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9月8日(月) 旧暦7月17日 六曜は「大安」
「お盆に捨てた思い」
私自身はすでに結婚し、娘たちも10代になっていました。
思えばこれが、すべての「負の始まり」だったかもしれません。
私と両親は、腎移植のための検査を受けることにし、彼女の入院先で検査を受けたのです。その結果、一番適合したのは私でした。
父は反対し、二人の娘の二人ともに傷をつけるのは耐えられないから、自分の腎臓を提供すると言い出しました。
私は私なりに覚悟をしていましたが、意外にもドクターは父を選んだのです。父はその時67歳。
ドクターの答えは、私と母は「ATL」と呼ばれる風土病の一種に感染しているので、提供はできないとの事だったのです。妹は感染していないという事でした。
その時初めて「ATL]と言う言葉を聞きました。
父は年齢が年齢ですので、やめることもできましたが、妹は引かず、父も最初から決めていたようで、手術はすると引かず、父の腎臓を移植することになりました。
父の腎臓は、4年間持ちましたが、妹は結局また透析に戻ってしまい、今に至っています。
私は妹夫婦の余りに強引な事の進め方に、最初いい気はしませんでしたが、父の死後、妹から「透析に戻ったけど、あの4年間は、透析から離れられて、好きなものも食べられて、とても幸せだった」と聞いた時、手術後、身体が弱った父の行為も無駄ではなかったんだと思いました。
最も妹夫婦は、その後も両親に迷惑のかけっぱなしでしたけどね。
妹は、今は自分の人生を受け入れて週3回の透析を、ゆっくり休息しに行く場所だと思っていると言ったりしています。ただ合併所をいろいろ引き起こし、あの手術この手術を繰り返し、辛い人生には違いありません。
中学校・高校はテニス少女で、美少女系で、大学を卒業した後はスペインに留学し、その後ヨーロッパを回って帰ってきました。私とは7つも年が違い、妹の将来は希望に満ちているはずでしたが、病気は妹の人生を大きく変えてしまいました。
「ATL」こそ逃れましたが、一生ついて回る透析が彼女の背負う十字架になってしまったのです。
でも病気に翻弄される人生は、妹だけに終わりませんでした。
その後、母はすぐに「成人T細胞白血病」、俗に「ATL」を発症し、病気は急速に進行、入院後3か月で旅立ってしまいました。奇しくもその日は私の誕生日で、私はその後20年間誕生日を祝うのをやめました。
「ATL」キャリアの5パーセントしか発症しないと言われる「成人T細胞白血病」当時は南に多い「風土病」と言われ、しかし死の病でした。
感染後のウイルスの潜伏期間は40年と長く、ゆえに「成人」との名称がつく所以でした。母の発症で初めてこの病の怖さを知った私は、すでに発症の射程距離内。
感染源は母乳でした。
恐ろしかったのは、二人の子を母乳で育てた私の子供たちの結果でした。
神様は時に無慈悲なことをするのです。
私は死んだ母を恨みましたよ。
どうしてこうなったのか、知っていれば母乳なんか飲ませなかった・・・。
でも、知らなかったんです、誰も。
母も私も、母乳の危険性など、当時は誰も言ってはいませんでした。
私は子供たちに「ATL」キャリアと言う重荷を背負わせてしまいました。
私に一生ついて回るのは、申し訳なさと口惜しさと無念さです。「ATL」など2度と口にしたくない言葉でした。
当時娘たちは20歳そこそこ、一緒に看病しましたから、病の一部始終を知ることになりました。彼女たちは恐らくひそかに心に刻み込んだと思います。
あれから25年余、「ATL」は私をスルーして娘を発症させたのです。
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