずっと考えていた。「僕は、そして僕たちはどう生きるか」「戦時中だったからね、自分の生き方を考えるということは、戦争のことを考える、ってことと切り離せなかったんだね。でも人間って弱いものだから、集団の中にいるとつい、皆と同じ行動をとったり、同じように考えがちになる。あそこで、たった一人きりになって、初めて純粋に、僕はどう考えるのか、これからどう生きるのか、って考えられるようになった。そしたら、次ぎに、じゃあ、僕たちは、って考えられたんだ」平成の時代に相応しい中学生、高校生向け「問いかけ」本が生まれた。今年の四月に刊行されたばかり。これからじわりと読まれていくだろう。もちろん大人にも。
2011年10月24日
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「ソー・ザップ!」稲見一良 角川文庫93年に初版。2008年に再版。それだけ出て埋もれてしまっている癌で亡くなった稲見さんの第二作である。初期の作品は正統ハードボイルドだったと聞いていたが、まさしくビターな味付けだった。命を賭けた戦いをしないか。荒くれ者の集まるパブでそう切り出された四人の男たちが、「死ぬ気なんだな。撃ち殺されても文句ないんだな。人を撃てる、こんな機会を誰が断るか。」と即決で受ける。稲見さんの得意な狩猟の智識、サバイバル、ガン、そして「男の理屈」が満杯の作品である。もっとウェットなラストかと思っていたが、最後まで命のやり取りは本物だった。「遊びはな、真剣にやるもんだ」たぶん、女には絶対にわからない一作。私も、基本わからないけど、狩猟を趣味として、西部劇ばっかりを見て、ガンの専門誌などを十年読んでいたならば、おそらく「即決」しただろうと思う。稲見さんの本で読み損なっているのは、後二冊になった。
2011年10月20日
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【送料無料】峠うどん物語(上)「大事な話ってものは、たいてい辛気臭いものだと思うけどね、私は」「……淑子にはもっと大事なものがあるんだよ、中学三年生なんだから。人が死んだとか、霊柩車がどうだとか、そんなものどうでもいいじゃないか。今は学校の勉強をしっかりやる時期なんだからな」「ひとの生き死にってのは、一生モノの勉強だよ」ぴしゃりと言った。「そんなことわからないで、あんたよく学校の先生なんかやってるね」-みごとに決まった。淑子の祖父母は峠の斎場の前でうどん屋をしている淑子はそれを小さい頃からよく手伝っている。父母はいい顔をしない。峠うどん屋はホントは職人肌のおじいちゃんがつくる飛び切り美味しいうどん屋なんだけど、お客はみんな斎場に来た人ばかりだ。それも、亡くなった人の近親者じゃない、けれどもそのまま帰るには心が落ち着かない人たちばかり、「辛気臭い人たち」ばかりだ。それでも職人肌のおじいちゃんは黙々とうどんを打ち、世話好きのおばあちゃんは気を使い、時々忙しいときに手伝う淑子はそれとなく「一生モノの勉強」をするというわけである。上巻では第四章の「トクさんの花道」がよかった。30年前に別れた妻が認知症で、死ぬ前になってトクさんのことしか言わなくなって会いたがっているという。トクさんは斎場の霊柩車の運転手をずーとしていた。けれども決してトクさんは会おうとしない。その理由が最後になってわかる。全く職人肌の男っていうのは、寡黙である。霊柩車の車というは上のキンキラを外すと例外なくリンカーンだったり、ベンツだったり、高級車ばかりだ。だから利用するのはとてつもなく高い。これは単なる外見のこだわりだとばっかり思っていた。けれども、そうじゃない。トクさんが丁寧に車を運転するテレビ特番の「職人グランプリ」で優勝したように、中の棺を決して動かさないで運ぶにはやっぱり外車じゃないとダメなんだと納得したのでありました。「最後の最後ぐらいは、すごい車に乗るんだよ」というわけだ。珍しく新刊本の感想です。図書館でたまたま借りれたので。けれども(下)のほうはちょっと油断したら予約がいっぱい。下手をすると、半年後になりそうなので、早々と感想をアップしました。
2011年10月10日
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砂漠 (新潮文庫) (文庫) / 伊坂幸太郎「でも」と僕は弁護するような気持ちで言う。「でも、きりがないよ。一匹飼ったって、保護期間の切れる犬は次々と現れる。全部助ける覚悟があるならいいけど。仕方ないよ」と言いながら、僕は西嶋に呼びかけてもいる。西嶋、僕たちは世界を変えるどころか、シェパード一匹助けられないじゃないかと。大学生の北村君はこのように、センターで「処分」される犬たちについては「判断」する。ところが、暫くして西嶋はそのシェパードを連れて北村の前に現れるのである。この辺りが、いかにも伊坂の小説らしいので、読者の私たちはもちろんその強引な展開に文句は言わない。「でもさ、これからも保護期間の切れる犬が出てくるたびに、西嶋は犬を引き取りに行くのか?」「まさか」西嶋は当然のように肩をすくめた。゜どうして俺が全部の犬を助けなくちゃいけないんですか」「はあ」「たまたまですよ、今回は見ちゃったからね、気になったんですよ。次からはもうあのホームページは覗かないことにしたし」この件(くだり)を読んで思い出すのは、九条の会の呼びかけ人だった故加藤周一のエピソードである。彼はたまたま出合った引きこもりの少女に目をかける。未来を見据えて大学で学究生活を送るようになった彼女はのちに言っている。「先生はよく孔子の牛の話もされました。弟子が、一頭のかわいそうな牛を助けたところで他にも多くのかわいそうな牛がいるのだからと言うと、その一頭は私の前を通ったから助ける、と孔子は答えたと言います。ひとつの命を助ける情がなければ、たくさんの命を助ける行動にはつながらないというのです。 その話を聞いた時、「ああ、私は加藤先生にとって一頭の牛だったのだ」と、深い感動を覚えたことがありました。人の命を、それも多くの命を救いたいと願った加藤先生は、目の前の一頭を助けることに尽力を惜しまれなかった。偶然にも私は先生の前を通り、ちゃんと歩けるまでに助けていただきました。」この孔子のエピソードはどこにあるのか、調べたが良く分からなかった。西嶋が(言い換えれば伊坂が)加藤周一になれるかといえば、私は幾つものハードルが必要だとは思うが、しかし、一番必要な点で接近していると、私は思うのである。「世界を変える(砂漠に雪を降らせる)」ことと、「目の前の困っている人を助ける」ことは矛盾しないのである。さて、これは大学生五人組の四年間の友情の物語である。もう何十年も前の大学生活、私と全然違うけど、空気は似通っている。とっても懐かしかった。
2011年10月09日
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「グラスホッパー」伊坂幸太郎比与子は、無知な生徒に社会の仕組みを教えるかのような、丁寧な口調になった。「例えばさ、昔、どっかの銀行が潰れたじゃない」「どっかのね」「それが結局、何兆円もの税金をつぎ込んで、救われているわけ」「それが?」そもそもこれは何の話だっか、と見失いそうになる。「そうじゃなかったら、あれ、雇用保険ってあるでしょ。会社員が納めてるやつ。あれのうち、何百億円も、無駄な建物の建設に使われているって知ってた?」「ニュースで聞いたかも」「何百億円もかけて赤字しか出さない無駄な建物を造ってるわけ。変でしょ。そのくせ、雇用保険の財源が足りないって言うんだから、腹が立つと思わない?」「腹はたつけど」「それなのにさ、そういう無駄遣いをさせた奴は罰せられない。何百億円、何兆円の税金を捨てても怒られない。おかしいでしょ。なぜだか分る?」「国民が優しいから?」「偉い奴らが黙認しているからだって」比与子は人差し指を立てた。「世の中は、善悪じゃないんだから。ルールを決めているのは、偉い奴らでしょ。そいつらに保護されちゃえば、全部問題ないってこと。」(略)伊坂の面白さは、一見何のつながりもないようなこのような会話から、物語が端緒が生まれるところだったり、切れ味鋭い社会批評が聞けるところだったりするところではある。最初は、このような「偉い奴」が表のルールで跋扈する社会の中で、裏で彼らを始末する「闇の仕掛け人」の話かと思った。自殺をさせる「鯨」、ナイフの名人「蝉」、交通事故で人を殺す「押し屋」が、次第と連帯を見せて、「鈴木」さんを狂言回しにし、てやがて「巨悪を倒す」話なのかと思った。ところが、現代では「仕掛け人」なんて流行らないんだとばかりに殺し屋同士が殺しあう話になったのであった。殺伐とした現代、グラスホッパーとはバッタのことだ。バッタも都会のように密集で生きるようになると凶暴な「イナゴ」に変化することが物語の中で述べられる。この作品の発行は2004年だ。伊坂の社会を見る目は「まっとう」だと思う。一方では、伊坂はけっして社会をどうこうしようとは書かない。闇の仕掛け人を活躍させて、せめて庶民に憂さは晴らせるような方向も、目指さない。伊坂が描くのは、結局社会の巨悪を説明しても「(見逃すのは)国民が優しいから」と呟いてしまう鈴木さんのような庶民の右往左往と、殺された可愛い奥さんのために命をも投げ出す鈴木さんの「愚かで小さな決意」なのである。伊坂作品で、鈴木さんが生き残るのは偶然じゃない。それこそが伊坂幸太郎の「小さな決意」だと思う。
2011年09月24日
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「新世界より」(下)貴志裕介 講談社物語は後半になって、さらにスピードアップする。そして主人公たちの命を懸けた冒険があって、大きな悲劇があって、切ない真相があって、意外な(私にとっては想定内の)真相があって、静かな余韻を持って終る、つまりはエンタメなSF大叙事詩であった。一応、この一千ページを超える小説の一番最後のセンテンスを書き記す。この手記は、当初の予定通り、原本と複写二部をタイムカプセルに入れ、地中深く埋めることにする。そのほかに、ミノシロモドキにスキャンさせて、千年後に初めて公開できるような手段を講じるつもりだ。わたしたちは、はたして変わることができたのだろうか。今から千年後に、あなたが、これを読んでいるとしたら、その答を知っていることだろう。願わくば、その答えがイエスでありますように。 245年12月1日。 渡辺早季蛇足かもしれないが、最後に全人学級の壁には貼られていた標語を、ここに記しておきたい。想像力こそが、すべてを変える。ここにある「想像力」とは、本来は「呪力(超能力)をコントロールする力」ということを意味しているだろう。しかし、作者が言いたかったことは、おそらく別のことである。つまり「私がここまでの世界を想像力ひとつで作って見せた。ぜひみんなも続いておくれ」という意味なのだろう。「人は実現可能なことしか想像することはできない」と言ったのはマルクスだったか。だから私は想像してみる。早季はなにを変えようとしていたのか。早季の世界では、日本はわずかに9つの小さな村しか残っていなかった。彼女はこの村通しの交流組織を作ろうとしていた。そしてその足かせになる遺伝子レベルまでに組み込んだ攻撃抑制と愧死機構(同属の人間を殺す気持ちも起こさないし、もし間違って殺してしまうと自分も死んでしまうという究極の殺人抑止機能)を捨てるという決断をしようとしていた。その結果、この1000年の間に起きた超能力者通しの支配関係と戦争の時代がまた起きるかもしれないということを覚悟しつつも、だ。小説を読んでいない人にはわかりにくいが、結局人間は自分たちの「生」に「鎖」をつけて生きていただけなのである。それはあらゆるところで矛盾を起こしていた。それが結局は、この小説の内容だった。これを捨てることは非常に危険な賭けだ。しかし捨てることで、人類はどこへでもいける「自由」を持つことが出来る。つまらない「地球の支配」などには目もくれず、もしかしたら「宇宙開発」にやっと本格的に進出するかもしれない。早季と覚はこのような言葉を交わす。「ときどき、呪力は、人間に何の恩恵も与えなかったんじゃないかって、思うことがあるわ。サイコ・バスター入りの十字架を作った人間が書いていたみたいに、悪魔からの贈り物だったのかもしれないって」「僕は、そうは思わない」覚はきっぱりと首を振った。「呪力は、宇宙の根源に迫る神の力なんだよ。人間は、長い進化を経た末に、ようやく、この高みに達したんだ。最初は、確かに身の丈にそぐわない力だったかもしれない。でも、最近になって、やっと、この力と共存できるようになってきたんだ」この二人の会話は象徴的である。呪力は1000年の間に人類の人口の九割以上が死滅するという大惨事を起こす。その過程で自らを縛ったのが、攻撃抑制と愧死機構であった。一方、呪力はエネルギー保存の法則が基本的に通用しない。達人になれば、呪力が持つエネルギーは基本無限大である。良く分からないが、作者は呪力をブラックホールとホワイトホールの関係のように捉えている節がある。そうだとすれば、ヘタをするとひとりの呪力の暴走で地球が滅亡することもありうるだろう。一方、これをきちんとコントロールすれば、人類は宇宙で大活躍が出来るかもしれない。この「力」は、きちんとコントロールさえすれば、たった一人で全地球を賄うくらいのエネルギーが出るので、エネルギー問題は解決だ、しかし、原発の安全神話が嘘っぱちだったように、「この高みに達した」かどうかはよっぽど疑ってかからねばならない。いや、「指輪物語」のように、それを棄てる「知恵」も持たなくてはならないのかもしれない。その覚悟を持つことが、が3.11以降の「人類の義務」だと思う。わたしたちは、はたして変わることができたのだろうか。今から千年後に、あなたが、これを読んでいるとしたら、その答を知っていることだろう。願わくば、その答えがイエスでありますように。
2011年09月21日
