くんちゃんの・・・

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父の定年(1)

父の定年~part1~


 父の退職の祝いを兼ねて、私達夫婦子供達プラス姪っ子、それから両親と総勢8人で萩・長門・角島方面にドライブ旅行した。近場の温泉ホテルで一泊しささやかなお祝いの宴となった。宴たけなわで、父がひとこと挨拶をしてくれた。‘自分のようなものにこんな席を設けてくれて…’と感激に声を詰まらせていた。それを見て、親孝行のほんの真似事ができ…私自身胸に詰まるのもがあった…。

 父はもう喜寿を迎える…。思えば大戦をくぐり向け遠方の地で終戦を知り、そして戦後の日本の高度成長期と言われる時代を、文字通り支えてきた人だ。働くことのみを美徳とし、上手に遊ぶことの苦手な年代である。私自身の幼い頃の記憶の中での父親像は、朝自転車で後ろ手にバイバイと手を振りながら出勤していく後ろ姿…それから暗くなってから弁当箱を抱えて帰ってくる疲れた顔…農繁期には水回りだイノシシ追いだと行って家を空けることも多かった。父のいない我が家はとても心細い空間になっていた。そんな父の帰宅後の唯一の楽しみは転がってプロ野球観戦…がお決まりだった。

 私は父親っ子だった。物心ついてからと言うもの、いつも私が父の膝を占領していたような気がする。そして、ラジオやTVで野球を楽しむ父の耳たぶを左手で持ち、右手の親指をおしゃぶりする…それが私のお決まりの指しゃぶりのポーズだった。‘指しゃぶりは欲求不満の現れだとか’と良く耳にするが…私の中でそのポーズでの指しゃぶりは至高のひとときだった。
 春になると、決まって父は私達娘を山へワラビ採りに連れて行ってくれた。それが我が家で唯一レクレーションだったといえる。食べられる植物や毒草を教わった。父は私達の中では物知り博士だった。

 今になって回想すると、我が家は確かに貧乏だったのだろう。テレビが貧しい我が家の家計の中やっと登場したのは私が小学3年の春だった。マイカーなんて当然なかった。したがって、今のように家族揃ってどこかへ出掛けた記憶もほとんどない。唯一、小3の冬家族で別府方面にバス旅行をしたのが家族旅行の思い出だ。そんな中、私はいつも不思議と満たされていた。貧乏を感じさせなかった。私は‘うちが貧乏だったのだ’と気付いたのはもっと大人になってからである。

 やせ形で丈夫な体質ではなかった父は、それでも家族5人を支えるために来る日も来る日もがむしゃらに働いていた。その分ストレスが体のあちこちを蝕んでいった。何度も胃潰瘍で入退院を繰り返すうち、遂に私が中3の秋父は胃ガンの手術で胃の5分の4(殆どだ)を切除した。OP室から帰ってもがき苦しむ父に病の深刻さを感じ取った。そのころ私は看護婦になる夢に向かって着実な一歩を踏み出そうとしていた。怖かった。父をどこかへ連れ去られるんじゃないかという恐怖から体が震えた。イヤだ~~!!と心の中の私は大声で叫んでいるのに、それは声にならなかった。
 そんな経験が私の看護婦への夢を実現に一歩近づけてくれたような気がする。その年念願の高校の衛生看護科に入学することができた。ひっ迫する我が家の台所事情にたいした改善も見られぬまま高校3年間は過ぎていった。

 私は第一志望の看護短大に合格してしまった。地元の看護学校も合格していたので、我が家の経済状態からすると娘を大阪で一人暮らしをさせるにはかなり厳しい状況にあったはずだ。母はそのことで私の大阪進学をなんとか踏みとどまらせたかった。高校の担任が「折角合格したんだから」と母を説得した。そして父は‘行って来い’と言ってくれた。

 短大時代の大阪暮らしは、私を確実に成長させてくれた。勉強も実習もそのカリキュラムはかなりきつかったが、母の反対を押し切ってまで来てくじけるわけには行かなかった。元来のんきものの私が都会で一人暮らしをするにはある程度の心の強さも必要だった。それが私を大人にしてくれたのだと思う。
 卒業し無事にふるさとの病院に就職が決まったこと何より喜んでくれたのはやはり父である…。 


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