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「新世界より」(上) 貴志祐介 講談社上巻だけでも498ページ、1000年後の未来の日本、利根川の近くに住む少年少女たちの話である。ひとりの少女が大人になり、自分たちの若いころの話を小説という型式で後世に残そうという試みの体裁になっている。彼等は呪術という「超能力」を使える。なぜか結界の外に出てはいけないことになっている。幾つかの謎が上巻で語られ、次第とスピードアップしていくエンタメ作品である。日本SF大賞受賞。少女たちが、私たちが古代という時代もひっくるめて現代を「古代」と呼んでいるのが、なんかおかしい。大きな断絶があるのと同時に、幾つかの地名や固有名詞はそのまま引き継がれており、連続もある。その辺りのさじ加減がぞくぞくする。設定は全く違うのであるが、この「世界」が原発事故後の日本のように思えて仕方ない。一番重要な仕事としての「子供たちの教育」「管理された世界」「外の世界の異様性」。下巻が楽しみである。
2011年09月16日
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」「遺作集 花見川のハック」稲見一良 角川文庫かつてこの著者の「セントメリーのリボン」を私は年間ベストワンに推したことがある。それほどまでに、彼が書く小説は衝撃的だった。今回、ネット販売で古本を手に入れることが出来ると知り、三冊ほど買い込んだ。これで生涯著作全六冊のうち五冊まで読むことが出来る。稲見一良(いなみいつら)、1931年大阪生まれ。テレビCF、記録映画の記録製作などに携わり、84年肝臓がんの宣告を受けてのち、本格的執筆活動に入る。91年「ダック・コール」で山本周五郎賞を受賞。他著に「男は旗」「ダブルオー・バック」「ソー・ザップ」など。94年逝去。稲見一良は10年生きた。何度も手術を繰返しながら、最後のほうの「鳥」などは原稿用紙一枚、ほとんど「詩」である。それでも男として生き切った。その足跡に痺れたのだと思う。最初の頃は正調ハードボイルドで、絶望的に終わるのが多かったという。ところが、私の読んだのはそこから転調した頃の作品だったと思う。ベースにハードボイルドをおきながら、内容を大人のファンタジーに変えているのである。この短編集は最晩年の短編ばかりを集めている。本来ならば、もっと膨らませて長編なり、中篇なりにすべきプロットが、短いセンテンスのいかにもハードボイルドっぽい文章でまとめられている。そして私たちを最後のページで飛翔させておわるのである。「オクラホマキッド」は、映画好きという共通事項で知り合った孤児のような少年と金持ちの老作家の交友が、ふとしたキッカケで「自衛隊から戦闘機を盗もう」という遊び心を持つようになり、それを真剣に実行に移す話だ。戦闘機はまんまと盗み出す。もちろん現実では、そのまま済む話ではない。けれどもこの短編は最後の一行でそれをファンタジーと化してしまった。「可音、オクラホマに行くぞ」「花見川のハック」はその可音をそのまま10歳の少年のハックとして登場させ、花見川を遊び場とする話である。川沿いにつくる秘密の隠れ家。アヤメとの出会い。花見川の自然があくまでも具体的で、綿密なものだから最後の文字とおり「飛翔」が切ない。「煙」はその花見川で、狩猟解禁の日にカモやコジュケイを撃ちに来た父子の姿をえんえんと写す。秋の早朝、父は息子に狩猟の礼儀、タイミング、取った鳥のさばき方等の技術を見せて、銃は息子に受け継がれることなどを示唆し、とづぜん最後の数行に移る。 パパはそれから10年生きた。再発を繰返して、三度腹と胸を切った。 パパは衰弱しきった顔でぼくを見つめながら、「ああおもしろかった」と一言言って死んだ。著者は死ぬ当日の朝、娘さんに「煙」を読んで聴かせて欲しいと頼んだそうだ。ストーリーがストーリーだけに、声をつまらせ読むことが出来なかったという。 見事なハードボイルドだったと思う。見事なファンタジーだったと思う。
2011年09月14日
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「チヨ子」光文社文庫 宮部みゆき宮部の単行本未収録の短編集である。ホラー&ファンタジーに統一されていて、500円ぽっきりのお得な一冊。何度も書いているが、最近の宮部の作品は描写が密に入りすぎて、かえって「物語にしてやられた!」という余韻を持つことは少なくなった。でも彼女の短編は本来そのようなストーリーテラーの本領を発揮した名作が少なくなかった。連作ものの「ファーザー・ステップ・ファーザー」や「長い長い殺人」、あるいは「とり残されて」等、すばらしいものがたくさんあった。しかしそれらも15年前の「人質カノン」を最後に途切れていた。今回の五編のうち私は「雪娘」と「オモチャ」が良かったと思う。特に後者は「泣けるホラー」である。思うに宮部の面目躍如であろう。最後に載っている最近作「聖痕」(2010)は力作だけど、彼女にはこの「方向」に入ってほしくない。もちろん彼女が神がかって救世主物ばかり書く平井和正みたいになる心配は、さらさらしてはいない。けれども「英雄の書」も似ているらしいが、「ドリームバスターズ4」もそうだったが、人の精神のアヤに入り込んで抜け出すことができないような、そんな世界に行ってほしくない。確かに、精神病もそうだし、心理モノはみなそうだが、人の心の中にある「まだ知られていない扉」は物語の宝庫だと思う。けれども、それは一方では黄泉の国に入った或お妃のようにいつの間にか怪物になっていってしまうのではないか。と私は心配するのである。
2011年08月24日
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「渚にて 人類最後の日」ネヴィル・シュート 創元SF文庫「それに対して、どんな手立ても取れないというの?」「そうだ。人類が対抗するには規模があまりにも巨大すぎる。ただじっと受け止めるしかない」「わたしはいやよ」モイラは強い調子で言った。「そんなのおかしいじゃない。南半球じゃだれも核兵器なんか使ってないんでしょ。水素爆弾だろうがコバルト爆弾だろうがそのほかのどんな爆弾だろうが、オーストラリアはぜんぜん発射なんかしてないじゃないのよ。なのに、一万キロも二万キロも離れた国がやり始めた戦争のせいで、どうしてわたしたちが死ななきゃならないの?ほんとにバカげた話よね」「きみのいうことはもっともだ」とタワーズ。「だがどうしようもない」1957年の作品である。第三次世界大戦によって、核兵器戦争が起こり、先ず北半球が全滅したあとの世界を描いている。時は1957年オーストラリア、クリスマス前。現代の映画界では年に五本以上は作られる「世界滅亡モノ」である。しかし、けっして英雄が現れて世界を救ったり、宇宙人が現れて選ばれし者を連れて行ったり、宇宙船で逃げたり、タイムパラドックスが起きたり、あるいは地獄と化した世界で少数の人間が桃源郷に逃げ込んだり、延々と非人間になった人間から逃げる話ではない。最初は極めて普通の日常が描かれる。だれもパニックになってはいない。まだテレビ時代ではないので、世界から届く情報はほとんどない。しかし、まるで桜前線のように放射能前線が次第に南下しているということだけはみんな知っているのである。北半球のどの都市も、タワーズ艦長の赴く原子力潜水艦の調査ではほとんど従容として全員死を受け入れたように思える。年が変わってやがて三月ごろになると、みんな九月には死んでしまうだろうと分かってくる。誰もそれから逃れようが無い、という前提でこの小説が書かれている。登場人物たちは誰一人われを忘れてパニックになったりはしない。それぞれのやり方で死んでいくのである。現代はおそらくそうではない。おそらく極めて早いスピードで情報が飛び交い、僅かだが確実に生き延びる知恵が人類共通のものになり、大パニックが起きるだろう。だからこのような小説や映画はもはや過去のものなのだろうか。そうではない。そうではなかった。鏡明は解説でひさしぶりに「この作品を読んで、ほのぼのとした気分になったと言った。「渚にて」が変わったのではない。世界が変わり、私も変わったのだろう」と書いた。改訂新版が出た2009年ならば、たしかにこのような感想を持つことは当たり前だった。私もほのぼのとした気分で読んだかもしれない。(たった、2年前だけど、なんて過去のことに感じるのだろう)2年前の情勢とはつまりはこうだった。世界はさらに緊迫度が増している。当時では「核戦争だけ」が世界滅亡の危険要因だった。しかし、半世紀が過ぎて地球温暖化、水、食糧問題、そしてエネルギー問題と滅亡要因はますます多様化複雑化していた。この小説のように単純に滅亡を迎えることが出来るのは、むしろ幸福かもしれなかったのである。そしてフクシマが起きた。私はもはや、他人事の風景としてこの「滅亡を迎える日常」を読めない。(自分の知らないところで始まった原発ムラのミスのせいで)「どうしてわたしたちが死ななきゃならないの?ほんとにバカげた話よね」と絶望を叫ぶ子供たちの心像風景を私たちは知った。(自分たちが去っていっても残る牛たちのために)どうしたら「1頭に付き1日半俵の乾草」を確保するべきか悩む酪農家を私たちは現実に見ている。主人公の二人の男女はお互いに愛し合っている。けれどもけっして性的な関係を持とうとはしない。男性には北半球に妻と子供がいて、それを裏切ることが出来ないとお互い知っているからである。「もしこの先、ずっと人生があるなら、話は違うでしょうけどね。それなら奥さんを泣かせてでもドワイトを手に入れる価値はあるかもしれないわ。そして子供も作って家庭を持って、一生を共に暮らすの。そうできる望みがあるなら、どんな犠牲も厭わないわ。でもたった三ヶ月の楽しみのために奥さんの名誉を傷つけるというのはーしかもその先に何も残らないというのはーとてもその気になれないわね。」……少し内容は違うが、人間は「誇り」をもてるのだ、ということを我々はこの五ヶ月いたるところで見た。私は今回、鏡明とは違い、暗い気持ちでこの小説を読み終えた。「「渚にて」が変わったのではない。世界が変わり、私も変わったのだろう」。「"戦争の時代"といわれた20世紀が終った。冷戦は終結したが、その余波は別の形で多くのところに現れている。(略)未だ終らない核の恐怖。21世紀を生きる若者に、ぜひ読んで欲しい作品だ」と故小松左京はまるで遺言のように帯で書いていた。「誰もこの戦争を止められなかったの?」(略)「新聞だ」とホームズは答えた。「新聞によって人々に真実を知らせることは可能だったはずだ。だが、どの国もそれをやらなかった。わがオーストラリアでさえだ。それこそわれわれの誰もが愚かすぎたからだ。われわれ国民は水着美女の写真や暴力事件の見出しなんかばかりに目を惹かれしまっているし、政府は政府で、そんな国民を正しく導けるほど正しくは無かった」メアリはまだよく理解できないという表情をしながらも、「じゃ、このごろはもう新聞がなくなって幸いだったってことね。たしかに、あんなものないほうが毎日楽しかったわ」この後、映画の「渚にて」を見た。1959年作品。グレゴリー・ペックがタワーズ艦長、モイラはエヴァ・ガードナー、小説では技術士官に過ぎなかったジュリアンにフレッド・アステアを配し、彼の発言によって明確に反核映画になっている。舞台は1964年になっていて、最後の誰もいない町に横断幕「兄弟よ、まだ時はある」がたなびいているところで終わる。
2011年08月17日
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図書館革命 角川文庫 有川浩あらすじ原発テロが発生した。それを受け、著作の内容がテロに酷似しているとされた人気作家・当麻蔵人に、身柄確保をもくろむ良化隊の影が迫る。当麻を護るため、様々な策が講じられるが状況は悪化。郁たち図書隊は一発逆転の秘策を打つことに。しかし、その最中に堂上は重傷を負ってしまう。動謡する郁。そんな彼女に、堂上は任務の遂行を託すのだった―「お前はやれる」。表現の自由、そして恋の結末は!?感動の本編最終巻。 まあ、なんていうか物語のほうは置いといて、表現の自由をテーマにこんな小説が成立してしまうという現代はどういう時代なのだろうか。こんな小説をも許される自由な世界なのか、それとも小説家のアンテナがこういうテーマを選んでしまう危機的な世界なのか。昨今の石原、橋下某小皇帝たちの言動を見ていると、後者のような気がする。児玉清の巻末特別対談も最終回になった。どうしても納得いかないのが、ついに最後まで著者は文庫版あとがきでこの対談相手への追悼の言葉を語らなかったことだ。三巻目、四巻目は充分間に合ったはずなのに、である。それが単に著者の美意識ならばいい。検閲ではないが、会社側からの何らかの圧力がないのならばいいのだが。収録は三月の初めだったという。既に死を意識していたと思うのであるが、それを微塵も感じさせない。ともかく好きな本を褒め上げ、著者を立てるという姿勢に徹している。ものすごいプロ意識であった。
2011年07月12日
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今日は水曜日、一週間で一番「疲れた」という言葉が飛びかう曜日らしい。ちょっと疲れたので、いいかげんな書評でお茶を濁します。「騙し絵 日本国憲法」清水義範 集英社まずい、変なものを手にとってしまった。のちに作者はこの小説のコンセプトをこのように言っている。「真面目に考えて不真面目に作品にする」「21の異なるバージョンによる全文」があったり、第九条を1946年と1996年で分けて小説化してみたり、憲法の条文をいろいろな寄せのパロディで作ってみたり、工夫している。それはそれで面白い試みなんだけど、一応憲法なので、小説大変面白くございました、と簡単に済ませれないのが私の悪い癖である。だから小説の裏読みをしようとすると、とてつもなく面倒で長い時間がかかって、なおかつこの記事も長くなって、なおかついつものように分かりにくい記事になってしまうことは目に見えて明らかだった。しかも、図書館で借りたものだから、期限があさってに迫っている。というわけで、やっぱり大変面白うございました、という一言で済ませてしまおうと思う。96年の発行だから、当然既に文庫版が出てヘタをすると絶版になっているかもしれない。機会があればきちんと向かい合いたい。特に第三章「ハロランさんと基本的人権」はとっても挑発的な小説。この「変な外国人」のハロランさんの憲法論に対して、「誰が批判しようとかまわないけど、お前にはこの憲法は「ひとつの大嘘」だとは言われたくない」と大変反発しました。一応挑発には受けて立ちたいと決意表明をしておく。
2011年07月06日
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「地を這う魚」吾妻ひでお 角川文庫名作「失踪日記」のあと、やっぱりまだまだ「鬱」から抜け切れなかったり、アルコール依存症の再発恐怖を背後に持っていたりする危うさを持ちながら、初めて自伝的なマンガを描いたのがこれ。内容的には70年当時彼が憧れていた永島慎二の「黄色い涙」の世界なのであるが、吾妻は吾妻らしく男はすべて動物や爬虫類、景色はいつも魚が飛んだり這ったり化け物だらけの世界、自分と女の子だけ人間という吾妻ワールドになっいる処がとっても面白い。69年から70年にかけて、アポロ11号の月面着陸や東大紛争、万博があった年であるが、いつもカネがない吾妻くんは山手線をぐるぐる回って宿としていたり、仕事行くのに電車賃足りなければコーラのビン一本5円を集めて40円にして行ったり、毎日25円のラーメンを食べたり、大判焼き6個50円をカロリー源にしたり「懐かしい」(?)世界がぐるぐる出てきている。しかし、背景の化け物の世界を描き込まないと気が済まない様な病的な強迫観念を感じるのは私だけだろうか。吾妻さんの健康、大丈夫だろうか。いや、放射能がうようよしている異世界。化け物だらけのこの世界、現代の東京だといえば、その通りかもしれない。今日の呟きからジャーナリストの鈴木さんはしばらく郷土へ里帰りをしていたようです。kou_1970 鈴木 耕 人間は強いのか弱いのか。多くの死者が出た場所のすぐそばでは、普通の日常の暮らしが始まっていた。その限りでは、かなりがんばって復旧作業はなされているようにも見える。しかしその一方で、多くの人たちが逃れ、また自殺者もかなり出ているとも…。ほんとうに、人間は強いのか弱いのか… kou_1970 鈴木 耕 玄海町周辺30キロ以内のの10市町村が、玄海町岸本町長の「暴走」に困惑しているらしい。特に、玄海町を取り囲むような位置にある唐津市の坂井市長は「安全性への不安は払拭されていない」と反対の意向。佐賀県伊万里市や福岡県糸島市も疑念を表明。当然だと思う。kou_1970 鈴木 耕 「いま動いている中で、もっとも危険なのは玄海原発1号機」と井野博満東大名誉教授(金属材料学)東京新聞7月2日。運転開始から35年が経ち、原子炉の金属がひどく脆弱化している。もし地震などでECCS(緊急炉心冷却装置)が作動し急激に冷やせば破断のおそれ」と警告。東大にもまともな人も。ずっと原発問題を追ってきたジャーナリストの鈴木さんの呟きを見ていると、「世界の終わり」に対して、絶望と希望をいつも交互にか感じていているのが分る。
2011年07月05日
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「図書館危機」有川浩 角川文庫「ちょっと背伸びをした少女マンガ」だとか「私は小説でマンガを読みたくない」だとか、このシリーズに対して悪口を言いまくっているのを反省して、今回は褒めてみようと努力してみた。そもそも面白くなければいくらなんでも買ってまで読みはしない。設定は「図書館戦争」のときに書いたので繰返さない。たとえそれが荒唐無稽のお話だとしても図書館が舞台の小説なんて、本好きには堪らない設定なのは間違いない。バックヤードの作業とか、レファレンスの基本とか、さりげなく出てくるのが面白いのですね。しかも、主人公たちは本の検閲から身体を張って表現の自由を守ろうとしているのだから、それだけでもう無条件に彼らに肩入れをする自分がいるわけです。一方彼等は特殊部隊(タスクフォース)ですから、基本的に自衛隊の日常を描いているようなものです。これも今までの小説に無かった設定です。そういう知的好奇心をくすぐるところがあるわけですね。今回は「言葉狩り」が大きなテーマとして出てきています。所謂「差別語」として規制されている言葉はどうして規制されているのか、という問題です。ここでは、「床屋」という言葉が差別語として入っていて、それを逆手に裁判を起こしてメディア良化委員会に一矢報いようとする展開です。後であとがき見てびっくりしたのは現在でも「床屋」は自主規制語に入っているということ。多くの床屋さんは自分の職業の名前に誇りを持っている人も多いと思うだが、メディアというものは一旦誰かが「自主規制」をしだしたらその内容にはかまわずに「差別語」となっていく法則があるらしい。恐ろしいことに、これは「いまそこにある危機」なんです。みんなが大震災や原発に心奪われ、TVが菅が辞めるか否かでどたばたしているときに、6月16日知らないうちに「コンピュータ監視法」なるものが参院法務委を通過した。私もまだよく分っていないが、大変なことになる可能性もある。「コンピュータ監視法」参院法務委で可決、成立へ(情報紙「ストレイ・ドッグ」(山岡俊介取材メモ)共産党以外全部賛成したというから、当然みんなの党の堤美果さんの夫も賛成しているということだろう。ホントにいいの?堤さん。彼女は言っていた。「9.11の教訓として、国民全体がパニックに陥っているときおかしな法律が通る。」
2011年06月22日
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「図書館内乱」有川浩 角川文庫前回の感想に「内乱と見紛うような「戦争」をしておきながら、それが単なる検閲をめぐる攻防であるところが味噌」と書いたが、今回のお話はその「内乱」の話ではない。次第と明らかになる図書館をめぐる組織の力関係の話である。(「BOOK」データベースより)図書隊の中でも最も危険な任務を負う防衛隊員として、日々訓練に励む郁は、中澤毬江という耳の不自由な女の子と出会う。毬江は小さいころから面倒を見てもらっていた図書隊の教官・小牧に、密かな想いを寄せていた。そんな時、検閲機関である良化隊が、郁が勤務する図書館を襲撃、いわれのない罪で小牧を連行していく-かくして郁と図書隊の小牧奪還作戦が発動した!?書き下ろしも収録の本と恋のエンタテインメント第2弾。そういう「見世物」を描きながら、結局「エヴァンゲリオン」等でも良く描かれる美少女美青年の若者が私生活では自分たちと共感できる悩みを抱えながら、対外的には実はとても優秀であるという、アニメにありがちな「キャラクター」モノの世界を描いている。これ絶対アニメに向いているなあ、と思ったら既にアニメとして完結しているらしい。巻末の児玉清さんとのトークインタビューを読むと、有川浩は典型的な「ライブ派」作家らしい。つまり、最初から細かな計算をせずにキャラクターが動き出したらその動きに任せるという書き方である。それはそれで分かりやすい。主人公が突拍子も無い動きをしたら、回りがそれに釣られて感動したり、反発したりするのである。そこに細かな心の動きが入るから分かりやすい。有川浩が38歳の女性だと聞いてなるほどなあ、と思う。「阪急電車」の時には女性のような感覚を持った男性作家だなあ、と思っていた。ところが思いっきり女性でした。この世代、思いっきり「エヴァ世代」なのである。しかし、そうなると悪人はその心の動きが読めない人間ということになる。手塚光の兄の手塚慧などはその典型だろう。私は小説でマンガを読みたくは無い。けれどももうシリーズを読み出したので、最後まで行かない気がすまないという気持ちにもなっている。児玉清さんの最後のインタビュー記事もおそらく四巻まで繋がっている様なのでそれも気になる。今日は暑かった。
2011年06月21日
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「図書館戦争」有川浩 角川文庫よくもまあ、こんなとっぴな思い付きをしたものだと思う。思いつきのきっかけは近所の図書館に掲げてあった「図書館の自由に関する宣言」のプレートだったらしい。彼女のだんなが見つけたらしいが、このわずか五箇条から、この一冊だけでなくどうやらシリーズ六冊を書いたことに敬意を覚える。その宣言とはこれである。たぶん一図書館の志をいたずら心で宣言したのだろうとは思う。シリーズ一冊目はこれがそのまま章立てになっている。図書館の自由に関する宣言。一、図書館は資料収集の自由を有する。二、図書館は資料提供の自由を有する。三、図書館は利用者の秘密を守る。四、図書館はすべての不当な検閲に反対する。図書館の自由が侵される時、我々は団結して、あくまで自由を守る。「すこしいさましいな」という感想から、図書隊という独立武装組織を発想するのである。以下ブックデータより2019年(正化31年)。公序良俗を乱す表現を取り締まる『メディア良化法』が成立して30年。高校時代に出会った、図書隊員を名乗る”王子様”の姿を追い求め、行き過ぎた検閲から本を守るための組織・図書隊に入隊した、一人の女の子がいた。名は笠原郁。不器用ながらも、愚直に頑張るその情熱が認められ、エリート部隊・図書特殊部隊に配属されることになったが…!?番外編も収録した本と恋の極上エンタテインメント、スタート。警察や自衛隊ではなく、良化特務機関と図書隊との「検閲」をめぐる武力抗争であるところが、「ありえるのかなあ」と思ってしまうが、なんとまあすれすれありえているのである。以下のような細部の設定も作っているので、まあ許しちゃおうかなとも思ってしまう。 検閲対象施設外の公共物や個人資産を射撃で破損した場合、その補償は「中から外へ」向かって撃つことが必然の図書隊の負担になることが多い。実際には特殊な損害保険で処理するが、損害実績は保険料の値上がりに直結する。近年保険料は値上がりの一途を辿っており、図書隊の予算をかなり圧迫している。 一方「外から中へ」向かって撃つ良化部隊は被害を拡大する心配もなく、また国家行政組織であるため図書隊とは比べ物にならない予算を確保しており、射撃を躊躇する必要はない。懐を気にしなくていいのは図書隊からすると羨ましい限りだ。内乱と見紛うような「戦争」をしておきながら、それが単なる検閲をめぐる攻防であるところが味噌である。この作品が発表されたときには、某首都都知事のマンガ規正条例は情報さえなかった。絵空事として書かれていたことが(まさにこの小説は絵空事であることを祈りながら書かれているのであるが)、それが現実化していることの「大いなる皮肉」が現代なのであった。今年の三月に収録したという著者と児玉清さんのインタビューが巻末にある。三月というと、すでに胃がんの告知の直後である。そういうことをまったく感じさせない「本好き」の児玉さんの知見がここにある。そういう意味では貴重な文庫になった(もしかしたら絶筆インタビューかも)。二巻目にもインタビュー後編が載っているらしいので、話の内容はちょっと背伸びをした少女マンガを超えていないので辟易するのであるが、一応読んでおこうと思う。
2011年06月20日
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「流星の絆」講談社文庫 東野圭吾分厚い本ですが、さくさくと読めます。既にテレビドラマ化されているとのことで、三兄弟のキャストは後で知りました。私としては、長男に玉山鉄二、次男に小池徹平、長女だけはどこかで記憶があって戸田恵梨香をイメージしていた。実際は長男二宮和也、次男錦戸亮、長女は戸田恵梨香だったらしい。二宮だと線が細すぎる気がするのだが、そこそこ視聴率は稼いだということである。あんまり感想はない。これが「東野作品史上、売り上げNO1」というのだから呆れる。それに釣られて買ってしまった私にも呆れる。要は両親がが殺されて孤児になって詐欺師になった三兄弟が、自分たちの敵にめぐり合って自分たちの悪事がばれないように警察に知らせようとする話なのである。小さい頃に起こった原因と、貧乏人が金持ちに復讐しようとする構図は古い日本映画によくあったし、韓国ドラマでは定番である。少し目新しいのは、そこに長女と敵の一人息子との恋が絡んでくるところぐらいだろか。でも誰かが発想しても全然おかしくない。戸田恵梨香はピッタシのキャストだったと思う。最後の種明かしは少し強引ではないか。どこかで分かるような伏線があったろうか。私はなかったと思う。確かに戸神政行が犯人であるというのは、弱かったと思う。でも違うと言い切れないミスリードの材料だけが出ていた。それを否定するだけの材料をちゃんと出して欲しかった
2011年06月11日
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「長い散歩」安藤和津 学習研究社安藤和津は奥田瑛二監督の奥さんである。最初映画「長い散歩」の映画と同時期に作ったノベライズかと思った。あるいは、脚本家による小説なのかと。しかし、読み終わった後に奥田監督のあとがきを読んで分かったのは、まったくの独立した小説らしい。監督が「書いてみないか」と提案し、安藤さんは時には監督に色々聴きながら、小説世界を作ったらしい。だから、映画は映画、小説は小説としてみる必要がある。映画の中で、サチが熱いものを嫌がる理由をワタルが簡単に見抜く場面がある。映画的作法では、そのことは物凄い大きな事件だったのであるが、小説のなかではさらりと描かれている。松太郎の「人間として不足している部分」はそのような映像ではなく、独白の中でゆっくりゆっくりと彼に覚らすのではある。よって、あの映画は主に安田松太郎の視線だけで作っているのに対し、この作品では時には少女のサチの視線で、あるいは母親の真由美の視線で、松太郎の娘亜希子、妻の節子、あるいは旅の途中で知り合った帰国子女のワタルの視線を実現する。あの映画は名作だった。どこが名作かといえば、わたしの書いた記事を読んで欲しい。しかし、唯一不可解なシーンだったのはワタルの自殺だった。この小説では、それを衝動的な自殺だったと描いている。それはそれで一応納得はしたのであるが、映画の欠点を拭った感がしてならない。松太郎の過去も、小説らしく詳細に描かれる。映画ではなぜあそこまで松太郎を嫌うのか突発な感があったが、単に母親を追いつめてアルコール依存症にさせただけではないということも分かった。思春期のプライドをずたずたにしたのである。松太郎は本当には自分の罪が分かっていなかった。サチとの長い散歩も、これをすれば罪になる等何もかも自覚した上での行動ではなかった、しかし、そのような無様な姿のほうが、私にはリアルではある。校長まで歴任した男の巡礼の旅とも言えるサチとの「長い散歩」は、やはり彼にとっては大きな財産になるだろう。あの映画を豊かにするためには、格好の小説だった。監督の妻もやはり只者ではなかった。「CNNデイウォッチ」の元キャスターらしいが、私は顔は知らない。
2011年06月06日
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「ゴールデンスランバー」伊坂幸太郎 新潮文庫伊坂幸太郎は仙台在住の作家であるが、今回の震災に関しては特別なアクションはおこしていないようだ。彼はクールな人間だから、いつの間にかしらっと今回の未曾有の災害をテーマに小説も書くのかもしれない。伊坂幸太郎は直木賞に嫌われている。これほどまでに人気作家で、かつ新しい世界を作っているのにも拘らず、直木賞を受賞する気配がない。この作品に関しては、特にわざと避けられたのではないか、と勘繰りさえする。なぜならば、とても危険な小説だからである。監視社会、マスコミ操作、アメリカの影という一種巨大な組織の力が背景に描かれる。普通の小説と違うのは、全く普通の人間がその生贄として選ばれ、彼にはその巨大な「力」と闘う方法も、度胸も、その気さえないということだ。普通の小説ならば、その他大勢として小説の前段階で消されるべき人物である。ところが彼は逃げおおせる。これは今現在「巨大な力」がもしあれとすれば、最も危険な筋書きのはずだ。どうも陰の力が働いて、特にこの作品に限ってでも、伊坂にまともな賞を取らせるな、という陰謀が企てられても可笑しくはない。ところが、世の中は上手く行かないもので、本当に面白い作品には、辺境から評価されるものである。山本周五郎賞と本屋大賞のダブル受賞はそのようにして起こり、出版から二年と少しで映画化されてヒットするということも、「巨大な力」の想定外のことであったに違いない。……というような妄想は置いといて、映画を見て十分に筋立ては知っているのにも拘らず、大変楽しむことができた。「人間の最大の武器は、習慣と信頼だ」「オズワルドにされるぞ」「いいか、青柳、逃げろよ。無様な姿を晒してもいいから、とにかく逃げて、生きろ。人間、生きててなんぼだ」「ロックだねえ」「俺は犯人じゃない。青柳雅春」だと思った。「いいか、俺は信じたいんじゃない。知ってんだよ」「まあ、雅春、ちゃっちゃと逃げろ」「なかなか洒落が利いてるお便りが」「たいへんよくできました」映画でとても印象的だった台詞が原作の中でそのまま使われている(じゃなくて映画でそのまま使われている)のは、大変嬉しかった。
2011年04月15日
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鈴木 耕さんのツイッターでの呟きです。kou_1970 昨日、高円寺のデモに行った。主催者発表で1万5千人。若い人(私たちを除いて)が多い。労組や団体の動員は全くなし。ネットで呼びかけただけでこれだけの人数。凄い。しかし、ほとんど報道されない。私が取っている新聞では、東京新聞がやや大きめ、毎日は芝公園のデモに小さな記事。朝日は無視。この反原発のデモで目立ったのは、外国の報道機関ばっかりだったらしい。いつもはマスコミの「デモ無視」の姿勢に対しては、私も諦めを感じていたのだが、今回ばかりは怒りを感じ得ない。「共産党系」の健康保険が医療費二割負担に変わるときにたしか10万人デモをしたことがあった。マスコミはベタ記事のみ。そのとき以来の「怒り」である。それ以降は三万人デモを組織しようが、二万人デモを組織しようが、マスコミはずっと無視し続けてきたが、彼らの言い訳は「動員のデモは重視しない」ということだった。動員=自主的でないとでも思っているかのような不遜な態度があるのだが、今はそれは問わないとして、今回、それこそネットで集めた「自主的な」デモにマスコミは無視を決め込んだ。今までのいい訳が、いい訳だったということの雄弁な証拠である。戦前のマスコミの態度に通じる、「言い訳」だと思う。別に反原発を唱えろ、ということじゃない。都民が原発推進の知事を選んだその日に、このような特異なデモが都下で起こったことを対比として見せるのは、充分に報道の役目だといいたいのである。「阪急電車」有川浩 幻冬舎文庫映画の予告編が流れていて、この映画の大体の雰囲気やあらすじは分かります。(公式あらすじ)恋の始まり、別れの兆し、そして途中下車……関西のローカル線を舞台に繰り広げられる、片道わずか15分の胸キュン物語。大ベストセ ラー『図書館戦争』シリーズの著者による傑作の連作集。阪急宝塚線の今津線を舞台に、宝塚駅から西宮北口駅までひと駅づづ数組の登場人物を配置して数エピソードを語らせつつ、折り返して約半年後の西宮北口駅から宝塚駅までの一駅づつのその後の登場人物たちの数エピソードを語らせる。小説としても分かりやすい。登場人物たちは、普通の庶民たち。弱点もあるし、いいところもある。楽に読ませる小説である。ちょっといい話を読んだな、という気にさせる。私のあまり得意でない分野なのであるが、読む気になったのは、ひとえに映画化されるからである。私ならば、映画をどのように作るか、興味があった。小説ならば、駅名がそのまま章立てになる。映画ならば、駅名をいちいち字幕で現すのはおしゃれではない。さりげなく場面に映すだろう。その他いろいろ「撮り方」を考えてみて、それが果たしてどれくらい映画では使われているか試してみたくなったというわけだ。映画では、老婦人(宮本信子)と寝取られた女(中谷美紀)とDV被害の女(戸田恵梨香)が主人公のようだ。私はDVエピソードよりも、図書館が結ぶ恋のほうを中心に持ってきてほしかった。刺激が少ないというのだろうか。小説はこのエピソードが冒頭に入るし、それを冒頭に入れるのが最も自然だと私は思う。武庫川鉄橋から見える「生」の字のエピソードも必ず入れたいところだ。これは映画的に映える場面だ。登場人物が次々と変わり、それぞれの登場人物が少しづつ関わっていくためには、登場人物の登場の仕方は工夫のしどころ。電車に入るところを総て最初の登場とさせてリズムを出させるのはどうか。電車の中の撮り方は、俯瞰を多用する。奥の人間がやがて時間の経過とともに主人公になる。よって、長回しを多用する。もともと平凡なテーマなのだから、色々と映像的な実験をしてほしい。さて、果たしてどうなるか。
2011年04月11日
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東北に住んでいる作家はどうしているのだろうか。ずっと気になっていた。具体的には、仙台在住の伊坂幸太郎と岩手在住の高橋克彦である。今日雑誌「世界」を買いに行ったら、たまたま「群像」に二人の名前があった。伊坂は「PK」という短編を何事も無かったかのように掲載していて、なんのコメントもなかった。高橋克彦は特別寄稿「東日本大震災」を書いていた。盛岡で被災したようだ。被災二週間後の寄稿でまだ整理がついていない様子だ。しかし、私は以下のところをその場でメモした。一番知りたかったことが書いていた。「(略)そんな状況下にあって、被災地の人々は負けてはいない。ばかりか他の被災者を気遣い、励まし、助け合っている。そういう報道に接するたびに、私は同じ県民として心底からの誇りを覚える。本当の強さとは、このことだ。優しさこそ一番の強さなのだ。 東北はこれまで何度となく中央との戦に巻き込まれ、そのたびに敗北し、迫害と犠牲を強いられてきた歴史を持っている。私はその苦難を乗り越えてきた東北の民の「強さ」が今は失われていると思い込んで多くの物語を紡ぎ、取り戻してもらいたいと願ってきたのだが、私が案じるまでも無く東北の人々にはその「強さ」がしっかりと受け継がれていたのである。この心さえあれば、東北はきっと立ち直る。(以下略)」高橋の著作はアテルイ(「火炎」)の物語から始まって、前九年後三年の役、平泉の戦い(「炎立つ」)等を私は読んできた。高橋克彦は、この震災で必ず新しい確信に満ちた「敗北ではない」物語を始める事だろうと思う。さて、珍しく純文学なるものを読んでみた。「時が滲む朝」楊逸(ヤン・イー)文春文庫日本語を母語としない作家で初めての芥川賞受賞作。89年天安門事件前夜から2008年北京五輪前夜まで。大志を抱いて大学に進学した「二狼」の物語。作者はまだ文化大革命の残滓に成長した青年だった。「あとがき」では「革命しないとは、すなわち反革命である。反革命は死刑になるほどの罪だ。そんなロジックを元に、与えられた選択肢は常に「赤」か「黒」かの両極端のものだった」という田舎で育った人だった。だからこそ、「民主」(選挙による政府)は、総てをばら色に変える合言葉だったのだろう。「大学の寮の中でこっそりテレサ・テンの歌を聴いた経験や、尾崎豊の名曲「I love you」から受けた衝撃などは、むしろ私自身の体験に基づいたものだといえよう。」アメリカをバラ色の国ととらえ、日本を自由な国だという中国青年たちの「普通さ」を20年たってやっと私たちは文学として読むことが出来る。矛盾の中で世界史は動いている。もちろん、俯瞰の目で見ることは必要だ。けれども、それだけでは世界は見えない。日本はこれから曲がり角を曲がる。曲がらなければならない。「赤」も「黒」も選ぶことの出来ない「普通」の庶民にとって、中国の経験は他山の石ではないだろう。
2011年04月09日
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総務省|東日本大震災に係るインターネット上の流言飛語への適切な対応に関する電気通信事業者関係団体に対する要請気になる通達がこっそり行われていることを知った。「つきましては、インターネット上の地震等に関連する情報であって法令や公序良俗に反すると判断するものを自主的に削除することを含め、貴団体所属の電気通信事業者等に、表現の自由にも配慮しつつ、「インターネット上の違法な情報への対応に関するガイドライン」や約款に基づき、適切な対応をおとりいただくよう御周知いただくとともに、貴団体においても必要な措置を講じてくださいますようお願い申し上げます。 」そのために「関係省庁が緊密に連携し、被災地等における安全・安心の確保に係る総合的な対策を検討・推進するため、「被災地等における安全・安心の確保対策ワーキングチーム」(以下「ワーキングチーム」という。)を設置する。」そもそも、いろんな憶測が飛ぶのは、今回に限っていえば、政府並びに東電がすべての情報を公開しないからであって、本末転倒である。例によって回りくどい言い方をしているが、気に食わない書き込みは「自主的に削除する」というはインターネット会社が削除するという意味だろう。こんなことを許すべきではない。それを判断するのは、どうやら「ワーキングチーム」というところらしい。いよいよ、しらっと昔のような特高準備が始まったか。以上、あまり精査されていない私の情報と感想でした。削除はされないと信じている。あっ、本の感想でした。「夢追いて卑弥呼」虎尾幹司 東洋出版卑弥呼の小説というのは意外とあるものである。しかし、いままで満足したことがない。同じ時代を描いた三国志の時代小説は傑作が山ほどあるのに、である。これはひとえに、あまりにも文字資料が無いから、小説家が勉強不足で書けないからである。そういう意味では、おそらく自費出版に近いこの著者の本は良く勉強している。九州島に秋が来て、重く頭をたれた邪馬国の稲の穂首刈りが終わった。米、栗、魚や肉の干物や燻製などが国中の者に平等に配分され、人々は例年にも増す糧を手にすることが出来た。また、国を挙げて大干ばつを乗り切った邪馬国では、国としての意識が共有され、運命共同体としての一体感が生まれた。そして、竜神を呼び雨を降らせた日輪の化身、卑弥呼と、神のごとき判断をもって作物の命を繋いだ保思御子の二人が揃う邪馬国は、近隣の国から羨望のまなざしをもって神の住む国といわれるようになった。九州島でもやはり冬は寒い。人々は貫頭衣の上に毛皮をまとうなどして体温を保つ工夫をしていたが、足は霜を踏む日も素足であった。湿地に作った沼地や深田に入るための田下駄、水下駄、祭りに巫女たちがはいていたような木靴はあったが、日常的な履物はなかった。選ばれた男達であっても、休まずにこぎ続けるというわけにはいかない。こぎ手は三人ほどで一組を作り、交代してこいだ。二十丁の櫂がつくる六ノット(一ノットは1.852キロ)に近い船足は、天草灘に出ると潮の流れにのって七ノットほどに達し、明るい間だけの航海のもかかわらず、風も味方して1日に二百四十里ほども進んだ。ところどころに、現代的な言葉使いや名詞がでるのは愛嬌だとしても考古学的な成果を良く生かした小説になっている。どうやら、邪馬台国は吉野ヶ里にあったという説をとっているらしい。卑弥呼もほとんどスーパーマンになっている。それはそれでいい。小説なのだから。しかし、この人は自衛隊勤務を経て、現在星槎グループ本部長らしい。なるほど考え方がいかにも軍人である。邪馬台国の宿敵として狗奴国が出てくるのであるが、著者の頭の中は小さい国が侵略を繰り返して大きい国になろうとするのは、非常に抽象的な自明のことだと思っているらしい。(「倭の統一は当初に過ぎぬ。その上にあるは、万民の万世の幸という志じゃ」「よいか、大の虫を生かすには、小の虫を殺さねばならぬこともある」)だから、話が動き出すと、ほとんど戦争の話に終始してしまう。それに対して、日輪の神、卑弥呼は「心を耕す」等のわけの分からない現代的な宗教の考え方を持ってきて、その宗教的権威で「倭」を統一するのである。アマテラスの祖先の天皇の権威で国を統一しようとしていた現代保守主義の思想がそのまま持ち込まれている。弥生時代は日本史上初めて戦争を始めた時代なのである。組織的に人を殺すことに、彼等は新鮮な発見があったはずだ。卑弥呼はなんと洛陽まで旅をしているが、そこでは徹底的な戦争の技術があった。しかし、日本列島ではついには中国のような皆殺しに近い戦争は起きなかった。それは何なのか。それをやっぱり描くべきではないのか。結局この本も満足しないで終わった。いいところまでいったんだけどなあ。
2011年04月07日
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1-3月に読んだ本の感想を幾つかまとめて載せます。(このブログの一番大きな目的は、映画、読書、旅の記録なんです)「武士道エイティーン」誉田哲也 文芸春秋社予約してから約半年。やっと来ました。あっという間に読んでしまいました。彼女たちも高校三年生。最上級生としての責任もあります。また、集大成としてのインターハイでの宿命の対決もあります。けれども、その対決がクライマックスにくるということはありません。彼女たちは夏の大会の目標として淡々と戦い、そして「何か」を得ていくのです。そしてそのあとは進路の決定。じつはこれが、この作品のクライマックスでした。淡々と描かれますが。香織も早苗も、淡々と大人になっていく。さらりと自立していき、自分の人生を決めていく。少女フェチの私としては、もっとぐちゃぐちゃに悩んで欲しかったところもあるのであるが、まあこんなもんだろ。今回は二人の一人称が交互に現れるのと同時に、一章づつ、今までの他の登場人物たちの過去と現在の状況が一人称で語られる。すなわち、早苗の姉、桐谷道場の玄明先生、福岡南高校の吉野先生、後輩の田原美緒。それでこの物語世界が豊かになった。同時にこの物語に「武士道ナインティーン」が無いことも明らかになった。最後の二章はすでにナインティーンの中味までに踏み込んでいたのである。唯一不満なのは、彼女たちに「恋の話」がなかったことだ。あればあったで気に食わないだろうけど、なければまた寂しいものだ。できれば「武士道トゥェンティ」もほしいけど、ちょっと題名的にありえないか。「あかね色の風/ラブ・レター」あさのあつこ 幻冬舎文庫あさのあつこの初期の中篇。「ほたる館物語」と同じように小学校六年、五年の女の子が主人公。けれども一子のように、家族のことを心配する「いい子」じゃない。親の言うことは、ちがうぞ、と反発する自我を持った子供だ。そうしてたった半年だけど遠子はかけがえのない友を持つ。遠子は「バッテリー」の原田巧の原型だという説があるらしいが、むべなるかな、と思う。甘え上手の女の子がいて、自分の世界を守ろうとして突っ走ってしまう。巧のように素晴らしい才能があるわけじゃない。だから世界は広がらないけど、この中篇だけで私は書くべきことの多くは書けているのではないかと思った。あさのは無理やり中篇とか一冊の文庫にまとめてしまったほうがいいのを描けるのではないだろうか。遠子と奇妙な友情を育む千絵は、化石探しに夢中である。化石拾いも土器拾いの考古学も本質は同じようなものだ。彼女にとても共感した。「夢は枯野をかけめぐる」西澤保彦 中央文庫この本を選んだのは主人公の境遇が私とよく似ていたからである。しかも本人プロフィールを読むと、私と同じ歳だとわかった。読み進めると、ほんとうに羽村さんと私と違うところは片付けが得意で、料理が得意で、謎と女がついて回るぐらいだということが分かった。とても共感するのである。でも、小説としてはとっても雑である。強引な推理が其処彼処(そこかしこ)にある。いいかげんな展開も多い。もちろん文庫にまでなっているのだから、秀逸な描写もあるが、これだともう二度とこの人の著作には手をとらないだろう。たぶん脱サラをして20年近く作家として生きてきたのだろうが、生活するために書き散らしてきたに違いない。著作リストを見ると、年2-3冊コンスタントに書いている。このテンポと筆力が同じ歳なだけに非常にリアルである。「老い」を巡るアレやコレや、テーマ自体は面白い。案外みんな同じものをもっているのだと思う。 「ドリームバスターズ」(3)(4)宮部みゆき だからシェンは今でも、ハンパな疑念と確信をカクテルにして抱えている。"穴"を抜けて地球に行くのは、やっぱりデータじゃないんじゃないか。魂とか精神とかそういう言葉でないと置き換えられないものがいってしまうんじゃないか。 でも、それもまたおかしい。魂も精神も、人間の身体が発する生体電気が起こしている反応に過ぎないって、ドレクスラー博士は言っているもんな。だったら、生きている身体の存在しない場所には、魂も精神もないはずなんだ。 そうして考えてゆくと、結局―こっちのテーラとあっちの地球が、そもそもどういう関係にあるのかという問題が、根っこのところに横たわっていると気づかざるをえない。 テーラは地球の何なのか。地球はテーラの何なのか。どっちかが虚で、どっちかが実なのか。裏と表なのか。それとも相互にまったく関係のない独立した存在で、「消失」の原因はほかにあるのか。(「モミズの決算」より)シェンとマニエストロが"賞金稼ぎ"をしているテーラという場所は、遠い昔に大災厄が起こり大きな"穴"が残っている。そこはなんと地球の人類の「夢の中」に繋がっているのだと言う。50人の凶悪犯罪者が逃げ込んだその異次元へ二人は金を稼ぎにむかうという筋書きである。しかし、三巻目にしてもまだこの「世界」の全体像が立ち現れない。それでも読ましてしまうのだから、まあ宮部みゆきのストーリーテラー振りには感心するのではある。一巻目、二巻目を読んだのは既に五年前だ。宮部の久し振りの本格SFなので期待していたのだが、いっこうに全体像が現れないし、かつ刊行も遅いのですっかり忘れていたが、この前図書館を見ると三巻目と四巻目が出ていて、なんと人気作家なのに借り出されていなかった。(岡山県立図書館は一冊のみ購入の"主義"を取っている。私は大いに支持しているが、当然人気作家の本はいつも借り出し中で原則図書館には"存在"しない現象が起こる)この本も刊行から五年経ったし、今流行の推理小説でもファンタジーでもないので、一時のこういう空白が起きるのだろう。本格SFと言いながら、やっぱり宮部は宮部であり、日本のS.キングなのである。冒頭引用した一文がこの「世界」を結局言い当てているのではないかと思う。「胡蝶の夢」の「蝶」の立場から描いた話なのかもしれない。宮部の世界は宇宙を描いても小松左京の「はてなき流れの果てに」のように、わけの分からないけれども骨格のしっかりした宇宙観を描くことはない。結局心の問題に入っていくのである。けれども、心そのものが宇宙以上に広く果てしないものだという意味では、彼女の立場は一貫していて、「模倣犯」(現代推理小説)も「ICO」(ファンタジー)も「日暮らし」(時代小説)も、結局は同じテーマを描いているのではある。三巻目もあっという間に読んだので、四巻目も借りてみる。07年刊行。これ以降、このシリーズを出していない。無駄に寡作で無駄に長い。四巻目は、ドリームバスターというよりは、ヒアアフター(来世)バスターという感じである。三巻目の終わりから、シェンとマエストロは時間鉱山に飛ぶ。そこは時間の源泉のそばにあり、湧き出した時間が結晶化しているのだという。そこには地球では仮死状態になっている三人の日本人がいた。今までは夢の「場」が舞台だったが、今回は臨死の「場」が舞台になっているというわけだ。今まで最大の冒険が始まる。
2011年03月29日
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「はぐれ鷹」熊谷達也 文芸春秋社熊谷達也の真骨頂は、動物小説である。しかも、東北や北海道の風土に根ざしたマタギを主人公にした小説で彼は生きてきた。その変形バージョンは最近では沢山書いているが、今回、この若い鷹匠を主人公にした作品で新たな地平を開こうというような意気込みを感じた。岳央はつくづく作者の分身のように思える。大学を出た平凡な青年のようでいて、非常にマイペース超世俗的なところがある。鷹匠は人間は従、鷹が主でなければならない。しかし、育てるのは鷹匠の根気である。朴訥な青年に惹かれる女性の存在がでてくるのも、いくつかの突然の挫折の後に、鷹が突然の次の成長段階に入っていくのも、作者の半生を反映しているかのようだ。人間とは実にちっぽけな存在だとあらためて思う。懐深い山塊の狭間にあっては、人の営みなど無に等しいものであり、自然の気まぐれの一捻りで、いともたやすく生命そのものが呑みこまれる。人の生き死になど、自然にとっては、なにほどのこともない瑣末な事象にすぎない。それでいい。それでいいのだ。もの言わぬ自然によって、かろうじて生きることが許されているのが、人間の、そして、すべての命の真実の姿だ。岳央はそのように呟くが、それはたぶん作者の思いそのものだろう。「はぐれ鷹」とは岳央であり、物語終盤岳央とともに過ごす親鳥から見離された鷹であり、そして作者である。ラストは非常に厳しい決意する岳央を描く。物語の流れから言うと、もっと希望を持たせたラストでもよかったのではないかと思うのではあるが、これをラストにもっていくところに私は作者の「美学」を感じた。「鷹のことを分かったかのように描きたくは無い……」あえてエンタメをぶち壊してまでこれを描いたところに私は作者の未来を感じる。(3/4読了)‥‥‥今回の地震に対して、作者はどのように感想を抱いたのだろうか。興味があってHPやツイッターを探してみたが見つからなかった。「それでいい。それでいいのだ」と果して言うのかどうか。
2011年03月27日
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「箕作り弥平商伝記」熊谷達也 講談社文庫 熊谷達也は文章が上手い。 97年に「ウエンカムイの爪」で小説すばる新人賞を受賞してデビューしたときには、マタギ小説という素材の良さだけで文を書いていたが、2004年に「邂逅の森」で直木賞と山本周五郎賞のダブル受賞をしたときには、別人かと思うような滑らかさを得ていた。 ……描きたいものさえしっかりしていれば、技術なんて後からついてくるものだ。ここに、その見本があると思う。この表題からは「箕作り名人の弥平の成功記」という印象を持ってしまうが、話はそうではない。本当にひとりの東北青年の生活と仕事と恋を、それだけを描いているのである。それなのに、こんなにも面白い。最後までどきどきしながら読める。
2011年03月27日
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「野球の国のアリス」講談社ミステリーランド 北村薫まだ文庫化されていない北村薫の新刊である。とはいっても、2008年刊行ではあるが。図書館で借りた。題名から分かるように、「不思議の国のアリス」のパロディである。数多(あまた)あるパロディの中でも、成功している部類だろうと思う。アリスは現代日本の小学六年生。少年野球チームのエースでした。ところが、中学生になれば野球はできない。がっかりしていたときに、「大変だ」と急ぐ記者の宇佐木さんを見つける。彼はなんと鏡の中に吸い込まれていった。アリスも続けてはいると、そこは鏡の国、新聞の文字も総て逆転、野球の一塁も左にあるという国であった。でもあとはおんなじ。いや、びみょーに違っているところがいくつか。中学校全国野球大会では、裏の大会があって最後まで負け続けた学校を決める大会が盛り上がっていた。そこでは、なぜか中学一年になっていたアリスの学校が一番の負けチームに。一念発起したアリスは、救援に出向くのでありました。講談社ミステリーランドというのは、子供も読めるし、大人も読める小説をめざしたシリーズらしくて、所謂日本の推理小説家とファンタジー作家が一堂に会している。全巻書き下ろし、文字も大きいし、これから借りまくろうっと。あ、内容でした。この鏡の国、文字が反転してどうしてこんな国で人間は生きていけるのか。どうやら、人間はそんな環境に慣れるらしい。アリスのお父さんが、そうとは知らずに解説してくれる。我々は本来ものを逆さに見ているらしい(目のレンズの構造)。「そのままじゃ生活しにくいだろう。だから脳の中に変換装置があるわけだ。本来、上下逆に映っている画像を、またひっくり返して読み込む」「すごいね、人間」「すごいぞ、人間」……この話は示唆的だ。この国はほんの少し、おかしいけれども、外から来たアリスには、とってもおかしく見える。まだ慣れていないのである。だから、宇佐木さんの力も借りて大胆なこともできるのである。最初は、負けたままの学校を残すなんて、教育上よろしくない、ということで始まったこの野球大会、最近では負け続け一番を決める「最終戦」には全国放送のテレビもやってきて、真面目にへまをする試合を見ては、全国的な注目を浴びるようになった。教育とは離れていっている高校野球のパロディである。こんなこと許せない、アリスは一番負け続けた学校と、夏の大会での優勝校が練習試合をして「いい試合」をすれば、これを止めさせることができると考える。元の世界でバッテリーを組んでいた兵頭君と天才スラッガーの五堂君を呼ぶ。さあ、試合の結果はいかに……。ところで、鏡の国で裏の大会が始まった頃、参加を拒否して家出して逃げた子がいた。親は世間の糾弾を浴びた。子供は行方不明のまま。じつはその子が宇佐木さんだった。「母が言っていました。《世の中の流れは大きすぎるから、動き出したら、一人でどうにかするのは難しい》って。黙って参加していれば、試合だって終わる。あとはのんきな日が送れたのにねえ」「その子が宇佐木さん?」「《走るウサギ》の姿があの人に重なったんです。ウサギは弱いから、逃げなきゃオオカミに食べられちゃう。必死になって逃げて、必死になってどこかに向う。自分のことじやない人には、ただもう、おかしくて変な奴に見えるウサギさん。」……世の中の流れ、それはときに人を押し潰すだろう。どうにかしようとしたならば、闘うしかない。けれどもそれもできない人も多い。そのときはひたすら逃げるしかないのだ。2008年の刊行だけど、北村薫には既に「貧困問題」の本質が見えていたのかもしれない。
2011年03月10日
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「ICO-霧の城-」宮部みゆき 講談社文庫あらすじ霧の城が呼んでいる、時が来た、生贅を捧げよ、と。イコはトクサ村に何十年かに一人生まれる角の生えたニエの子。その角を持つ者は「生贅の刻」が来たら、霧の城へ行き、城の一部となり永遠の命を与えられるという。親友トトによって特別な御印を得たイコは「必ず戻ってくる」と誓い、村を出立するが─。ファンタジーを作る前に作者は時間をかけて一国の空間と歴史をつくる。そこが魅力であり、難しいところである。反対に言えば、それを作れば半分は出来たも同じだ。その歴史から作者は歪められた「伝説」を作る。そうして初めて主人公が生まれる。主人公はその歪められた枠の中で、真実を求めて動き出す。主人公は「冒険」の中から「未来」を生み出す。他の言い方をすれば、「可能性」。このあたりがファンタジーの最大の魅力かもしれない。しかし、この作品で言えば、せいぜい文庫一冊にまとめるべき内容だった。歴史があまりにも浅いのである。しかも、空間は九割がた霧の城から動かない。長くなったのは、ひとえに宮部みゆきの描写が細に渡り微に入っているからである。10年ほど前から、宮部はこの描写主義の迷宮に入ってしまった。たしかに、名作「火車」は、この描写主義が生んだものであった。しかし、あの頃には描くべきアイディアが波のようにやってきていたのだろう、勢いがあった。最後まで本置く能わず、30過ぎの女性がどうしてああまでも人生の酸いも辛いも噛み分けた疲れた中年男性を描くことが出来たのか、本人も不思議だったろう、あの頃の小説には一頁毎にそういう驚きがあった。今はともかく、彼女の頭の中のイメージを総て文章に起こさずにはいられない、そういう強迫観念があるようだ。この本で、宮部は原点に返り、13歳の男の子を主人公にした。けれども、この男の子はかってのように、聡明で健気にがんばるだけでは生きていられない。彼には、霧の影がずっと付きまとう。小説の中では「えいやっ」とやってしまったが、読む我々には未だに霧がまとわり付いている。一度、小説を書いたあとに、大幅に推敲して半分くらい削ってみたらどうだろう。新たな地平が見えるかもしれない。
2010年12月17日
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「テルマエ・ロマエ」ヤマザキマリ著 エンターブレイン発行朝日新聞を取るのをやめたので、今年の手塚治虫文化賞で漫画大賞と短編賞をダブル受賞したニュースを知らなかった。本屋で見て、びっくりしてとりあえず第一巻を買って見た。(その後二巻まで買う)帯の説明文である。古代ローマの設計技師(風呂限定)ルシウス。仕事熱心な彼は浴場のアイディアについて悩みまくり、そのあげく現代日本の銭湯にワープ!?彼は日本と古代ローマ(風呂限定)を往来できる体質になってしまったのだ!!好漢ルシウスの時空を越えた大冒険(風呂限定)が始まった!!なかなか良くまとめられた説明文ではある。しかし、これを読んでこのマンガの面白さはイメージできるだろうか。読んでみた。やはりすべからく、漫画は読んでみないとわからない。大変面白い!!しかし、である。確かにマンガならではのローマ時代の厳密な再現、と風呂を通しての日本文化の比較は知的興奮をもたらすし、滑稽、諧謔、風刺に富んでいる。手塚治虫文化賞短編賞ならば文句のつけようがない、と思う。よくも弱小雑誌からこんな作家が飛び出てきたものだと感心する。大きく譲って漫画大賞をとっても許してあげよう。今年はよっぽど面白いマンガがなかったのだと諦めてあげよう。しかし、であるなぜこれが初のダブル受賞の対象になってしまうのか!!!よく出来た漫画ではあるが、私に言わせれば、良質な薀蓄マンガでしかない。ルシウスのキャラクターはあくまでも古代ローマと日本の文化(風呂限定)を結びつけるための触媒でしかない。彼は単なる記号でしかない。このマンガの面白さは、この限定された領域の中でどれだけのことが語れるかを試した発想の面白さでしかない。繰返すが、それはマンガの邪道ではない。だから大賞でもいい、と私は言う。審査員の好みもあるだろう。ただ、ただ、ダブル受賞が許せないのである。‥‥‥‥‥‥と、いうことまで書いて、念のために調べたら、なんとこのマンガ、手塚治虫文化短篇賞しか受賞してやらず、ダブル受賞というのは、書店員の選ぶマンガ大賞の「マンガ大賞」ダブル受賞という意味だったのである。私の勘違いだった。ちなみに今年の大賞は山田芳裕 『へうげもの』らしい。全く知らない。今年私が紹介した「虫と歌」と「この世界の片隅に」はどうなったのだろう。審査経過は分からない。30年前は、店頭に並ぶ雑誌の八割は立ち読みをして一通りの話題作を読んでいたという自負があった。だから明確に批判できるが、今はあまり読んでいないので、大きなことは言えない。‥‥‥‥‥‥と、書いた後に調べたら、「虫と歌」は手塚治虫文化大賞新生賞を獲っていた。「この世界の片隅に」は大賞の候補作品になっていた。とりあえず私の眼鏡がまだ曇っていないことを確認して満足する。(なんのこっちゃ) ただ話を引き伸ばすことだけが得意な浦澤直樹を二回も大賞に選んだことだけが、この大賞の瑕のような気がする。
2010年11月24日
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「ちょんまげぷりん2」小学館文庫 荒木源映画の「ちょんまげぷりん」がおもしろかった、ということは既に書いたが、その原作が文庫版で出ているだけでなく、なんと続編まで「書き下ろし」で文庫で出たいることが分かった。映画で「1」のほうは大体分かるので、「2」のほうだけ買うことにした。あらすじ(「BOOK」データベースより)木島安兵衛が江戸に帰って八年が過ぎ、遊佐友也は十四歳になっていた。コンビニエンス・ストアで万引きをした後、家に帰らず逃げ続けていた友也だったが、深夜、巨大な水たまり状の穴の中に吸い込まれ、百八十年前の江戸時代にタイム・スリップしてしまう。ちょうど、この世界では、安兵衛が菓子屋を営んでいるはず─。そう思って、安兵衛を探し続ける友也だったが、菓子屋「時翔庵」はつぶれており、安兵衛もなぜか消息を絶っていた。失意の底にいる友也だったが、追い打ちをかけるように周囲の人たちから、くせ者として追われる身となるが─。「2」から読むという買い方はふつう邪道なのだろうが、今回は良かったと思う。おそらく原作よりも映画のほうが出来がいいという好例だ。この作者には映画にあったような、タイムスリップで時代のちがう者がきたらどこがどう変わるかという、「緊張感」がない。友也がずっとため口なのは、思考が足りないせいかと思いきや、大人顔負けの思慮深さを発揮する。そういう細かいところがいい加減なのである。よって、ひとつの大嘘をデティールが支えきれていない。まあ、あの続きがどうなるか、ちょっとの間だけ愉しむ時間をくれたということだけである。解説氏は「続きが楽しみだ」というようなおべんちゃらを書いている。この解説も中身がないということでは、いい好例である。
2010年10月21日
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先に賢治の短篇を紹介しましたが、あえてひとつ紹介し残した短篇があります。「烏の北斗七星」です。戦争状態における非常に厳しい問いかけがここにあるからです。と、言うことを気づかせてくれたのは、実は小森陽一さんの先に紹介した著書「ことばの力 平和の力」によってです。此処で、小森さんは丸々一章を使ってこの短篇を解説しています。ああ、「深読み」とはこういうことを言うのだなあ、と感心したものです。短いので出来たら青空文庫で読んでいただければ私の言うことも少しは伝わるかと思います。「烏の北斗七星」(宮沢賢治1924)青空文庫烏同志で戦争をしているある軍隊の中で、烏の恋人たちの戦闘の前の日から朝にかけての短い話です。大尉の烏は恋人に明日の戦でもしかしたら死ぬかもしれない、という覚悟を伝えます。そうして戦の日の朝、たまたま偵察に来ていたい山鳥を見つけ、撃退するのです。それで急に大尉は一つ階級を上ることになる。けれども、大尉はそうやってたまたまやってきただけかもしれない山鳥の運命を思って泪する、という話です。一般的には「ああ、あしたの戦でわたくしが勝つことがいいのか、山烏がかつのがいいのか、それはわたくしにわかりません」「どうか憎むことの出来ない敵を殺さなくてもいいように早くこの世界がなりますように」大尉にこう呟かせる賢治の明確な反戦意識を指摘するだけの評者が多いようです。また、この呟きから、この作品を賢治の「よだかの星」の先駆形とみなして分ったように無視する人も多いようです。しかし、小森さんは次の部分に注目します。烏の大尉は列からはなれて、ぴかぴかする雪の上を、足をすくすく延ばしてまっすぐに走って大監督の前に行きました。「報告、きょうあけがた、セピラの峠の上に敵艦の碇泊を認めましたので、本艦隊は直ちに出動、撃沈いたしました。わが軍死者なし。報告終りっ。」 駆逐艦隊はもうあんまりうれしくて、熱い涙をぼろぼろ雪の上にこぼしました。 烏の大監督も、灰いろの眼から泪をながして云いました。「ギイギイ、ご苦労だった。ご苦労だった。よくやった。もうおまえは少佐になってもいいだろう。おまえの部下の叙勲はおまえにまかせる。」烏の新らしい少佐は、お腹が空いて山から出て来て、十九隻に囲まれて殺された、あの山烏を思い出して、あたらしい泪をこぼしました。「ありがとうございます。就ては敵の死骸を葬りたいとおもいますが、お許し下さいましょうか。」「よろしい。厚く葬ってやれ。」 烏の新らしい少佐は礼をして大監督の前をさがり、列に戻って、いまマジエルの星の居るあたりの青ぞらを仰ぎました。(ああ、マジエル様、どうか憎むことのできない敵を殺さないでいいように早くこの世界がなりますように、そのためならば、わたくしのからだなどは、何べん引き裂かれてもかまいません。)マジエルの星が、ちょうど来ているあたりの青ぞらから、青いひかりがうらうらと湧きました。「新しい少佐」という言葉を何度も繰り返します。そうして、元大尉が死んだ山烏のことを思って「あたらしい泪をこぼしました」のは、少佐に昇進した直後なのです。それまでは勝利を収めたことに涙し、そして昇進したことに非常に喜んでいたのです。なぜならば、当時の軍隊の階級組織を知っていればすぐわかるのですが、少佐に昇進したとたんに彼は前線に行かなくてすむようになるからです。山烏を殺したときに元大尉のこころに去来したのは、「これで戦いで死ななくて済む、恋人と一緒にいられる」ということだったのではないでしょうか。「よだかの星」では食物連鎖によって命を奪うことの空しさを覚えるヨダカがいたのですが、ここでは戦争の論理だけでなく、軍隊の論理によって自らの欲望によって、「憎むことのできない敵」を殺すことの「修羅の道」を描いているのです。元大尉の仲間たちはそのことをみんな見抜いていました。あしたから、また許嫁といっしょに、演習ができるのです。あんまりうれしいので、たびたび嘴を大きくあけて、まっ赤に日光に透かせましたが、それも砲艦長は横を向いて見逃がしていました。 そのようにこの短篇は終わります。この大尉はまだ、信仰によって人間性は保たれていますが、やがては相次ぐ戦争と軍隊の論理により、人間性もなくなっていくだろうということも予感させるような短篇です。もちろん賢治がそこまで突っ込んだ短篇を描いたことはありません。昭和の初期1933年(昭和8年)に彼は亡くなるからです。彼がもし戦後まで生きていたならば、必ず「平和」をテーマにした作品を書いていたことでしょう。そこまで深読みが出来る短編です。ちなみに、この烏の軍隊、許嫁は同じ軍隊にいる大尉なのです。なんとアメリカと同じように、男女平等なんですね。当時としてはびっくりの進んだ設定です。
2010年10月09日
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注文の多い料理店ひさしぶりに賢治を読みました。何度読んでも新しい発見があるのが、宮沢賢治です。読んだのは、新潮文庫版「注文の多い料理店」。あまり知られていない短篇がたくさん載っていて、今回はそれに注目しました。「狼森と笊森、盗森」には自然と人間の正しい関係があります。 「月夜のでんしんばしら」賢治は一度も軍隊に入ったことがありません。けれど、いよいよ賢治は軍隊が嫌いだということが分ります。電信柱の歩兵は「もうつかれてあるけない。足先が腐り出したんだ」と言うと、「はやくあるけ、あるけ。きさまらのうち、どっちかが参っても一万五千人みんな責任があるんだぞ」と隊長はせかします。「さるのこしかけ」つくづく賢治は軍隊が嫌いだったらしい。楢夫「いくら小猿の大将が威張ったって、僕の握りこぶしの位もないのだ」と、大将を揶揄します。でも楢夫があまりに小猿をぞんざいに扱ったので一命を危うくする所で目が覚めるのです。「気のいい火山弾」デクノボーのようにみんなに馬鹿にされる火山弾、ところが「こんな立派な火山弾は大英博物館にだってない」と学者が来てもってゆく。火山弾の最後の言葉は賢治の叫びです。「ひかりの素足」盛岡の真冬の透明な描写、風の又三郎の死の預言。うすあかりの国へ兄弟で入り、兄の一郎は生還、弟の楢夫は死ぬ。「銀河鉄道の夜」の先駆形の一つであり、賢治の仏教観が色濃く入った作品でもあります。「みんなひどく傷を受けている。それはおまえたちが自分で自分を傷つけたのだぞ」 哀しい傑作です。「土神と狐」土神(正直、暴力的、嫉妬)と狐(少し小狡いが誠実、賢い)と樺の木(美しい、純粋、無力)との三角関係です。高校のとき、これを基に漫画を描きかけて挫折したことを思い出しました。あまり知られていませんが、濃密なドラマが入った傑作です。これを原作に韓国映画よりも凄い恋愛映画ができると思うが誰か創らないか?
2010年10月04日
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天地はるなさんが紹介していた絵本を気になったので読んでみた。「ぼくがラーメンをたべているとき」長谷川義史 絵/作 教育画劇 もちろん言葉と言葉の間に絵が描かれています。()で少し説明をします。大人ならば、それだけで「想像」できるでしょう。ぼくがラーメンをたべているとき、となりで ミケが あくびした。となりで ミケが あくびしたとき…。となりのみっちゃんが チャンネルかえた。となりのみっちゃんが チャンネルかえたとき…。となりのとなりの だいちゃんが ボタンをおした。となりのとなりの だいちゃんが ボタンをおしたとき…。(だいちゃんがトイレのボタンを押しています)そのとなりの ゆうちゃんが バイオリンをひいた。 そのとなりの ゆうちゃんが バイオリンをひいたとき…。そのとなりの まちの おとこのこが バットをふった。そのとなりの まちの おとこのこが バットをふったとき…。そのとなりの となりの まちの おんなのこが たまごをわった。そのとなりの となりの まちの おんなのこが たまごをわったとき…。となりの くにの おとこのこが じてんてしゃをこいだ。となりの くにの おとこのこが じてんてしゃをこいだとき…。(ここは中国だろうか)そのとなりの くにの おんなのこが あかちゃんをおんぶした。そのとなりの くにの おんなのこが あかちゃんをおんぶしたとき…。(カンボジア?水辺の町です)その また となりの くにのおんなのこが みず くんだ。その また となりの くにのおんなのこが みず くんだとき…。(ラオスだろうか)その また となりの くにの おとこのこが うしを ひいた。その また となりの くにの おとこのこが うしを ひいたとき…。(ビルマだろうか。アジアです)そのまたむこう くにの おんなのこが パンを うっていた。そのまたむこう くにの おんなのこが パンを うっていたとき…。(アフガンでしょうか。女の子はターバンを巻いています)そのまた やまの むこうの くにで おとこのこが たおれていた。かぜが ふいている。(夕暮れ)かぜが ふいている。 そのとき…。(夕闇が迫っている。男の子は黒い塊のように倒れたまま)かぜが ふいていた…。(元の日本の男の家の窓の外から家の風景を映す。男の子はやはりラーメンを食べている。二階ではお母さんが布団をたたいている。白い雲が浮かび、きれいな青空である。) (次のページ。言葉は無い。ミケが窓の外を眺めている。アフガンと同じ夕暮れの空)いまこの瞬間に、世界では「小さな渦巻」が巻いています。ゲームをしている日本の男の子、仕事をして家庭を支えている向こうの国の女の子、そして倒れている男の子。「想像力」が試されている。そして大きな世界の渦も、見ることのできる「力」も試されている。
2010年09月16日
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「義民が駆ける」藤沢周平 中公文庫数少ない未読の作品である。時は天保の改革の前期、水野忠邦は幕閣の地位固めの時期に入っていた。その時期に起こる極めて政治的な事情による転封の幕命に荘内藩は激震する。先ずは幕府内の力関係から描き、いわれ無き幕命に政治工作を工夫する地方の政治首長とエリート武士たちの苦悩を描き、そのあとにやっと農民たちの動きを描く。幕府も、藩も、そして農民も、自分たちの利益のみを考えて動いているというのはそれぞれ同じではあるが、質的にも量的にも最も被害をこうむるのは農民である。しかし、水野忠邦はもとより、荘内藩主酒井忠器もそんなことは思いつきもしない。確かに幕閣も藩閣も賢いし、先を先を読んで必要な手立てを打つ。しかし、農民たちもそれに劣らず賢いのであった。もとより、動いたのは学問のある肝いりや庄屋筋ではある。彼らは、すぐさま、「国替えとなれば旧藩は一合でも余分に米殻を取り立てようとするだろうし、新領主は過酷な取立てで有名な川越藩である。必ず死者が出る」と予想する。「目の前にいる農民のほとんどが一挙に貧困に陥る、」と予想する。彼らはすぐに決断する。旗をさす。それはほとんど一揆と同じことだ。先ずは命を掛けなくてはならない。しかしやる、と決心する。そうして組織する。そして、表面上は「百姓といえども二君に仕えず」という有名な幟を掲げ、善政藩主を守り抜く、という建前の嘆願書を書いて、その一方でうまくいかなかったときは一揆も辞せずという刀を隠し持って「御公儀」江戸に大挙して赴くのである。農民としては非常に巧妙な手はずであった。その組織性は藩のエリートには当面として利益にかなったが、一方では震撼させるに充分な力があっただろう。藤沢周平の作品では、歴史小説の部類に入る。半分は歴史資料を駆使し、当時の手紙類をそのままわれわれに提示する。候文がそのまま出てくるので分かりにくい部分もあるが、事実が分かっている部分はみな歴史的事実なのだろうと想像できる。ほとんど無名な人物もまず実在の名前として出てくる。最終的に浮き上がるのは、農民のしたたかさであり、もうひとつ浮き上がるのは、しかしそれでも、国替えを阻止したのは、政治的思惑のいくつかが僥倖に恵まれたからただということも分かる。けれども、政府の内紛に翻弄されるのはいつも民衆だ、ということもわかる。そのとき、民衆にできる最低のけれども最高の抵抗運動がここにある。江戸時代に革命思想は無かった。けれども、民衆は自ら必要だと思ったときには非常に組織的になる。これはすばらしく(沖縄問題含めて)現代に通じる歴史の教訓なのである。
2010年09月12日
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「弥勒の月」あさのあつこ 光文社文庫内容(「BOOK」データベースより)小間物問屋遠野屋の若おかみ・おりんの水死体が発見された。同心・木暮信次郎は、妻の検分に立ち会った遠野屋主人・清之介の眼差しに違和感を覚える。ただの飛び込み、と思われた事件だったが、清之介に関心を覚えた信次郎は岡っ引・伊佐治とともに、事件を追い始める…。“闇”と“乾き”しか知らぬ男たちが、救済の先に見たものとは?哀感溢れる時代小説。 あさのあつこに捕り物の時代小説を書かせたら、やっぱり面白いものができた。岡っ引きの伊佐治が同心と容疑者の店の主人に説教ともとれる言葉をかけるのである。それはまるで、作者自体が、ひねくれものの(けれども決して悪者ではない)若者に、ひとこと言うかのようである。伊佐治は、思いっきり顔をしかめてみせた。「人一人の命ですぜ。そう簡単に殺しちまってどうするんで。あっしの手下が必死に行方を探しているってのに、埒もねえ。遠野屋さん、あんたもあんただ。人の生き死にを算盤にはじいて算段するみてえに、しゃらしゃらと口にするもんじゃねえ」説教するつもりも、誹るつもりもなかった。息子ほどの若い男が二人、表情も変えずそれこそ世間話の要領で、人の死を語ることに嫌悪を感じたのだ。人は尊いものだ。伊佐治はそう思っている。獣に堕ちず、人の埒内でかろうじて生き抜いているものなら誰でも尊い。弥助は、夜商いの蕎麦屋に過ぎない。一杯十六文の蕎麦を夜の中で売る。それだけの人間だ。それでも尊い。おりんのことで聞き込みをしたとき、松井町の曖昧宿の女が「あの爺さんの蕎麦を食べるのだけが楽しみでさ」そう言って、にんまり笑った。おしろいを塗ってさえ隠し切れない小皺と荒れた肌の目立つ女の笑った顔だった。奈落に落ちて身を売っている女をあんなふうに笑わせることが、あんたたちにできるのかい。できねえなら、損だの得だのと、したり顔でしゃべるんじゃねえ。湧いて来る言葉を奥歯で噛み殺す。封建時代の身分制度の掟をぎりぎり壊すかもしれないような綱渡りの台詞を、それでも作者は書かずにはいられない。(同心の信次郎は肩をすくめるだけで終わった)あさのあつこの面白いところは、そのような若者の心情を「バッテリー」と同じように「分かったように」最後まで描かなかったところである。一応、ミステリー仕立てなので、「バッテリー」みたいにずるずると物語が続くことなしに、これ一冊でなんとか終わっているのがいいところ。ところが、容疑者の遠野屋を殺さずにそのまま生かしててしまったものだから、どうも続きができているらしい。ずるずると続いてしまわなければいいのだが…と要らない心配をするのである。
2010年09月09日
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「カラフル」森絵都 文春文庫映画を見て面白かったので読んでみた。原作を読んで改めて感じたのは、映画は原作のいいところをうまいこと掬い取り、新たになるほどというエピソードを付け加え、さらには原作ではどうかな、と思うところをうまいこと修正しているということである。映画を見た後原作を読んで、映画のほうがいいと感じたのはもしかしてこれが初めてかもしれない。映画が原作に付け加えたエピソードは、主人公の真と早乙女君が多摩川電気鉄道砧線の廃線を辿る小さな旅。現在の廃線あとと当時の風景が重なるこれはやはり映画ならではのエピソードだから、いいエピソードだけれどもありうる変更点である。おかあさんが渓谷に釣りに行く真のために青いジャンバーを買ってあげるのだが、真は意地になってそれは着ない。けれども、後に早乙女君と自転車を滑走しているときにその青いジャンバーを着ている。これは映画オリジナル。これも映画らしいエピソードである。主人公とお父さんとの葛藤はほとんどなくしている。これは時間の尺との問題。映画との比較で秀逸だと思ったのは三点。天使プラプラの人物造形。自ら自分は天使じゃない、と言っている通り原作でも変な男なのだけど、映画ではさらにきちんとつくっている。真と同じ年頃のすこしこまっしゃくれた関西弁男の子と設定。真がプラプラと別れるとき聞かされた彼の真実「本当は僕は修行を失敗した魂なんだ」という告白と、原作には無い彼と別れたあとに差出人不明で届くメール「生きてる?」。原作では基本的に真の一人称で進む物語なんだけど、映画では色んな登場人物の立場に立ってみることができる。そこが原作との一番大きな変更点かもしれない。だから秀逸の二点目。人によってはお母さんに共感しながら見るかもしれないが、私か一番共感したのはお兄さんだった。いつもぶすっとしていて、何を考えているのかわからないお兄さんだけど、お母さんが言う。「真が自殺したあと、急に医学部を受験すると言ったのも真が生き返ったからだし、真が襲われたとき一番に発見したのもお兄ちゃんだったのよ」と原作よりもいろいろお兄ちゃんの役割を大きくしている。真が生き返ったときに画面の片隅でお兄さんらしき人がそれに気がつかず壁に頭をぶつけながら泣いているのを私は思い出す。だから、この映画のクライマックスの夕ごはんの場面でおにいちゃんの気持ちに一番共感しながらついつい泣かされてしまったのである。秀逸の三点目は細かいところだけれども、ひろかが美術部に持ってくるいろんなお菓子は夢やという普通には無いお菓子屋に設定しているところだ。「ひろか、きれいなものが好きなのに、すごい好きなのに、でもときどきこわしたくなる。おかしいの。ひろか、狂ってるの…」まさにカラフル、原作では一番のクライマックスの場面で言うひろかの告白。彼女の内面世界を他の場面でサポートするのがこの設定だと思う。夢のある女の子がそのお菓子屋を出た足で援助交際に出向くのである。もっと細かい点で言うと、唱子の話し方がひどく独特なおどおどした話しぶりになっていたのも映画オリジナルだった。これは声優の力量に頼った秀逸な設定だったと思う。普通に聞けば、宮崎あおいが演っているとは気がつかなかっただろう。いやあ、やっぱり彼女は天才である。
2010年09月08日
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昨日夜は22時を過ぎて外気温が30度。網戸があるので、毎日窓を開けっ放しにして寝ていて、意地で今まで一度もクーラーを動かしたことはありません。昨夜も使わなかったのですが、さすがに風もなくてつらかった。いつで続くのか。台風よ、こちらの方に持ってきて欲しい、という気分です。ブドリの時代はもっと切実な問題で、「寒い夏」を回避する必要があった。イーハトーブの国ではそれは「可能」でした。ただし、70年前の科学では一人の純粋な魂の犠牲を必要としたけれども。グスコーブドリの伝記ますむら・ひろし 宮沢賢治原作ああ、名作の再読とはこういうものなのだなあ。「グスコーブドリの伝記」について宮沢賢治の童話の中でも代表的な作品である。けれども、その全体をなかなか理解し得ないもののひとつだろうと思う。それは賢治流の農業や火山技術の知識が、非常に専門的に描かれているためである。いくらイーハトーブの国用ににアレンジされているとしても、難解なものが多く、読んだだけで頭の中にイメージしずらいからだと思う。ますむら・ひろしの画は「何も足さない、何も引かない」というどこかのウィスキーのCMではないが、宮沢賢治の原作に非常に忠実で、場面の進行や台詞もすべて原作とおりだという。しかし、絵になって初めて分かることが多かった。山師が石油をまいてオリザ(稲)の病気を防ごうとしているところや、クーボー博士の「歴史の歴史」の模型、イーハトーブ火山に登って窒素肥料を降らすために雲海にひこう船で煙の美しい「網」をかける様子を絵で見て「ああ、そうだったのだ」とやっと合点いったのでした。ブドリが小さかったころの楽しい暮らしや、飢饉で親に捨てられる場面なども、ますむらひろしの賢治の世界を知り尽くした目を通して見せられて「ああ、そうだったのだ」と合点いくのでした。イーハトーブの世界地図が火山局の事務所に掛けられていました。みごとに岩手県の形をしていました。ますむら・ひろしの理解なのでしょうが、賢治も「うん、そうだ、そうだ」といってくれているでしょう。「猫の事務所」についてこの作品は、小さな集団の中で、つまはじきにされる過程がみごとに戯画化されて描かれている。かま猫は夜竈の中に入って寝るくせがあるので、いつもすすで黒い。だからみんなに嫌われている。ところが猫の事務所の所長が黒猫なものだから、能力が高いかま猫が採用されてしまう。陰にみんなに意地悪されても、かま猫は自分が悪いのだと思う。「かま猫はあたりまえの猫になろうと何べんも窓の外に寝て見ましたが、寒くて寒くてやっぱり仕方なく竈の中に入るのでした。なぜそんなに寒くなるかというのに、皮が薄いためで。なぜ薄いかというのに、それは土用に生まれたからです。やっぱりぼくが悪いんだ、仕方ないなあ。かま猫はなみだをまん丸な眼いっぱいにためました」結局、事務所長までみんなの口車に乗ってかま猫をいじめだしたとたんに、事務所の隙間から大獅子が現れて一喝します。「お前たちはなにをしているか。そんなことで、地理も歴史も要ったはなしではない。やめてしまえ。解散を命ずる」これで猫の事務所は廃止になるのです。筆者は最後に書いています。「ぼくは、半分獅子に同感です」なんて、現代的な作品なのでしようか。自己責任で自分を責める姿、がここにもあるのです。「どんぐりと山猫」について山猫とどんぐりと一郎君が同じ世界で生きている。そして輝いている。愛すべき不条理劇です。
2010年09月05日
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入道雲離れてゆくが恨めしい暑いです。私の居ないときに少しは湿ったのかもしれないけど、ここ40日ぐらいわが庭には雨が降っていない感覚です。時々は水をやりますが、なんか木々の声なき悲鳴を無視しているようでつらい。「夜明けの街で」東野圭吾 角川文庫東野圭吾のひさしぶりの社会派ではない、探偵も刑事も出てこない、ミステリの「読み物」。気楽に読めます。とはいっても世のある種のお父さんにとっては身につまされてあまり気楽に読めないかもしれない。生真面目な男が「本気の浮気!?」をする過程を丁寧に描いています。たまにはこういう読み物もいいかな、と思うのですが、本格推理を期待するとちょっと裏切られます。
2010年09月04日
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「語り女たち」北村薫 新潮文庫去年の今頃、新直木賞作家ということで、ふだんは探さないと手に入れることのできない北村薫の本が本屋に山積みされるという現象が起きた。それにつられて、まだ未読の本を二冊ほど買った。その本をやっと今頃読み終えた。海辺の街に小部屋を借りて、著者と思しき男が潮騒の響く窓辺に寝椅子を引きよせ横になり、訪れた女の「ちょっと不思議な」話を聞くという趣向で17のショートストーリーを綴って見せた短編集である。最初のころの話はちょっと凝りすぎて興味がわかなかったのであるが、途中で面白い話が入り始めた。私のお気に入りは「闇缶詰」「笑顔」「夏の日々」「水虎」であるのだが、人によっては全く違う選択になるだろうと思う。「闇缶詰」はちょっとしたパーティーで実際に使えそうなアイディアである。誰がが提案する。闇鍋と同じように闇缶詰をしてみないか。中華料理店でのちょっとした趣向でみんな一缶づつラベルをはがした缶詰を持ってくる。それをぐるぐる回して、止まったところでその缶詰を(たとえトドの肉の缶詰でも)必ず食べなくてはならない。ところが、六人いるのになぜか七個の缶詰が回っていた…。「笑顔」はちょっとした恋のゲットに使えそうな話。「夏の日々」は死の間際にいる父親と娘のちょっとした話。「水虎」は「スモトロ」と囁かれる女性と「水君」と渾名される男との話。(この説明だけでピンときたら小説家になる素質があるかもしれない)
2010年08月31日
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「東京島」桐野夏生 新潮文庫島は、究極の実りの象徴、更なる混乱を生じさせる方策、として自分に妊娠を強いたのだ。そうだ。間違いない、と清子は手を打った。こうなれば、なんとしても無事に子供を産みたかった。子供を産むことでユタカに勝ち、ホンコンにさえも崇められる絶対的母として、権力を持って生きられるかもしれない。(p162)内容(「BOOK」データベースより)32人が流れ着いた太平洋の涯の島に、女は清子ひとりだけ。いつまで待っても、助けの船は来ず、いつしか皆は島をトウキョウ島と呼ぶようになる。果たして、ここは地獄か、楽園か?いつか脱出できるのか―。食欲と性欲と感情を剥き出しに、生にすがりつく人間たちの極限状態を容赦なく描き、読者の手を止めさせない傑作長篇誕生。 8月の初めに映画館に行くと、この映画の予告編をしていた。興味を持ったので読んでみた。久し振りの桐野夏生。「OUT」以来。映画を見て、想像していた展開はなんと最初の一章で全て出尽くしてしまう。男31人と女1人。ちいさな「東京」という国。人間のあからさまな欲望。そんな想像を超えて二転三転の物語と創世記を思わすような決着。さすがは桐野ではある。じつは、清子は46歳、腹の出た中年のおばさんという設定である。木村多江ではきついのではないか、と思った。男たちも、始終裸で暮らすことになる。そしてテーマ的にも、性欲、食欲、物欲は前面に出てこないとおかしい。果たして木村につとまるのか。まだ映画は見ていない。この原作では難しいだろうな。一章を描くだけでも二時間はかかってしまいそうだ。それが最後まで行くのだろうか。最後はぱっ、ぱっと終わらせてしまいそうだ。いやあな予感がする。でもたぶん見に行く。
2010年08月26日
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敗走記講談社文庫 水木しげる「ゲゲゲの女房」で向井理演じる水木しげるが編集者より「敗走記」の再編集出版を打診される。依頼された仕事はすべて受けていたしげるは意外にも一言「この作品はすぐに出すわけには行きません」と素気無く断ってしまう。という場面に興味をもって、ついつい「敗走記」を買って読んでしまった。初めて水木しげるの戦記物をまとめて読んだのであるが、唸ってしまった。あの絵柄に騙されてはいけない。こんなリアルな戦記物に接したのは、小説、TV、映画を通して大岡昇平「野火」以来だ。冒頭の「敗走記」はあとがきによると、「もともと真山という親友がいて彼が戦死したのが残念で、彼の体験した事実と多少のフィクションを加えて描いたもの」だという。だとすると真山はこの作品の鈴木なのだろう。主人公と鈴木は南太平洋ニューブリテン中部、壊滅的打撃を受けたあとにただひたすらほかの部隊に戻るために逃げて逃げて逃げるのである。九死に一生を得るという言葉があるが、それが連続するというのは、どういう言葉を与えればいいのだろう。もはやそれは人間の世界ではないのかもしれない。その途中、鈴木は写真にもあるとおり、あっけなく虫けらのように死ぬのだ。親友の追悼の為に書いたにしては、親友の顔は丸顔でそばかすで出っ歯、悲劇の主人公ではない。そしてそれこそが、水木しげるの戦争観なのである。鈴木が死んだあとも、主人公は九死に一生の連続、そしてやっと中隊に戻れば、敵前逃亡を責められ、「適が上陸してきたら真っ先に進むのだ」と上官に言われるのである。そこにあるのは、地獄を体験したものだけが語れる徹底したニヒリズムのように感じる。 それでもぼくは 生きて かえってきた。それは22歳の雨の日のできごとだった。 ぼくは雨がふるたびに いまわしいこの南方戦線のことを思い出す。 「戦争は 人間を悪魔にする。 戦争をこの地球上からなくさないかぎり 地上は天国になりえない…」とこの短編集、ほかも力作ぞろいである。「ダンピール海峡」では、大旗を守るために英雄的な死に方をした一兵隊のことを描きつくしたあとに「どのように死んだかも分からない」小石が入った骨壷を見せて終わる。「レーモン河畔」では、原住民の美人2姉妹を助けたあと全滅した部隊の実話を美談ではなく、徹底したリアルに描く。C級戦犯として脱走をしながら逃げて逃げて逃げ回ったある男の半生を描いた「ごきぶり」、戦犯処刑の最後の男になったあと母親は骨壷を掲げながら「まるでゴキブリのような一生だった」と呟いて終わる。戦友たちの死はたとえどんな死に方であろうとも、尊いものだ。昨日の向井理の「靖国発言」はそのようなことを念頭においてのものだったかもしれない。けれども、その「尊い死」が政治家によって「利用」されていることまでは向井理は気がつかなかったのだろうか。水木しげるは漫画を見る限り、その死を英雄的に祭り上げようという動きに対して、徹底的なNOを示しているように思える。これだけ地獄を描いても、ほんの一瞬たりとも「妖怪」は出てこない。水木しげるの戦記物を描く覚悟をみる。テレビ番組で夫婦共に出演していて、水木しげるは「幸せの基準を下げれば、みんな幸せになれるのに」「息をするだけで幸せと思える」と言っていた。隣の奥さんは小さく「やれやれ」と顔を振っていたが、まあ普段はそこまで幸せの基準を下げているわけではないのだろう。けれども、南方戦線を体験した水木の偽らざる心境でもあるのだろう。
2010年08月19日
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